On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■パブリックホールの杮落し

2016-11-13 | ある日、ブラフで

 

横浜に住む外国人達の余暇は演劇、音楽会、スポーツなど様ざまなリクリエーションに彩られていた。

海外から旅回りの劇団や音楽家が訪れて故郷を懐かしむ人々の心を慰めることもあったが、自ら芝居を演じたり、音楽会を催したりといったアマチュア活動もまた盛んであった。

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居留地の初期には、積み荷を保管する倉庫などが臨時の劇場として用いられたが、1870年12月(明治3年閏10月)、常設劇場として山下居留地の本町通り68番地にゲーテ座が開場した。

それから約10年、居留民の増加に伴って更に広い劇場が必要となり、1881年6月にその建設準備委員会が設立された。

以後、計画は資金不足などにより難航したが、中断と設計変更を経て1885年初春、谷戸坂上のブラフ(山手町)256、257番地に横浜パブリックホールがようやく開館する運びとなった。

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ゲーテ座のおよそ1.5倍、客席300余りの広いホールは、横浜アマチュアオーケストラによる演奏会に期待を寄せる聴衆で埋まっていた。

1881年11月の設立以来、ゲーテ座やメソニック・ホールなどでたびたび演奏会を開いてきたこのオーケストラは、居留地の人びとにとってはすでになじみ深い存在である。

客席と舞台を隔てる緞帳には緑の小島が浮かぶ美しい湖の風景が描かれていたが、観客の心はそれが取り除かれる瞬間を今や遅しと待ち構えている。

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ついに開幕となったコンサートの最初の曲はオーケストラによる毎度おなじみの人気曲、オーベール“マサニエッロ序曲”。

指揮者のカイル氏はいつもの気迫と正確さをもって指揮棒を振う。

木管も弦楽器もバランスが取れており、オーケストラの構成のよさは耳に明らかであった。続いて3名の紳士がフルート、バイオリン、ピアノでベートーベン作“アデライーデ”をみごとに演奏したが、フルートとバイオリンの奏者は若干緊張していたようだ。

次の6名の紳士によるビショップ作3声合唱“ヴァン・ダンク氏”には、アンコールの声しきりであった。

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オーケストラの2曲目はロッシーニ作“スターバト・マーテル”より“クユス アニム”。

これはその日オーケストラが聴かせたなかで最良のものであった。

その後バーネット作“ステイ アット ホーム”で、地元のテノール歌手が観衆を歓喜に包み、アンコールの声にも応えた。

第一部の最後にショパンの“前奏曲第15番”を披露した紳士の指さばきは完璧で、彼がもう一曲ショパンの前奏曲を見事に奏でると、アンコールの声はいよいよ熱を帯びた。

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プログラム第二部は“セビリアの理髪師”序曲で幕を開けたが、その後に心温まるサプライズがあった。

本日の指揮者にプレゼントが贈呈されたのである。

パブリックホール建設準備委員会会長であるゲイ氏に伴われてカイル氏が観客席の一列目まで進むと、ラウダー夫人が横浜の淑女らを代表して、加減計算機と見事な旅行時計を手渡した。

夫人は、カイル氏が常に快く音楽を提供してくれることで、チャリティーや娯楽に貢献してくれており、このプレゼントは多くの横浜の淑女たちがカイル氏の成功と繁栄を心から望んでいることの表れであると、心を込めて述べた。

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謙遜深い指揮者は、突然のことに驚きつつも、感謝の言葉を返した。

ラウダー夫人、紳士淑女の皆さま、私の胸は感激に押しつぶされそうで、ご親切な言葉に対して適切にご返答することも、このような高価なプレゼントを通して皆さまが私に与えてくださった栄誉について十分に感謝を述べることもできません。

ひとつだけ確かなことは、私は皆さまのご厚意、私に与えてくださったこの大いなる栄誉の、その一片にも値しないということです。

私がいかに努力したところで、友人やオーケストラのメンバーの助けがなければ、何ひとつできなかったことでしょう。

天気の良い日も悪い日も、皆さまに何らかの成果を披露するため共にがんばってくれた友人たち、第一に称賛されるべきは彼らなのです。

これらのプレゼントはいつも私に皆さまの心優しい寛大さと、オーケストラ全員に対する善意を思い出させることでしょう。

横浜で与えられたもの、そしてきっとこれからも与えられるもの、私はそれらを決して忘れることはないでしょう。

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次に演奏されたバイオリンとピアノによるエルンストの“エレジー”は、まさにその晩の「ごちそう」ともいうべきものであった。

続いてトリオによる“ウィンズ ジェントリー ウィスパー”。

その後にオーケストラがブラームス作“ハンガリー舞曲”第2番を披露した。

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ブレーメンタールの歌曲“マイ クイーン”の調べとともに、かつて人気を博した歌い手の姿がフットライトに浮か上がると、彼は満身の力を込めて、感情豊かに―それゆえに彼は長きにわたり愛されたのだったが―歌声を響きわたらせたが、再び舞台に上がる栄誉は辞退した。

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プログラム最後の曲はオーケストラによるウェーバーの祝典序曲“歓呼”。

その後に国歌が何小節か流れると、このホールの建築家であるサルダ氏の登場を求める声が観客から湧き上がった。

熱狂的な声援によって舞台に押し上げられたサルダ氏は、感謝の意を表して一礼すると、再び大歓声に包まれつつ退場した。

観客はサルダ氏の功績を理解し、彼の作品への評価を力強く表明したのである。

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かくして横浜パブリックホールの杮落しは、国歌演奏を以て大成功の裡に幕を閉じた。

月桂冠を戴いた帝王の姿で建築家サルダ氏をパブリックホールのファサードに描き、その功績を称えたイラスト。
(ジャパンパンチ誌に掲載されたもので、実際にこのようなファサードが作られたわけではない)

 

イラスト:Charles Wirgman, The Japan Punch, October, 1884, 同April, 1885

写真:手彩色絵葉書

参考資料:The Japan Weekly Mail, April 25, 1885

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