ユリーシーズ・S・グラント(1822~1885)将軍は南北戦争において北軍を勝利に導き、米国の歴史にその名を留める偉大な英雄である。
軍を退いた後、絶大な支持を受けて第18代合衆国大統領に就任したが、2期8年を務める中で人気は凋落し、1877年政界を引退するに至った。
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大統領の職を退いて間もない同年5月、世間の煩わしさを逃れるためか、グラント将軍は妻とともに世界一周の旅に出た。
英国を皮切りに欧州諸国を巡り、スエズ運河を経てインド、シャム(現在のタイ)、香港、清国を歴訪した2年余りの旅はさまざまな発見や経験に満ち、彩り豊かなものであったようだが、一行を最も歓迎し、国を挙げての最上級のもてなしで迎えたのは最後の訪問国、日本であった。
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グラント将軍がこの極東の国の人々に接するのは初めてではない。
1871年、明治政府が不平等条約改正の交渉を目的として岩倉使節団が国書を携えて米国に向かった際、それを受け取ったのがグラント大統領であった。
大統領は使節団を歓迎したが、条約改正を受け入れることはなかった。
岩倉一行はその後、英国へと向かい、欧州各国とそれらの植民地となっていたアジア各国を巡り、目的を果たすことがないまま1873年帰国する。
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グラント将軍が長い旅路の末に日本を訪れた1879(明治12)年当時、いまだ条約改正は果たされていなかった。
明治政府は、開国以来の大国の元首クラスの要人、しかも条約相手国の元大統領にして旧知のグラント将軍の訪問を、条約改正の道筋を探るための千載一遇のチャンスととらえた。
こうして、文明国日本を強く印象付け、親日感情を抱かせようと政府の総力を尽くした「おもてなし」が繰り広げられることとなる。
一方、故国の英雄来日のニュースは、横浜に住まう米国人コミュニティにも動きをもたらした。
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来日のおよそひと月前にあたる5月28日、横浜インターナショナルホテルに米国出身者をはじめとする外国人居留民らが集まり、グラント将軍歓迎準備の打ち合わせを行った。
米国領事ヴァン・ビューレン氏の呼びかけに応えてのことである。
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領事によると、グラント将軍は現在上海に滞在しており、天津を経て米国艦リッチモンドで長崎に入港する予定で、神戸に寄港後、横浜に到着するのは早くて7月の末か8月の初めの見込みとのこと。
到着後は東京に直行して天皇陛下に謁見の予定だが、将軍じきじきの手紙では、その後は米国領事館で希望者には誰にでも喜んで面会するとのことである。
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打ち合わせでは、その際の歓迎行事の案として舞踏会の開催が挙げられた。
しかし当時の横浜では町会所(開港記念会館の前身)以外に適当な会場がなく、予定の時期には別の催しで塞がっていた。
そこで出されたガーデンパーティー案が全会一致で採用され、暑さの和らぐ日没後に催すことが決められた。
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6月の初めには歓迎準備委員会が発足する。
委員長と理事長にはそれぞれ横浜の米国領事ヴァン・ビューレン氏、副領事H.W.デニソン氏が就任し、ポルトガル領事ケズウィク氏、ドイツ領事ザッペ氏、ロシア副領事ペリカン氏ら横浜の各国領事のほか、民間からはヘボン医師やA.O.ゲイ氏等をはじめとする20名余りが委員に任命された。
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6月21日、グラント将軍一行長崎到着。
国賓として大歓迎を受け、その後艦船リッチモンド号にて横浜へと向かい、7月3日午後12時30分無事入港した。
神奈川県令野村靖が艦艇まで出向いて歓迎の辞を述べ、続いて鎮守府埠頭で右大臣岩倉具視、内務卿伊藤博文らの政府高官の出迎えを受ける。
東海鎮守府で暫くの休息の後、そのまま横浜駅から東京の迎賓館である浜御殿内の延遼館へ向かった。
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翌日、明治天皇に拝謁した後は、連日連夜の宴会、日光周遊、能や歌舞伎の観劇と、一連のおもてなしがひと月近く続いたのであった。
その間、横浜では委員会を中心に、ガーデンパーティーの準備が進められていた。
会場はブラフ(山手町)230番地のブラフガーデン(山手公園)である。
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8月1日、グラント将軍来浜歓迎ガーデンパーティーの当日は、これ以上望めないほどの素晴らしい天候に恵まれた。
月にちらほらと雲がかかり、ランタンの明かりを乱さぬ程度に風が優しく吹いていた。
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歓迎委員会はこの3日間多忙を極めたが、その成果は彼らにとっても極めて満足のいくものとなったに違いない。
門を入ると板で覆われた小路がブラフガーデンの園内へと続く。
この歩道のおかげで、泥でゲストの足やドレスが汚れなくて済む。
小路や様々なしつらえはランタンに縁どられ、米国をはじめとする条約国と日本の旗で飾り付けられていた。
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洋弓場の一画に造られた応接室を過ぎると、少し右奥に行ったところには婦人用更衣室が設けられている。
これらは仮設の建物だが、幾重もの幔幕と明るいランタンが見事な効果を生み出していた。
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もう一方のランタンに照らされて道を行くと、左右に光のピラミッドが並び、真向かいに広々とした舞踏場と食堂を備えた本館が見えてくる。
本館は色とりどりの掛布や国旗、点滅する電飾と豊かな葉をたたえた青竹によって飾り付けられている。
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建物のなか、エントランスホールの正面には美しいしつらえのブッフェがあり、左右に開かれた扉には花輪が吊るされている。
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左手には50フィート四方の舞踏室があり、植木と灌木、紅白のキャラコ、幔幕とランタンで趣深く飾り付けられ、突き当りにふんだんに並べられた熱帯植物の葉越しに見える月夜が場の美しさを盛り上げていた。
部屋の外にしつらえられた台にはリッチモンド号の軍楽隊が控えており、麓に建つレディースローンテニスクラブのクラブハウスでは、きらびやかな緋色と白の制服に身を包んだ帝国海軍の楽隊が楽器を携えて起立していた。
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舞踏室と同じくらい広い食堂が右手に設けられており、同様の趣味で飾りつけられていたが、食事係の働きは最も素晴らしいものだった。
部屋の幅いっぱいに据えられた馬蹄型の食卓にはご馳走がずらりと並び、賓客の到着を待つばかりである。
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午後8時45分、一行が横浜駅に到着した。
グラント将軍は、東京から運ばれてきた2頭立ての馬車で吉田駐米公使夫人・上野両夫人と、ビンガム駐日米国公使、子息のグラント大佐、一行の随員で書記のラッセル・ヤング氏を伴って時間通り21時に山手公園に到着し、門前に待機していた米国領事ヴァン・ビューレン氏ほか数名の委員会メンバーによる代表団の出迎えを受けた。
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招待客は太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視、内務卿伊藤博文、工部卿井上馨、陸軍卿西郷従道、外務大輔榎本武揚をはじめとする政府閣僚、野村神奈川県令、米国、英国、スペイン各国大使、リッチモンド号のパターソン艦長のほか、岩崎弥太郎氏、益田孝氏、澁澤栄一氏、福地源一郎氏、原善三郎氏といった財界人も含まれ、出席者数は600名近くとなった。
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グラント将軍夫妻は用意された応接室で少しの間休憩した後、委員から主立った出席者の紹介を受け、本館へ移動した。
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舞踏室ではリッチモンド号の軍楽隊が奏でる心躍る旋律にのせて若い参加者たちがダンスを楽しみ、曲の合間には麓の芝生に控えていた帝国海軍軍楽隊が演奏を披露した。
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23時頃休憩となり、一同は食堂に移動。
軽食がふるまわれた。
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食事が終わると、ヴァン・ビューレン領事が立ち上がり、次のように述べた。
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紳士淑女諸君、今宵その栄誉に与るべく私達が集った、輝かしきゲストは、世界中を旅してここにお越しになりました。
この日出る国に至って、日本国民の寛大な心と偉大なもてなしの気持ちを証するような歓迎を受けました。
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そして今ここに、遠く離れた様々な地域からやってきた私たち居留民が、戦において名を挙げ、平和において人々に愛されたこの自由の使徒を、温かい心をもって共に歓迎し、心から出迎えるために集いました。
友よ、今こそこの戦功著しく、2度にわたり米国大統領に選ばれた、偉大なる共和国民の筆頭となる、世界的な栄誉に浴する賓客、グラント将軍の健康のためになみなみと盃を満たそうではありませんか。
(耳を聾するばかりの喝采)
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呼びかけに応えて心から万歳三唱が叫ばれたのち、乾杯の盃が飲み干された。
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グラント将軍は次のように返礼を述べた。
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紳士諸君、横浜の外国人諸君、今宵皆様にお招きいただき誠に光栄に存じます。
世界を周遊してまいりましたが、このような歓迎を受けたのはこの国においてよりほかにありません。
私が申し上げることは、ただ乾杯の言葉のみ。
すなわち、この国の外国人居留民と政府、そして国民に向けて、皆が共に和し、日本が繁栄と強さと、力を増していきますように。
(大歓声)
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ヴァン・ビューレン領事が直ちに日本の政府と国民のために万歳三唱し、皆が力を込めてそれに応えた。
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夕食が終わると、再びダンスが始まった。
グラント将軍と主に東京から来た一行は24時半の特別列車に間に合うよう退去したが、最後のゲストが去ったのはその数時間後であった。
かくして横浜におけるグラント将軍おもてなし大作戦は見事な成功の裡に幕を下ろしたのであった。
図版:
・Charles Wirgman,The Japan Punch, August, 1879.
・山手公園写真(年代不詳)筆者蔵
参考文献:
・The Japan Gazette, 28, May, 1879.
・The Japan Daily Herald, May 28, 1879.
・The Japan Daily Herald, August 1, 1879.
・The Japan Weekly Mail, June 7, 1879.
・The Japan Weekly Mail, August 1, 1879.
・ユリシーズ・グラント著、宮永訳『グラント将軍日本訪問記』(雄松堂出版、1983)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)