日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(132)倉石先生の「漢文訓読塩鮭論」について。

2019-01-07 19:34:59 | 訓読
(01)
私自身は、例へば、
① 虎求百獣而食之得狐。
② 狐曰子無敢食我也。
③ 天帝使我長百獣。
④ 今子食我是逆天帝命也。
⑤ 子以我為不信吾為子先行。
⑥ 子随我後観。
⑦ 百獣之見我而敢不走乎。
⑧ 虎以為然。
⑨ 故遂与之行。
⑩ 獣見之皆走。
⑪ 虎不知獣畏己而走也。
⑫ 以為畏弧也。
といふ「漢文(借虎威)」を、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイゴガン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふ風に、「日本漢字音」で「暗唱」出来る。
(02)
それだけでなく、
① 虎求(百獸)而食(之)得(狐)。
② 狐曰子無〔敢食(我)〕也。
③ 天帝使〔我長(百獸)〕。
④ 今子食(我)是逆(天帝命)也。
⑤ 子以(我)爲〔不(信)〕吾爲(子)先行。
⑥ 子隨(我後)觀。
⑦ 百獸之見(我)而敢不(走)乎。
⑧ 虎以爲然。
⑨ 故遂與(之)行。
⑩ 獸見之皆走。
⑪ 虎不[知〔獸畏(己)而走〕]也。
⑫ 以爲畏(弧)也。
といふ「漢文」を、
① 虎百獣を求めて之を食らひ狐を得たり。
② 狐曰く、子敢へて我を食らふこと無かれ(也)。
③ 天帝、我をして百獣に長たら使む。
④ 今子我を食らはば、是れ天帝の命に逆らふ也。
⑤ 子我を以て信なら不と為さば、吾子の為に先行せむ。
⑥ 子我が後に随ひて観よ。
⑦ 百獣之我を見て敢へて走ら不らん乎。
⑧ 虎以て然りと為す。
⑨ 故に遂に之与行く。
⑩ 獣之を見て皆走る。
⑪ 虎獣の己を畏れて走るを知ら不る也。
⑫ 以て狐を畏るると為す也。
といふ風に、「訓読」で、「暗唱」出来る。
然るに、
(03)
私の場合は、「中国語」を「勉強」したことが無いため、
3、狐假虎威
発音 mp3
发 音:hú jiǎ hǔ wēi
释 义:假:借。比喻依仗别人的势力欺压人。
故事:出自《战国策》。老虎寻求各种野兽吃掉它们,它抓到一只狐狸。狐狸说:“你不敢吃我!天帝派我来做野兽的首领,如今你吃掉我,就是违背天帝的命令。如果你认为我的话不诚实,那么我在你的前面走,你跟在我后面,看各种野兽看见我有敢不逃跑的吗?”老虎认为狐狸的话是对的,所以就和它一起走。野兽看见它们都逃跑了。老虎不知道野兽是害怕自己而逃跑的,认为它们是害怕狐狸。
といふ「現代中国語」を、
Gùshì: Chūzì “zhànguó cè”.
Lǎohǔ xúnqiú gè zhǒng yěshòu chī diào tāmen, tā zhuā dào yī zhǐ húlí. Húlí shuō:“Nǐ bù gǎn chī wǒ! Tiāndì pài wǒ lái zuò yěshòu de shǒulǐng, rújīn nǐ chī diào wǒ, jiùshì wéibèi tiāndì de mìnglìng. Rúguǒ nǐ rènwéi wǒ dehuà bù chéngshí, nàme wǒ zài nǐ de qiánmiàn zǒu, nǐ gēn zài wǒ hòumiàn, kàn gè zhǒng yěshòu kànjiàn wǒ yǒu gǎn bù táopǎo de ma?” Lǎohǔ rènwéi húlí dehuà shì duì de, suǒyǐ jiù hé tā yīqǐ zǒu. Yěshòu kànjiàn tāmen dōu táopǎole. Lǎohǔ bù zhīdào yěshòu shì hàipà zìjǐ ér táopǎo de, rènwéi tāmen shì hàipà húlí(グーグル翻訳).
といふ風に、読めないし、その「意味」が、
戦国時代の話。
虎は獲物を探し回り、運よく一匹の狐を捕えたので食べようとした。狐は「お前が俺を食べるのなんて無理。神は俺を百獣の王としたのだから、お前が俺を食べれば、神の意思を逆らうことになるのだぞ。」という。  虎は半信半疑で戸惑っていた。狐は「ウソだと思うなら、俺が前を行き、お前は後からついて来るがいい。動物たちが俺を見れば、きっと逃げていくだろう!」と言い放った。  虎は言われたとおりに狐の後について行った。動物たちは本当に逃げていった。もちろん、動物たちが怖がったのは、狐ではなく、虎だった。しかし、虎はこのことには気づかなかったのだ(Webサイト:中国語-成语故事3)。
であるといふことも、「100%、全く分からない」。
然るに、
(04)
例へば、
① 虎求百獣食之得狐(漢文)。
① 虎百獣を求めて之を食らひ狐を得たり(訓読)。
であれば、「(て)」を除けば、「漢字(単語)」自体は、「共通」である。
然るに、
(05)
虎求百獣而食之得(漢文)。
① 老各种野兽吃掉它们,它抓到一只狸(現代中国語)。
の場合は、「」以外は、「同じ」ではない
従って、
(06)
① 虎百獣を求めて之を食らひ狐を得たり(訓読)。
① 老虎寻求各种野兽吃掉它们,它抓到一只狐狸(現代中国語)。
に於いて、
① 虎求百獣而食之得狐(漢文)。
に「近い」のは、明らかに、
① 虎百獣を求めて之を食らひ狐を得たり(訓読)。
であって、
① 老虎寻求各种野兽吃掉它们,它抓到一只狐狸(現代中国語)。
ではない
従って、
(01)~(06)により、
(07)
(α)「現代中国語」は知ってゐても、「現代日本語」は知らない。
(β)「現代日本語」は知ってゐても、「現代中国語」は知らない。
といふ場合に於いて、「漢文」を学ぶ上で、
(α)の方が、(β)よりも、「有利」である。
といふことは、有り得ない
従って、
(07)により、
(08)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)。からと言って、日本人も、さうすべきである。といふことには、ならない。
従って、
(08)により、
(09)
しかし、倉石の鋭さは、なによりもまず先にも触れた「漢文訓読塩鮭論」に余すところなく現われていると言える。それはすなわち次のような一節である。
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。からと言って、例へば、
① 虎求百獣而食之得狐。
② 狐曰子無敢食我也。
③ 天帝使我長百獣。
④ 今子食我是逆天帝命也。
⑤ 子以我為不信吾為子先行。
⑥ 子随我後観。
⑦ 百獣之見我而敢不走乎。
⑧ 虎以為然。
⑨ 故遂与之行。
⑩ 獣見之皆走。
⑪ 虎不知獣畏己而走也。
といふ「漢文」に対する、
① Hǔ qiú bǎishòu ér shí zhī dé hú.
② Hú yuē zǐ wú gǎn shí wǒ yě.
③ Tiāndì shǐ wǒ zhǎng bǎishòu.
④ Jīn zi shí wǒ shì nì tiāndì mìng yě.
⑤ Zǐ yǐ wǒ wéi bù xìnwú wèi zi xiānxíng.
⑥ Zi suí wǒ hòu guān.
⑦ Bǎishòu zhī jiàn wǒ ér gǎn bù zǒu hū.
⑧ Hǔ yǐwéi rán.
⑨ Gù suì yǔ zhī xíng.
⑩ Shòu jiàn zhī jiē zǒu.
⑪ Hǔ bùzhī shòu wèi jǐ ér zǒu yě.
⑫ Yǐwéi wèi hú yě.
といふ、「現代中国語」による「音読」が、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイゴガン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふ、「日本漢字音(呉音・漢音・唐宋音・慣用音)」による「音読」よりも、「優れてゐる」といふことには、ならない