On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■「極東一のすばらしい名建築のひとつ」―フランス領事館ついに完成!

2018-09-30 | ある日、ブラフで

生麦事件をはじめとする外国人殺傷事件の多発を受けて、英仏が自国民の保護を目的に横浜山手に軍を駐屯させ始めたのが1863(文久3)年。

仏軍の兵舎が置かれたあたりは、フランス山と呼ばれるようになり、軍がその役目を終えて1875(明治8)年3月に撤退すると、そこはフランス外務省管轄地とされた。

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当時横浜フランス領事館として使用されていた建物は、翌年6月に明治政府に返還することとなっていた。

このため新たな領事館をフランス山に建設することが計画され、フランス人建築家レスカス氏が設計に当たることが決まった。

しかし最終的には予算の目途が立たずこの計画は実現しなかった。

フランス領事館は結局、居留地74番地の建物を借り、以後、1887年頃には24番地に、1890年頃には84番地へと転居を繰り返すこととなる。

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フランス人居留民らはしかし自前の領事館をあきらめたわけではなかった。

1885年、有志が領事館建設の請願書を提出。

本国議会での新領事館建設の予算承認は難航したが、ついに1894年、領事館・領事公邸新築工事がようやく開始された。

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設計・施工の任に就いたのは、フランス人建築家サルダ氏である。

フランスの中央工業学校を卒業後、1873年10月、29歳で横須賀造船所の機械学教官として来日。

1876年11月の任期満了後は一時、横浜のレスカス氏の建築事務所に勤務したが、その後、東京大学の理学・数学教師を経て、1878年頃に横浜居留地51番地に建築事務所を開設した。

しかし1880年には東京に移り、三菱会社建築所で再びレスカス氏の元で働くこととなる。

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1882年の夏、山手46番地に自らの建築事務所を再開。

その後の活躍は目覚ましい。

1883年に山手256-257番地のパブリック・ホールの設計・建築を担当し(1885年4月完成)、続いて居留地18-19番地グランドホテルの新館(1890年6月)や山手84番地の捜真女学校Ladies’ Home(1891年12月)、尾上町の指路教会(1892年1月)、居留地40番地ライトホテル(1893年初め)なども手掛けている。

新領事館の設計を依頼された時は40代後半で、既に横浜居留地を代表する建築家の一人であった。

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1896年(明治29年)3月12日木曜日、谷戸坂下、山手185番地に新領事館がついに開館。

フランス領事は「極東一のすばらしい名建築のひとつ」と本国に書き送った。

当時の新聞はその出来栄えを次のように伝えている。

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堂々たる建物の基礎は分厚いコンクリート層の上に据えられ、基礎壁はレンガ3個分の厚みがある。

レンガは箱根から運ばれた斑岩で化粧されている。

この化粧は1階(ground floor)まで覆い、丘側と湾側の二つの主要な壁面には極めてきめ細かい片麻岩が用いられている。

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領事室、法廷等は1階にあり、領事私室は建物の南西の角に位置する。

全体的に明るく広々としており、風通しの良い空間である。

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床材の一部にはケヤキと、それよりはるかに優れているとされる米松が使われている。

階段とその手すりにはケヤキ材が、建具にはケヤキとヒノキとスギが使われている。

玄関ホールの舗装材は艶だしの大理石と御影石で、デザインも優れている。

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金属製の建具はすべてフランスから供給されたものだ。

玄関と壁面に使われている鉄の打ち出しの柵は鍛冶屋の仕事の手本ともいうべき素晴らしい出来である。

これらは建築家が指示したデザインに従って日本人が制作し、本国外務省により承認されたものである。

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学識豊かなクロビュコウスキー総領事の助言により、建物の随所に、彼の洗練された趣味がうかがわせる芸術的なディテールが施されている。

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マンサード様式の屋根も興味を引くかもしれない。

これは仙台の粘板岩で覆われており、平たい部分は鉛で、残りの部分はフランス製のタイルで葺かれている。

全体に使用されているモルタルは混じりけのない角の立った川砂の土佐石灰とセメントでできている。

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領事館員の宿舎は建物2階部分となるが、総領事のためには丘の頂にすばらしい住居が建てられつつある。

これが完成した暁には横浜で最も美しい邸宅となるであろう。

領事館の庭園の美しさは、春の訪れとともにより明らかになるであろう。

乾燥期にあたる現在でさえ、落ち水や築山、滝などがすこぶる趣よく配置されており、きわめて美しい景色を呈しているのだから。

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領事館の完成に遅れること3か月、総領事邸もまた竣工した。

フランス国家の威信を示したこれらの建築物は、ブラフの他の建物と同様、関東大震災により破壊されてしまった。

しかしその姿は当時の写真や絵葉書で今も目にすることができる。

またその遺構の一部が港の見える公園の一角に残されている。

 

 

図版:すべて筆者蔵
・フランス領事館 手彩色絵葉書
・ポール・サルダ氏肖像写真 *サルダの肖像写真は極めて珍しいもの
・ポール・サルダ氏肖像写真の裏面

参考資料:
The Japan Weekly Mail, March 21, 1896
・『横濱毎日新聞』明治29年3月13日
・中武香奈美「フランス山の風車」(『有隣』第429号所収)
・中武香奈美「山手外国人墓地に眠る人びと 2.フランス人建築家ポール・サルダ(父)」(横浜開港資料館館報『開港のひろば』第45号所収)
・中武香奈美「フランス山から遺構、発掘される」(前掲『開港のひろば』第80号所収)
・澤護『横浜外国人居留地ホテル史』(白桃書房、2001)

 フランス領事館

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