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1892年(明治25年)10月18日火曜日、フエリス和英女学校の講堂ヴァン・スカイック・ホールの軒には赤いランタンが吊り下げられ、ホールは色とりどりの花や竹で趣深く飾られていた。
今日ここで、33年間にわたる日本での働きを終えようとするヘボン夫妻と、その帰国を惜しむ大勢の人々が、互いに別れの言葉を交わすのである。
会場には、ヘボン医師が長老を務めるユニオン・チャーチの関係者や横浜在住の外国人たち、この集いにふさわしい賓客がすでに顔を見せていた。
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居留地の古くからの住民であるグリフィン氏とその令嬢による歌とピアノで会は幕を開けた。
幾人かのはじめの言葉に続き、居留地を代表する実業家で、信心深い人柄でも知られるウィルキン氏が前に立った。
夫妻の最も古い友人の一人であり、2年前、夫妻の金婚式の際に心のこもった祝いの言葉を贈ったのも彼であった。
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みなさん、今宵私たちはある共通の思いに駆られてここに集いました。
私たちは各々異なる国からやってきました。
それぞれ異なる人生を歩み、信教も人さまざまです。
しかしながら私たち全員がある一つの感情を共有しているのです。
称賛、尊敬、愛情、敬意そして悲しみ、それらが混ざり合った感情。
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故郷を離れて住まうことは、東の国で生活する私たちにとって、戸惑いの一つです。
ある人はほんの2、3年、またある人はより長きにわたり滞在する―いずれにせよいつかは別の場所に移っていきます。
この地で人生を終えようとする人はほとんどいないでしょう。
みな、いつかは故郷に戻ろうと思っているのです。
本日の我らが主賓も例外ではありません。
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ご夫妻はこれまでの33年間のほとんどをこの国で過ごし、人生の最高の部分をこの国のために捧げ、積もる年月の重みがのしかからんとするまで戦い続け、絶え間なく求められてきた務めをついに解かれ、安らぎの時を得たのです。
私たちは実に多くをお二人に負ってきました。
ここに留まっていただけたらどんなに喜ばしいことか。
しかしお二人の故国への強い思いもまた理解できます。
いずこにあろうと、お二人は命ある限りなすべきことを見出されるであろうことを私たちは知っています。
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半世紀以上にわたる外国での意欲的な労働は決して低く評価されるものではありません。
今から50年も前、中国において伝道されたこと、それは決して楽なものではありませんでした。
そしてここにいる多くのみなさんにとって、33年前のこの国のことなど思い描くことすら困難でしょう。
周囲は知らぬ人ばかり、外国人居留民のなかにすら心の通う人はほとんどおらず、そして日本人はといえば猜疑心や敵意さえ抱いている、そのような中でこの地に上陸するということは、生易しい冒険ではありませんでした。
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行く手は常に阻まれ、住宅も食物も快適とは言えず、言葉も通じない。
お二人はまず数年間は本来の任務を離れて忍耐強く働かなくては、自らの真の使命に取り組むことはできないと思わざるを得ませんでした。
しかしながらお二人は踏みこたえたのです。
そして素晴らしい足跡を残し、素晴らしい記念碑を打ち立てました。
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私が常に「ご夫妻」と申し上げるのは、お二人を切り離して語ることができないからです。
夫人は日本人や居留地の若い外国人と共に現場で働きました。
しかし良き妻というものは、そのような実際の働き以上に、夫の炎を燃やす秘められた油の役割を果たします。
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お二人が私たちに残してくれたもの、それは混沌のうちに始まった7、8年にもわたる忍耐強い努力の末についに実を結び、商人、学生そしてもちろんミッションに携わる人々に、はかり知れない恩恵をもたらしたもの、すなわち辞書です。
そしてまた15年間にわたって何百、何千人という日本人に対して内科・外科医療を無償で施す日々を積み重ね、そのことにより、この国の人びとは西洋科学の真価を認識するに至りました。
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夫妻は神のため任務を果たすためにペンを執り、声を上げ、栄光のゴスペルの光で暗闇に沈む多くの心を照らしました。
主はご夫妻を祝福し、そのことを知る光栄に私たちもまた与ったのです。
そして今、わが親愛なる友よ、さようなら。
主はお二人と共にあります。
私たちがこの世においてまみえることは二度とないでしょう。
残された日々に健康と光と平和がありますように。
お二人の信の願いを見出せますように。
大望が成就されますように。
そしてお二人のこれまでの人生の思い出を心に刻むことによって、私たちもまた崇高な目標を掲げ、身を慎み、この世にあることの価値をより深く感謝することができますように。
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ウィルキン氏の言葉に人々は心を揺り動かされ、喝采をおくった。
やがてジェームズ・トループ英国領事が、ヘボン医師との出会いについて語り始めた。
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29年前、私はこの国にやってきました。
英国領事館員の中で最年少の若者であった私に対して、ヘボン医師が与えてくれた親切な助言は、今も忘れることはできません。
当時日本語学習は困難を極めました。
辞書にも文法にも頼ることができませんでした。
言語学上の助言を求めてやってきた人々に対するのと同様に、ヘボン医師は私にも助言を授けてくれました。
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当時の政治状況についての問題についても思い出されます。
ウィルキン氏はヘボン医師がこの国に来てまだ日も浅いころのことについて語られました。
西欧勢と日本の間に生じた紛争についてです。
西欧勢は、日本に大砲を向けることで、自らの力と断固たる態度を表明しました。
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このような混乱のさなか、ヘボン医師は着実に言語学の研究をつづけ、同時に彼の周囲で苦しむ人々に西洋医科学の恩恵を与え続けました。
ヘボン医師のふるまいは、外国人たちが遂行しようとしていた政策とはきわめて対照的でした。
私たちは西洋の力を見せつけようとしましたが、ヘボン医師は自らの行いを以て文明開化によってもたらされるものの確かな証を示しました。
そしてそれこそが西洋が行うべきことだったのです。
胸中に一点の曇りもなく抱いた崇高な道徳的理想を、医師は自ら示して見せたのです。
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数年間日本を離れたその間でさえ、慈善活動に励んでいたと聞きました。
日本に戻られた時、以前の知り合いの顔ぶれは一新されていました。
みな多かれ少なかれ何らかのつきあいで互いに顔見知りの間柄でしたが、ヘボン医師と気高い令夫人は今まさにその人々に別れを告げようとしています。
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私たちはみな、この国を離れる日がいつか来ると思い、その日を楽しみにしています。
それは同時に、古い友人たちとの辛い別れを意味します。
私たち全員がヘボン夫妻との別れを惜しみます。
私にとってそれは大いなる悲しみですらあります。
願わくは、ヘボン医師とその夫人の、全能の神の平和のもとに導かれるまでに残された日々が、平安と幸福のうちにあらんことを。
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惜しみない喝采に続き、コミュニティを代表して別れの言葉を述べたのは、長年の住人のひとり、フレイザー氏であった。
彼は、夫妻が居留地のごく初期のころから、かけがえのない役割を果たしていたこと、そして帰国にあたって大きな空白が残されること、みながその出発を心から惜しんでことを伝え、夫妻がこの後長きにわたり、全き幸福に恵まれることを祈っていると述べて締めくくった。
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ライス嬢による「聖なる都」の歌に続いて、J・H・バラ師が自作の別れの詩を朗読した。
次にトゥイング医師が、ヘボン医師の驚くべき誠実かつ忠実かつ謙虚な生き方、そして学者として、医者として、また伝道師としての完璧さに常に心打たれていたこと、そしてこれらすべての点を通して、ヘボン医師は、米国と医学、そして学問に更なる輝きを与えたと讃えた。
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ユニオン・チャーチのミーチャム牧師の挨拶は手短なものであったが、その中で彼はヘボン医師の働きは夫人の支えがあってこそのものであり、彼女こそは教養豊かで、広い心を持ち、献身的に夫に尽くす、妻たる者の手本そのものであると称賛した。
そして老いた夫妻を励ますように、英国の詩人ロバート・ブラウニングの有名な詩の一節を二人に奉げた。
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我と共に老いよ
最良のものは未だ来たらず
人生の始まりは
その終わりのためにつくられたり
我らの時間は神のみ手の内にあり
神は仰せになる「我は全体を計った
若さが見せるものはその半分に過ぎない、
神を信じて全てを見よ、恐れることなかれ」
(次回に続く)
図版:
・写真(トップ) ジェームス・カーティス・ヘボン(筆者蔵)
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, October 22, 1892
・W. E.グリフィス 高谷道男監修『ヘボン -同時代人の見た-』(教文館、1991)