
1890(明治23)年10月27日 月曜日の夕べ、ブラフ(山手町)245番地の邸宅は大勢の客を迎えてにぎわっていた。
主の名はヘップバーン―正しくはそうなのだが、ここでは日本人に親しまれているヘボンという名を用いることにしよう。
ジェームス・カーティス・ヘボン医師とクララ夫人の金婚式の祝いのために、息子であるサムエル夫妻をはじめ、横浜・東京の居留地在住の外国人たちが集まったのである。
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米国人医師ヘボンが夫人とともに来日したのは、日本が開国した1859(安政6)年。
極東の島国に神の御言葉を伝えるため、すなわちキリスト教宣教のためであった。
1862年12月には神奈川から横浜に移り、谷戸橋の傍、居留地39番の自宅で施療所を開いて日本人を無料で治療した。
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夫妻が住んだ居留地39番地の家(撮影時はすでに転居)
一方、1867年には和英辞書を編纂、1872年にはS・R・ブラウン等と共同で新約聖書のうちマルコ伝、ヨハネ伝を、翌年マタイ伝を出版した。
その後も聖書の翻訳委員の中心として翻訳に携わり、1876年にはブラフに居を移して聖書の翻訳に専念した。
1880年4月に新約聖書、更に2年前には旧約聖書の出版が完成。
新約・旧約両方の翻訳に関わった唯一のメンバーであった。
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教育分野でも夫妻は活躍した。
クララ夫人が英語を教えたヘボン塾から女子教育機関としてフェリス・セミナリーが生まれ、またJ・C・バラに委ねたヘボン塾はその後、明治学院に発展し、ヘボン医師は昨年、その初代総理に就任した。
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日本人のための教会設立に尽力し、1876年、住吉町教会として実を結んだが、信徒の数が200名を超えて手狭になったことから、昨年は米国に一時帰国して新たな教会設立のための寄付を募った。
そうした努力の甲斐あって、金婚式と同じこの日の午後3時、ついに横浜指路教会の定礎式が行われたのである。
「指路」はヘボン医師の母教会の名を取ったものであった。
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来日以来31年、医師76歳、夫人73歳、老いは隠せない。
しかし夫妻の蒔いた種は確実に人びとに豊かな実りをもたらし、今日の喜びの日を迎えたのである。
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いよいよ式の始まりである。
会場は単なる記念パーティーでは感じられないほどの熱気に包まれていた。
人々の胸は、夫妻のこれまでの行いに対する敬意と感謝の気持ちでいっぱいとなり、興奮せんばかりであった。
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横浜の居留民コミュニティからの祝いの言葉が夫妻に贈呈された。
この日のためにひそかに用意されていたもので、外国人商業会議所の元会頭ウィルキン氏、現会頭ゲイ氏、実業家ワトソン氏、クライストチャーチの委員ウォルター氏、フリーメイソンの多くのロッジの役員を務めるカイル氏、グロサー商会を営むグロサー氏、スイス領事館の副領事デュメリン氏、外国人墓地の役員スミス氏、ヘボン医師と共に指路教会の前身である横浜第一長老公会を設立し、現在はアメリカ聖書協会日本支局主幹のルーミス師、ヘボン医師が長老を務めるユニオンチャーチの牧師であるミーチャム師のサインが入っていた。
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これを代表して読み上げたのは、医師のもっとも古い友人の一人で、実業家として活躍する一方、ユニオンチャーチで長老と日曜学校監督を長く務めたウィルキン氏である。
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今日という日は、この居留地の歴史において稀有な日といえましょう。
愛と幸福に満ちた半世紀の日々の後、ヘボン夫妻がついに黄金の紐のつなぎ目を迎えられたこの日に立ち会えたことは、私たちにとって大きな喜びであります。
私たち全員の尊敬と敬愛と愛情のささやかなあかしを、どうぞお受け取りください。
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30余年の間、私たちはあなた方の行いを間近に見てきました。
あなた方の、何一つ責められるところのない人生、キリスト教伝道者としてのたゆまぬ労働、全人類への取り組みと働きに対して、心からの感謝を捧げたいと思います。
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数千の、いや数万の日本人が、医師としてのあなたの腕と、親切への感謝を忘れることはないでしょう。
あなたが初めて作った和英辞書は、日本人にも外国人にも恩恵を施しました。
それが驚くべき仕事、何年にもわたる苦労の実りであったことを私たちは知っています。
その恩恵は計り知れません。
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今ご紹介した以外の分野でもあなたは素晴らしいことを成し遂げてきました。
それらについて語りたいのはやまやまですが、慎ましいあなたが敢えて多くの人の目に触れないようにしてきたことをここで披露して、これ以上あなたを困らせることは止めておきましょう。
今日の黄金が、穏やかな時の中でさらに実り、25年後には輝くダイヤモンドとなることを皆さんと一緒に、心から祈りましょう。
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ウィルキン氏の、彼独特の率直さから伝わる紛れもない愛情の証と暖かい思いやり、簡潔極まりない言葉に込められた、自分とその愛する妻に向けられた誉の言葉にヘボン医師は心を動かされた様子であった。
ただ、それに対する感謝の言葉はいつもの通り極めて慎み深いものだった。
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私はただ自らの義務を果たしただけです。
私と妻が長年にわたって東洋で暮らす機会を与えていただいたことを天の父に感謝しています。
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ヘボン夫人の東京に住む妹がこの日のために自ら作った詩を、ライス夫人が朗読した。
それは素晴らしい出来栄えだった。
その後の祝宴にはやむを得ない事情のある者以外大半が参加した。
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成すべきことを為し終えて、愛する横浜の地を去り、ヘボン夫妻が故国に戻るのは1892年10月、横浜指路教会の完成を見届けてからのことである。
現在、山手町245番地に設置されているヘボン博士顕彰碑
図版(上から):
・ヘボン夫妻金婚式記念写真(横浜開港資料館 蔵)
・手彩色絵葉書
・絵葉書
・ヘボン博士顕彰碑写真
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, November 1, 1890
・高谷道男『ヘボン』(吉川広文館、1961)
・横浜指路教会 編『指路教会百年の歩み』(日本基督教団横浜指路教会、1974)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)