On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■「第一等の金製賞牌を得たるは・・・」ヴィクトリア・パブリックスクール1889年夏の表彰式

2022-10-30 | ある日、ブラフで

1887年10月、ブラフ(山手町)179番地にひとつの男子校が誕生した。

横浜居留地とその近隣に住む英国人たちを長年にわたって悩ませてきた子弟の教育問題の解決策として設立されたこの学校は、彼らの故国の君主の名を冠してヴィクトリア・パブリックスクールと名づけられた。

§

初代校長として迎えられたのはチャールズ・ヒントン氏。

オックスフォード大学出身の高名な英国人数学者である。

この校長のもと、助教のスイス人ファーデル氏のほかにヒントン夫人までが協力して、英文法や英作文、数学、地理、歴史をはじめ、ラテン語、フランス語のほか簿記などの実用的な科目にいたるまで、本国に遜色のない教育を生徒らに提供した。

§

当然のことながらこれらの授業は英語で行われた。

とはいえ生徒名簿をのぞくとスミスやアンダーソンといった英国系の名前だけではなく、ドイツ系、フランス系のほか中国・韓国など英語を母国語としない国の出身者と思しき苗字が見られる。

そしてそのなかには日本人の名もいくつか混じっていた。

§

開校の翌年1888年、ひとりの日本人少年が入学してきた。

この新入生、冬学期の英語日本語試験の合計で最高点を獲得して表彰される。

さらに1889年7月2日に行われた夏学期の終業式では、欧米人の級友らを抑えて堂々と首席をとり、またしても表彰されたのである。

§

ヴィクトリア・パブリックスクールの行事は地元の英文紙で報じられるのが常であるが、このときは日本の新聞も誇らしげに次のような記事を掲載した。

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(前略)およそ午後五時ごろなりけん、英公使フレーザー氏臨席有りて式檀中央の椅子へつき、第一に同校評議員の一人ウォルター氏の演辞、次に校長ヒントン氏学生の現状及びこれに対する希望を述べ、公使を初め衆客来場の好意を謝せり。

終わりて褒章授与に掛り、一々フレーザー氏より賞品を授与したる生徒の数は都合十六人にして、第一等の金製賞牌を得たるは田中銀之助氏、第二等の銀製賞牌を得しは米人ルーミス氏、(以下略)

(筆者が原本の旧字を改め、句読点を補った)

§

田中銀之助は、幕末から明治にかけて生糸や洋銀の相場で財を成し、「天下の糸平」と呼ばれた田中平八の孫にあたる。

学習院と共立学校で教育を受けた後、15歳のときに英国留学準備のためにヴィクトリア・パブリックスクールに入学した。

§

首席の栄誉に輝いた少年は、この時短いスピーチを行った。

英字新聞がその内容を伝えている。

§

校長先生からこの機会に何か話をするようにといわれました。

英語をうまくはなすことができないので最初はお断りしたのですが、お言葉に従うことにしました。

もちろん、それほど時間を取らないつもりですので、お耳を貸していただければ幸いです。

僕のつたない英語と発音の悪さをご容赦くださるようお願いしておきます。

§

今日はヴィクトリア・パブリックスクールの表彰式です。

僕たちの日々の努力の結果が発表されて、それが報いられるということです。

それは僕たちにとって良いことのはずですが、表彰されない生徒にとってはおそらくそれほど良い日とはいえないでしょう。

とはいえ多くの生徒が無事試験に合格するでしょうから、その喜びが不幸をカバーしてくれるでしょう。

その意味では僕たち全員が幸福を感じるはずです。

§

表彰されることは、束の間の喜びとか、ちょっとした名誉というだけではありません。

僕たちの将来の地歩に大きく影響します。

なぜなら僕たち若者は将来の繁栄の基礎を築いているため、そのことは大人になってからの成功に密接に結びついています。

§

そして僕たちは若いうちの時間のほとんどを学校で過ごしているのですから、学校は僕たちの運命を作っているともいえるでしょう。

すべての試験は、僕たちを大望の実現に近付いていくためのステップということになります。

§

今日表彰された皆さんに心からお祝い申し上げます。

なぜなら皆さんは期待の実現に向けて立派に一歩前進されたのですから。

この幸福は何によってもたらされたのでしょうか?

もちろん、皆さんの日々の勤勉さと才能によるところが大きいと思いますが、一方で先生の努力のたまものともいえるでしょう。

§

種が良いものであっても、良い庭師にきちんと世話をしてもらわないと素晴らしい実を結ぶことはできません。

学校の生徒もまた同じです。

英雄になる資質を持った生徒たちも、良い指導者を見出せず、適切な教育を受けることができなければ、彼らの未来は台無しになってしまいます。

§

幸いなことに、僕たちの学校はその点では何らの不足もありません。

先生は僕たちの幸福に細心の注意を払ってくださっているので、僕たちが成功しなかった場合、それは完全に僕たち自身の責任ということになります。

僕たちの将来を素晴らしいものにする責任は僕たちにこそあるのです。

だから僕たちはこのことを胸に刻んで力いっぱい学業に励みます。

§

銀之助がスピーチを終えると会場は拍手に包まれた。

§

翌年、彼はヴィクトリア・パブリックスクールを去り、渡英して名門パブリックスクールであるリーズ校に入学する。

1893年にはケンブリッジ大学に入学。

法学と経済学を修め、1897年に日本に帰国する。

その後、田中銀行に入社。

銀行のほか北海道炭鉱汽船、田中礦業の経営に辣腕をふるうこととなる。

§

1899年、銀之助は土方久元伯爵の孫娘・綾子を妻に迎える。

その頃、ヴィクトリア・パブリックスクールで彼と机を並べた英国人の学友エドワード・クラークは慶應義塾の英語教師となっていた。

彼もまたヴィクトリア・パブリックスクール卒業後ケンブリッジ大学で学んだ秀才で、英国で学業を修めたのち日本に戻ってきていたのである。

§

エドワードは教え子である慶應の学生たちに自分が大学で親しんだスポーツであるラグビーを伝えた。

そしてチームを養成するにあたり、同じく英国でラグビーをプレイしていた旧友・銀之助に手助けを求めたのである。

§

後年、田中銀之助とE. B. クラークの名は「日本ラグビーの父」として日本ラグビー史に記録されることとなる。

二人が初めて出会い、友情を育んだ場がヴィクトリア・パブリックスクールという横浜の学校であることも知られているが、そこで銀之助がみごと首席として表彰されたことがあったという小さなエピソードをひとつ付け加えておきたい。

 

図版(上から)
・田中銀之助肖像写真(Wikipediaより転載)
・創部期の慶應ラグビーチーム写真、中央左クラーク、右が田中銀之助(池口康雄『近代ラグビー百年』(1961年、ベースボールマガジン社)所収)

参考資料
・池口康雄『近代ラグビー百年』(1961年、ベースボールマガジン社)
・『大日本人物名鑑』(大正十年、ルーブル舎出版部)
・『横濱毎日新聞』(1889年7月4日)
The Japan Weekly Mail, Dec., 22, 1888.
The Japan Weekly Mail, July, 6, 1889.
The Japan Weekly Mail, Jan., 28, 1899.
The Book of Matriculations and Degrees University of Cambridge 1851―1900
Alumni Cantabrigienses
Transactions and Proceedings of the Japan Society, London, 1893

 

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