On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

◆ドイツ帝国海軍病院 Bluff 40 

2021-05-30 | ブラフ いま昔

山手町を東西に走る山手本通りは、外国人居留地時代、ブラフ(山手町)の「メインストリート」と呼ばれていました。

現在も港の見える丘公園や横浜外国人墓地、山手聖公会、カトリック山手教会へと続く、横浜山手の観光のメインストリートです。

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その東端に位置する港の見える丘公園から通りを7,8分も歩くと、左手にユニオンチャーチが見えてきます。

その角を折れ、教会の塀に沿って坂を下り細い路を入った正面の、緑濃い一角に元街小学校があります。

左側がユニオンチャーチの塀

さらに進むと道が狭くなる

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明治初期に作られた「元街学校」がその前身という歴史ある学校ですが、現在の場所に建てられたのは1929(昭和4)年のことです。

それより前、1878(明治11)年から1911年までの30年余り、ここにはドイツ帝国海軍病院がありました。

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『明治初期の日本―ドイツ外交官アイゼンデッヒャー公使の写真帖』より

 

元街小学校の門から坂を上ると校舎がある

 

古い写真を見ると、病院の門から坂を上った丘の上に病院の建物があります。

元街小学校の門と校舎もほぼ同じ位置関係にあり、このあたりの地形が当時とあまり変わっていないことが分かります。

 

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1873年、ドイツ帝国海軍大臣フォン・ストッシュから巡洋艦「ニンフェ」艦長、フォン・ブランク海軍少将に対し、ドイツの軍艦および商船の乗組員のために横浜に海軍病院を設立する準備の指示が出されました。

当初は山手152番、153番に建設される予定でしたが、当時のドイツ帝国公使マックス・フォン・ブラントから外務省に要望が出され、より広い山手40番地、41番地(2,434坪)に変更されます。

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1876年10月1日、フランス人建築家レスカスがドイツ帝国公使アイゼンデヒャーと建築請負契約を結び、同年12月30日には起工式が行われました。

そして1878年6月1日、ドイツ帝国海軍病院が開院します。

初代の院長はヘルマン・グッチョウ医師でした。

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患者は1等から3等に分けられ、1等の患者には洗面室の付いた広い個室、2等の患者にも個室、3等の患者には3つある大部屋が割り当てられました。

1等患者4名、2等患者3名、3等患者48名が収容可能でした。

その他、看護人の部屋、トイレ、洗面室、浴室、薬局、医員の住居、台所、食料室、図書室が備わっていました。

1899年にはドイツ赤十字社からの寄付により手術室が設置されます。

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ルドルフ・シュルツ博士が院長であった頃(1908年から1911年)の職員数は11名。

ドイツ人の監督1名、同じくドイツ人の衛生係2名、その他に日本人の看護人3名、家番、庭番、料理人、門番各1名という記録が残されています。

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1894年の日清戦争の際にはドイツ帝国公使グートシュミットから日本の外務省に対し日本人負傷兵をこの病院に受け入れる旨の申し出がありました。

当時の院長は4代目のヨハネス・ルンクウィッツ医師でした。

そして1904年の日露戦争の時にもドイツ帝国公使アオフ・ファーライが同様の申し出を行っています。

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ドイツ帝国海軍病院が最も多くの患者を受け入れた時期は、パウル・コッホ博士が5代目院長を務めていた1899年から1901年にかけてでした。

 

1900年に中国で義和団の乱が勃発すると、負傷したドイツ兵が中国の太沽(天津の海の玄関口)から横浜へ送られ、この病院に収容されました。

当時侍従武官を務めていた井上良智男爵や神奈川県知事周布公平、赤十字社の鍋島侯爵夫人らが慰問に訪れています。

 

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1902年、ドイツ帝国の租借地であった中国・青島に海軍衛戍病院が新たに設立されると、横浜の海軍病院の患者数は次第に減少し、1911年12月31日を以てついに病院は閉鎖となります。

7代目院長ルドルフ・シュルツ博士が横浜のドイツ帝国海軍病院最後の院長となりました。

博士は翌年1月9日に横浜を後にドイツへと帰国します。

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ドイツ帝国海軍病院は開設から閉鎖までの33年間に累計3,357名の患者を受け入れました。

うちドイツ軍関係者は1,669名、一般のドイツ人は750名、次いで英国人257名、日本人193名、米国人104名、その他384名と記録されています。

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病院閉鎖の翌年1913年、当時山手25番地にあったドイツ人居留民のための学校と教会を兼ねた施設であるドイツハウスの建物が火災のため焼失。

行き場を失ったドイツ人学校は、旧ドイツ帝国海軍病院の建物に場所を移して再開されます。

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その後、第一次世界大戦の勃発に伴い日本政府の管理下に置かれ、短期間ですが南洋諸島に居留していたドイツ人やドイツ人捕虜が帰国するまでの一時収容所として利用されました。

1921年6月には一般の外国人に売却されましたが、関東大震災に被災し建物は姿を消します。

ドイツ帝国海軍病院として完成してから45年後、1923年9月1日のことでした。

 

 

代官坂から山手町60番、61番を通ってドイツ海軍病院の門に至る道は1877年7月に着工され、開院時には完成していたと思われます。
1932年その下にトンネル(隧道)が設けられました。その際に道幅が狭くなり、現在の姿になりました。

 

元街小学校側から見た代官坂トンネル
右上の歩道がトンネルができる前からあった道

 

1921年6月22日付The Japan Gazette紙に掲載された売り出し広告

価値あるブラフ物件売り出し
横浜山手町40・41番地の優良物件、旧ドイツ病院建物およびレンガ造平屋二棟付。
病院建物は各棟160フィート×26フィートの大空間を有し、以前同様病院のほか学校、講堂、研究所、体育館等に使用可。
上下両方向から自動車にてアクセス可。建物付属の土地1,250坪は別売り応相談。物件全体では2,550坪。
詳細はユニオンエステート&インベストメント社まで。

 

図版:
・P. パンツァー、S. サーラ『明治初期の日本―ドイツ外交官アイゼンデッヒャー公使の写真帖より』Pantzer, Peter / Saaler, Sven, Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten. Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit, 2007, Iudicium Verlag.
・航空写真(横浜開港資料館)
・出典の記載のない絵葉書・写真ものはすべて筆者蔵

参考資料:
・外務省外交史料館「横浜独逸国海軍病院地所交換地券書換請求一件」
・外務省外交史料館「外務省より在横浜独乙海軍病院借用の件」
・外務省外交史料館「独国海軍病院を使用に供する旨独公使の申出回覧」
・『Deutsch Japan-Post』 1912年1月6日

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◆米国海軍病院 Bluff 99

2020-03-25 | ブラフ いま昔

 

山手本通に沿って横浜外国人墓地の正門から港の見える丘公園に向かって行くと、左手にブラフ99番ガーデンと旧税関宿舎の敷地が見えてきます。

このあたりには1872年から1923年の関東大震災まで約50年近くアメリカ海軍病院がありました。

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1871年8月26日付の書面にて、米国海軍少将ジョン・ロジャーから米国海軍予防衛生官H. O. メイオに対し、米国東洋艦隊のための医療施設として横浜に海軍病院を設立するよう指示が出されました。

1871年10月25日、神奈川県令から駐日米国特命全権公使デロングへ病院建設地の永代借地権が与えられ、翌年5月までに米国海軍病院が設立されました。

病院は2階建てのコロニアル風の建物でした。

米国海軍医H. C. ネルソンが初代の院長を務めています。

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1877年、コレラの猖獗にあたって発足した健康保安局には他の外国人医師らとともに米国海軍病院の医師も参加しました。また1898年に米西戦争、1900年に義和団の乱が勃発すると、戦地で負傷した傷病兵が横浜に送られ、この病院で治療を受けました。

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1909年2月には下田菊太郎の設計で本館が建替えられます。

この頃の病院には、本館、別館、厨房、司令官宿舎、日本人従業員宿舎、使用人宿舎2棟と温室がありました。

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1923年の航空写真では、本館と別館、そして山手本通り沿いにもうひとつの建物が見えています。

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本館は2階建てで、白い石材で縁取られた赤レンガの建物でした。別館は3階建ての簡素なレンガ造りでした。

厨房もまたレンガ造りの戸建てで、その他の建物はすべて木造でした。

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本館1階には事務所、医務室、実験室、X線室、更衣室、下級士官用の部屋があり、2階には士官用の病室が10室、食堂、4つの浴室があり、建物の端から端までベランダが設けられていました。

建物にはスチーム暖房、温水、電気、運搬用小エレベーターといった最新設備が備えられていました。

陣屋坂から見た新しい本館

 

現在の同じ場所

 

病院の本館

 

山手本通りに面した病院の正門

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そして現在、横浜気象台が建っている場所には病院の別館がありました。

別館には手術室と下士官兵用の部屋、そして8床の病室が6部屋あり、3階すなわち屋根裏は30人の患者を収容できる緊急病棟として使えるようになっていました。

発電装置と洗濯室はこの建物の地下にありました。

 

外国人墓地から病院の別館を望む

 

病院の別館

 

手前に見える外国人墓地の柵の柱

 

現在も同じ場所にあります

 

病院の敷地内から見た別館①

 

病院の敷地内から見た別館②

 


今も気象台の敷地に残る当時の井戸の遺構

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1906年にフィリピンのカナカオに海軍病院が新たに設立されると、横浜米国海軍病院は、アジアにおける米国海軍の主要な医療施設としての地位を譲り、1923年関東大震災によって倒壊した後、再建されることはありませんでした。

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1872年5月27日付の米国海軍病院「ケース・ペーパー(患者の治療・経過記録)No. 1」
全6ページのうちの最初のページ。
患者ウィリアム・グレイは米国艦「コロラド号」水兵で、オーストラリア出身の37歳。
同年1月後半に香港で慢性の下痢を発症して横浜の米国海軍病院に送られ、1872年11月19日に退院した。

 

同患者の「ホスピタル・チケット(治療のために患者を艦船もしくは駐屯地より病院に移送する際の送り状)」。
本文に登場する米国海軍予防衛生官H.O.メイオ宛のものであることがわかる。

 

1907年~1908年にかけてアメリカ海軍病院で勤務していたジェームズ・C・プライヤー医師の名刺

 

図版:
・航空写真(横浜開港資料館蔵)
・ケース・ペーパー及びホスピタル・チケット(Hospital Tickets and Case Papers, compiled 1825?1889. ARC ID: 2694723. Department of the Navy, Records of the Bureau of Medicine and Surgery, Record Group 52. National Archives at Washington, D.C.)
・その他の絵葉書・写真・名刺すべて筆者蔵

参考資料:
・H. E. Randolph, ‘The United States Naval Hospital, Yokohama, Japan’, The Hospital Corps Quarterly, Jan. 1922
The Japan Weekly Mail, Feb. 10, 1872
The Japan Weekly Mail, Aug. 3, 1872
The Japan Weekly Mail, Aug. 6, 1898

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