On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■古き横浜の思い出-1888年から1899年-(後編)

2022-03-21 | ある日、ブラフで

プール兄弟 左より ハーバート、エリノア、マンチェスター

ハーバート・アームストロング・プールが横浜で過ごした日々の思い出を記した手記の後編。(本稿にはハーバートの記憶違い等から事実と異なる記述も含まれていると思われますので、その旨ご承知おきください。またカッコ書きは筆者によるものです。)

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英国領事館の法廷で初めて殺人事件の裁判が行われた時のことを覚えています。

英国人のカリュー夫人が夫をヒ素で毒殺しました。

彼は横浜ユナイテッドクラブの書記でした。(1896年10月に起きたカリュー事件)

黒い帽子を被った裁判官が「絞首刑に処す。神があなたの魂を憐れんでくださいますように」と宣告した時、それは恐ろしい体験でした。

判決は後に減刑されて夫人は英国のホロウェイ刑務所で終身禁固に処せられましたが、18年間服役した後に釈放されました。

事件には多くのスキャンダルが関わっており、まちの要人とみなされていた男たちの何人かは国を去らなければなりませんでした。

カリュー一家は私たちの近くに住んでいて、私は夫人から数ヶ月間ヴァイオリンのレッスンを受けたことがあります。

彼女はイザイ(当時活躍していたベルギー人ヴァイオリニスト・指揮者)の優秀な弟子でした。

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そのころの横浜港は、英米仏独露各国の軍艦のほかトルコの軍艦も1隻停泊しており、それらで埋め尽くされていました。

ほとんどが完全装備の木造船でしたが、英国の新しい鋼船も何隻かありました。

私たち米国人少年たちは、自国の軍艦がすべて古い木造船であり、旗艦「モノカシー」はサイドパドルホイール付きで、どうやって太平洋を横断できたのか不思議なくらいのありさまだったので、悔しい思いをしていました。

その船は横浜に何年も係留されており、めったに港を出ることはありませんでした。

最後には売却されて上海で解体されました。

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軍艦では、横浜の外国人の子供たちのために頻繁に船上パーティーが開かれました。

「マリオン」、「トレントン」、「サスケハナ」のほか何隻かありましたが、1899年5月のサモアの台風で全部沈没しました。

私たちは大変心を痛めました。

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日本に来た最初の鋼鉄製の米国戦艦は、マニラ湾海戦で有名な「オリンピア」でした。

その後に来たのが「オレゴン」で、船の煙突が16フィートも伸びていてとても奇妙に見えたものです。

 

米国海軍戦艦オレゴン号

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花火大会が開かれる7月4日(独立記念日)、我が家はいつも祝いの中心地になっていました。

英国人の少年たちも参加せずにはいられませんでした。

後に頭のいい英国人少年が、その日が南アフリカのウルンディの戦いに英国が勝利した日であることを発見するまでは幾分きまり悪そうにしていましたが。

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横浜の子供たちにとって居留地のチャイナタウンにいくこともまたスリルあふれる体験でした。

酒場で酔っぱらった軍艦の水兵たちが、血まみれになって派手な喧嘩をしていました。

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地元民のまちを襲う大火事もスリルに満ちていました。

火は100軒から300軒もの粗末な木造家屋を一度に嘗め尽くしました。

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1888年に横浜に着くとチェスターと私はブラフ179番地にあったヴィクトリア・パブリックスクールに入学しました。

これは英国政府からの助成を受けて、1887年、(ヴィクトリア)女王の在位五十周年を記念して設立された学校でした。(筆者注 ヴィクトリア・パブリックスクールが英国政府からの助成を受けたというのはハーバートの記憶違い)

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この学校を率いていたのはC. H.ヒントン教授で、様々な国籍の少年たちを教育するには過ぎた人物でした。

通常の英国パブリックスクールの伝統にのっとって運営されており、わたしたちはしょっちゅう鞭で打たれました。

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ヒントン教授は「四次元」研究で知られる高名な数学者であり、この職を受け入れたのは見聞を広めるためにすぎなかったようです。

学校が閉鎖されると、プリンストン大学の数学教授になり、後にワシントンDCの特許庁に奉職しました。

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助教を務めていたのはH. L. ファーデル先生でした。

彼は1923年の地震(関東大震災)で亡くなりました。

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この学校はチェスターと私が十分な教育を受け終えるまではなんとか持ちこたえていました。

母が米国史を教えるように学校に頼み込まざるを得なかったことを覚えています。

私たちは1066年ウィリアム征服王云々のあたりで沈没してしまっていました。

一方、数学ではパブリックスクールのレベルをはるかに超えており、大学並みの授業を受けていました。

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横浜に到着後、母は私をピアノからヴァイオリンに転向させ、ドイツ人で、東京音楽学校の学長であるソーヴレー教授(日本政府音楽取調掛に勤務していたオランダ人ギヨーム・ソーヴレー。学長としたのはハーバートの記憶違い。「音楽取調掛と東京音楽学校の外国人教師たち – 東京藝術大学音楽学部 大学史史料室」(geidai.ac.jp)による)に師事することになりました。

彼は1年ほどでドイツに戻り、その後はハンブルク出身の若いアマチュア・ヴァイオリニスト、ハンス・ラムゼーガー(神戸・ラムゼーガー商会の経営者であり、また交響曲『忠臣蔵』の作曲者としても知られる Hans Ramseger (koki.o.oo7.jp/senkakusha.htm))に教わることになりました。

私の知識のほとんどは彼から得たものです。

彼は私の生涯の友でしたが、1930年に神戸で亡くなりました。

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その後、かつてボストン交響楽団(シカゴ交響楽団か)で第一ヴァイオリンを務めた東京音楽学校のアウグスト・ユンケル教授からレッスンを受けました。

その後、(ヨーゼフ・)ヨアヒムのもとで学んできたばかりのデンマーク人マックス・シュルーターから1年間の指導を受けました。

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私は幸運にも彼らが東京音楽学校や弦楽四重奏で行った演奏会に何度も参加させてもらいました。

そういう次第で、私はコンサートツアーで横浜を訪れた当時の世界的に著名な音楽家の多くと親密な関係を築くことができました。

ある演奏会でベルギーのヴァイオリニストであるオヴィッド・ミュザンと協演したこともあります。

彼は、私たちのカルテットとともにベートーベンのコンチェルトをピアノ付きで演奏しました。

ジャパンタイムズ紙に掲載された演奏会広告

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ヴィクトリア・パブリックスクールが閉校になると、チェスターと私を本国の大学に進学させる余裕がなかったので、父は家庭教師を雇って私たちにフランス語と日本語を学ばせ、速記とタイピングも教えました。

私たちは当然のことながら幼い時から日本語を学んでいたため英語と同じように話すことができるようになっていました。

ただ私は、文字は1000文字程度覚えただけなので、読み書きはできません。

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1893年8月、17歳になろうとする頃、最初の職に就くことになりました。

横浜の本町通り28番地にあったアメリカントレーディング株式会社の速記者で、月給はなんと15円でした。

日本・中国方面の貿易関係企業としては米国有数の企業であり、そこでの4年の間の修行はかけがえのないものでした。

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このころ、休暇を利用して、自転車で奈良・京都経由で神戸を経て広島、姫路、そして山陽鉄道の終点を訪れ、そこから汽船で門司、長崎に行き、そこから家に戻りました。

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1898年、母が米国に帰郷している間、チェスターと私は自分たちで家事をやってみようと思い、2マイルほど離れた中村に日本の家を借りました。

しかし二人とも具合が悪くなってしまい、母は戻るとすぐ私たちを家に連れて帰りました。

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チェスターと私が初めて二人で旅行をしたのは、1899年10月10日に「佐倉丸」に乗って松島の荻浜と函館を経由して小樽に行った時でした。

そこから鉄道で札幌に行き、さらにピラトリ(平取)で珍しいアイヌを見るためにグバン(?)炭鉱を訪れ、最後にムコレン(?)に行きました。

その後私たちは急いで函館に戻ったのです。(以下略)

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以上がハーバート・プールの手記の抄訳である。

ハーバートはその後も日本にとどまり横浜のほか神戸、長崎などで暮らした後、1933年1月ついに米国に帰国する。

その間のことについても詳しく書き記しているが、本稿はひとまずここで筆を措く。

1962年6月、米国マサチューセッツ州ノーフォーク郡ミルトンにて永眠。

享年84。

 

ハーバート・プールの墓

図版(上から):
・プール兄弟写真(Poole FAMILY Genealogy, http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
・米国海軍戦艦オレゴン号(オレゴン (戦艦) - Wikipedia)
・The Japan Times, 19 Oct., 1901
  コンサート
  演奏 マックス・シュルーター
  協演 モリソン夫人(ソプラノ)、プール嬢(ピアノ)、メンデルソン嬢(ピアノ/オルガン)、H. A. プール氏(ヴァイオリン・ヴィオラ)、ロドルフ・シュミット(チェロ)
  パブリックホールにて10月23日(水) 午後9時開演
  プログラム
  1.カルテット モーツァルト「変ホ長調」よりピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ―アレグロ―アンダンテ―アレグレッ
  2.歌唱 「いらだち」シューベルト
  3.ソナタ ヘンデル「ヘ長調」より ヴィオリン、ピアノ
  4.ヴァイオリン二重奏 ゴダール 牧歌―悲哀―頼りなき―深夜―セレナーデ
  5.ヴァイオリン協奏曲「ニ短調」より 古き時代、序章、アンダンテ モデラート、レチタティーヴォとカデンツァ―アダージオ ベリジオゾ
  6. 歌唱 a. 「君を愛す」グリーグ b. 「デーモン」 マックス・シュタンゲ
  7. 三重奏 ヴァイオリン、オルガン、ピアノ
  8.ヴァイオリン独奏 a. 「最初の悲しみ」ゴダール b. 「ハンガリー舞曲」オンドジーチェク
  入場料 1円 予約席 2円
  モートリー商会(横浜61番地)にて発売中
  1901年 10月19日 横浜
・The Japan Times, April 1, 1908   
  予告 ベートーベン ソサエティ
  委員会 A. J. ユンケル(会長)、E. C. デイヴィス A. リヒター、W. S. アチャーソン H. A. プール、E. サリンジャー(名誉事務局長兼財務担当)
  今シーズン初のコンサートはパブリックホールにて4月18日土曜9時開催
  入会希望者は名誉事務局長(横浜197番地)までお申し込みください
  プログラム
  1. 弦楽五重奏 ハ長調op 163 シューベルト―アレグロ マ ノン トロッポ―ユンケル教授、ハイドリッヒ教授、H. A. プール氏、E. C. デイヴィス氏、ヴァクマイスタ教授
  2.歌唱
  3.ヴァイオリンチェロ独奏 ヴァクマイスタ教授
  4. 歌唱
  5. 弦楽六重奏 変ロ長調 op. 18 ブラームス―アレグロ マ ノン トロッポ―アンダンテ コン モート―スケルツォ アレグロ モルト―ユンケル教授、ハイドリッヒ教授、H. A. プール氏、アチャーソン医師、ヴァクマイスタ教授、E. C. デイヴィス氏
  1908年 3月31日
・ハーバート・プール墓石写真(https://www.findagrave.com/memorial/168232728/herbert-armstrong-poole)

参考資料
Poole FAMILY Genealogy, www.antonymaitland.com/poole001f.htm

 

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