On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■元英国駐屯軍兵士ヴィンセント夫妻の金婚式

2019-11-30 | ある日、ブラフで

1905(明治38)年6月21日水曜日の午後4時過ぎ、ブラフ(山手町)31番地のヘンリー・ジェームズ・ヴィンセント(Henry James Vincent) 夫妻の邸宅は、大勢のゲストでにぎわっていた。

老若男女入り混じった友人たちが夫妻の50回目の結婚記念日を共に祝うためにこぞって訪れたのである。

レセプション会場となった美しい広間は、ブラフが開かれた当初からの住人である古老一家の慶事を喜び合う声に満ち溢れていた。

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この日の主役、当年75歳を迎えるヘンリー・ヴィンセント氏が日本にやって来たきっかけは1862年に起こった英国人殺傷事件、いわゆる生麦事件であった。

自国民の保護を理由に英仏両国が横浜に軍隊を派遣。

ヘンリーは1864年に来日した駐屯軍、ランカシャー・フュージリア歩兵隊の上級曹長Sergeant-Majorであった。

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1830年、ロンドン南西部ソールズベリに生まれたヘンリーは、10代で英国陸軍第62連隊に入隊した。

彼の軍歴のスタートである。

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エリザ夫人は1835年、アイルランドのベルファスト生まれ。

二人は1855年6月21日、ベルファストの聖アン教会にて結婚式を挙げた。

翌年3月に長女アデリーナが誕生する。

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1858年6月に第20連隊に転属。

1861年10月には次女ハンナが生まれている。

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1863年7月に第20連隊はポーツマス港を出港しインドに向かう。

当時、英国陸軍は妻子の同行を認めていた。カルカッタを経由し一隊は香港へ。

3女エリザベスが生まれたのはその年の12月だった。

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そして1864年、第20連隊はさらに東の日本へと向かい、ヘンリーはその一員として横浜に上陸した。

1865年に長男ヘンリー・アーサーが誕生する。

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1866年、連隊は香港に帰還することとなったが、ヘンリーは年金を得て除隊し、彼の軍歴は36歳を以て終了した。

当時、香港では熱病が流行し多くの兵士が病に倒れていた。

除隊は4人の子供を安全な環境で育てるための決断だったのかもしれない。

ヴィンセント一家は横浜に根を下ろし、以来、ヘンリーは1870年に香港にとんぼ返りの旅行をした以外、横浜を離れたことはない。

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除隊後ヘンリーは横浜英国総領事館に監獄の看守として勤務、1867年8月に次男ウィリアムが、1873年11月には三男カールが誕生する。

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1886年、56歳を迎えたヘンリーは総領事館監獄の看守の職を辞し年金生活に入った。

当時横浜の領事であったラッセル・ロバートソンは、ヘンリーに感謝状を贈り、長きにわたる有能な働きをねぎらっている。

老練な外務大臣として知られるサリスベリー卿もまた、彼の素晴らしい人柄と見事に職務を全うしたことに対し満足の意を表した。

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妻のエリザは良き母として3人の娘と3人の息子たちを育て、家庭で教育を施した。

一方、商才を発揮して1872年、山下町85番地に婦人洋装品店を開店。

後にパリやマンチェスターのファッション・デザイン店と特約契約を結び、人気となった。

長女のアデリーナや三男のカール、またアデリーナの息子たちも手伝うようになって店は今も続いており、同じ山下町のフィンドレイ・リチャードソン商会では長男のヘンリー・アーサーが働いている。

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ヴィンセント夫妻が金婚式を迎えたこの日、結婚してケイン夫人となった三女エリザベスが訪れた人々をにこやかに出迎え、三男のカールは得意の音楽でゲストをもてなした。

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長女アデリーナは残念ながらすでに1901年、両親に先立って世を去ったが、ヨークシャーのワズレー病院で上級医師として働いている次男のウィリアムと、旅行中の次女ハンナは英国で喜びをともにしているにちがいない。

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広間では夫妻の孫娘のミュリエルとエディスのケイン姉妹とケンダディン嬢をはじめとする婦人数名がゲストに茶菓をふるまっている。

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部屋は趣味よく明るい感じに整えられており、美しい花がふんだんに飾られ、そのなかには「1855-1905」という数字を表すように生けられたかごもあった。

ゲストからの贈り物は枚挙にいとまがなく、ここではとても紹介しきれないが、いずれも温かな祝福の気持ちがこもっており、その多くには夫妻の健康がこれからも続くことへの願いが記されていた。

彼らは誠に「幸せな夫婦」そのものであった。

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最も古い友人の一人であるジョン・グリフィン氏が有志代表として、敬意を表し、恭しくエナメルを施した美しく豪華な金色のトレーをヴィンセント夫妻に贈ったが、受け手が高齢であることから、特に贈呈式のようなものは行われなかった。

このトレーは京都で作られたもので、象嵌細工が施されており、内側の中央には西の都の最高の様式を用いていくつもの風景が描かれていた。

この魅力的で金婚式にふさわしい贈り物は非常に急いで完成させたため、メッセージを書き加える時間がなかったが、適当な文字がのちに刻まれる予定である。

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レセプションでは次のような音楽が演奏され、喜ばしい午後のひと時に花を添えた。

夫妻の末息子で、ピアノやオルガンの演奏者として横浜や東京でのコンサートに度々出演し、横浜文芸協会の主要メンバーであり、クライスト・チャーチのオルガニストを務めるカールがその才能をいかんなく発揮したことは言うまでもない。

 

ピアノ・デュオ:A. ベラミ・ブラウン夫人、カール・ヴィンセント氏 “フィンガルの洞窟”(メンデルスゾーン)

歌唱:メンデルソン嬢 “カーロ・ミオ・ベン”(ジョルダーニ)

ヴァイオリン・ソロ:C. H. ソーン氏 “天使のセレナーデ” (ブラーガ)

歌唱:E. C. アーウィン嬢、ヴァイオリン・オブリガート:C. H. ソーン氏 “Heart, My Heart”, “The Butterfly”, “On my couch reclining”, “No Confession”, “Softly through my Soul” (カール・ヴィンセント)

歌唱:G. S. ホックハスト夫人 “Husheen” (アリシア・ニーダム)

歌唱:S. H. サマトン氏 “Yeoman’s Wedding” (ポニャトフスキ)、 “Echo” (ヘンリー・サマセット卿)、 “Promise of Life” (コーエン)

ピアノ・ソロ:“Golden Wedding Memories”(ヴィンセント)

カール・ヴィンセント “ゴッド セイヴ ザ クイーン”

(訳注:曲名のうち、日本語で定訳があると思われたもの以外は原語で表記)

 

図版:ヴィンセント夫人が経営していた洋品店(佐々木茂市 編『日本絵入商人録』1886)

参考資料:
・Marriage Certificate - Henry James Vincent
・UK, Foreign and Overseas Registers of British Subjects, 1628-1969 for Elizabeth Lydia Cecilia Vincent
・UK, Foreign and Overseas Registers of British Subjects, 1628-1969 for Henry Arthur Vincent
The Japan Gazette, June 22, 1905
The Japan Weekly Mail, Oct. 19, 1901
The Japan Weekly Mail, Nov. 2, 1907
・中武香奈美「元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓」『開港のひろば』第115号(2012)所収

 

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