On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■スプリング・ヴァレー・ブルワリー工場見学記(前編)

2019-08-31 | ある日、ブラフで

1878年10月4日付のジャパン・ガゼット紙に「繁栄を謳歌する企業」と題する記事が掲載された。

寄稿者の名は記されていないが、ブラフ(山手町)123番地のビール醸造所スプリング・ヴァレー・ブルワリーを訪れた人物による工場見学記である。

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当時、スプリング・ヴァレー・ブルワリーはコープランドとウィーガントという二人の外国人が共同で経営していた。

前者が支配人で、後者は醸造担当者である。

しかしコープランドは元醸造技術者であり、ヴィーガンドもまたバヴァリア・ブルワリーという別の醸造所を自ら経営していた。

工場見学記を紹介する前に、この二人の経歴と、ブルワリー設立の経緯を簡単に述べておこう。

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コープランドは1834年、ノルウェー南東部の町アーレンダールに生まれた。

ヨハン・マルティニウス・トーレセンという名を授けられたが、渡米後に改名し、1864年11月、米国人ウィリアム・コープランドとして来日した。

1866年にS.ジェームズ、ウィリアム・ウィルソンと組んで、横浜に乳業と運送業を営む商事組合 S.ジェームズ商会の経営に参画。

品質の良い牛乳を販売して評判になるが翌年には解散してしまう。

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コープランドは渡米前、ドイツ人技師のもとでビール製造について学んだ経験があり、醸造技術を身に付けていた。

そこで当時海外からの輸入に頼っていたビールの国内生産に目を付け、コープランド商会を設立して運送業を営んで資金を貯めると、1869年、満を持してスプリング・ヴァレー・ブルワリー設立に着手。

翌年には醸造を開始した。

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一方のウィーガントの生年は明らかではないが、ドイツ出身の米国人である。

1869年来日。

ローゼンフェルトが経営するジャパン・ヨコハマ・ブルワリー(山手町46番地)にビール醸造技術者として迎えられた。

しかしローゼンフェルトの後継者であるクラインとうまくいかず、ヘフト・ブルワリー(山手町68番地)に移籍。

その後、ジャパン・ヨコハマ・ブルワリーは廃業した。

§

ヘフト・ブルワリーは、オランダ出身の実業家マリヌス・ロートフーク=ヘフトが開拓した多くの事業の一つである。

ウィーガントはこのヘフトとも対立し、米国に戻ってしまう。

ウィーガントが去ったのち、ヘフト・ブルワリーは1875年1月、廃業に追い込まれる。

§

1875年5月、約2年ぶりに来日したウィーガントは、古巣のヘフト・ブルワリーの施設を賃借して自ら経営者として開業にこぎつける。

出身地名を冠してバヴァリア・ブルワリーと名付けた。

§

しかし日本を不在にしていた間にスプリング・ヴァレー・ブルワリーが順調に業績を伸ばし、横浜・東京はもとより上海への輸出まで果たしていた。

わずか400メートルばかりを隔てた競合2社はすぐに価格競争に追い込まれていく。

無駄な競争で利益を減らすのは互いのためにならないとのコープランドの呼びかけにウィーガントが応え、両者は共同経営に同意した。

§

1876年6月15日、コープランド&ウィーガント設立。

翌日の新聞に掲載された広告は次の通りである。

 

謹告

ウィリアム・コープランド、E.ウィーガント両名は本日より共同経営者として、

コープランド&ウィーガントの名称で事業を継続することを皆様にお知らせします。

今後はブラフ123番地スプリング・ヴァレー・ブルワリーのみにて営業します。

 

(主な品目)

ラガービール/バヴァリアビール

ペールエール/ポーター

ジンジャーエール

ボックビール

ピクルス用最高級モルトビネガー

イースト/バーム(泡状酵母)

生一本、シェラックほか醸造用全材料、常時販売用在庫有り

 

ご注文は横浜ブラフ123番地事務所または88番地貯蔵所にて受け付け、迅速対応。

日曜日のビールお届けはいずれの営業所においても不可。

 

こうしてスタートを切った新生スプリング・ヴァレー・ブルワリー。

果たして二人の経営者の思惑通り順調に業績を伸ばすことができたのだろうか。

同じ年の8月12日の新聞に、気になる告知が掲載されている。

 

当工場のビールが泉からではなく、

の水から製造されているとの風聞が広まっていることから、

1週間のあいだ午後4時から6時まで水質検査のために工場を公開することをお知らせします。

どうぞご自身でお確かめください。

コープランド、ウィーガント

 

どうやら製品に用いられている水の安全性を疑う噂が流れ、売り上げにも影響を及ぼしていたらしい。

以前と同じ工場を使用しているにも関わらず、共同経営となったのちにこうした風評被害が発生したのはなぜなのか、疑問が残る。

ともあれ、コープランドらは工場公開によりこれを払しょくしようとした。

§

果たしてこの対策は功を奏したのか。

その問いに直接答える資料は残念ながら今のところ目にしていないが、約2年後に書かれた工場見学記を読めばおのずと明らかであろう。

 

図版:手彩色絵葉書 年代不明 (筆者蔵)

参考資料:
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・『ビールと文明開化の横浜 コープランド生誕150年記念』(キリンビール株式会社、1984)
The Japan Herald, Dec. 12, 1864
The Japan Herald, Oct. 10, 1866
The Japan Herald, Feb. 1, 1875
The Japan Gazette, May 18, 1875
The Japan Gazette, Aug. 12, 1876
The Japan Gazette, Oct. 4, 1878

 

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