On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■バンドからブラフへ カトリック聖心聖堂献堂式

2019-04-29 | ある日、ブラフで

1906(明治39)年5月13日(日曜日)。

明け方からの曇り空がほどなく雨模様となり、南から吹き付ける風雨の中、山手本通りをブラフ(山手町)44番地へと向かう大勢の姿があった。

数か月にわたる工事を終え完成したカトリック聖心聖堂の献堂式に参列する人々である。

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横浜天主堂と呼ばれたカトリック教会は、1862年1月12日、フランス人宣教師ジラール神父により外国人居留民のためにフランス人居住区である居留地80番地に建てられた。

その後、ジラール神父の死去により1867年12月にマラン神父が主任司祭となり、1872年にはペティエ神父に引き継がれた。

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1873年3月、ペティエ神父は元町百段下で、キリスト教禁制の高札が撤去されているのを見つける。

いよいよ日本人を対象とした布教活動ができるようになったのである。

ペティエ神父はこの吉報を直ちに仲間の宣教師らに告げ知らせた。

同年6月、教会において「日本における信仰の自由」に対する感謝祭が催された。

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日本の人々への宣教が本格化した矢先、思わぬ試練が訪れる。

1874年12月31日、火災により宣教会の建物が焼失し、印刷所や図書室、数々の祭器が失われた。

幸いにも隣接する教会は外壁がレンガで覆われていたため、類焼を免れた。

しかしペティエ神父はオズーフ司教と共に募金活動のため、翌年、アメリカ経由でヨーロッパへ募金の旅に出かけることを余儀なくされる。

留守はミドン神父があずかった。

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ペティエ神父(晩年)

 

1885年末、ペティエ神父は再び横浜教区の主任司祭となる。

その頃、すでに何度か改修を経ていた教会の老朽化がいよいよ深刻になっていた。

1898年にさらに増改築工事が行われたが、問題はそれだけではなかった。

教会の立地するバンド(山下町)は次第に商業地となり、外国人の信者らが居住するブラフ(山手町)への移転が望まれるようになったのである。

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ペティエ神父はオズーフ司教の許可を得てブラフに新たな教会用地を探し始めた。

そしてメインストリート(山手本通り)に面した44番地に1,260坪の土地を発見した。

港を望むすばらしい眺望に恵まれた広大な土地。

資金不足を個人の借金で補うこともいとわず神父は購入を決意する。

こうして1906年、カトリック教会はバンドからブラフへ移転することとなったのである。

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古い教会の資材を活用するため、解体した石や柱などすべての建材には番号が書き込まれ、ブラフで再び組み建てられた。

この機を利用して内部外部とも改善が図られた結果、幅42フィート、奥行き108フィート、それぞれ幅18フィートと12フィートの身廊と側廊を備えたゴシックスタイルのレンガ建て聖堂がブラフに姿を現したのである。

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教会の正面には高さ87フィートの二つの尖塔がそびえ立ち、その間の壁には美しいバラ窓が穿たれている。

レンガ造りだが、外壁はモルタルで白く塗りこめられており、窓には聖人や幾何学模様を描いた美しいステンドグラスがはめられている。

身廊と側廊の天井高はそれぞれ34フィート、15フィート。

堂内には聖母マリアと聖ヨセフの二つのチャペルがあった。

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午前10時。

健康上の理由で欠席のオズーフ司教に代わり司式を務めるムガブル神父が、十字架を先頭に聖堂の正面入口へと向かい献堂式が始まった。

約30名の聖職者が付き従って進むのを、日本人の信者やプロテスタントの信者を含む7、800名の参列者が見守っていた。

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ムガブル師の短い祈りの言葉に続いて聖歌『主よヒソプもて我に注ぎたまえ』と詩編の朗読。

「主よ憐れみ給え」の言葉と共に壁に聖水が降り注がれ、再びの祈りに続いて一同聖堂に歩み入り、諸聖人への連祷を唱えつつ祭壇へと向かった。

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聖歌隊による『主よ、あなたの名によって建てられたこの家を祝福してください』に続き3曲の詩編『わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると』(詩編119)、『わたしは山にむかって目をあげる』(同 120)、『人々のことばに、わたしは喜んだ』(同 121)が響きわたるなか、司祭が壁に聖水を振りかけて祝別していく。

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儀式の最後にオルガンの奉納が行われた。

このオルガンこそ教会堂の新設を機に、ついに実現されたペティエ神父の夢であった。

神父がフランスに注文して作らせたもので、以前の教会にあったものよりずっと立派で、聖堂正面口の上に設置された。

そこは晴れていればバラ窓を通して光があたる場所である。

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続いて行われたミサでは、居留地の音楽家として知られるW. カール・ヴィンセント氏がオルガニストを務めた。

聖歌隊のメンバーはマリア会修道士とセント・ジョゼフ・カレッジの学生たち。

ヴィンセント氏がその手を鍵盤に置くや、荘厳な音色が聖堂いっぱいに響きわたり、グノーによる荘厳ミサ曲に会衆は心打たれた。

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11時半、神への感謝と敬虔な祈りの内にミサは終わった。

そして午後には聖体降福祭が行われ、多くの信者がこれに参加したのであった。

 

図版:
・天主堂:絵葉書 筆者蔵
・ペティエ神父肖像:『声514号』大正7年9月15日

参考文献:
・板垣博三『横浜聖心聖堂創建史』エンデルレ書店、1987
The Japan Weekly Mail, May 19, 1906
・『声359号』明治39年5月25日 
・『パリ外国宣教会年次報告3(1902-1911)』聖母の騎士社、1998

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