On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(前編)

2023-08-27 | ある日、ブラフで

1907(明治41)年4月、アメリカ東岸の都市ハンプトンを一隻の船が出航した。

米国海軍戦艦「デンバー」。

はるか故国を離れ世界各地の都市を巡ったのち、艦は1911年サン・フランシスコ港に帰港する。

その長きにわたる旅路のなかで日本を2度訪れ、横浜や神戸に寄港した。

1908年と翌1909年のメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)の時期、乗組員らは横浜に滞在し、外国人墓地で行われる式典に参加した。

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筆者は最近、この航海の船員であったジョン・カウトという人物の日記と写真を入手した。

航海中と寄港地での日々の出来事が几帳面な文字で簡潔に綴られた日記。

航海中の乗組員のリクリエーションの様子や港の風景を撮影したモノクロの写真。

その合間に寄港地での歓迎会のメニューや名刺なども挟まれている。

写真のなかには横浜のメモリアル・デー関連のものが10点含まれていた。

それらすべての裏側に、本人によるメモ書きと当時横浜で活躍していた米国人写真師カール・ルイスのスタンプが残されている。

ブラフの人々にとって重要な年中行事であったメモリアル・デーを物語る貴重な資料である。

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本記事では1908年のメモリアル・デーの様子をカウト氏の写真とともに2回に分けて紹介する。

前半ではジャパン・ウィークリー・メール紙に掲載された記事を、後半では残りの写真とカウト氏の残したメモを主に記す。

前半の新聞記事はかなり長文のため、その大半を占める当時の米国大使トーマス・オブライエン氏によるスピーチを割愛させていただくことをお断りしておきたい。

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横浜メモリアル・デー
(1908年6月6日付 ジャパン・ウィークリー・メールより)

 

5月30日土曜日の午後、横浜・東京のアメリカ人コミュニティ―によってメモリアル・デーの祝典が行われた。

南北戦争の戦死者と、祖国のために働きこの地域で命を落とした兵士や船員に敬意を表する記念日である。

正午、アメリカ艦隊による分時砲が横浜港に響き渡り、午後2時少し前には海兵隊員及び水兵250名が楽隊とともに上陸した。

フランス波止場に上陸する戦艦デンバーのボート

 

行進を先導する戦艦レインボーのフィリピン人バンドと海兵隊の警備兵

 

式典会場となる米国海軍病院へと行進

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ブラフ(山手町)97番地の米国海軍病院において行われたトーマス・オブライエン米国大使主宰の礼拝には、主賓としてJ・N・ヘンフィル米艦隊第3戦隊司令官、H・B・ミラー米国総領事、アメリカ・アジア協会のN・F・スミス会長、退役軍人でもあるH.ルーミス牧師、ユニオン・チャーチ牧師T.ローズベリー・グッド師が出席した。

また、米国海軍病院からはドゥ・ボース監察医、J・C・プライヤー外科医、T・S・フィリップス薬剤師が参列し、そして横浜に寄港していたデンバーを含むアメリカ海軍の艦船の乗組員たち、艦隊副官マニックス中尉、補佐官W・S・アンダーソン少尉、海兵隊旗艦レインボーのエリソン少尉、ペンス少尉、S・W・ボーガン少尉)、戦艦デンバーのハザード少尉と海軍兵学校生ウィザーズ、戦艦クリーブランドのリーベ少尉と海軍兵学校生D.J.コープランド、戦艦コンコードのJ.H.ニュートン少尉などの海軍将校らのほか、地域社会の主だった人々が顔をそろえて参加者は多数に及び、婦人の姿も多く見られた。

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礼拝が行われた芝生広場の三方を戦艦レインボーのボーガン少尉が指揮する射撃隊を含む水兵と海兵隊員がとり囲み、主宰者のパビリオンの前には献花がふんだんに飾られていた。

花を手配したのはバグナル夫人、コルトン夫人、デュ・ボース夫人、マンリー夫人、サース夫人から成るアメリカ人婦人らの委員会である。

旗艦コンコードのバンドが数曲演奏し、合唱の伴奏を務めた。

合唱の先導をしたのは男女数名による合唱団である。

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バンドによる「アメリカ(My Country 'tis of Thee)」の演奏で礼拝は幕を開け、戦没者をたたえる「リパブリック賛歌(Mine eyes have seen the glory of the Lord)」の合唱が続いた。

H.ルーミス牧師が詩篇90と黙示録の一部「そして私は新しい天と新しい地を見た」を朗読し、その後参加者全員で「星条旗」を合唱した。

T.ローズベリー・グッド牧師が祈りを捧げた後、「大洋の宝コロンビア」をバンドが高らかに演奏した。

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続いて主宰者であるトーマス・オブライエン米国大使が会衆の前に立った。

大使は、アメリカ人参加者にとってもすでに過去の記憶となった南北戦争と、それを契機としてアメリカ国民の団結が生まれた歴史について語り、この記念すべき日を期に、祖国のために命を捧げた人々を悼むとともにアメリカ合衆国国民としての団結への思いを新たにしてほしいと人々に呼びかけた。

大使の言葉に会衆は盛大なる拍手をもってこたえた。

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讃美歌「主よ 御許にちかづかん」の合唱の後、バンドが葬送曲を演奏した。

E・S・ブース牧師による祝福と、ラッパの合図により正式な式典は終了した。

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その後、中隊は墓地まで行進して墓に花を供え、3発の一斉射撃が行われた。

池上本門寺と新しい墓地にも同日の朝花が届けられた。

(池上本門寺には1869年観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦オネイダ号の犠牲者の遺骨の供養碑がある。「新しい墓地」はおそらく根岸の外国人墓地を指す、筆者)

オネイダ号乗船者の墓前にて弔砲3発を撃つ海兵隊の警備兵(横浜外国人墓地にて)

 

戦艦デンバー中隊(横浜外国人墓地にて)

 

ユニオン・チャーチで礼拝

翌日曜日にはユニオン・チャーチにおいてメモリアル・デーを記念する特別礼拝がささげられた。

司式を務めたT・ローズベリー・グッド牧師が「国家のための献身」という題で説教を行なった。

信徒以外にも大勢の人が集まっており、米艦サプライの水兵約50名のほか、米軍病院に入院中の将校及び兵士のほか、教会役員から招待されたヘドワース・ラムトン提督麾下の英国艦隊将校及び兵士120名から成る分遣隊も出席していた。

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この日のために聖歌隊が特別に増員され、礼拝には通常の賛美歌のほかに「As Pants the Heart」、「Let your Light so Shine」(奉献唱)などがささげられた。

礼拝の最後の歌はアメリカ国歌であった。

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星条旗が掲げられた説教壇にグッド牧師が立ち、テモテ4章6、f7節をテキストに雄弁に説教を行った。

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牧師は戦争が正当化されるべきものであったかという問題について考察した。

南北戦争は極めて悲惨な出来事であったが、アメリカに恩恵をもたらすものでもあったと述べ、なぜならこの戦争こそが国家の結束と、国がよって立つところの崇高な理想を生み出す契機となったからであると結論付けた。

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キューバにおける戦いによって結果的にキューバ人が自らの政府を手にしたこと、アメリカ政府が義和団事件の賠償金の余剰分を中国に払い戻したこと、日露戦争においてルーズベルト大統領が和平調停に果たした役割について牧師は言及し、市民生活、ビジネス及び政治活動について公正に記録することを行政府に代わって望むと述べた。

そして主が歩まれた道を自らもまた誠実に歩もうとし、主が与えると約束された力を求めようとしない限り、人は真の人間、真の市民にはなり得ないのであると語り掛け、人々の心をイエス・キリストの理想的な生涯へと導く言葉で説教を終えた。

 

図版:
・最初の写真 ジョン・カウト氏の日記に張られていた蔵書票(筆者蔵)
・その他の写真 すべてジョン・カウト氏旧蔵品(筆者蔵)

参考資料:
The Japan Weekly Mail, June 6, 1908.
・ジョン・カウト氏の日記

 

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