On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■学校を救え!―ヴィクトリア・パブリックスクール年次総会1893

2023-10-27 | ある日、ブラフで

関東大震災の体験記『古き横浜の壊滅』の著者O. M. プールは、その第一章に震災以前の横浜外国人居留地の生活を描いている。

居留民たちはビジネスにいそしみつつも、スポーツや社交を満喫し充実した日々をおくっていたが、ある共通の悩みを抱えていた。

それは「子供たちが十代に達すると、教育を完全に施すため、母国にいる親戚のもとへ彼らを送り出」さなければならないことである。

§

当時、横浜には欧米人居留民の子弟のための中等教育機関がなかった。

子供たちに本国(欧州もしくは米国)で教育を受けさせるための負担は大きく、学校問題は「極東の厄介ごと」として外国人コミュニティ共通の関心事であった。

§

1887(明治20)年、東京・横浜の英国人コミュニティがこの問題の解決に動いた。

ヴィクトリア女王在位50年の祝賀記念事業として横浜に学校を設立することを決定したのだ。

同年10月、ブラフ(山手町)179番地に女王の名を冠したヴィクトリア・パブリックスクールが開校。

英語で授業を行う男子校で、英国人に限らず、欧米人のほか中国人や日本人も生徒として受け入れた。

プール少年もその一人であった。

§

ヴィクトリア・パブリックスクール開校から6年後の1893年1月30日、バンド(山下町)61番地にある通称カイル・ビル内の商工会議所において同校関係者の年次総会が開かれた。

§

会議の冒頭にこの1年間の学校の運営状況及び会計に関する報告が行われるのが慣例となっている。

今回その役目を負った名誉幹事ウィルキン氏が伝えたのは極めて深刻な財政状況であった。

§

英国人居留民からの出資金で設立され、その後の収入も授業料と寄付金のみに頼ってきたヴィクトリア・パブリックスクールは、生徒数の減少による収入不足からすでに設立時の基金を使い果たし、閉校の危機にさらされていた。

ウィルキン氏の報告に耳を傾けてみよう。

§

委員会は、非常に残念なことではありますが、生徒数減少のため、学校が財政的に満足のいく立場にはないことを指摘せざるを得ません。

§

イースター学期と夏学期には、生徒数は1891年末に回復した数字を維持しました。

この数字でも少なすぎるのは事実ですが、委員会が期待を抱き続けるには十分な数字でした。

しかし冬学期には36名に減少し、ひどく落胆しました。

本年度は32名となり、もはや委員会が希望的観測を維持することは不可能です。

厳しく出費を制限したため、12か月間の勘定の損失は約400ドルに抑えられており、これは前年度と比べて遜色のない結果です。

同時に準備金が使い果たされ、1893年年初において、借金こそないものの手元には何も残っていません。

§

残念ながら、これはすべてではありません。

生徒数が大幅に増加しない限り、年末に約1,000ドルの赤字を覚悟せざるを得ないのです。

このような状況を鑑み、皆さんの委員会は、悲惨な結末を避けるために何らかの措置を講じない限り、夏には学校を全面的に閉鎖せざるをえないと危惧しています。

§

この学校は間違いなくこのコミュニティの要望に応えています。

これまで5年以上にわたって活動しており、約150人の少年に部分的または全体的に教育の手段を提供してきました。

45〜50人の生徒を確保してすら完全に自立できるわけではないので、委員会は、学校継続のために1年間に必要となるわずかな追加の金額が、学校を創設した英国人居住者または外国人コミュニティ全体のいずれかによって支払われるべきであると考えています。

(中略)

委員会は、子供を持つ地域住民が閉校を惜しむことを疑いません。

この機会に、寛大にも協力してくれた他の国の人々と同様に、英国人の仲間にも、ヴィクトリア女王陛下のジュビリーの記念としてヴィクトリア・パブリックスクールを設立したときの熱意と寛大さを思い起こしていただき、この学校が6年目を終了しないうちに消滅させられるという恥辱を許すことのないよう強く訴えます。

§

委員会報告後、議長は参加者に自由に発言するよう求めた。

§

学校の存続を望む思いは全員に共通しており、さすがに閉校やむなしという発言はない。

さて、それではどのようにこの危機を回避するかという点については様々な案とそれらの問題点を指摘する意見が続出した。

§

授業料引き上げによる増収―過去に値上げを行った結果、生徒数が減少してかえって苦境に陥ったという苦い経験がある。

そもそも生徒数減少を招いた背景には、東京のライバル校エコール・デュ・マタン(現在の暁星学園の前身)の存在がある。

ミッションから資金援助を受けているため授業料が安く、それが親たちにとって大きな魅力となっている。

§

授業料を引き下げて生徒数増員を図る―生徒数が増えることを確約できない以上、授業料を減額すれば、さらに深刻な事態に陥ることは目に見えている。

§

移転による家賃削減―ブラフの中心に位置する現在の立地が学校の魅力にもなっているため、移転は事態を悪化させるだけである。

移転に伴う費用を賄う経済的余裕もない。

§

このほか人件費を見直せないかという声もあったが、すでに経済的理由から教員1名を解雇したため、現状2名の教師陣をこれ以上削減することはできないという理由で退けられた。

§

いずれの案からも1,000ドルの赤字を回避する手立ては見いだせない。

八方ふさがりの状況下、出席者の中から、どなたか有力な方からのご提案を求めたいという声が上がった。

§

一人の紳士がこれに応えるように口を開いた。

J. F. ラウダー―横浜開港間もない1860年にイギリス外務省領事部門の通訳生として来日して以来、日本各地の領事館に勤務し、現在は法廷弁護士としてバンドに事務所を構える紛れもない横浜の重鎮の一人である。

私は、この学校が(ヴィクトリア女王のジュビリーを記念するという)思いによって始められたことを知っています。

それは崇高な思いであり、さらに言えば、それは本質的に英国的な思いであります。

それゆえに、私たちは思いを遂行するための費用を自分たちのポケットから支払わなくてはなりません。

§

かくいう私自身には、この学校に通わせる子供がおりません。

それでも私はこの学校に深い関心を抱いていますし、私たち英国人はこの学校が破綻することは意図していないと思います。

なぜならそれを維持することは私たちの務めだからです。

§

来年は1000ドルの赤字が生じ、ウォルター氏によれば、開始以来、年間平均800ドルの損失が生じているそうです。

いずれにしても今年は1,000ドルを用意する必要があります。

すなわちそれこそが私たちに現在期待されていることです。

§

この集会の熱意が1,000ドルの寄付をもたらすかはわかりませんが、私としては、学校委員会とは別に、あるいはそれを補足するために設立される委員会に参加し、寄付を募って回ることにやぶさかではありません。

もしこの場でその額が差し出されなければ、コミュニティのメンバー50人に20ドルずつ、もしくは100人に10ドルずつ、または75人に比例した額を1年間保証してもらうよう努力します。

そして、これを実行し、この会合を年末に再び開催することを提案します。

§

この場でその額が達成されなければ、委員会は英国人コミュニティに出向き、寄付をお願いすることになります。

しかし私は学校を維持するために資金を募ること、そして今後数年間1,000ドルを調達し続けることは難しくないと考えます。

§

ラウダー氏の発言は人々を元気づけ、会場から拍手が沸き起こった。

§

経費削減についていくつかの議論を経て議事はラウダー案の採決に移ることとなり、議長がラウダー氏の動議を読み上げた。

「今年度の赤字を補填するため、この場で1,000ドルの支援金を募ること、また英国人コミュニティに支援を呼びかけるための委員会をただちに任命すること」

§

一人の紳士から質問の声が上がった。

§

なぜコミュニティの一部に限るのですか?

 

§

声の主はフェリス女学校の校長を務めるアメリカ人牧師E. S. ブース氏である。

出席者のうちアメリカ人は同じく聖職者であるH. Rルーミスの二人だけで、残り全員がイギリス人であった。

§

発言は続く。

§

私は英国人ではありませんが、ヴィクトリア・パブリックスクールの維持に深い関心を抱いています。

私はアメリカ人であり、アメリカ人、ドイツ人、そして他のすべての国籍の人々が、学校存続に力を貸すことを光栄に思うと確信しています。

それは学校がコミュニティ全体のものだからです。

§

私は息子をこの学校に3年間通わせました。

息子の勉強の様子を注意深く見ていましたが、その進歩は実に満足のいくものでした。

学校が支援不足で滅んだ場合、それはコミュニティにとって大きな損失になると私は主張します。

§

確かに在籍者数は減少していますが、それは新しい学校を試すことを好む親子がいたからです。

これはよくあることです。

§

もう一点としては、法外とはいえないものの授業料が変更されたので、家族が多い家庭にとっては負担が大きくなってしまったからです。

§

しかしながら授業料だけで学校が経済的に自立できるかはさだかではありません。

アメリカに限らず、ほとんどの地域において、学校は皆、州または基金からの支援を必要としています。

§

私たちが直面している問題についていえば、私自身、喜んでいくばくかを支援金リストに加えさせていただきたいと思っています。

§

ブース氏の力強い言葉に感激した出席者たちから拍手喝さいが送られた。

§

議長

ブース氏が支援の申し出をしてくださったことは極めてありがたいことです。

私は動議の文言から「イギリス人」という文言を削除する時が来たと思います。

§

ラウダー氏に異存があろうはずはない。

その通りです。

今まさに、この学校はイギリス人の枠を超えてコミュニティの学校となる時代が来たのです。

とはいえ学校が設立された理由を忘れてはなりませんが。

§

動議は満場一致で可決された。

この後、コミュニティに支援を要請する委員として、ラウダー氏、ブース氏を含む6名が任命され、次年度の学校運営委員に現メンバーが再任されることが決定して年次総会は無事閉幕となった。

§

会議中に出席者の中で支援金リストが回覧されていたが、その合計額は460ドルに及んだ。

その後コミュニティからも追加の援助を受けて学校は閉校の危機を辛くも脱する。

§

この会議を機にイギリス女王のジュビリー記念事業として設立されたヴィクトリア・パブリックスクールは、横浜の外国人コミュニティ全体の学校として存続を目指すこととなった。

果たしてこの方針転換は居留地の人々に受け入れられたのだろうか。

その答えは早くも翌年明らかになるのである。

 

図版:
・O. M. Poole著 “The Death of Old Yokohama(古き横浜の壊滅)”の表紙と本文 ‘Yokohama before the Catastrophe(破滅以前の横浜)’
・ラウダー肖像 Japan gazette, Yokohama semi-centennial, specially compiled and published to celebrate the fiftieth anniversary of the opening of Japan to foreign trade, 1909
・ブース肖像写真(筆者蔵)

参考資料
The Japan Weekly Mail, Feb. 4, 1893
・O. M. プール『古き横浜の壊滅』(有隣堂、昭和51年)
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)


 

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