On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■犯行の動機(ビール工場での騒動・後編)

2018-08-25 | ある日、ブラフで

ここで被告であるアベイ氏が、日本人を殴ったことについて話したいと発言したため、ホール副領事は次のように審議事項を読み上げ、認否を被告に確認した。

§

被告は今月8日ブラフ123番地においてイシイ チョージロウを襲い、こぶしで彼の顔をなぐり、敷地内を追いまわし、ピストルで脅した。

§

これに対し被告は、日本人の顔を殴ったことと敷地内を追いまわしたことは認めたが、ピストルで脅したことは否定した。

§

続いてイシイ チョージロウによる証言。

§

私はビール工場に雇われています。

9日(筆者注:原文ママ)のことだったと思いますが、午後4時過ぎに工場の桶屋(クーパレッジ)にいたところ被告がやってきていきなり私の顔を殴ったのです。

私はすぐに上長にこのことを報告しに行こうとしましたが、被告はまたもやってきて私を殴りました。

そしてピストルを出して私を狙いましたので逃げ出しました。

それ以上のことは何もわかりません。

§

イシイは被告に向かって言った。

最初にこぶしで殴られたとき、口のなかが切れました。

歯肉も切れました。

ピストルがどのようなものだったかはわかりません。

すぐに逃げ出しましたから。

そうしたらあなたはピストルを取り出したので、身の危険を感じて走って逃げました。

§

ワット技師が再度呼び出され、被告に向かって証言した。

日本人を襲った時、あなたが酔っていたかは分かりません。

しかし相当に興奮していました。

しかし私に対して失礼な態度はありませんでした。

§

被告が発言の許しを求め、宣誓したいと言った。

§

ホール副領事は次のように述べた。

2件の襲撃は明らかに証明された。

ヘッケルト氏に対する比較的暴力程度の低い襲撃と、日本人に対する繰り返しの襲撃、後者はリボルバーかそれに類する武器によるものでさらに悪質である。

被告が自らの罪を軽減する目的で発言したいことがあれば、何でも言ってよい。

§

それに対してアベイ氏は、日本人に対して行った襲撃の罪のみを認めます、と答えた。

§

ヘッケルト氏の肩に手をかけて押したという襲撃については、反対尋問においても証明されており、揺るぎない事実と認められる、とホール副領事。

§

アベイ氏は、自分が本件において極めて不利な扱いを受けているので、事の起こりから話をさせていただくと前置きして語り始めた。

§

8日の4時から5時の間、ビール工場の隣にある自宅の室内に妻と共に座っていました。

おかしな声で笑ったり、話をしたりしているのが聞こえたので窓に近づいてみたところ、工場の倉庫の裏手に男が4人ほどいて、そのうちの一人は裸でした。

畜生にも等しい男たちから5、6メートルしか離れていないところで私の2人の子供達が庭遊びをしていました。

§

以前にも工場の従業員が騒ぎを起こしたことがありましたが、その時は警官を呼んで注意してもらいました。

倉庫が立ち並ぶ前はそれで事足りていました。

しかし倉庫が建ってからは、その裏手が従業員のたまり場となり、手の空いた男たちがぶらぶらするようになりました。

§

そこでは14年間日本に住んでいる私でも一度も見たことがない、誰も想像すらできないようなおぞましい光景が日常的に私の子供たちの前で繰り広げられていました。

兄弟のうちの幼い方はまだ10歳です。

§

事件当日、私は今度こそそいつを捕まえてやると妻に言って、テーブルの上にあった武器を持って出ていきました。

とはいえ、そのピストルは錆びついていて、おまけに輪胴のついているシリンダーと呼ばれる重要な部品が取れてなくなっていました。

§

ヘッケルト氏はそのピストルで脅されたと証言しましたが、私はそれを突き付けたわけではなく、ポケットから出して別のポケットへ入れ直しただけです。

兵役の経験もあるヘッケルト氏には、そんなものは脅しにもならないことは絶対にわかっていたはずです。

私が持っていたのは、武器とも言えない役立たずのピストルで、子どもたちにおぞましいものを見せることのないよう従業員を脅すのに使おうとしただけです。

§

被告はさらに次のように訴えた。

私が苦情を訴えた時にヘッケルト氏がそれを理解していれば、彼の対応により男たちはとらえられて罰せられたはずである。

私は、ヘッケルト氏に強く訴えようとして肩に手を置いたに過ぎない。

ヘッケルト氏は私に注意を払わず、紳士でありながら、従業員を指導しなかったという点で、彼らと同じくらい悪質である。

私が工場の敷地に入った時、誰かを傷つけようとか襲おうという意図は全くなかった。

ただ裸の男を捕まえたかっただけである。

§

アベイ氏の発言が終わると、ホール副領事は次のように判決を言い渡した。

§

被告が迷惑行為を受けて苦情を訴え、ビール工場の責任者に強く抗議したことは極めて当然である。

§

被告は14か月間も自宅で病に臥せっていたのであり、つい最近マラリア熱から回復したばかりである。

おそらくそのためにより興奮しやすくなっていたのであろう。

被告は、ビール工場の建物の建設工事が病気の原因と考えていたので、転居を考えていた。

工場との間に面倒をおこす意図はなかった。

§

もし被告人の言葉が正しければ、従業員らの行為についてビール工場の責任者に強く抗議するのは正当な行為である。

もし彼が節度ある態度でそうしたのであれば、受け入れられたことは間違いない。

しかし実際のところ、彼が申し述べた通りであったとしても、武器を持って飛び出したことを正当化することはできない。

§

幸いにも武器に弾は込められていなかったようで、弾を発射しようとした形跡もないが、そうでなければ、この事件は今行われているような即決裁判ではなく、重罪裁判に付されたであろう。

被告がヘッケルト氏の肩に手をかけ、罵詈雑言を浴びせ、日本人1名を殴り、ピストルで脅したことは証明された。

被告が怒りに我を忘れていた状況を勘案し、酌量を加えても、ヘッケルト氏襲撃に対し、被告を5ドルの罰金または禁錮3日間とする。

§

日本人に対する襲撃はさらに重大な事件である。

すなわち被告は、被告の怒りを招いた男ではない、無実の男を2度も襲ったばかりでなく、ピストルで脅した。

この犯罪について、被告を25ドルの罰金もしくは禁錮14日間とする。

§

判決を聞いてアベイ氏は次のように述べた。

私は監獄に入るしかありません。

罰金は払えませんから。

よく覚えておいていただきたいのですが、(分解された武器の一部を手に取り)これはリボルバーではありません。

私が何か月にもわたって心底腹に据えかねていたことと、私のもっていたピストルがピストルではなく、ピストルの一部であったことを考慮していただきたいのです。

§

ホール副領事は被告がいずれのケースにおいても罰を受け入れなければならないと答えた。

§

閣下、私は不服を申し立てることはできないのでしょうか、というアベイ氏の問いかけに答えが与えられることなく裁判は閉廷した。

§

その後、被告は罰金を支払ったと新聞は伝えている。

§

この事件の後、ホール副領事は、上海の高等法院判事補代理に転任した。

1889年には函館領事に昇任し、横浜、長崎、神戸において領事を務めた。

帰国したのは1914年。

1921年にロンドンで死去したが、遺言によりその遺骨は夫人の眠る横浜外国人墓地に埋葬された。

§

ジャパン・ブルワリーは、事件の起きた1888年に「キリンビール」を発売。

新聞広告には「…先般横浜山手の居留地に起業したるジャパン・ブルウアリー会社は其の道に賢きヘッカルト氏を独逸より招聘し本家本元の製法に基づき…」とヘッケルト氏の名を挙げて品質をアピールし、これが日本の消費者に受け入れられ成功を収めた。

§

品質において一切の妥協を許さなかったというヘッケルト氏は1899年4月まで同工場に勤務。

翌月には夫人を伴って船上の人となり、同年12月、懐かしき故国でその生涯を終えた。

§

アベイ氏はその後、1890年頃から日本郵船会社に、1903年頃から競売会社であるホール商会で働いた。

居留地の住所録であるディレクトリを見ると、事件当時のブラフ122番地に1893年まで居住し、その後、翌年版では66番地、1895年版は3番地、1911年版では45番地とブラフ内を転々としている。

§

1913年11月、自宅(ブラフ45番地B)にて病没、横浜外国人墓地に葬られた。

訃報記事は、日本の電信技術発展における功績をたたえるとともに、日本の花や希少植物に関する深い知識や文才にも触れて、古き横浜を知る老人の死を惜しんでいる。

埋葬に立ち会った人々の中には、外国人のほか、日本人紳士の姿も多くあったという。

 

図版:リチャード・アベイ氏肖像写真(横浜開港資料館 蔵)

参考資料:
The Japan Weekly Mail, March 17, 1888(裁判についての記述はこの新聞記事によるものだが、内容を一部割愛した)
The Japan Weekly Mail, May 6, 1899
The Kobe Weekly Chronicle, Dec. 20, 1899
The Japan Weekly Mail, Nov. 22, 1913
・『横浜毎日新聞』(明治21年5月27日)
・『麒麟麦酒株式会社五十年史』(麒麟麦酒株式会社五十年史編集委員会、1957)
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』 (有隣堂、2012)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)
・キリン株式会社ウェブサイト(https://www.kirin.co.jp/company/history/)

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