On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■ヨコハマ文芸協会第百回記念ー初代会長が語るそのあゆみ

2020-09-29 | ある日、ブラフで

1889(明治22)年6月にブラフ178番地に完成したヴァン・スカイック・ホールはフェリス和英女学校の講堂であるが、約300名を収容できる施設として外国人コミュニティの社交の場としての役割も果たしていた。

同年の10月からは、ブース学長が当時のヨコハマ文芸協会に申し出て、同会の会合がここで開かれることとなった。

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会合は隔週の金曜日の晩に開かれ、毎回、会員による音楽、文学、歴史、地理などの講演の後、同じく会員による歌や演奏が行われた。

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居留地の文化・社交面において重要な地位を占めるこの団体のはじまりは、近隣の婦人達が持ち回りで自宅に会員を招いて行うささやかな朗読会であった。

その後、男性会員も増え7年間で会員数は120名を数えるに至る。

その道筋はどのようなものだったのか。

1891(明治24)年12月11日、ヴァン・スカイック・ホールで行われた第百回記念会合において語られた初代会長ルーミス夫人(長老派の宣教師ルーミス師の妻)の回想に耳を傾けてみたい。

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ずいぶん昔のこと、そう、1884年の秋に私たちの会合は始まりました。

そのころは記録を残していなかったので、会の性格や活動内容についてはいわば有史以前からの生き残りの会員が引き継いできた記憶に頼るしかありません。

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心にとめていただきたいのは8月のある会合でのことです。

殿方が入会を希望されたのです。

創始者である女性たちは気の置けない感じを好んで週一回、午後に会合を行っていましたが、入会を望む男性たちの都合に合わせてこれを変更しました。

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(男性の入会により)初期の会合はかなり仰々しいものとなりました。

思い出すのは居留地62番地(香港上海銀行)でオラム氏がホストを務めた時の会合です。

友人の女性がホステスを務めました。

プログラムは入念に組まれており、音楽も素晴らしいものでした。

そこでは婦人は手袋をはめていなければ場違いな思いをしたでしょうし、紳士は夜会服に身を包んでいました。

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その頃のプログラムではっきりと覚えているのは‟昔懐かしき楽しき集い今いずこ“という歌です。

それはあるご婦人が即興で歌ったもので、彼女はその後まもなく神戸へ向かう汽船のデッキで大風に見舞われて悲惨な死を遂げました。

彼女が歌ってくれた最後の曲が予言めいたものに思われて、わたしたちは憂鬱な思いに駆られました。

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初期の事務局長は現在インドに住んでいます。

隔週に開かれた会合を活気づけてくれた多くの人々が別の場所へと去っていきました。

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正史が始まるのは、1885年11月24日のブラフ221番地のヴァン・ペテン夫人の招待によるリーディング・ソサエティ(筆者注・以降「リーディング・ソサエティ」と「リーディング・サークル」が混在しているが、原文通りに採用)の会合からです。

ルーミス夫人が会長に再選され、C. V. セール氏が事務局長、R. A. トンプソン氏とブリテン嬢、ヴァン・ペテン夫人が読書委員、コレル夫人とバラ嬢が音楽委員でした。

ピアソン夫人とクロスビー嬢も出席していましたが委員は辞退されました。

簡単な規則を決議してから、再度決められた通りに12月2日の会合を約して散会しました。

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その年の平均参加者数は27名でしたが、その会合の出席者は25名で、私たちはトンプソン氏によるワーズワースの概略とブース氏によるワーズワースの詩の朗読に熱心に耳を傾けました。

お茶の後にオリバー・ウェンデル・ホームズのユーモアにあふれた作品を楽しみました。

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第3回の会合でG. セール氏が‟Oh! Life is a river”を披露してくださるまで、音楽に関する記録はありません。

元々の会員の多くが、会合の夕べをかたい本の朗読に費やすことの大切さを強く主張しました。

後には娯楽と社交の楽しみを重視する人々の数が増え、「かたい」という形容詞を絶対的に強調していた頭の古い頑固者をしばしば悪気なく揶揄しました。

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私たちはすべての文学を「かたい」ものと「ユーモラス」なものに分類しましたが、時にはどちらに重きを置くかという問題で会員間の対立が危惧される事態も生じました。

しかし両者の意見は回を重ねることで緩和されていきました。

ご存じの通り、音楽(グリフィン氏が曲目に関係するようになってから、プログラムにおいてより目立つ地位を占めるようになっていました)には人の心をなだめる効果があり、それがわだかまった不平不満を晴らしてしまったのでしょう。

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リーディング・サークルでは、アルファベット順の輪番制で、会員を手厚くもてなしました。

私たちの多くがこうした昔々の会合にとても楽しい思い出を持っています。

会の歴史の上で、この年は最初に注目に値するものとなりました。

なぜなら優れた編集者であるA. W. カーティス氏によってリーディング・サークル会員のオリジナル文章から成る貴重な雑誌、Tada Hitotsuが出版されたからです。

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もしその興味深い遺物をご覧になりたい方がいらしたら、事務局が好奇心を満たしてくれるかもしれません。

1886年には(会において)印刷技術は発見されておらず、雑誌といっても手書きたったのですから、(今となっては)想像も及びません。

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1886年から1887年にかけてベンネット夫人とバラ嬢、それにグリフィン氏が音楽委員会を運営されていました。

会合の出席者がだんだんと増えてこの年と次の年は平均31名でした。

会員の中に素人離れした優れた音楽家たちが現れて、会員の増加に伴い、音楽委員会に協力して、歌や演奏といった珠玉の音楽芸術で私たちを楽しませてくれました。

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1887年10月12日の年次会合でグリフィン氏が満場一致で会長に選出され、以来、その働きによって組織の幸福を願うひとびと全員に大きな満足を与えてくれています。

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1889年の春には二番目の雑誌、Mo Hitotsuが発行されました。

カーティス氏がまたも編集者の役目を果たしてくれました。

そしてブース夫妻の招待による第61回の会合で雑誌の購入が呼び掛けられました。

会員とその友人ら90名が出席していました。

きれいに印刷製本され、表紙もすてきで、本文の記事は写真付きでした。

才知にあふれた内容に読者は大喜びしたものです。

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ヴァン・スカイック・ホールは私たちの会合の場としてちょうど使い勝手がよいものでした。

1889年10月2日の年次会合において私たちはヴァン・スカイック・ホールを会場として固定するというブース氏の提案を喜んで受け入れました。

茶菓代や光熱費に充てるため、年会費を3ドルに値上げしました。

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この時、名称をヨコハマ・リーディング・ソサエティからヨコハマ・リテラリー・ソサエティと変更し、会合の曜日も水曜から金曜に変わりました。

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この年、つまり1889年から1890年とその翌年は、大変興味深いすばらしい講義が行われた画期的な年でした。

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前の年には会員は108名に増加し、出席者の平均数は97名となりました。

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10月2日に行われた前回の年次会議において協会の要望に応えるため内規が改められ、拡大されて人数は120名まで増え、未来への展望は明るいといえましょう。

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協会のこれまでの主な出来事を振り返ってきましたが、最後に注目に値するテーマをいくつか駆け足で見させていただきます。

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天文学、音楽、絵画、エスキモー、バビロンとニネベ、珊瑚島、タイ、インドの虎狩り、古代ローマのビジネスライフ、ワーテルローの戦い、フランスにおけるシェークスピア、アメリカの琥珀、ビルマとアッサムでの生活、アメリカ市民戦争といったテーマの講義が語られました。

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シェークスピア、ミルトン、テニソン、ファラー、ロングフェロー、エマソン、マコーレイ、チョーサー、ホーソン、アディソン、ファーバー、ウィッティア、エウリピデス、テオクリトス、ルー・ウォーレスをはじめとする大作家たちが私たちを導き、刺激したものです。

フッド、ディケンズ、ワーナー、マーク・トウェイン、ストックトンらははじけるようなユーモアで私たちを楽しませてくれました。

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音楽の大家、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、シューマン、シューベルトをはじめとする幾多の音楽家が私たちに霊感と喜びを与えてくれました。

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始まりはささやかなものでしたが、協会が私たちのコミュニティの一角を占めていることを示しています。

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友情を生みはぐくみ、疲れた人の心を元気づけ、落胆した人を励ましました。

知り合いのいない人の寂しさを紛らわせ、私たちの中に満ちている親切なクリスチャン精神によって彼らの滞在を明るいものにしました。

若者を有害な交際から遠ざけ、高尚で純粋な娯楽を提供しました。

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協会は最初の頃の14倍の規模に成長しました。

雰囲気は時に楽しく、というかほとんど陽気ですが、時に深刻に傾きます。

そして深遠で哲学的な問題に向かう傾向があります。

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厳粛なものにしろ、明るいものにしろ、いつも音楽を楽しみ、この数年は、初めの頃よりなべて楽しく陽気な雰囲気になっているといえるかもしれません。

この前の冬に疫病が大流行した際には、インフルエンザの猛攻のため、残念ながら1月2日に予定されていた魅力的な音楽プログラムを楽しみにしていた多くの人々は失望することになりました。

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ルーミス夫人のことばは次のように締めくくられている。

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音楽はそれにかしずく人々の努力を認め、過ちを大目に見てくれます。

組織として私たちが受け取っったすべての恩恵と私たちがなした善行は、優しき天の父の祝福のおかげによるものと思っています。

父がこれからも私たちを導き、協会が長く続き、遠い昔に予言された平和と善意による統治が地上で行われる喜ばしい時代を築くための準備に、たとえささやかなりとも役立つものとされることをお許しになりますように。

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会合の様子を伝える新聞記事によると、ルーミス夫人の回想は同じく古参の会員であるチャールズ・セール氏によって朗読されたようである。

回想のなかで語られている思い出の歌、セール氏による‟Life is a river“やMo Hitotsuからの曲や日本の行商人の売り声の朗読(?)といった興味深い演目もみられる。

当日のプログラムは次の通り。

 

1.開幕曲 ピアノ二重奏(モーツァルト) フェントン氏、ガーデナー氏

2.朗読 協会の歴史(ルーミス夫人) C. V. セール氏

3.歌唱 When the lights are low (Gerald A. Lane) マカルピン夫人

4.朗読 The ride of Jennie McNeal(作者不明)N. ハート嬢

5.歌唱 Life is a river(S. Nelson) G. セール氏

軽食

6.ピアノ・ヴァイオリン デュオ インG  Mo Hitotsuより(グリフィン氏)クレーン氏、グリフィン氏

7.朗読 通りの呼び声 Mo Hitotsuより (A. A. ベンネット師) A. A. ベンネット師

8.歌唱 Ora Pro Nobis(ピコロミーニ) エフォード嬢

9.朗読 Mr. Middlerib’s Letter(作者不明)N. ハート嬢

10. 歌唱 Tell Him I love Him better every day マカルピン夫人

 

図版:布恵利須英和女学校(『女学雑誌』183号 1889年5月)

参考資料:
The Japan Gazette, Dec. 5, 1891
The Japan Gazette, Dec. 12, 1891
The Japan Weekly Mail, Dec. 5, 1891
・生野摂子「ヨコハマ文芸=音楽協会」『横浜の本と文化』(横浜市中央図書館、1994)所収
・生野摂子「横浜の外国人居留地文化」『横浜居留地と異文化交流―19世紀後半の国際都市を読む』(山川出版社、1996)所収

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