On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■ドイツハウス炎上

2020-12-29 | ある日、ブラフで

ブラフ(山手町)の西側、山手本通に面した25番地に、かつて先端に十字架を戴いた塔があった。

この建物はドイツ人居留民のための教会と学校を兼ねた施設で、ドイツハウスと呼ばれていた。

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O. ミシェル先生はドイツ西部の都市メンデンから妻とともに来日し、1908(明治41)年の秋ごろ横浜のドイツ学校に着任した。

当時は住宅を多少手直しした簡易な校舎で授業を行っていたが、翌年ドイツハウスが完成し、校舎はそちらに移転する。

寄宿舎や体育室も備えた立派なもので、ミシェル先生一家も校舎2階の教員宿舎に移った。

1912(明治元)年には先生の発案により、同じ建物内にドイツ学校附属の幼稚園が開園した。

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1913年3月4日(火曜日)の深夜0時半過ぎ、ミシェル先生は寝室に漂ってきた焦げ臭いにおいに気づき目を覚ました。

驚いてドアを開けると隣室は明るい炎に包まれている。

直ぐに妻子を起こし衣類や小物をかき集めたが、火の勢いはそれ以外の財産を持ち出す猶予を与えなかった。

8歳の息子ヴェルナーは父親のオーバーコートと帽子を洋服ラックから引っ張り出すと一目散に駆け出した。

一家全員が無事避難できたことはまさに不幸中の幸いであった。

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警報が発せられ、間もなく薩摩町消防団第一、第五、第六団が現地に駆け付けた。

蒸気ポンプ車に水道から水を送ろうとしたとき消防士達は異変に気付く。

水が出ないのである。

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不運なことに、水道管修理のため付近は夜10時から翌朝6時まで断水になっていたのだ。

当局に緊急事態発生を通報したものの、蒸気ポンプ車に供給できるだけの水が出るようになるまで1時間半かかった。

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午前2時ごろ、屋根と塔はすでに赤々と燃え上がる炎に包まれていた。

足場、梁、階段、その他の木製の部分は焼け落ち、見る間に一面が火の海となった。

教会の内部がかまどのように燃え盛っている様子が窓越しに見える。

北風に煽られて火花が渦を巻き、建物の周りの木立の枝を巨大な炎が隅から隅までほしいままに嘗め尽くしていった。

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消防隊は近隣住民の救出に方針を転換せざるを得なかった。

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本通りを挟んで真向かいの32-A番地にはアメリカ領事のサモンズ夫妻が暮らしていた。

サモンズ氏は骨董品の収集家であり、家には日本、中国、韓国の貴重な品々が数多く飾られていた。

大切なお宝を炎の餌食にしてなるものかと、夫妻はその日たまたま客として泊まっていた3人の婦人に加え、近隣から駆け付けた友人知人らの手まで借りて大急ぎで荷造りし、そのほとんどを安全な場所に移すことに成功した。

懸念していたとおり火の手は通りを越えて家の正面に迫り、扉と壁面を焦がしたが、消防隊のバケツリレーによる屋根への散水が功を奏し、かろうじて類焼を免れることができた。

そのほかの隣接する家屋もほぼ無事で、出火元の建物のみに被害を食い止められたのは消防隊の手柄といえよう。

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ドイツハウスの破片の燃えさしや火の粉が鷺山とその合間の谷に飛んだが、風が弱かったため深刻な事態を招くことはなかった。

あたり一帯を巻き込む大火災という最悪の事態を逃れたことはほとんど奇跡と思われた。

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夜が明けるころようやく残り火が勢いを失いはじめ、ついに鎮火に至った。

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ドイツハウスに勤務していた日本人の門番が教会から救出できたのは、わずかに一組の祭壇用燭台と聖書、そしてワイマール大公殿下がデザインした絨毯だけであった。

学校からはクラヴィーア(鍵盤楽器)、幼稚園の教材が入った戸棚、教室に飾られていた数枚の写真が救出された。

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出火原因は建物の電気系統のショートとみられたが、確たる証拠はなかったようだ。

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翌日のジャパン・ガゼット紙には、素晴らしい働きを見せた消防隊と、助けの手をさしのべてくれた多くの近隣住民に対するサモンズ氏の謝意が掲載された。

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火事から2日後の3月6日と翌週12日、学校と教会の再建について検討するため、ドイツハウス委員会の会合が開かれた。

参加したのは教会の代表としてシュレーダー牧師、学校評議会のメンバーとしてハイトマン氏、その他にサンドバーグ氏とシュミット-シャーフ氏。

議長を務めたのはドイツ領事のキューネ氏である。

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長い議論の末、ブラフ40番地の旧ドイツ海軍病院に学校と教会を移転する案が定まった。

そして日本政府に土地と建物の貸与を働きかけるため、ドイツ人居留民の総意として総領事館を通してベルリンに要望書を提出することが決議された。

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その年のうちにドイツ学校は旧ドイツ海軍病院の建物に移り、医師の住居として使用されていた建物で授業を再開したのである。

 

図版:いずれも筆者蔵
・手彩色絵葉書(で示した建物がドイツハウス。麦田町方面から撮影されたもの。元のプリントは裏焼きになっている)
・写真(で示した建物がドイツハウス。トップの画像より西側の鷺山方面から撮影したものか)

参考文献:
・『Deutsch Japan-Post』1913年3月8日
・―1913年3月22日
The Japan Gazette, March 4, 1913

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