On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■女性のために働く女性たちー米紙が伝える婦人伝道師たちの活躍

2022-08-13 | ある日、ブラフで

このブログの舞台である山手地区は横浜の代表的な観光スポットの一つとして知られているが、同時に閑静な住宅地であり、学生たちがしげく通う文教地区という顔も持っている。

朝夕に目立つのは列をなす制服姿の少女たちで、彼女らはいずれも古い歴史を誇るキリスト教系女子校の生徒である。

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3校あるなかの雙葉学園のみがカトリック系、残る2校はプロテスタント系のミッションによって設立された。

そのうちの1校、共立学園は米国一致婦人伝道協会(WUMS)から派遣されたプライン、クロスビー、ピアソンという3人の女性伝道師が1871年8月に山手48番地に開いたアメリカン・ミッション・ホーム(亜米利加婦人教授所)にその歴史をさかのぼる。

設立の翌年には現在地である山手町212番地に移転し、名も「共立女学校」と改めた。

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はるか極東の地に住む異教徒の女性たちに福音をもたらすという尊い事業に乗り出した女性たちの姿は、アメリカの人々の目には英雄のように映ったであろう。

彼女らの活動ぶりに興味を抱き、できれば支援したいと願う人も多くいたに違いない。

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次に紹介する記事は1906年1月4日付の米紙「ザ・ニューヨーク・オブザーバー」に掲載された共立女学校に関する記事である。

当時の総理(学校経営の責任者)であるジュリア・N. クロスビーの談話を中心としたもので、卒業生の集合写真と校舎の写真が添えられている。

紙面2ページにわたる比較的長い記事であるが、しばしお付き合いいただきたい。

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半世紀近くにわたり、米国一致婦人外国伝道協会(WUMS)は、地球上の闇に閉ざされた地域に光と励ましを届ける天使たちを派遣してきた。

1860年に独身女性らを海外に派遣するために組織されたこのミッションは「ドリーマス・ソサエティ」の名で一世を風靡した。

創設者の娘であるS.D.ドリーマス嬢は『ザ・ミッショナリー・リンク』誌の通信担当者兼編集者としてアジアの労働者とアメリカの寛大な支援者の仲を取り持つ役割を果たしている。

国内外いずれにおいても尊ばれるべき団体である。

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横浜のブラフ212番地に位置する拠点において、名誉ある管理者の任に当たるジュリア・N.クロスビー嬢に面会する栄誉に与った。

クロスビー嬢は、ニューヨーク大学のハワード・クロスビー博士の姪で、叔父の性格をよく受け継いでいる。

彼女のほかにメアリー・トレーシー嬢、クララ D. ルーミス嬢、ヘレン K. ストレイン嬢、S. A. プラット嬢、ジュリア E. ハンド嬢らが所属している。

トレイシー嬢は副校長にあたり、仕事の面ではファミリーの中で最も日が浅いメンバーの一人であるが、最初の数ヶ月で言葉も仕事もしっかりと身につけた。

ルーミス嬢は校長を務めており、重責ある職務を十分に全うしている。

彼女の父親H. ルーミス牧師は当紙の横濱特派員であり、30年以上にわたり日本に滞在している。

J・ウィルバー・チャプマン博士の義理の妹であるストレイン嬢は、組織が日本に派遣した最初の宣教師プリュイン夫人の孫娘である。

ストレイン嬢は現在アメリカで休暇を取っているが、組織の代弁者として活動している。

プラット嬢は聖書学校の校長を、ハンド嬢は日本人助手たちの責任者を務めている。

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彼女らファミリーのホームでの生活は素晴らしいものである。

学校において見事な成果を収めており、伝道活動が最も重要な位置を占めている。

学校を訪問した際、新校舎の建設が急務となっていた。

要望は満たされ、クロスビー嬢はその年の報告書の中で、奉納の儀式の様子を記した。

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その年の業績について、クロスビー嬢は次のように述べている。

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春の卒業式は、例年になく興味深いものでした。

3名の生徒が卒業し、英文エッセイのうちの一つはびっくりするほど素晴らしいもので、本国の一流校卒業生に匹敵するほどでした。

その生徒は非常に優秀で、音楽も得意としており、現在はストレイン先生の音楽教師のアシスタントの一人として働いています。

他の生徒たちもそれぞれ活躍しています。

一人はわが校の教師であり、もう一人は日本の北部地域で女性宣教師のアシスタントとして、日曜学校と伝道活動に従事しています。

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うれしいことに、第一期卒業生が再び私たちの元に戻ってきてくれました。

彼女は卒業後わが校で教鞭をとっていましたが、5、6年たったころ、ある県の知事が自分の二人の幼い娘の家庭教師をあっせんしてほしいと学校へ申し込んできました。

率直なクリスチャンらしい性格からサラキさん(皿城久子か)こそそのポジションにふさわしいと考えて、彼女に声をかけたところ喜んで引き受けてくれました。

少なくとも一つの闇に閉ざされた家庭の扉を開くことができると思われたのです。

その親子は彼女を信頼し、心からその働きに満足しました。

そして彼女は3年間毎日、小さな生徒たちに福音の真理を教える機会を得たのです。

私たちは、この良い種がやがて芽吹き、彼女らのこれからの人生に実を結ぶことを願わずにはいられません。

その頃、わが校には欠員がなかったので、彼女は大阪のミッションスクールに就職し、その後、キリスト教徒の弁護士と結婚しました。

今年の初めに彼は亡くなりましたが、幸いにも私たちは彼女に職を確保することができました。

彼女も同じように喜んでわが校に戻ってくれました。

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10月、東京をはじめ日本各地で神の祝福のうちに働いている伝道師、木村氏が本校で一連の集会を開き、その結果は今後を大いに期待させるものでした。

数年前からクリスチャンであった生徒の多く(34名)が、より一層、心から主に身を委ねるように導かれ、18名が信仰告白と受洗の意向を示しました。

木村さんが「クリスチャンになりたい人は起立してください」と言うと、他の生徒たちも即座に立ち上がりました。

それは素晴らしい光景でした。

全員が真剣そのものでした。

この集会のみならずいずれの集会でも、なんら興奮することなく、説明の言葉とともに単純明快に真理が語られ、静かでありながら切実なアピールがなされました。

聖霊はそれらを出席者一人一人の心へと確かに届けたのです。

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私たちは多くの祝福を受けてきましたが、とりわけ私たちの心を感謝と神への賛美に満たしてくれたのは、皆の祈りをかなえてくれた祝福でした。

新しい校舎がついに完成したのです!

前回の報告書では、今年中に建築のための資金を調達できるかもしれないという希望を述べましたが、戦争が勃発し、必要な資金の4分の1しか手元になかったため、遠からず希望を実現させることは無理だとあきらめていました。

それから1ヶ月も経たないうちに、すでに建築資金として多額の寄付をしてくれていたフィラデルフィアの親友から、4,500ドルの手形が届き、これによって、緊急課題であった新校舎建設のための資金が十分集まりました。

寮からより近い場所に学校を建設することが重要だったのです。

幸いにも、紹介された業者から、それまでよりも低い見積もり金額を提示されました。

同時期に聖書学校を再建すれば、手持ちの金額で新たに二つの校舎が建てられることがわかったのです。

そこで旧聖書学校の跡地には女子校を建てて、聖書朗読者のコテージにずっと近い、非常に望ましい場所に聖書学校を再建することができたのです。

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5月3日に旧館を取り壊し、11月17日に新館が完成しました。

建物に置く家具は、建築業者の契約には無論のこと含まれていませんでしたが、最低限必要なものは、国内の友人たちからの寄付で賄われました。

暖房器具、黒板、机、本棚など、必要なものはまだありますが、これまでと同じように主が与えてくださると信じて、購入するお金ができるまで待たねばなりません。

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本校の卒業生と、1882年に最初の卒業証書が授与される前にコースを終了した生徒らが一緒になって、「同窓会」または「わが窓の会」と呼ばれるものを組織しています。

日本人は皆、窓辺に据えた小さな机で勉強や書き物をすることからこの名前がつけられました。

日本各地に教師として、あるいは家庭に入って生活している会員たち、また現在の教師、生徒たちも、新校舎の建設に最大の関心を寄せており、その資力に応じて、金銭もしくは聖書台に置くための立派な日本語聖書など、600円(300ドル相当)近くを惜しみなく寄付してくれました。

この忠実な友人と娘たちは、新校舎に電気を導入するために、その寄付金の半分以上を寄付するという特権を主張しました。

つまり同窓会は、過去の年月に学校が彼女らにあたえた精神の光を、より一層輝く明かりとしてもたらす栄誉に浴すというわけです。

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新校舎は、篤志家のドリーマス夫人にちなんで「ドリーマス・ホール」と名づけられました。

11月26日には献堂式が行われました。

彼女は天に召される数年前、日本でのミッション活動の創設に深い関心を抱いたのです。

この日は多くの友人が集まって私たちを祝ってくれました。

私たちは、教師も生徒も皆、この良い贈り物を神に心から感謝し、神の聖なる御名を称えるためにますます精進しなくてはならないと感じています。

友人の皆様、私たちとともにとどまり、私たちのために祈り、支えてください。

今まで以上に効率的に事業を進める準備が整ったにもかかわらず、資金不足で学校が失われるようなことになったら悲惨ですから。

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このような高貴な女性たちの祈りは、彼女らが望んでいる以上に報いられるべきであろう。

海を隔てた姉妹たちのために、先駆者として横浜や他の東洋の他の地域で宣教活動に従事する人々は、最も寛大なる支援を受けるに値する。

 

図版(トップより)
・卒業生集合写真(The New York Observer, Jan. 4, 1906)
 ドリーマス・ホール献堂式の日に撮影されたと思われる
・校舎写真(The New York Observer, Jan. 4, 1906)
・ドリーマス・ホール写真(筆者蔵)
・ドリーマス・ホールと寮 写真絵葉書(筆者蔵)

参考資料
The New York Observer, Jan. 4, 1906
・横浜プロテスタント史研究会『横浜の女性宣教師たち』(有隣堂、2018)
・横浜共立学園ウェブサイト横浜共立学園中学校高等学校 (http://www.kjg.ed.jp)

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