1880年(明治13)春季、日本レースクラブによる記念すべき初開催が根岸競馬場で施行されました。
同開催には「The Mikado's Vase Race」と銘打たれた番組が設けられ、明治天皇から優勝馬主賞品(金銀銅象嵌銅製花瓶一対)が下賜されました。
これが現在まで承継されてきた伝統と栄誉ある天皇賞のルーツとなっています。
翌年の春季には初の天覧競馬が盛大に執り行われました。(中略)
一方、根岸競馬場は居留地内という治外法権が適用されたため、日本の刑法で禁止されている賭けが当初から公然と行われ、1888年(明治21)秋季には現在のような主催者による馬券の発売を開始しました。
この売上げが、それまで経済力のある内外の会員と明治政府の援助にすがっていた同クラブに貯蓄をもたらしました。
この財政基盤の確立は、他の競馬場が解散するなか、オーストラリアから洋種馬を輸入するなど、独自の発展を遂げ永く続く日本競馬界のリーダーとしての地位を保証することになりました。
1906年(明治39)12月になると馬券発売が黙許され、翌年から全国に競馬ブームがおとずれました。
「根岸競馬場開設150周年記念&馬事文化財団創立40周年記念特設サイト―横浜と馬、競馬の歴史―洋式競馬のモデルとして―根岸競馬場を中心に、礎が築かれた明治の競馬」より(https://www.bajibunka.jrao.ne.jp/nk150/history/detail_006.html)
日本全国に競馬ブームが訪れたという1907(明治40)年当時、そのモデルとなった本家本元である横浜・根岸競馬場のレースはどのような様子だったのだろうか。
筆者はその年の秋季レースの模様を写した写真をインターネットのオークションサイトでたまたま入手した。
ドイツの出品者から送られてきたはがきほどの大きさの5葉を順に見てみよう。
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冒頭の写真はその1枚目。
裏に記された手書きのメモには「スタートコース エンペラーズ・カップ 1907年10月 横浜」とある。
秋季レースの初日は10月25日金曜日、天皇杯が組まれたのは翌日の第六レースで、その日一番の呼び物であった。
(冒頭の引用文では「The Mikado’s Vase」となっているが、1905年より「The Emperor’s Cup」という名称に固定された)
この日は朝から穏やかに晴れ、天皇杯の評判に加えて東伏見宮殿下の台臨もあるということから、11時の定刻を前にすでに一二等観覧所はもとより場内ほとんど立錐の余地がないまでの盛況ぶりだったという。
写真からもそのにぎわいぶりが伝わってくる。
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さて、翌日の新聞に掲載された勝敗の結果は次の通り。
第六レース 帝室御賞典、出走馬17頭、距離1マイル、豪州及び内地産馬混合競走(かつて御賞典を拝受した馬は除く)
第1着御賞典700円、第1着200円、第2着100円
1着 La Cantiniere(ラカンチニヤ)、Major Trick(マヂヨールトリック)、玉造
1着 Patricia(パトリシヤ)、Norfolk(ノーフォーク)、後藤
2着 Soya(ソーヤ)、Tatsuta(タツタ)、北郷
*馬名・馬主名・騎手名の順に表記
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レース内容はどのようなものだったのか。
期待を裏切らぬ白熱の一戦だったことはまちがいないようだが詳細については今回参照した二紙で記述が微妙に異なり、どちらとも判断できない。
両方を照らし合わせて拾ってみるとおよそ次のような運びだったらしい。
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全17頭のうち前評判が高かったのはチハヤ、ラカンチニヤ、ベゴニヤの3頭だったが、ベゴニヤはスタートで出遅れ、パトリシヤとその兄弟馬(チハヤかポピンゼー)が先頭に立ち、優勝はこの2頭の争いとなるかと思われたところを、ソーヤとラカンチニヤが猛追。
パトリシヤがよくこれをこらえて3頭ほぼ同時にゴールを決めた。
審判の結果、ラカンチニヤとパトリシヤが1着同着、ソーヤは2着となり、同着の2頭の雌雄を決するために決勝戦が行われることとなった。
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ラカンチニヤの人気が勝っていたが、先頭を切ったのはパトリシヤ。
しかしレース後半ラカンチニヤの勢いものすごく、ついにパトリシヤを追い抜き二馬身以上の差をつけて見事勝利を収めた。
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御賞典の授与式には東伏見宮殿下が丹羽式武官を従えて台臨され、同官よりラカンチニヤの馬主であるデ・ケヤス氏(仮定名称Major Trick氏の本名か?)に銀杯が与えられたと『横濱貿易新報』は伝えている。
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こちらは別のレースの写真。
裏には「スタートコース ポニーズ レース 1907年10月」と手書きされている。
「ポニー」と書かれているように、写真の馬たちは1枚目に写っている洋種馬より小柄に見える。
26日に行われた10レースのうち第2から第7レースまでが豪州馬の競走なので、それ以外の第1、8、10の支那産馬レースもしくは第9の国産馬レースの様子を撮影したものかもしれない。
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残りの2枚の写真は社交の場としての競馬場の様子を伝えている。
シルクハットにフロックコートという姿でティーカップを手にしている紳士は、時の駐日ドイツ大使アルフォンス・マム・フォン・シュヴァルツェンシュタイン。
戸口の中をのぞくと、和装の男性の背が見える。
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こちらも同じ場所で撮影された写真。
左より2人目がフォン・シュヴァルツェンシュタイン駐日ドイツ大使。
正面から見ると水玉模様のベストがなかなかおしゃれである。
なぜか俯いてはいるが、柄物のドレスを着こなした堂々たるたたずまいの女性が神奈川県知事周布公平夫人である。
右端にたたずむ周布知事令嬢もまた和装ながらポンパドール風に結ったひさし髪に、レース手袋の手にはパラソルというハイカラな拵え。
羽毛やフリルを多用した装飾的なドレス姿が貫禄を感じさせる西洋人のj女性はドイツ大使夫人かもしれないが、メモ書きが判読不能で断言できない。
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いずれの写真の中の人々も、外国人、日本人共にほとんどが紳士淑女然として晴れやかに着飾っており、いかにも「晴れの日」らしいダービーの華やかな雰囲気が伝わってくる。
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その昔、外国人居留民が極東の島国での暮らしのなかの特別な一日の様子を伝えるために故郷に送ったであろう数枚の写真。
今また里帰りして、百年余り後の世に生きる私たちの目の前に、過ぎし日の横浜の華やぎをよみがえらせてくれる。
図版:写真5点すべて筆者蔵
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, Oct. 27, 1907
・『横濱貿易新報』明治40年10月27日
・『時事新報』明治40年10月27日
・「根岸競馬場開設150周年記念&馬事文化財団創立40周年記念特設サイト」(https://www.bajibunka.jrao.ne.jp/nk150/history/detail_006.html)