1918(大正7)年5月30日(木曜日)の午後、ブラフ(山手町)256番地のゲーテ座は米国人をはじめとする横浜や東京の居留民たちでほぼ満席であった。
今日はメモリアル・デー、すなわち故国のために命を捧げた米国人兵士を追悼する記念日。
人々はその式典に出席するために集まったのだ。
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昨年までこの集まりに参加するのは米国人居留民だけであったが、今年は状況が大きく変わった。
米国が(第一次)世界大戦に参戦したため、同盟国の大使や領事館関係者、居留民らも出席することになったのである。
壇上には式典の主宰者シドモア米国総領事を中心に、モリス米国大使、後援団体である在日米国協会のエンズワース会長ほか、イタリア大使、有吉神奈川県知事、安藤横浜市長らの顔があった。
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14時30分、式典は米国協会会員でアマチュア音楽家として知られるソーン氏の指揮によるヨコハマ・オーケストラル・ソサエティと30名の聖歌隊の短い演奏で始まった。
全員で讃美歌「我らが父なる神」を合唱し、続いてブース師がキプリングの有名な「退場歌」からデ・コーヴン作曲による「古より知られるわれらが父たちの神」を朗読し、キャンベル氏がフルオーケストラにのせて独唱した。
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礼拝の司式を務めたのはユニオン・チャーチのマルティン牧師である。
牧師は感謝の祈りに続いて、この不安な時期にある大統領とその顧問らと陸海軍兵のための祈祷を行い、その中で「兵士らは祖国のためだけでなく、人間愛に奉仕するために自ら身を挺し、その結果、力の勝利ではなく、正義の、友愛の、そして真の国際的な愛の勝利が私たちの旗印となるであろう」と述べた。
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兵士のための讃美歌「神、われらが兵士を守り導く」に続いて、モリス米国大使が次のように演説した。
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今日、故国から遠く離れて米国人が集いました。
何百万という同胞市民との霊的なつながりを保つために。
彼らは戦闘のさなかで「メモリアル・デー」が意図する記憶と衝撃と大望を思念するために数時間のあいだ留まっています。
私たちは後ほど横浜外国人墓地に眠る米国人水兵の思い出への尊敬の念を示し、国家の記念碑を除幕する栄誉に与るでしょう。
記念碑の完成は(米国海軍病院院長である)ファウントルロイ先生の思いとお力によるところ大であります。
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この機会に過日、レッドクロス・ウィークにおいて素晴らしい成果を収めてくださった横浜への感謝の意を表します。
これまで同様、これに快く応じてくれるのは在留米国人であろうと思っておりましたが、米国以外の友人たちが求められずして米国赤十字に寄付してくださいました。
その精神に私共は深い感謝の念を抱いております。
このように共感と関心を表していただいたことを私たちは軽々に忘れることはないでしょう。
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メモリアル・デーには不思議な懐かしさがあります。
私たちより年配の方々のなかには、過ぎ去った夢のような記憶と議論、とうに終わった事柄や色あせた情熱を生々しく思い起こす方もおられるでしょう。
南北戦争における苦い対立を知らない私たちのような若い世代の多くにとって、メモリアル・デーは常に、国家再統一の過程を思い浮かべさせてくれるものです。
私たちがまだ若かった頃からその日はすでに国で定められていました。
私たちの心の中で、それは厳粛かつ宗教的な春の祭典と結びついています。
私自身思い出すのは、祖国で迎えたメモリアル・デーには決して雨が降らなかったということです。
空はいつも青々と、木々は深い緑に覆われ、花々は生き生きと香り、それらはいつも命と力をよみがえらせてくれました。
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そこには子供心をそそる神秘と物憂さがたっぷりとありました。
奇妙だけどすばらしい制服に身を包んだ顔なじみの若者たちによるタウン・バンドが行進を先導し、花輪を積んだ荷車がそれに続き、そこには白い服を着た少女らが誇らしげに国旗を掲げており、その後ろにはわが退役軍人らが頭をまっすぐにあげて力強い足取りで行進していました。
彼らは私たちの父の世代でしたが、まだ成熟した男性としての生気がありました。
その時の驚きを私はなんとまざまざと思いだせることか。
色あせた青い制服と従軍帽に身を包んだ英雄が、私たちが「仲仕」と呼んでいた町でなじみの人々だと知った時の驚きです。
彼らは駅に出没し、郵便局や地元の薬局の荷物運びや、ソーダ売り場の主として慕われていました。
彼らは(南北戦争時の北軍将軍である)グラント、バーンサイド、ミードの麾下で戦った後、北部諸州の都市や町や村の日常生活に吸収されていきえました。
彼らの地位は年を追うごとに下がっていき、隊列を組んで地元の共同墓地へと行進し、戦没兵の墓に礼を尽くす機会は、メモリアル・デーを措いてほかにほとんどありませんでした。
私たちより年長の人々にとって、こうした儀式は、若者が欣喜雀躍として戦場に赴いた時代の燃え立つような熱狂と、その後、彼らの人生が感情と情熱の炎が燃え尽きて灰色の燃えかすでしかなくなった日々との無残な対比を示唆するものであったことは間違いありません。
しかしながら私たち子どもの思い出の中には、忘れがたい葬送行進曲の調べ、突然の小銃の発射音、難解な演説、ピクニックのごちそう、そして春の森を日暮れて家に戻るまでぶらぶら散歩したことが不思議にまじりあっているのです。(中略)
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メモリアル・デーはすでに米国陸軍軍人会の催しではなく、全ての米国人が共通の思いと理想を抱き団結する伝統の日となりました。
そうです。
そしてそれ以上に、私たち米国人が、狭い、地域的な限界を超えて私たちの国の在り方を見直したことから、私たちは国家間の関係と義務という視点を得ました。
それはこの儀式がより広い、より深い意義をもつことを気づかせてくれました。
それはより深い意義とそれが意味するすべてのこと、すなわち今日の私たちの心に重くのしかかる犠牲と英雄的行為です。
私たちの心にあるのは、故郷で眠る同胞の墓だけではありません。
むしろ、私たちが明言した理想が生きているのは、過去4年間にわたり外地で自らの命を捧げた数千人の墓においてなのです。
我が国は、隔絶した国から国際的奉仕という、より広い分野に進みつつあります。
私たち一人一人がさらに幅広い共感と、大きな展望を伴うインスピレーションをそこに抱いています。
私たちの聖なる墓はもう私たちの領土のうちにあるものだけではありません。
彼らは私たちと同じ思いのために自らの命を捧げたのです。
私たち米国人は、この悲惨な戦争の意義を未だ十分に感じてはいません。
何年ものあいだ犠牲をささげ、戦争が強いる重荷を負ってきた同盟国の人々からそれを学ぶことになるのかもしれません。
私たちは故国への愛が、激しさと活気をいささかも失わないことを知るでしょう。
なぜなら人々はその愛の精神のもと、国益を超えた道義のために戦場に赴くからです。
私たち全員が、自らの故郷が、(英国詩人)ルパート・ブルックの情熱的と言ってもよい詩に描かれているような危険にさらされていることに気づいています。
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もし私が死んだら、私について、
このことだけを思ってください。
異国の地のいくつかの片隅に、
ずっとわが国の土があるということを。
豊かな大地の中に、より豊かな土がそこには混じっているということを。
その土は、わが国に生まれ、わが国でかたちづくられ、わが国で心づき、
以前はわが国の花々を愛でて、わが国の道を歩き回っていました。
わが国の身体であり、わが国の空気を吸い込み、
わが国の川で身体を洗い、故郷を照らす太陽の恵みを受けていました。
そして、思ってください。
この心臓が、すべての悪から清められて、
永久(とわ)の御心の響きが確かに聞こえてきたならば、
わが国から与えられたこの思いを、どこかに戻してください。
わが国の景色や音色、わが国での日々の幸せな夢。
笑い声、友たちから学んだこと、優しい穏やかさ。
心の中の平和、わが国の空の下。
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栄光は、このように激しい故郷への思いを大切に胸に抱く者が、故郷への愛を捧げ、国境にとらわれることなく、すべての国々の基本的な権利を包みこむ大儀のために、前途ある自らの人生を投げ出すことにあるのです。
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この精神が、現在はるか遠方のフランスの野に配属されている我が国の兵士を駆り立てることを私たちは期待し、信じています。
その一部、もしくはかなりの人々が、おそらくこの先数年間「異国の地のいくつかの片隅に」留まることになるでしょう。
彼らの墓を手入れする同胞はおらず、彼らを思い起こさせる毎年の祈祷も行われることはないでしょう。
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しかしながら彼らが故国に残す遺産はなんと豊かなものでしょうか。
共通の目的のための私心なき奉仕という遺産です。
彼らの至高の自己犠牲の精神において私たちは自らもまた国際的な正義の理想のために献身することを新たに誓います。
その理想のために同盟国の兵士たちは戦い、そして命を落としたのです。
我が国が自らの役割を果たす栄誉に輝かんことを。
そして1年前ウィルソン大統領がアーリントン墓地における演説を締めくくった次の言葉に則った精神において、それを行わんことを。すなわち―
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この運命的な数年間において私たちが目撃してきたなかで、
このようなことが起こったことを喜べるものは誰もいません。
しかし私たちが、自らの心のうちに現に生きている道義を明言したことと
明言したことを証明するための機会を同胞の血と財産を注ぎ込むことによって手にしたことを
喜ばしく思うことは、おそらく許されるでしょう。
なぜならば、友よ、人生の真の成果とは欲することを言葉にし、実行することなのですから。
行いの成果むなしく、ただ行為のみが輝かしく見えるときがあります。
その時が今訪れました。
神の摂理によって米国は全世界に向けて、自らが人類に奉仕するために
生まれたのだということを明らかにする機会を再び得たのです。
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ウィルソン大統領の言葉からの引用で大使が演説を締めくくると、続いて「星条旗」が演奏された。
そしてルーミス師が祝福を唱え、礼拝はオーケストラによる「コロンビア万歳」で幕を閉じた。
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式が終わると、要人のエスコート役として控えていたボーイスカウトの少年たちが、クライストチャーチ・ガールガイドの少女らとともに隊列を組んでゲーテ座から退出し、花を携えて外国人墓地へと向かった。
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ワシントンの海軍からの指令により、これまでおよそ40年の間に墓地のあちこちに埋葬された米国海軍将兵らの墓を一区画に集め、そこに記念碑が建てられた。
その完成除幕式が行われるのである。
式の会場となる記念碑の周りは旗や花籠、花をつけた灌木などで趣き深く飾り付けられていた。
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記念碑奉納の司式を務めたユニオン・チャーチのブース師が厳かに聖書の一節を読み上げると、モリス米国大使の娘サラ嬢が除幕の紐を引いた。
すると記念碑にかけられていた大きな2枚の星条旗が滑り落ちて、高さ約6メートル及ぶ大理石の四角柱が姿を現した。
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その正面には「米国海軍と海兵隊の戦没者のうち、この区画に遺骸が埋められた兵士とアジア基地における軍務にて亡くなった兵士の記念として米国政府が建立す」と刻まれている。
傍らにはそこに眠る108名の名前を記した大きな石板が据えられていた。
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ドレーパー師が除幕の祈りを唱えた後、「消灯」を告げるラッパが吹き鳴らされ、式典は終了となった。
奉納と除幕を終えた墓地に響く消灯ラッパの音色は感慨深いものであった、と当時の新聞は伝えている。
ゲーテ座における式典の主な出席者
Roland S. Morris氏(米国大使)、Cusani Confalonieri氏(イタリア大使)、有吉忠一氏(神奈川県知事)、安藤謙介氏(横浜市長)、碇山晋氏(加賀町警察署長)、F. J. Horne氏(米国大使館付海軍武官)、K. F. Baldwin氏(米国大使館付駐在武官)、Martin牧師(ユニオン・チャーチ)、E. S. Booth牧師、Draper牧師、H. Loomis牧師、Clay MacCauley氏、南北戦争の退役軍人2名(氏名不詳)、Ensworth氏(在日米国協会会長)
その他の出席者
Feuzi氏(イタリア大使館付海軍武官)、Chalmers夫人(英国領事)、R. T. Wright夫妻(香港上海銀行横浜支店長)、F. O. Stuart氏(ストラッチャン商会)、Polain氏(ベルギー副領事)、Eustace Strong牧師(クライスト・チャーチ)、W. T. Austen牧師(海員えきさい会)、J. P. Mollison夫妻と令嬢(モリソン商会)、A. Cumming氏(バターフィールド&スワイヤー商会)、Gaschy神父(セント・ジョセフカレッジ)、Higinbotham夫妻(ヒギンボサム商会)、W. W. Campbell夫妻(パシフィック・メイル)、Bugbird氏(ジャーディン&マセソン社)、G. G. Brady氏、A. P. Scott夫妻(ライジングサン石油社)、Alfred Jones夫人、de Champmorin夫妻、de Repinsky嬢、Crowe夫人(英国領事館のクロエ商務官夫人)、Van der Polder夫妻(オランダ公使)、Healing夫人(ヒーリング商会)、Marshall Martin夫人(マーシャル・マーテン商会)、Hugh Byas夫妻、Suzor夫妻(スゾール商会)、Altman夫妻、Malin氏、Kozhevar夫人、Dewette夫人(セール・フレーザー商会)、Edward Beart氏、Struthers氏、Apcar夫人(アプカー商会)、Vincent夫人、Graham夫人、 F. P. Pratt夫妻(ノーウィッチ・ユニオン火災保険会社)、M. F. MacLaren少佐、Macdonald医師、トロント・グローブ紙記者ほか
図版
・記念碑写真(The Japan Gazette, May 29, 1918)
・除幕式写真(『横浜貿易新報』大正7年5月31日)
・米国大使令嬢写真(『東京朝日新聞』大正7年5月31日)
*現在の米国記念碑の写真は横浜外国人墓地ウェブサイトでご覧いただけます。http://www.yfgc-japan.com/photo.html
参考文献
・The Japan Gazette, May 29, 30, 1918
・The Japan Gazette Directory, 1918, 1919
・『横浜貿易新報』大正7年5月31日
・『東京朝日新聞』大正7年5月31日
文中に引用した詩の和訳は以下のサイトから転載させていただきました。
・elkoravoloの日記 https://elkoravolo.hatenablog.com/entry/20120331/1333119710