On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■横浜に生まれ南アフリカで生涯を閉じたアメリカ人、K. ヴァン・R. スミス ~プール嬢のアルバムから

2024-06-30 | ブラフ・アルバム

1888(明治21)年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの5回目、今回はエリノアが遺した写真に度々登場するK. ヴァン・R. スミスを取り上げます。

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冒頭の写真で、花のような乙女たちに囲まれて自らを草にでも見立てたのか、地べたに寝転がってポーズをとっているのがスミス君。

袖の膨らんだおしゃれなスーツ姿で右端に収まっているのがエリノア嬢。

「1889年10月6日、本牧にて」と手書きのメモがあるので当時19歳。

スミス君は彼女より二つ年下ですが、すでに堂々たる体躯の青年です。

メモの一番下の1行 "Kiliaen Van Rensselaer Smith" が彼のフルネーム。

普段は「ヴァン」と呼ばれていたようです。

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外国人居留地の気の合う若者たちが集まって本牧までサイクリング。

いずれの顔にも笑みがあふれ、青春真っ盛りといった一コマ。

陽気な歌声でも聞こえてきそうです。


本牧にて。前列右がヴァン、左がエリノアの兄バート、後列の左から4人目が弟チェスター、2列の左から3人目がエリノア。

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エリノアたちプール家の兄弟とヴァン・スミスの関わりは、彼らの父の代にさかのぼります。

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ヴァンの父、ナサニエル F. スミスはニューヨーク州ロングアイランドの都市スミスタウン出身。

来日後、製茶貿易の会社で働いていましたが、1868年に同僚のコルゲート・ベーカーとともに独立してスミス・ベーカー商会を起こしました。

そして1888年、茶の輸入商社に勤めていたオーティス A. プールを社員としてアメリカから呼び寄せたのです。

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さて、スミス家の三男ヴァンは居留地生まれのヨコハマボーイ。

7歳になると、ブラフ(山手町)179番地に開校したばかりのヴィクトリア・パブリックスクールに入り、ブラフ1番地の自宅から通学することになります。

来日してブラフ89番地に居を構えたプール家の兄弟たちも間もなく同校に入学。

3人は少年時代の約6年間、ほぼ毎日顔を合わせて過ごしたのです。

しかしその舞台となったヴィクトリア・パブリックスクールは、実際には慢性的な経営難にあえいでおり、1894年ついに閉校に至ります。

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学び舎を失ったヴァンはブラフにあったウィンストンスクールに転校し、15歳の時に父の会社であるスミス・ベーカー商会に入社。

その後、アメリカの石油会社であるスタンダード・オイル社の横浜支社に転職します。

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一方、プール兄弟は家庭教師についてフランス語や日本語のほかタイプや速記といった実務を学んだ後、バートはアメリカン・トレーディングカンパニーの速記者を経て、ヴァンと同じスタンダード・オイルに籍を置きます。

弟のチェスターはドッドウェル・カンパニーというイギリスの商社に勤め、支配人を務めるまでになりました。

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こちらの写真は場所も年代も分かりませんが、やっぱり一人だけ寝転んでいるヴァン君。

お得意のポーズだったのでしょうか。

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ヴァンはアメリカへの帰国など何度か海外を旅行しますが、ブラフ1番地から離れることなく、横浜のスタンダード・オイル社に勤務していました。

スポーツマンで、フットボールやテニスの試合に参加した記録が当時の新聞に残されています。

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次の2枚の写真も撮影場所・年代とも不明です。

最初の1枚にはバートが、2枚目にはチェスターが写っているので、二人が交代で撮影したのかもしれません。

ヴァンとチェスターは生涯を通しての親友で、チェスターが結婚した際にはヴァンが花婿の付添人を務めました。

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1922年、ヴァンはロンドンの教会でヘレン・バトラーと華燭の典を挙げます。

40歳と遅い結婚でしたが、花嫁は23歳、二人は日本に戻り横浜山手の父のもとで新婚生活をスタートさせました。

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翌1923年3月12日、ヴァンとヘレンの間に女児が誕生し、モオリーンと名づけられました。

そして同じ年の9月1日、大震災が横浜を襲います。

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後年、チェスターが記した関東大震災の体験記「古き横浜の壊滅」にはスミス一家についての記述もあります。

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その日、いつもの通り出勤していたチェスターは、ランチを取りにオフィスを出る寸前に大きな揺れに見舞われました。

建物は崩壊しましたが、辛くも脱出して一命をとりとめます。

翌日、一面の廃墟となったブラフを歩いていたとき、現在の代官坂のあたりでヴァンの父に出会います。

息子一家の安否を尋ねられると、彼はもうろうとした様子でしたが「大丈夫」と答えました。

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後でわかったことですが、実際には、ヴァンの妻と幼い娘は落ちてきた屋根瓦で負傷していました。

スタンダード・オイルの事務所にいたヴァンは幸いなことに怪我もなく、家族と合流してエンプレス・オブ・カナダ号に乗り、神戸へと避難します。

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ヴァンの父、ナサニエル・スミスはその後、娘を頼ってイギリスに渡り、そこで生涯を閉じます。

享年84。

アメリカから日本に来て会社を起こし、居留地の名士として人望を集め、製茶輸出の発達等の功により日本政府から勲四等に叙勲され、歴史に残る大地震を体験してイギリスに没す。

波乱の人生と言えるでしょう。

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スタンダード・オイル社は東京の帝国ホテルに事務所を移し、ヴァンはそこで勤めを続けました。

震災の翌年には二女に恵まれます。

その後何度か会社の住所は変わりますが、いずれも東京内で、ヴァン一家がどこに住んでいたのかは不明です。

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1929年2月21日付のロンドン&チャイナ エクスプレスに、2月18日ロンドンに到着した日本郵船熱田丸の搭乗者としてヴァン・スミス夫妻の名前が記されています。

横浜ではなく門司から乗船したようです。

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残念ながら夫妻のその後の足取りはつかめていません。

家系図サイトAncestryによるとヴァンの終焉の地は南アフリカ・ヨハネスブルク。

1968年8月2日、87年間の生涯でした。

旅券申請書に貼られたヴァン・スミス38歳当時の写真。身長約180cm、髪の色は茶、目はグレーと記されている。(United States Passport Applications, 1919)

図版
・最後の1枚を除いてすべアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料
Poole FAMILY Genealogy, (http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
・O. M. プール『古き横浜の壊滅』有隣堂 昭和51年
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
London and China Express, May 25, 1922.
・―, Mar. 15, 1923.
・―, Oct. 30. 1924.
The Japan Weekly Mail, Jan. 21, 1905.
・―, July 20, 1907.
・―, Sep. 14, 1907.
London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1938 for K. V. R. Smith.
・明治期外国人叙勲史料集成_第四巻
・K. Van・R. Smith経歴(https://www.ancestry.com.au)

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