On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■ドイツ帝国海軍病院起工式

2019-03-30 | ある日、ブラフで

1858(安政5)年、日米修好通商条約が結ばれると、オランダ、ロシア、英国、フランスもこれに続き、欧米の主要国と日本の間に貿易の道が開かれた。

いわゆる安政五カ国条約である。

それに遅れること2年余り、1861年1月、プロイセンから派遣されたオイレンブルク使節団により日本は同国とも修好通商条約を締結する。

しかし海運力に劣るプロイセンは、対日貿易において影の薄い存在であった。

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それから約5年。

1866年頃、プロイセンの軍艦や商船の東アジアへの進出がようやく活発化の兆しを見せる。

それに伴い乗組員のための医療施設が必要となった。

当時プロイセンの船員が健康を害した際には、英国、フランス、オランダなど日本の主要交易国が設立した病院で治療を受けていたが、1869年、プロイセン政府は横浜にドイツ病院を建設する意向を固めた。

1871年に誕生したドイツ帝国もその方針を引き継いだ。

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当初、病院建設用地はブラフ(山手町)152、153番地であったが、1873年10月、ドイツ公使マックス・フォン・ブラントは、より広い土地と交換するよう外務省に要望して認められた。

病院は山手公園に続く高台に位置するブラフ40、41番地に建てられることになったのである。

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設計者兼請負人として選ばれたのは、1872年10月横浜に建築事務所を開設したフランス人建築家レスカス氏。

1874年7月から設計図と仕様書作成にあたり、これらは承認を得るためにドイツ本国に送付された。

同年末には、病院建設のためドイツ帝国政府から173,250マルクの補助金が下りることが決定する。

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同じ頃レスカス氏はフランス領事館の建設にも関わっていたが、こちらは資金面で折り合いがつかず実現しなかった。

1875年12月から半年間のフランスへの一時帰国を経て再び横浜居留地61番地で建築家としての仕事を再開する。

(1877年1月2日には居留地84番地に移転)

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1876年10月1日、駐日ドイツ公使とフランス人建築家レスカス氏との間で正式に建設請負契約が結ばれた。

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そして1876(明治9)年12月30日(土)、いよいよ今日はドイツ帝国海軍病院の起工式である。

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午後3時、ドイツ領事ザッペ氏とその職員、およびドイツ軍艦ヴィネタ号と同艦の楽隊及び船員約30名と、招待客である居留地の紳士淑女等を含めて総勢約100名が式場に顔を揃えた。

花で美しく飾られた三角形の台が並び、各々その頂点から鎖で灰色の礎石が吊り下げられている。

礎石には文言を記した錫のプレートが接合されていた。

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式典が開始されると初めにヴィネタ号の艦長が将校らの手を借りつつ最初の礎石を設置し、モルタルが流し込まれた。

ザッペ領事もこの作業に加わり、続いて式辞を述べた。

一同はその後、次の礎石へと赴き、今度はザッペ領事がエヴァーズ夫人とヴィネタ号将校らの手を借りて設置。

式典の間、楽隊によりドイツの楽曲がいくつか演奏された。

 

 

設計図によると、病院は主に二つの建物から成る。

そのほかに離れがいくつかあり、裏手のいくぶん離れた場所に疱瘡患者用の木造の建物がある。

これらはすべて頑丈な塀に囲まれている。

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外壁は、国内最高の建築用石材を産出する伊豆の大採石所から調達された高品質な、灰色がかった青色の石材と、東京から取り寄せられたレンガ用いた三層のケイ酸塩塗装が用いられる。

摩耗しにくいだけでなく、見た目にも美しい造りである。

屋根瓦には本村にあるジェラールの工場の製品が選ばれた。

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主要な二棟は3つの部分に分けられる。

正面部分の下の階には厨房、倉庫、衣類庫、貯蔵庫等、上の階は守衛用のアパートと読書室から成る。

大病棟の部分は奥行き62フィート、幅27フィート、天井高20フィートで20床収用できる。

この大部屋の一番端にはいくつか個室があり、各々にバスルームが備わっている。

建物の間は40フィート離れていて、2本の通路で行き来する。

建物の後部には円形のベランダがしつらえられる予定である。

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換気には最新の発明による仕組みが取り入れられる。

病棟の床は地面から5フィートの高さにしつらえられ、その下にも床板が巡らされ、2枚の床板の間の数インチの空間があり、必要に応じて空気が流通するようになっている。

そのため病室の床の湿気を極限まで抑えて保つことができる。

壁もまた床と同様に2重になっており、夏、涼しいだけでなく、壁が分割されていることから真冬でも外からの湿気を遮断することができる。

各々の部屋の基礎の周辺と天井には、穴の開いた亜鉛のシートが設置され、必要に応じて開閉できる。

空気は二つの地上階の間を通り、壁の間を上昇して各室に入り、天井に張られた穴あき亜鉛を抜けて最終的には屋根から排出される。

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起工式から約1年半後の1878年6月1日、ドイツ帝国海軍病院は晴れて開設の日を迎える。

当初、設計者兼請負人であるレスカス氏は、1877年内に完成もしくは開業可能な状態に達するとの見通しと述べていたというが、工期が大幅に遅れた理由は不明である。

 

図版:
・(トップ)ドイツ海軍病院建設当時のドイツ語紙と思われるが詳細は不明(筆者蔵)
・手彩色絵葉書(筆者蔵)

参考資料:
・London Evening Standard, April 29, 1869
・Todmorden & District News, Dec. 25, 1874
・The Japan Gazette, Oct. 2, 1876
・The Japan Gazette, Jan. 11, 1877
・『横浜独逸国海軍病院地所交換地券書換請求』(国立公文書館アジア歴史資料センターB12083303500)
・『オイレンブルク日本遠征記』(雄松堂書店、1969) 

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