On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■横浜居留地が愛したアマチュア音楽家カイル氏の葬儀

2021-08-29 | ある日、ブラフで

1899(明治32)年1月31日火曜日の午前10時過ぎ、横浜の外国人コミュニティに衝撃的なニュースが飛び込んできた。

横浜商工会議所の書記、オスカー・オット―・カイル氏が石川中村(現 石川町駅付近)にあるフェニックス製材所内で意識不明の状態で発見されたのである。

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その日の朝9時、カイル氏は本町通りにあるジャーマンクラブのバーでマネージャーのルター氏と話をしていたが、その時はいつも通り元気そのものに見受けられた。

ところがその1時間後、製材所の職員が作業場を見回っていたところ、積み上げられた板の背後にカイル氏が倒れているのに気付いた。

手にはリボルバーを握っており、その銃を口中に向けて発射したようだった。

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発見当時はかすかに息があり、急遽山手のドイツ海軍病院に搬送したもののもはや手の施しようがなかった。

急を聞いて駆け付けた医師や友人たちに囲まれ午前11時45分、カイル氏はベッドの上で息を引き取った。

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1840年、欧州東部の都市トラッヘンベルク(現ポーランド領)でカイル氏は生まれた。

音楽の才に恵まれていたが、仕事としては医師を目指していたらしい。

しかし結局その道に進むことはなく、米国に渡って南カリフォルニアで金鉱発掘を試みる。

帰化して米国人となり、夢を追い続けたものの成功を見ることはなかった。

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再び船上の人となった彼が次に向かったのが日本である。

当初、名古屋で教師の職を得たが、横浜に移り、1878年に英国人クレーン氏と共同でピアノの調律・販売の事業を起こした。

共に音楽を愛する二人は兄弟のように仲が良かったというが、1880年、クレーン氏の離日により共同経営は解消となる。

その後カイル氏は計理士として働きはじめ、1886年からは横浜商工会の書記を務めていた。

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当時、横浜在住の欧米人紳士の多くがフリーメーソンという一種の友愛組織に所属していたなかで、カイル氏もまた例外ではなかった。

ロッジと呼ばれる支部のいくつかに所属しており、米国南部系ロッジでは最高位のグランド・マスターを務め、スコットランド・イングランドロッジにおいては首席の地位を占めていたこともある。

これらのロッジの上部組織である日本管区の地区大書記を長年にわたり務めるなど、日本におけるフリーメーソンの重鎮であった。

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仕事やフリーメーソンの活動以外でカイル氏がおおいに活躍し、横浜外国人コミュニティの尊敬を集めたのが音楽の分野である。

才能豊かなピアニストとして、また指揮者として、横浜アマチュア・ドラマティック・クラブの音楽担当、横浜アマチュア管弦楽団の指揮者や横浜合唱協会の副会長兼指揮者として積極的に活動し、地域の音楽イベントや慈善活動に欠かせない人物として、彼の名を知らぬものはなかった。

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2月4日(土曜日)、バンド(山下町)61番の新メソニック・ホールでカイル氏の葬儀が執り行われた。

カイル氏が長年務めた横浜商工会議所も同じ建物内にあり、氏にゆかりの深いこのビルはカイル・ビルと呼ばれている。

今日はそこに横浜だけではなく東京からも多くの人が彼の死を悼むために訪れていた。

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参列者のなかにはフリーメーソンの同じロッジのメンバー全員、その他のロッジからも多数、またフリーメーソン以外の主だった居留民や女性の姿も多く見られた。

大ホールだけでは手狭だったので、小ホールとの間の折り戸を開いて会場としたが、それでも席が足りず、廊下や階段の一部にまで人があふれていた。

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一面黒で覆われた会場の柱からクレープ織りの垂れ幕が下がり、二つのホールの間のアーチには、フリーメーソンの用いる黒い布が掛けられている。

そこに描かれている白い点は涙の象徴であり、その下の台座には故人の遺灰をおさめた青銅製の壺が置かれている。

これはカイル氏の友人であり、フリーメーソンの同胞でもあるエルドリッジ医師から提供されたものであった。

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壷の横には、フリーメーソンにおいて故人が占めた33階級の地位を象徴する紫と金に彩られた剣が一振り、宝石が二つ、そして18階級を示す薔薇十字が置かれている。

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祭壇の上にはクレープ織りに覆われたカイル氏の肖像が掲げられており、この悲しい光景を静かに見下ろしていた。

これはエルドリッジ医師をはじめとするフリーメーソンのメンバーからの依頼により、フレデリック・イェート氏が描いた油彩画である。

昨年10月、長年にわたる功績への感謝のしるしとしてカイル氏に贈られたものであった。

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やがて厳かな調べが会場に流れ、式典が始まった。

オルガンを演奏するグリフィン氏もまたフリーメーソンのメンバーであり、故人とは、ともに横浜合唱協会の運営に携わってきた親しい仲間であった。

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エルドリッジ医師、J. G. クリーブランド牧師、E.C.アーウィン牧師、クレーン氏、クラーク氏をはじめとする12名がスコティッシュ・ライト(スコットランド式のフリーメーソンの儀式)に則って、うやうやしく死者を悼む祈りと言葉を捧げた。

薔薇十字など神秘的な展示が施された会場で粛々と行われた儀式は、一幅のしめやかな絵画のように印象深いものであった。

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儀式が終わると、葬送行進曲の調べに送られて一同は静かに墓地へと向かった。

フリーメーソンにおいて故人に次ぐ32階級の地位にあるエルドリッジ医師が、会場に置かれていた剣を手にして先頭に立ち、他のメンバーが遺骨を納めた壺といくつもの花輪を携えて後を歩む。

その後にまた多くの友人知人らが続き、悲しみの行列は長く尾を引いた。

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外国人墓地に着くと再び「聖なる薔薇十字」が置かれ、エルドリッジ医師の言葉から式が始められた。

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数週間前、私は日本のフリーメーソンを代表して、心からの喜びをもって、友人でありまた兄弟でもある人に尊敬と愛の証を贈呈しました。

いま、私たちはその人の遺灰の傍らに立っています。

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彼の墓をそばにして、私はフリーメーソンとしてだけではなく、彼が長年過ごしたコミュニティの一員として、彼を知るすべての人が、故人に対して愛情と尊敬を抱いていたことを証言します。

このあたりで彼を知らない人がいるでしょうか? 彼は幅広く慈善活動を行ってきました。

彼が長年にわたってまるで父親のように世話をしてきた未亡人や孤児たちが証言してくれるでしょう。

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多くの場合、金銭よりもありがたい貴重な助言と積極的な援助という恩恵を受けてきた私をはじめ多くの人々もまた語ってくれるでしょう。

しかも彼はそのために生じる労苦や眠られぬ夜、疲労といった重荷を押し付けることもしませんでした。

しかし彼自身は決して強靭ではありませんでした。

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自らのためではなく、常に他人のため捧げられた極めて厳しい労働と焦燥が彼の命を削り、最近では素晴らしい能力にすら翳りをもたらしていました。

極限まで弱められ、壊され、苦しめられて、最も強靭なものでも耐えられないほど痛めつけられた彼の脳はついに衰弱し始めました。

そして心は脳の要求にゆっくりと応じました。

何よりも痛ましいのは、彼自身がこのことを認識し、避けがたい結末、神のみぞ知る結末を畏れていたということです。

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死に際して彼が犯した過ちはあまりにも悲しく、言葉もありません。

しかし私たち友人の間では、実務家であり、学者、数学者、最高の意味での音楽家、そして広い心の持ち主、仲間のだれにも劣らぬ徳を備えた人物が亡くなったということに誰も異議を唱えないでいただきたいのです。

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どこかで何らかの方法で、彼の疲れた心が甘い休息を見出し、憩いを失った精神が地上では許されなかった幸福を見つけるであろうこと、彼が行った計り知れないほどの善行が報われることを私たちは知っています。

さようなら、私の友人、私の兄弟。

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感情の昂ぶりのために最後の言葉は声にならなかった。

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エルドリッジ医師は赤いバラを1輪手に取ると唇に押し付け、墓に投げ込んだ。

スコティッシュ・ライトのメンバーたちがそれに続き、数本の赤いバラがカイル氏の墓に重なり落ちた。

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アーウィン牧師が弔辞を述べた後、参列者がそれぞれ墓に向かい最後の別れの言葉を告げた。

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東欧の都市トラッヘンベルクに生まれ、横浜に没したオスカー・オットー・カイル享年58。

横浜外国人居留地で愛されたアマチュア音楽家は今も外国人墓地の一画に眠っている。

 

図版:
・カイル氏墓石(横浜外国人墓地1区27) 筆者撮影

参考文献
・The Japan Weekly Mail, Feb. 4, 11, 1899
・The Japan Gazette, Oct. 6, 1898
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)

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