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1883年8月29日、東京
閣下、
今月24日の晩、横浜と東京の外国人居留民が、この国を離れる私と私の娘たちのために親切にもガーデンパーティーを催してくれました。
その際の送別の辞と私からの答辞が新聞に掲載されましたので、閣下に両方の写しを送付いたします。
閣下の最も従順かつ謙虚な僕ハリー・パークスより最高の敬意を込めて
(駐日英国公使パークスより本国の外務大臣グランヴィル伯爵へのコレスポンデンス(通信文)より)
§
1883(明治16)年6月9日、18年間の長きにわたり駐日英国公使を務めてきたハリー・パークス卿の清国駐在特任全権公使任命が公式に発表された。
ジャパン・ウィークリー・メール紙の記事によると現公使トーマス・ウェード卿の任期が6月末で終了するため赴任はそれ以降、駐日公使の後任にはプランケット氏が有力視されているとのことである。
当時パークス卿は55歳。
日本から中国への赴任は栄転であった。
§
英国人居留民たちにとってパークス卿は幕末・明治と激動の時代の日本において優れた外交手腕を発揮し、常に日本における自国民の利益を守るために尽力してくれた心強い存在である。
これまでの働きに対し何らかの形で感謝の意を表したいという声が居留民の間で起こり、6月12日、商工会議所において有志による非公式会議が開かれた。
討議の結果、公式送別会に向けて外国人居留民の総会を開催するためにまずは臨時委員会を設置することが決まり、7名の紳士が委員として任命された。
§
総会は7月30日に横浜ユナイテッドクラブで開かれた。
パークス卿が金銭的負担の大きい派手な催しを固辞したこと、そして横浜には300から400人という大人数が収容できる施設が整っていないことから、送別会は晩餐会ではなく山手公園での舞踏会とし、その場で送別のことばを贈ることとなった。
パーティの会費は2ドル。
催しの準備と招待客の選定のためにレセプション委員会が設置され、メンバーには委員長のA.J.ウィルキン氏をはじめとする臨時委員7名のほか、横浜の英国人商人を中心にフランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、スイス、ポルトガルなど外国人コミュニティのすべての国籍の代表者を含む21名が選出された。
§
1883年8月24日(金曜日)、送別会の会場となった山手公園にはいくつものランタンがつるされ、華やかな飾り付けが施されている。
芝生を下ったところにパビリオンが特別に設けられ、そのそばにビュッフェが置かれた。
気候はこの時期にしては比較的涼しく、午後9時を少し過ぎたころから続々と人々が訪れ、その数はおそらく500人を下らないと思われた。
横浜居留地の住民のほか、東京からも様々な国籍の顔ぶれがそろったが、数名招待されたはずの日本人官僚たちの姿はなぜか見当たらなかったようである。
§
やがて主賓であるパークス卿と2人の令嬢が公演の入り口に到着した。
レセプション委員会のメンバー達に導かれてパビリオン向かう一行をエッケルト氏指揮・横須賀の海軍省所属軍楽隊演奏による英国国歌が出迎え、それが終わると委員長であるA.J.ウィルキン氏がつぎのような挨拶の言葉を述べた。
§
私たち一同はこぞって、送別の言葉を贈る機会を求めてきました。
これによって私たちがあなたに高い尊敬の念を抱いていることを認めていただけば、私たちの悲しみも少しは和らげられるだろうと思うからです。
§
私たちはいろいろな国から来ており、いろいろな言葉を話しますが、今日は同じ一つの言葉だけです。
あなたは十八年間、私たちと一緒におりました。
当地にその全期間いたものもいますが、大部分はその中のかなりの期間いました。
この十八年間、あなたに対する尊敬の念をますます深めるだけでした。
私たちを結びつけていた固い絆は、今や断ち切られることになりました。
この居留地は実に目まぐるしく変る社会でありますが、これほど長いあいだ知り合うということ、友情が続くことは、めったにあるものではありません。
私たちにとっては、あなたが私たちの仲間の一人であることは嬉しいことですが、あなたにとっては、もっと高い地位に移って働かれるのがあなたにふさわしいことでしょう。
あなたが私たちの間に来られたとき、すでに多くの栄誉に輝き、目ざましい功績で著名でした。
当地へ来てからも、むかしの名声にそむかぬ働きをなさいました。
往時のような勇気と剛胆さを示す必要のある機会もないではありませんでしたが、 もっと静かな、忍耐を必要とする難業において、むかしに劣らぬ名声を博されました。
§
私たちにとってあなたを記念するものは、私たちのまわりに、そしていたるところに見られます。
私たちの中であなたと同国の人々は、自分たちの公使としてこの最後の機会にぜひ聞いてもらいたいことがあると言っています。
実にあらゆる面で世話をなさいました。
陳情に対しいつも喜んで聞 いて下さいました。
自分たちの権益を守るために 惜し気なく働いていただきました。
このことをどれほど深く感謝しているか、分かっていただきたいというのです。
この居留地、そして日本にある同じ仲間の居留地の福祉を増進するために多大の働きをされたことに対し、私たちすべてが等しく 深く感謝しています。
§
あなたは居留地の権益ばかりでなく、そのレクリエーションや、もっとまじめな研究、その慈善事業、遠来の客の歓待――そのすべてと深く結びついていました。
このような人が去った後のブランクは、埋めるのは容易ではありません。
§
言いたいことはまだもっとありますが、ここでは差し控えます。
これまでの言葉は、あなたが去られて心から残念に思う私たちのしるしとして、分かっていただくことを願うだけです。
§
さてあなたとご家族の道中御無事を祈ります。
たとえあなたは去られても、楽しい思い出はいつまでも消えないでしょう。
これからも長く健康、御多幸、そしてますます活躍されることを祈ります。
繁栄するご家族にとり囲まれながら、勇ましい功績の数々を楽しく思い起して下さい。
輝かしい名声は子々孫々まで伝えられることでしょう。
§
激務の傍ら、あるいは晩年の休息のときに、ときには日本に残した友人の楽しい思い出をなつかしまれることと信じます。
§
この挨拶文の写しを美しく装丁したものが用意されており、パークス卿に贈呈された。
一同が感に堪えぬ表情で見守る中、今度はパークス卿が次のように答辞を述べた。
§
ウィルキン氏および紳士諸君。
私の同国人のみならず、外国人居留民全体からこのように暖かい愛情のこもる挨拶を受け、返事の言葉を見出すのは大そう難しいことです。
§
私が日本で過した歳月は、一生涯のうちの少なからぬ部分を占めるもので、その間に、この団結した居留民社会の大部分の人々と親しい交際がなかったならば、私は不評判を招いたことでしょう。
諸君のために尽力したことに対し、身に余る言葉をいただきました。
私は諸君の信頼に応えるため、あらゆる機会に努力しただけです。
もし諸君の満足をかち得たとすれば、それは少なからず同国人の皆様の心からの支持のお蔭であり、その他の国籍の人々から受けた親切な援助のお蔭であると思います。
この社会はいつも私の行動を善意に解釈し、私の手に負えぬような困難事には情状を酌量し、ほとんど仕事を成し遂げなかったときでも、まじめに努力したとして私の面目をたててくれました。
この同情ある御理解は別れのつらさを充分に埋合せしてくれるものであり、この国に長く居留したことをいつまでも嬉しく思い起させることでしょう。
§
私がこれから移る任地は日本に近いので、諸君の仕事やこの国の将来に深い興味を持ち続けることができます。
私は日本の君主や当局、そして国民から大そう親切にしていただいた。
自国民の繁栄を増進するのが私の第一の任務であり、そのためには、この国における外国人の権益はこの国の国民の権益と不可分のものであることを痛感し、 私は両方の利益となるような政策のみを進めてきました。
日本政府は過波期を経て改革活動――私たち外国人の到来によって引き起されたといってもよいが――の広い舞台に出たときに多くの試練や困難と戦わねばならぬことに対して私たちは深く同情すべきであると、私は常に考えてきましたが、これは外国居留民たちの感想であるというべきでしょう。
しかしかくも急速に変革が始められたために、日本における外国人の地位と権益が犯されるような場合には、その変更は慎重に進められるべきであり、熟考に基づいて一歩ずつ進むべきであると、私が主張したのは、私の権利であり義務でもあったのです。
列席の諸君と同じく私の切望するところのものは、日本国民が改革の遂行に当り、政治の動向のみならず、大切な経済と産業の進歩にも真剣に注意を払ってもらいたいこと、国民の福利が現在その富と資源の開発を邪魔している障害物を除去することによって、実質的に増進されるようになることです。
まもなく日本は教育と信教の自由においてなしとげたと同じように、商業においても知性と寛容の評判を自ら獲得するものと信じます。
日本国民は西洋諸国において制限のない歓迎をみな受けるのであるが、日本ではその代りに外国に対して与えている特権〔治外法権〕は、私がこれから赴任しようとしている国で許されているものとくらべて劣っています。
§
ご親切にもこの送別会に出席の方々に申し上げたい。
この会が開かれたのは自発的な暖かい友情によるものであること、私どもと直接関係のない外国居留民が多数出席されたことに、私と娘たちは深く感動しております。
この席に多数の御婦人方が出ておられますが、先ほどの御挨拶にあったように、私が社会的義務を果したこと―私はほんの一部分を受けもったにすぎませんが――それを皆様に暖かく認めていただいたことを示すものと思います。
私と娘たちは皆様の御歓送を心から御礼を申し上げ、ますますの御繁栄を切に祈ります。
§
同国の人たちに一言したい。
旧公使をやさしく送り出していただいたが、同じように、私たちすべてに名声の高い私の後任者(プランケット新公使)に対しても、同様の真心から歓迎していただけるものと思う。
諸君の権益をこの有望な人物の手に委ねることは、私の少なからぬ満足であり、その権益は彼が到着するまでのしばらくの間も、慎重に守られるものと思う。
§
パークス卿のことばは拍手の音に度々遮られ、最後は大喝采が響き渡った。
§
その晩の公式行事はこれで終わり、人々は思い思いに歩きまわって会話を楽しみ、楽団が奏でる音楽に耳を傾けた。
午後11時、パークス卿とその令嬢二人を乗せた車は、万歳三唱の声に送られて会場を後にし、その後特別列車で東京に戻った。
主賓が去ったのちもガーデンではダンスが続き、日付が変わって午前1時を過ぎたころ、その調べはようやく途絶えた。
§
送別会から5日後の8月29日午後、パークス卿は東京丸に乗船し、横浜港から上海に向けて旅立った。
出航の際には居留地のレガッタ・クラブのメンバー全員が灯台の近くまで伴走し、横浜の居留民からの最後の歓声をおくったとのことである。
レセプション委員
(カッコ内は勤務先/職業)
《英国》 G.Blakeway(Jubin & Co.)
Fraser(Mollison & Fraser & Co.)臨時委員
M.Kirkwood(英国公使館法律顧問)臨時委員
J.P. Mollison(Mollison & Fraser & Co.)臨時委員
Rickett(P&O汽船)
Townley(Lane Crawford & Co.)
W.B.Walter(Jardin Matheson & Co.)臨時委員
J.Walter(Siber&Brennwald)
E.Wheeler(General Hospital医師)
E.Whittall(保険代理業)
A.J.Wilkin(Wilkin & Robinson)委員長・臨時委員
《米国》 A.O.Gay(Walsh, Hall & Co.)臨時委員
J.C.Hepburn(宣教医)
《フランス》J.Boyes(Grand Hotel支配人)
Michell(不明)
《ドイツ》 Evers(Simon, Evers & Co.)臨時委員
von Hemert(ドイツ・保険代理店)
《イタリア》P.Beretta(自営商人)
《ポルトガル》E.J.Pereira(Hongkong & Shanghai Bank)
《スイス》A.Wolff(スイス・スイス総領事、Siber&Brennwald)
《国籍不明》MacDonald(不明)
図版
・Charles Wirgman, The Japan Punch, Aug., 1883(旅行鞄を持っている男性がパークス卿)
参考文献
・Japan Correspondence_Vol302_F046(829)P93-94(英国公文書)
・The Japan Weekly Mail, 9, 16, June, 4, 11, 25, Aug., 1883
・F.V.ディキンズ 高梨健吉訳『パークス伝』(平凡社、1984)(A.J.ウィルキン氏の送辞とパークス卿の答辞は本書より引用)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)