On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■マカドホテルー炎に消えた海辺の宿

2024-05-29 | ある日、ブラフで

マカドホテル

横浜根岸、間門通り

山と森に囲まれた海辺のホテル

ミシシッピー湾、富岡、金沢、峰山の見事な眺望

地元の皆様にも旅行者の方々にも最も快適にお泊りいただける新しいドイツ式ホテル

横浜エリアにおける最高の立地

風通しの良い健康的な部屋と良質なベッド

定評ある素晴らしいドイツ料理と行き届いたサービス

冷水・温水浴槽あり

山と海辺の遊歩道

ランチ・ディナー貸切可

樽生ビール提供

 

オーナー エミリー・ハーン

 

1903年5月23日付のドイツ語新聞『Deutsche Japan Post』に掲載されたマカドホテルの広告である。

文中の「ミシシッピー湾」とは根岸湾のことで、いわゆる黒船来訪のおりにペリーがそのように名付けて以来、外国人に使われていた地名である。

ホテルはその根岸湾を望むマカド、すなわち現在の横浜市中区本牧間門のあたりに建っていた。

§

1903年版のジャパン・ガゼット社のディレクトリ―(住所録)にこのホテルの名が初めて掲載されていることから、その原稿が用意された1902(明治35)年にオープンしていたと考えられる。

§

御雇外国人のドイツ人医師ベルツはこのホテルに度々投宿した。

「べルツの日記」によると、1904年から翌年にかけて少なくとも4回訪れている。

§

最初は1904年3月、考古学者として有名な横浜在住のイギリス人医師マンローらとともに横浜競馬場付近の貝塚を発掘に訪れた際に、マカドホテルに4日間滞在した。

§

同年10月に再訪。

ホテルと名乗ってはいるものの客室はわずか6部屋で、散歩や遠乗りの客が立ち寄るレストランが主な収益源である、そして宿の人々は愛想がよいと記している。

翌年1月、そして2月にも訪れているから、もはや常連と言っていいかもしれない。

§

1905年2月8日の日記を読めば、彼がマカドホテルに惹かれた理由が分かる。

その時は知人から依頼された校閲の仕事に専念するために2、3日の予定で訪れたのだが…少し長いが以下に引用する。

しかし、午前中、宿におっただけだった。

あまり素晴らしい天気なので、我慢ができなくなって、午後は素敵な近辺をぶらついた。

この静かな宿は、じかに海に接した松林の中にあって、海はここで、いわゆる「ミシシッピー橋(ブリッヂ)」(千八百五十三年日本の鎖国を破ったペリーがこう名付けている)を形造っており、その向かい側では東京湾の西の限界をなす美しい海岸が、約八キロにわたって延びている。

この大きい東京湾の中へ海岸は消えて、そこから海はまるで無限のようだ。

宿のすぐそばの小さい丘からは、海と箱根の山々と富士山を一目で見渡せる。

丘陵や海岸を散歩すると、うっとりするような眺めの連続だ。

(『ベルツの日記(下)』岩波文庫 1979年 p.317)

§

ベルツの日記にはホテルの建物や設備などについて書かれていないので、現在入手できる数種類の絵葉書や古写真から外観を知るのみである。

冒頭の新聞広告の写真と同時期に撮影されたと思われる手彩色絵葉書を見ると、手前に張り出したテラスの屋根だけが赤く塗られている。

実際もそうだったのかもしれない。

§

繁盛にともない何度も増改築を重ね、建物は少しずつ姿を変えていった。

例えば、赤い屋根のすぐ上に見える小さな切り妻型の屋根は、次の写真では形状が変わって破風がなくなっている。

右端の1階にもテラスが追加されている。

§

増築されたテラス部分はさらに大きく張り出され、2階建てとなった。

このころには敷地の前面に延びる生垣に幾何学模様のフェンスが加えられている。

§

明治三十八(1905)年八月二十八日付の『横濱貿易新報』には次のような記事が載っている。

マカドホテルの祝賀会 来る三十一日午後四時より市内根岸町マカドホテルにおいて夏季祝賀会を催し独逸楽士を聘して奏楽せしめ純益は悉皆日本赤十字社へ寄付する由

原文の漢字は旧字。なおこの催事は雨天により延期された)

§

マカドホテルで生演奏付きのサマーパーティーを催し、純益を全額日本赤十字社に寄付するというのである。

§

その時のものではないが、ホテルで行われたパーティーの写真からは、当時の華やかな雰囲気が伝わってくる。

万国旗を掲げた門を通って人力車が次々と到着。

道の右側にはすでに客を下ろしてその帰りを待つ車がずらりと列をなしている。

左手に並ぶテーブルは外国人の男女でほぼ埋まり、ウエイターと思しき白いユニフォームの男性たちの姿もみえる。

テーブルクロスの花柄と着飾った婦人客の帽子が目に楽しい。

§

何かの催しの際に参加者が絵葉書に寄せ書きしたものか。

 

和服姿の女性をあしらった手彩色絵葉書

§

マカドホテルのビジネスは順調だったようだが、女主人エミリー・ハーン夫人はやがて病に倒れてしまう。

何か月も病床にあって、その間も夫と二人の子どもとともにホテルの経営に努めたが、1910年7月21日、ついに帰らぬ人となった。

ドイツハウス(山手町25番地)で行われた葬儀には多くのドイツ人と日本人が参列したという。

§

翌1911年7月26日未明、前日深夜から降り出した雨が突然勢いを増し、すさまじい暴風雨となって横浜を襲った。

港に係留された何艘もの船が荒れ狂う波に襲われて木っ端みじんに打ち砕かれ、その破片が海藻とともに浜に散乱した。

早朝までに約150ミリを記録した雨でバンド(山下町)一帯は洪水となり、約350棟が浸水した。

高台のブラフでは木々がなぎ倒され、建物から剥がれ落ちたタイルが四方八方に飛び散った。

§

雨が降り始めて間もなく電力が不安定となり、夜中の12時半には完全に停電してしまった。

午前2時ごろ、暗闇に包まれたマカドホテルでだれかが明かりを得るためにろうそくをともした。

激しい風にろうそくは倒れ、建物は瞬く間に炎に包まれた。

早朝までの数時間で完全に焼け落ち、マカドホテルは約10年間の短い歴史を閉じた。

幸いなことに死傷者はなかったという。

ハーン夫人が亡くなってわずか1年後のことであった。

 

図版
Deutsche Japan Post(1903年5月23日)
・その他の手彩色絵葉書、写真すべて筆者蔵

参考資料
・トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(下)』(岩波文庫、1979年)
・気象庁各種データ・資料(気象庁|過去の気象データ検索 (jma.go.jp)
・本牧のあゆみ研究会編『本牧のあゆみ』(新本牧地区開発促進協議会事業部、1986年)
・嶋田昌子「間門ホテル」『季刊誌横濱』10号(2005年秋号)所収
・『横濱貿易新報』明治38年8月28日
Deutsche Japan Post(1903年5月23日)
Deutsche Japan Post(1904年9月3日)
The Japan Weekly Mail, July 30, 1910
The Japan Weekly Mail, July 29, 1911


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■ヴィクトリア・パブリックスクールの1889年夏学期

2023-12-31 | ある日、ブラフで

汐汲坂付近を山手本通り側から撮影。ヴィクトリア・パブリックスクールは右側の道の右手奥にあたる山手町179番地にあった。(写真左側の建物はフェリス・ホール)

 

On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり」は2016年にスタートしました。

Bluff=山手町に住むようになってから、横浜開港資料館や横浜市中央図書館でぽちぽち調べてきた居留地時代のできごとをブログで紹介してみようと思ったのがきっかけです。

それから早や8年、おかげ様でこの度100回目の更新を迎えることとなりました。

これまでおつきあいいただいた読者の皆様に心より感謝いたします。

そしてまだまだ山手居留地の人々への興味は尽きませんので、引き続きごひいき賜りますようお願いする次第です。

§

さて今回は100話を記念して、新聞記事を中心としたいつものスタイルとは趣向を変えて、これまで何度か取り上げてきたヴィクトリア・パブリックスクールの特集をお届けします。

§

横浜市山手町は、横浜雙葉、フェリス、共立といった有名女子校やインターナショナルスクールが点在する文教地区として知られていますが、後者については現在サン・モール(Saint Maul International School)のみになってしまいました。

しかしかつてはYIS(Yokohama International School、2022年に小湊町に移転)、セント・ジョセフ(Saint Joseph College、2000年閉校)を含めて3校あり、生徒が登下校する時刻、山手本通りの歩道は国際色豊かな少年少女の姿でにぎわい、車道には彼らの親たちが運転する送迎の車が列をなしていました。

§

居留地時代に開校したヴィクトリア・パブリックスクールはいわばこれらのインターナショナルスクールの草分けともいうべき存在ですが、その実像はあまり知られていません。

そこで今回はこの学校について私たちが調べた範囲でなるべく詳しくご紹介したいと思います。

ただ、1887年から1894年までのわずか8年間に過ぎない学校史においてさえ生徒はもちろん教師の顔ぶれや、授業の教科も変わっているため、この記事では開校から3年目となる1889年の夏学期のヴィクトリア・パブリックールに皆様をご案内します。

当ブログの過去のエピソードのなかでは<「第一等の金製賞牌を得たるは・・・」ヴィクトリア・パブリックスクール1889年夏の表彰式>の時期にあたります。

既存の記事と重複する部分もありますが、どうぞお付き合いください。

§

さて学校のあった場所は、ブラフ179番地、汐汲坂の登り切ったあたり、現在のフェリス女学院の施設の向かいにあたります。

ブラフ・アーカイブス(https://www.bluff.yokohama/)によると1870年以降、その地所は個人宅のほか、ドイツ公使館やベルギー公使館、領事館として使われていたようですが、学校となる直前にはホールという人物が住んでおり、その屋敷をそのまま校舎としました。

建物の一部が2階建てで10部屋ほどあり、平屋部分が大教室、2階を校長、助教の宿舎になっていました。

その隣には開校の翌年に建てられた二階建ての新校舎があり、1階には教室が3室、2階は寄宿舎として利用されていました。

§

1年はイースター学期、夏学期、冬学期と3学期に分かれていました。

いまは夏学期、期末の表彰式が終わればお待ちかねの夏休みです。

§

校長先生はオクスフォード大学出身でイギリス本国で教鞭をとった経験もあるというエリート数学者チャールズ・ハワード・ヒントン。

初歩的な教科を教えるのは初めてで最初は戸惑ったようですが、上級生のクラスでは大学生並みのハイレベルな数学の授業を行っていました。

そんな優秀な人物が最果ての島国に流れ着いたのかというと、実は女性関係のスキャンダルで職を追われ、やむなく一家そろって自費で日本にやってきたのです。

校長先生の奥さんメアリー夫人も教師として未就学児のための準備クラスを受け持っていました。

 

ヒントン一家(ancestry.com)

 

この二人のほかにスイス人のファーデル副校長と日本人の河島敬蔵先生を加えた4名体制で全生徒を教えていました。

§

学校の一日はイギリス国教会式のお祈りから始まります。

とはいえこれは強制ではなく、他の宗教の生徒は出席しなくても構いませんでした。

教科は英文法と英文レター ライティング、歴史、地理、数学。

英語以外の語学ではフランス語と、欧米の学校への進学を希望する生徒のためにラテン語のクラスが設けられていました。

開校当初は日本語の授業も行われていましたが、あまり人気がなかったらしくすぐになくなったようです。

§

当時のイギリスのパブリックスクールに倣ってスポーツも大いに奨励されていました。

生徒たちは、現在の横浜公園にあたる場所にあったヨコハマ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブ(YC&AC)のグランドを借りてクリケットの試合を楽しみました。

学期末の表彰式では、学科の優秀者だけでなく、クリケットの高得点取得者にも賞品が贈られました。

ヴィクトリア・パブリックスクールでは、文武両道が尊ばれていたようです。

ヨコハマ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブ 手彩色絵葉書(筆者蔵)

 

さてそれでは生徒の顔ぶれを見てみましょう。

1889年の夏学期、ヴィクトリア・パブリックスクールの生徒数は48名であったことがわかっています。

§

国籍が明らかな生徒はイギリス22名、日本8名、アメリカ6名、オランダ2名、ドイツ1名の39名。

残り9名については不明ですが、イギリス人が約半数を占めていたことがわかります。

元々この学校はイギリス女王ヴィクトリアの即位50年を記念してイギリス人居留民が設立した学校ですから、当然と言えば当然のことでしょう。

校舎には女王の肖像画が恭しく飾られていたということです。

イギリス人以外の生徒たちがどのような思いでその絵を見ていたのかちょっと気になりますね。

 

ヴィクトリア女王肖像画(ハインリヒ・フォン・アンゲリ画、1885)

 

さて在校生48名のうち年齢が明らかな生徒は27名。

内訳は7歳3名、8歳2名、9歳4名、10歳3名、11歳4名、12歳2名、13歳4名、14歳1名、15歳3名、16歳1名で、平均年齢は11歳です。

これらの生徒の多くが居留民の第二世代、すなわち横浜生まれのヨコハマ・ボーイでした。

§

名前のわかっている生徒たちについて詳しく見てみましょう。

括弧は年齢を示します。

§

まず最も人数の多いイギリス人のなかで、兄弟で通っている生徒たちから。

ちなみに同じ家庭から複数の生徒が通っている場合は学費を割り引く制度がありました。

§

ヘンリー君(14)とジョージ君(12)のオルコック兄弟。

二人とも卒業後は貿易関係の職に就いたようです。

父親は横浜港の主要輸出品である生糸の検査人でした。

エドワード君(15)とピーター君(13)のクラーク兄弟は、ヨコハマ・ベーカリーというパン屋さんを営むロバート・クラーク氏の息子たちです。

本国の大学で学んだのち横浜に戻り、それぞれ教育関係、医療関係の専門職に就きました。

 

エドワード・クラーク(京大英文學研究會『Albion』第二巻第一号 昭和9年)

 

ジェームス君(8)とケネス君(7)のドッズ兄弟。

彼らの父親はバターフィールド&スワイヤ社という個人商会の経営者です。

兄については不明ですが、弟は貿易関係の仕事に従事していたようです。

ウィリアム君(11)、ジョアン君の(9)ドルモンド兄弟は、日本郵船に勤務するジェイムズ・ドルモンド船長の息子たち。

卒業後はそれぞれ銀行、保険会社に就職しました。

ロバート君 (11)、ヴィヴィアン君(7)のセール兄弟の父は後にセール商会を起こすジョージ・セール氏です。

息子たちも卒業後は貿易関係の職に就きました。

シドニー君(11)とジョージ君(9)のウィーラー兄弟は、横浜居留地で親しまれていた医師エドウィン・ウィーラー先生の息子たちです。

ウィーラー先生は特に産婦人科医として活躍していたので、生徒たちの中にも彼の手でこの世にお目見えした子が大勢いたことでしょう。

二人の兄弟はともに卒業後本国で教育を受けた後、シドニー君は香港・上海銀行に就職、ジョージ君は職業軍人になりました。

シドニー・ウィーラー(Peter Dobbs氏所蔵)

ジョージ・ウィーラー (The Japan Gazette, April 24, 1919)

§

イギリス人生徒の残り10名のうち7名の父親は商業関係者でした。

アルバート・バード君(10)とレナード・イートン君(13)の父親はそれぞれバード商会、イートン&ブレット商会の経営者または共同経営者。

レナード・イートン君は卒業後、父の会社に就職しています。

アーサー・ブレント君(15)とエドワード・ポーイ君(10) 、ヘンリー・ウォーホップ君(12) の父親はそれぞれフリント・キルビー商会、レーン・クロフォード商会、E. B. ワトソン社勤務に勤務していました。

アーサー・ブレント君は後に競売関係の職に就いています。

ライオネル・アンダーソン君(13)はいイギリス系貿易商社ジャーディン・マセソン商会の従業員の息子。

卒業後は保険代理店に就職したようです。

ジョージ・ブレークウェイ君(15)はバンド(山下)にある有名なホテル、クラブ・ホテルの共同経営者でしたが、本人の進路はわかっていません。

クラブ・ホテル外観写真絵葉書(筆者蔵)

§

父親が商業以外の仕事についていたのは3名。

宣教師の息子、ハーバート・ゴダード君(7)は卒業後アーサー&ボンド商会という横浜の美術品輸出商社に勤務します。

アーサー・ロイド君(10) の父は慶應義塾の教師でしたが、本人の進路は不明です。

モス君は、横浜イギリス領事館裁判所書記の息子ということはわかっているものの、兄弟が多いためファーストネーム、年齢、卒業後の足取りも特定できていません。

§

アメリカ人生徒6名の中にも二組の兄弟がいました。

ヘンリー君(13)とエヴァーツ(9)のルーミス兄弟は宣教師の息子です。

兄ヘンリー君は卒業後アメリカに帰国し、マサチューセッツ工科大学に進学。

弟の進路はわかっていません。

ハーバート君(11)とチェスター君(8)のプール兄弟の父親は、生糸に並ぶ横浜の主要輸出品である茶の貿易商でした。

卒業後は二人とも貿易関係の職に就きました。

弟のチェスター君は後に関東大震災被災記「古き横浜の崩壊」の著者として知られることになります。

 

プール兄弟。左よりハーバート、エリノア、チェスター(Poole FAMILY Genealogy, http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)

§

残り二人のアメリカ人生徒のうち、モリス・メンデルソン君(9)は生糸貿易を営むメンデルソン&ブラザーズ商会経営者の息子で、卒業後は父の会社に就職しました。

もう一人の生徒は、マンリー君という名字しかわかっていません。

§

イギリス人、アメリカ人以外の外国人で国籍が明らかな生徒は3名です。

まずドイツ人のカール・ヘルム君(10)。

彼は横浜の実業ユリウス・ヘルム氏の息子で、卒業後はヘルム・ブラザース社に入社しました。(多角的に事業を展開して成功を収めたヘルム一家の歴史についてはその末裔であるレスリー・ヘルム氏の著書「横浜ヤンキー」(明石書店 、2015)をご参照ください)

オランダ人医師ハイデン氏の息子も在籍していましたが、名字以外はわかっていません。

同じくオランダ人を父に持つコジロウ・ピティト・ショイテン・ヨコヤマは、名前から推して日本人の母をもつ国際児だったようです。

卒業後の進路は不明です。

§

さて国籍がわかっている生徒の中で、イギリス人に次いで多いのが日本人でした。

1889年当時は8名が在籍していました。

彼等の多くは官僚や実業家の息子で、海外留学に備えて英語を学ぶためにヴィクトリア・パブリックスクールに入学したようです。

そのため籍を置いていた期間は1、2年間程度とごく短いものでした。

田中銀之助君(16)は卒業後イギリスに渡り、ケンブリッジ大学に入学。

その後帰国して実業家の道を歩みました。

 

田中銀之助(Wikipedia)

残念ながら、彼以外の日本人生徒の年齢や身元は未だ調べがついておらず、わずかに松田信敬君の父が内務官僚や東京府知事などを歴任した松田道之氏だということがわかっているだけです。

残り6名の名前は次の通りです。

アリイズミ君、井上伊六君、U. ノダ君、タケノウチ君、K. タナカ君、ヨシカワ君。

§

横浜初の外国人生徒のための中等教育機関ヴィクトリア・パブリックスクールの1889年当時のようすは、調べがついた範囲ではおおよそ以上のようなものでした。

ただ残念なことに、校舎や在校当時の生徒たちの写真はまったく見つかっていませんし、生徒名簿すら完全なものは残っていません。

On the Bluffでは今後もヴィクトリア・パブリックスクールに関するリサーチを継続していきますので、何か情報をお持ちの方はぜひご一報ください。

どんな些細なものでも大歓迎です。

§

ヴィクトリア・パブリックスクールの生徒やその父兄にまつわる過去記事は索引からご参照いただけます。

この機会にご一読いただければ幸いです。

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■バンド東側丘陵地を競売に付す―山手居留地のはじまり

2023-11-26 | ある日、ブラフで

この度神奈川奉行は、ブラフの土地を競売に付すことを正式に決定した。

競売は7月25日木曜日、税関保全倉庫事務所上階大広間にて行われる。

図面は32番地の事務所にて閲覧可。

目録は近日完成予定。

ボーン商会

§

これは1867(慶應3)年7月16日、ジャパンヘラルド紙に掲載されたブラフ(現在の山手町)の借地権売り出しの公告である。

§

砂州や埋め立て地から成るバンド(関内の居留地、現在の山下町)に比べ、高い崖地(ブラフ)の一帯は居住に適した土地とみなされており、外国人たちは早くからここを居留地とするよう要望していた。

慶應2年「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」において居住地として開放することが決定され、翌年7月25日(旧暦6月24日)競売によって借地権が売り出されたのである。

英国海軍駐屯地、横浜、日本 1865年4月11日

§

競売で土地を手に入れた人々によって、しゃれたバンガローや和洋折衷式の住宅が建てられるようになる前、ブラフには生麦事件(1862年)を機に派遣された英仏両軍が駐屯していた。

バンドからブラフに向かう坂(現在の谷戸坂)の西側にはすでに外国人墓地があり、生麦事件の犠牲者リチャードソンもそこに眠っていた。

 

現地人によって殺害されたリチャードソンの墓、横浜、日本     1865年4月11日訪問

§

ブラフの土地競売は1867年以降、数回にわたって行われ、1870年の時点で230番まで、公共用地を除く158区画が売りに出されたという。

1875年には英仏両軍が撤退し、ブラフのほぼ全体が住宅地となる。

§

さて冒頭に示した告知に先立つ1867年6月27日、同じジャパンヘラルド紙に、競売の条件等が掲載された。

§

公告

日本政府は居留地(現在の山下町―筆者注)の東側に位置する丘陵地を、今後指定する日程にて競売に付すこととし、その条件について通知する旨、公告する。

売却条件

一.土地は図面に番号で示された区画に分割される。
  今後の参考資料とするため、同図の複写版に日本政府の土地担当官が正式に押印したものが、現在横浜に存在する数か所の外国領事館に配布され、保管される。

二.最高額を入札した者を購入者とし、2名もしくはそれ以上の入札者間で何らかの紛争が生じた場合、その土地は再度売却に付される。

三.各区画は、1坪につきメキシコドル25セントの価格で売り出され、入札は1坪につき1セント単位の上乗せで進められる。
  区画は図面および印刷された目録の記載に基づいて売却される。

四.一区画もしくは数区画を購入した者は、売却日から3日以内に、購入した土地1区画につき50メキシコドルを購入保証金として第72号官庁の土地担当官に納入し、その合計額について領収書を交付される。  
  購入代金の残額は、権利証が作成された時点で、その旨が通知され、購入者は全額を納入次第、購入した区画の権利証を交付される。
  その際、権利証1件につき5メキシコドルを支払うものとする。

五. 売却後可能な限り速やかに、政府は購入者に対し、測量士による当該土地の最終測量を行う日時を通知する。 
  その際、購入者は、政府による測量を確認するため、自己の費用負担によって有能な人物の援助を受けてその場で最終的に測量に同意し、その結果が賃貸借契約書および図面に記載される。
  購入者が自らの代理として、前述のような測量を監督・確認する者を派遣しなかった場合は、日本政府による測量を最終的なものとし、それに基づいて賃料と購入代金を査定し、算定するものとする。

六.各区画に植生する樹木は、日本政府により値付けされ、その価格は販売目録に記載される。  
  樹木の全部を評価額にて、もしくは一部を、評価額を按分した額にて引き取ることについては購入者が選択できる。
  購入者が樹木の全部または一部を引き取ることを希望しない場合、日本政府は自らの負担により、購入者が購入を希望しない全部または一部について伐採し、撤去する。
  その後に購入者が伐採及び撤去を希望する場合には、自らの費用にてこれを行う。
  各区画の購入者は全員、売却日から10日以内に本件に関する意向を政府土地担当官に通知しなければならない。
  通知を怠った場合、購入者の有する区画に植生する樹木の全部を政府の評価額にて取得するものとみなされる。
  購入者が万一その一部のみを取得する場合も、取得する数量と支払額の調整は、区画の最終測量時点で決定するものとする。
  樹木とは、幹のどの部分においても胴回りが24インチ(約60センチ)もしくはそれ以上のあらゆる木を指す。
  幹の胴回りがそれ以下の灌木及び樹木は下草とみなされ、伐採及び整地する場合は、その区画の購入者もしくは占有者自らの費用負担にて行うものとする。

七.購入者が、通知された日時および場所において購入額全額を納入しなかった場合、権利証が弁済されていない区画は、日本政府が告知する時期に公売に付されるものとする。 
  また当該不履行者が保証金として納入した金額は没収されるものとする。

八.いずれの区画の購入者または占有者及びその相続人、遺言執行者、管財人もしくは譲受人は、12月12日付の江戸協定(「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」―筆者注)に基づき、日本政府に対し、毎年の徴収に応じて百坪あたり12メキシコドルの賃料を支払う。  
  第一回の支払いは購入代金が完納される時点で行われ、以後、毎年同日を以って地代の発生及び支払の期日とする。

九.権利証書の譲渡は、その名義人の国籍の領事館において登録を行うことに加え、日本政府当局に通知され、土地担当官によって当該権利証書に正式に裏書および押印されていない場合は無効とする。

十.購入希望者は、図面の記載により、割り当て区画の位置関係及び条件を確認できるため、誤りや誤解を主張することにより、本売却に伴う条件の履行を怠ることは認められない。 
  しかしそれにもかかわらずいかなる反対理由を述べようとも、購入者自らがその責任を負うものとする。

十一.本競売において売却されなかった区画については、今後、日本政府が適切と考える時期に、一般競争入札に付される。 
  しかし日本政府は、今後の売却における価格を現在の売却条件で公表されている売出価格と同額とすること、また売れ残る可能性のある区画を個別の契約によって、もしくは、現在の売却条件において公表されている地代より低い価格にて売却することはないことを保証する。

神奈川奉行 水野若狭守

売却は競売人であるボーン商会によって行われる。
調査が十分に進み次第、同社により目録が発行される。
数日内に同社事務所において借地に関する草案を閲覧することが可能となる。
図面の作成次期及び閲覧場所については、然るべく告知する。

§

7月13日のジャパンヘラルド紙にはバンド32番地の事務所で図面を閲覧できると記されている。

こうして数度にわたる告知を経ていよいよ7月25日に競売が実施されたのであるが、そこで繰り広げられたであろう丁丁発止のせりの様子をつぶさに伝える記事が翌日の新聞に掲載されているかと思いきや、残念なことにそれは次のような簡潔なものであった。

§

土地売り出し

昨日午前10時30分、公告の通りボーン商会により日本政府が所有するブラフの土地約12万5千坪の競売が行われた。

年間借地料が非常に高額(100坪あたり12ドル)であること、また坪単価も25セントと高額であることから、数区画しか売れないだろうというのが大方の予想であった。

最初の6区画が入札なしで進んだため、この予想は実現するかと思われた。

しかし7番目の区画で口火が切られ、その後はほとんどの区画に次々と入札が行われた。

坪当たり1ドルという高値のものもあれば、26ドル以上から1ドルまで、場所により価格は様々に分かれた。

日本政府は各区画の境界をより明確にしておくべきだった。

どう考えても、実際に購入したものが想定と多少違っていて、失望するケースがいくつか生じると思われる。

道路もより明確であるべきだったし、何よりも図面が正確で、全体の整合性が確保されているべきだった。

整合性が取れていないと憤慨する声が聞かれた。

日本政府は今回の売却に満足していると思われる。

我々としては銅やその他の産物も今回同様競売に付すことを政府に期待したい。

それが関係者全員にとって最良である。

§

記事からは日本政府が用意した図面の完成度の低さへの不満が読み取れる。

しかし競売自体は日本政府にも、外国人たちにも良い事とみなされたようで、この方式を銅などの輸出品にも適用してはとコメントしている。

§

ところで「土地売り出し」という見出しのこの記事の最後の段落には、唐突にも次のような文が書かれている。

§

長崎を発した英国海軍フリゲート艦ヴィネタ号が昨日到着した。

同艦が伝えるところによると、キリスト教徒約200人が当局に逮捕され、投獄されたとのことである。

§

長崎の浦上村で僧侶の立ち会いなしで葬儀が営まれたことをきっかけに、キリスト教徒とみなされた村人らが捕らえられ、拷問により棄教を迫られた「浦上四番崩れ」。

江戸幕府が横浜山手を外国人居留地として開いた同じ年に、長崎の日本人キリスト教徒たちは幕府により拷問を受け各地に配流された。

翌年、江戸幕府が瓦解した後も残されたキリシタン禁制の高札を明治政府が撤去するのはそれよりさらに5年を経た1873(明治6)年2月24日のことである。

 

図版:
The Daily Herald Japan, July 18, 1867.
・英国軍駐屯地写真(筆者蔵)
・外国人墓地写真(筆者蔵)

参考資料:
The Daily Herald Japan, June 27, July 13, 18, 26, 1867.
・横浜山手教育委員会編『横浜山手 : 横浜山手洋館群保存対策調査報告書』(1987、横浜市教育委員会)

 

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■学校を救え!―ヴィクトリア・パブリックスクール年次総会1893

2023-10-27 | ある日、ブラフで

関東大震災の体験記『古き横浜の壊滅』の著者O. M. プールは、その第一章に震災以前の横浜外国人居留地の生活を描いている。

居留民たちはビジネスにいそしみつつも、スポーツや社交を満喫し充実した日々をおくっていたが、ある共通の悩みを抱えていた。

それは「子供たちが十代に達すると、教育を完全に施すため、母国にいる親戚のもとへ彼らを送り出」さなければならないことである。

§

当時、横浜には欧米人居留民の子弟のための中等教育機関がなかった。

子供たちに本国(欧州もしくは米国)で教育を受けさせるための負担は大きく、学校問題は「極東の厄介ごと」として外国人コミュニティ共通の関心事であった。

§

1887(明治20)年、東京・横浜の英国人コミュニティがこの問題の解決に動いた。

ヴィクトリア女王在位50年の祝賀記念事業として横浜に学校を設立することを決定したのだ。

同年10月、ブラフ(山手町)179番地に女王の名を冠したヴィクトリア・パブリックスクールが開校。

英語で授業を行う男子校で、英国人に限らず、欧米人のほか中国人や日本人も生徒として受け入れた。

プール少年もその一人であった。

§

ヴィクトリア・パブリックスクール開校から6年後の1893年1月30日、バンド(山下町)61番地にある通称カイル・ビル内の商工会議所において同校関係者の年次総会が開かれた。

§

会議の冒頭にこの1年間の学校の運営状況及び会計に関する報告が行われるのが慣例となっている。

今回その役目を負った名誉幹事ウィルキン氏が伝えたのは極めて深刻な財政状況であった。

§

英国人居留民からの出資金で設立され、その後の収入も授業料と寄付金のみに頼ってきたヴィクトリア・パブリックスクールは、生徒数の減少による収入不足からすでに設立時の基金を使い果たし、閉校の危機にさらされていた。

ウィルキン氏の報告に耳を傾けてみよう。

§

委員会は、非常に残念なことではありますが、生徒数減少のため、学校が財政的に満足のいく立場にはないことを指摘せざるを得ません。

§

イースター学期と夏学期には、生徒数は1891年末に回復した数字を維持しました。

この数字でも少なすぎるのは事実ですが、委員会が期待を抱き続けるには十分な数字でした。

しかし冬学期には36名に減少し、ひどく落胆しました。

本年度は32名となり、もはや委員会が希望的観測を維持することは不可能です。

厳しく出費を制限したため、12か月間の勘定の損失は約400ドルに抑えられており、これは前年度と比べて遜色のない結果です。

同時に準備金が使い果たされ、1893年年初において、借金こそないものの手元には何も残っていません。

§

残念ながら、これはすべてではありません。

生徒数が大幅に増加しない限り、年末に約1,000ドルの赤字を覚悟せざるを得ないのです。

このような状況を鑑み、皆さんの委員会は、悲惨な結末を避けるために何らかの措置を講じない限り、夏には学校を全面的に閉鎖せざるをえないと危惧しています。

§

この学校は間違いなくこのコミュニティの要望に応えています。

これまで5年以上にわたって活動しており、約150人の少年に部分的または全体的に教育の手段を提供してきました。

45〜50人の生徒を確保してすら完全に自立できるわけではないので、委員会は、学校継続のために1年間に必要となるわずかな追加の金額が、学校を創設した英国人居住者または外国人コミュニティ全体のいずれかによって支払われるべきであると考えています。

(中略)

委員会は、子供を持つ地域住民が閉校を惜しむことを疑いません。

この機会に、寛大にも協力してくれた他の国の人々と同様に、英国人の仲間にも、ヴィクトリア女王陛下のジュビリーの記念としてヴィクトリア・パブリックスクールを設立したときの熱意と寛大さを思い起こしていただき、この学校が6年目を終了しないうちに消滅させられるという恥辱を許すことのないよう強く訴えます。

§

委員会報告後、議長は参加者に自由に発言するよう求めた。

§

学校の存続を望む思いは全員に共通しており、さすがに閉校やむなしという発言はない。

さて、それではどのようにこの危機を回避するかという点については様々な案とそれらの問題点を指摘する意見が続出した。

§

授業料引き上げによる増収―過去に値上げを行った結果、生徒数が減少してかえって苦境に陥ったという苦い経験がある。

そもそも生徒数減少を招いた背景には、東京のライバル校エコール・デュ・マタン(現在の暁星学園の前身)の存在がある。

ミッションから資金援助を受けているため授業料が安く、それが親たちにとって大きな魅力となっている。

§

授業料を引き下げて生徒数増員を図る―生徒数が増えることを確約できない以上、授業料を減額すれば、さらに深刻な事態に陥ることは目に見えている。

§

移転による家賃削減―ブラフの中心に位置する現在の立地が学校の魅力にもなっているため、移転は事態を悪化させるだけである。

移転に伴う費用を賄う経済的余裕もない。

§

このほか人件費を見直せないかという声もあったが、すでに経済的理由から教員1名を解雇したため、現状2名の教師陣をこれ以上削減することはできないという理由で退けられた。

§

いずれの案からも1,000ドルの赤字を回避する手立ては見いだせない。

八方ふさがりの状況下、出席者の中から、どなたか有力な方からのご提案を求めたいという声が上がった。

§

一人の紳士がこれに応えるように口を開いた。

J. F. ラウダー―横浜開港間もない1860年にイギリス外務省領事部門の通訳生として来日して以来、日本各地の領事館に勤務し、現在は法廷弁護士としてバンドに事務所を構える紛れもない横浜の重鎮の一人である。

私は、この学校が(ヴィクトリア女王のジュビリーを記念するという)思いによって始められたことを知っています。

それは崇高な思いであり、さらに言えば、それは本質的に英国的な思いであります。

それゆえに、私たちは思いを遂行するための費用を自分たちのポケットから支払わなくてはなりません。

§

かくいう私自身には、この学校に通わせる子供がおりません。

それでも私はこの学校に深い関心を抱いていますし、私たち英国人はこの学校が破綻することは意図していないと思います。

なぜならそれを維持することは私たちの務めだからです。

§

来年は1000ドルの赤字が生じ、ウォルター氏によれば、開始以来、年間平均800ドルの損失が生じているそうです。

いずれにしても今年は1,000ドルを用意する必要があります。

すなわちそれこそが私たちに現在期待されていることです。

§

この集会の熱意が1,000ドルの寄付をもたらすかはわかりませんが、私としては、学校委員会とは別に、あるいはそれを補足するために設立される委員会に参加し、寄付を募って回ることにやぶさかではありません。

もしこの場でその額が差し出されなければ、コミュニティのメンバー50人に20ドルずつ、もしくは100人に10ドルずつ、または75人に比例した額を1年間保証してもらうよう努力します。

そして、これを実行し、この会合を年末に再び開催することを提案します。

§

この場でその額が達成されなければ、委員会は英国人コミュニティに出向き、寄付をお願いすることになります。

しかし私は学校を維持するために資金を募ること、そして今後数年間1,000ドルを調達し続けることは難しくないと考えます。

§

ラウダー氏の発言は人々を元気づけ、会場から拍手が沸き起こった。

§

経費削減についていくつかの議論を経て議事はラウダー案の採決に移ることとなり、議長がラウダー氏の動議を読み上げた。

「今年度の赤字を補填するため、この場で1,000ドルの支援金を募ること、また英国人コミュニティに支援を呼びかけるための委員会をただちに任命すること」

§

一人の紳士から質問の声が上がった。

§

なぜコミュニティの一部に限るのですか?

 

§

声の主はフェリス女学校の校長を務めるアメリカ人牧師E. S. ブース氏である。

出席者のうちアメリカ人は同じく聖職者であるH. Rルーミスの二人だけで、残り全員がイギリス人であった。

§

発言は続く。

§

私は英国人ではありませんが、ヴィクトリア・パブリックスクールの維持に深い関心を抱いています。

私はアメリカ人であり、アメリカ人、ドイツ人、そして他のすべての国籍の人々が、学校存続に力を貸すことを光栄に思うと確信しています。

それは学校がコミュニティ全体のものだからです。

§

私は息子をこの学校に3年間通わせました。

息子の勉強の様子を注意深く見ていましたが、その進歩は実に満足のいくものでした。

学校が支援不足で滅んだ場合、それはコミュニティにとって大きな損失になると私は主張します。

§

確かに在籍者数は減少していますが、それは新しい学校を試すことを好む親子がいたからです。

これはよくあることです。

§

もう一点としては、法外とはいえないものの授業料が変更されたので、家族が多い家庭にとっては負担が大きくなってしまったからです。

§

しかしながら授業料だけで学校が経済的に自立できるかはさだかではありません。

アメリカに限らず、ほとんどの地域において、学校は皆、州または基金からの支援を必要としています。

§

私たちが直面している問題についていえば、私自身、喜んでいくばくかを支援金リストに加えさせていただきたいと思っています。

§

ブース氏の力強い言葉に感激した出席者たちから拍手喝さいが送られた。

§

議長

ブース氏が支援の申し出をしてくださったことは極めてありがたいことです。

私は動議の文言から「イギリス人」という文言を削除する時が来たと思います。

§

ラウダー氏に異存があろうはずはない。

その通りです。

今まさに、この学校はイギリス人の枠を超えてコミュニティの学校となる時代が来たのです。

とはいえ学校が設立された理由を忘れてはなりませんが。

§

動議は満場一致で可決された。

この後、コミュニティに支援を要請する委員として、ラウダー氏、ブース氏を含む6名が任命され、次年度の学校運営委員に現メンバーが再任されることが決定して年次総会は無事閉幕となった。

§

会議中に出席者の中で支援金リストが回覧されていたが、その合計額は460ドルに及んだ。

その後コミュニティからも追加の援助を受けて学校は閉校の危機を辛くも脱する。

§

この会議を機にイギリス女王のジュビリー記念事業として設立されたヴィクトリア・パブリックスクールは、横浜の外国人コミュニティ全体の学校として存続を目指すこととなった。

果たしてこの方針転換は居留地の人々に受け入れられたのだろうか。

その答えは早くも翌年明らかになるのである。

 

図版:
・O. M. Poole著 “The Death of Old Yokohama(古き横浜の壊滅)”の表紙と本文 ‘Yokohama before the Catastrophe(破滅以前の横浜)’
・ラウダー肖像 Japan gazette, Yokohama semi-centennial, specially compiled and published to celebrate the fiftieth anniversary of the opening of Japan to foreign trade, 1909
・ブース肖像写真(筆者蔵)

参考資料
The Japan Weekly Mail, Feb. 4, 1893
・O. M. プール『古き横浜の壊滅』(有隣堂、昭和51年)
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)


 

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■写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(後編)

2023-09-27 | ある日、ブラフで

前回に続き1908年5月30日メモリアル・デーの写真を紹介する。

写真はすべて当日横浜での式典に参加した米国海軍戦艦デンバーの乗組員の一人ジョン・カウト氏の旧蔵品。

筆者が最近入手したものである。

§

戦艦デンバーの一行はフランス波止場に上陸し、楽隊を先頭にブラフ(山手町)99番地の米国海軍病院まで行進。

病院の敷地内で行われたトーマス・オブライエン米国大使主宰の礼拝に参加したのち、外国人墓地にある軍艦オネイダ号犠牲者の記念碑に赴き献花を行った。

オネイダ号は1869年に横須賀の観音崎沖で沈没した米国海軍戦艦である。

一連の式典には、米国海軍軍人ほか、米国人をはじめとする横浜の外国人居留民が多数参加した。

§

各々の写真の裏には当時横浜で写真店を営んでいた米国人カール・ルイスのスタンプとともにカウト氏によるメモ書きが記されている。

今回紹介する写真の説明文はこのメモをもとにして筆者が書き添えたものである。

 

横浜港フランス波止場に上陸する水兵らの大隊。

フランス波止場の場所は現在の山下公園内の沈床花壇にあたる。

 

フランス波止場に整列する米国海軍戦艦デンバー中隊を含む大隊。

背後に見える洋風建築はオリエンタルパレスホテル。

 

米国海軍病院で行われた礼拝で「共和国讃歌」を歌う米国人と第三戦隊将校ら。

下は一部を拡大したもの。

右側黒点のついた二人の人物が戦艦デンバー艦長キャパートン、同クリーブランド艦長クレイン。

左から3番目の人物は風貌から推しておそらくフエリス和英女学校第二代校長ユージーン・サミュエル・ブース氏。

 

米国海軍病院での礼拝を終えて、外国人墓地内のオネイダ号記念碑に向かう人々。

戦艦デンバー艦長W. B. キャパ―トン(黒点)、米国海軍太平洋艦隊司令官I. N. ヘンフィル少将(×印)、U. F. W.オブライエン駐日米国大使(〇印)

 

オネイダ号記念碑に花を手向ける米国海軍病院の患者ら。

右側後方 将校の制帽・制服を着用した2名は戦艦デンバー水兵中隊を指揮するスタントン・L. ハザード少尉、トーマス・W. ウィザース少尉。

 

カウト氏が所持していたメモリアル・デーの戦艦デンバー歓迎晩餐会メニュー。

1909年のもので、ホテル名は記載されていない。

主菜は七面鳥のローストと子牛肉のミートローフ、脇皿としてグリンピースやマッシュドポテト、レタスとトマトのサラダなどが供された。

デザートはイチゴのショートケーキ生クリーム添えとあるが、私たちが親しんでいるスポンジケーキを用いたものと異なり、
アメリカではパンのような台にイチゴとクリームを挟んだ菓子を指すとのこと。

 

メモリアル・デーの写真ではないが、それらとともに保管されていた1枚。

水兵服を着用していることから、おそらくカウト氏本人と思われる青年と若い婦人。

おそらく恋人との思い出の一枚か。

だとすれば、とびきり器量よしで自慢の彼女だったこと間違いなしだろう。

 

図版:
・写真及びメニューカード すべてジョン・カウト氏旧蔵品(筆者蔵)

参考資料:
The Japan Weekly Mail, June 6, 1908.
・ジョン・カウト氏の日記

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■写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(前編)

2023-08-27 | ある日、ブラフで

1907(明治41)年4月、アメリカ東岸の都市ハンプトンを一隻の船が出航した。

米国海軍戦艦「デンバー」。

はるか故国を離れ世界各地の都市を巡ったのち、艦は1911年サン・フランシスコ港に帰港する。

その長きにわたる旅路のなかで日本を2度訪れ、横浜や神戸に寄港した。

1908年と翌1909年のメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)の時期、乗組員らは横浜に滞在し、外国人墓地で行われる式典に参加した。

§

筆者は最近、この航海の船員であったジョン・カウトという人物の日記と写真を入手した。

航海中と寄港地での日々の出来事が几帳面な文字で簡潔に綴られた日記。

航海中の乗組員のリクリエーションの様子や港の風景を撮影したモノクロの写真。

その合間に寄港地での歓迎会のメニューや名刺なども挟まれている。

写真のなかには横浜のメモリアル・デー関連のものが10点含まれていた。

それらすべての裏側に、本人によるメモ書きと当時横浜で活躍していた米国人写真師カール・ルイスのスタンプが残されている。

ブラフの人々にとって重要な年中行事であったメモリアル・デーを物語る貴重な資料である。

§

本記事では1908年のメモリアル・デーの様子をカウト氏の写真とともに2回に分けて紹介する。

前半ではジャパン・ウィークリー・メール紙に掲載された記事を、後半では残りの写真とカウト氏の残したメモを主に記す。

前半の新聞記事はかなり長文のため、その大半を占める当時の米国大使トーマス・オブライエン氏によるスピーチを割愛させていただくことをお断りしておきたい。

§

横浜メモリアル・デー
(1908年6月6日付 ジャパン・ウィークリー・メールより)

 

5月30日土曜日の午後、横浜・東京のアメリカ人コミュニティ―によってメモリアル・デーの祝典が行われた。

南北戦争の戦死者と、祖国のために働きこの地域で命を落とした兵士や船員に敬意を表する記念日である。

正午、アメリカ艦隊による分時砲が横浜港に響き渡り、午後2時少し前には海兵隊員及び水兵250名が楽隊とともに上陸した。

フランス波止場に上陸する戦艦デンバーのボート

 

行進を先導する戦艦レインボーのフィリピン人バンドと海兵隊の警備兵

 

式典会場となる米国海軍病院へと行進

§

ブラフ(山手町)97番地の米国海軍病院において行われたトーマス・オブライエン米国大使主宰の礼拝には、主賓としてJ・N・ヘンフィル米艦隊第3戦隊司令官、H・B・ミラー米国総領事、アメリカ・アジア協会のN・F・スミス会長、退役軍人でもあるH.ルーミス牧師、ユニオン・チャーチ牧師T.ローズベリー・グッド師が出席した。

また、米国海軍病院からはドゥ・ボース監察医、J・C・プライヤー外科医、T・S・フィリップス薬剤師が参列し、そして横浜に寄港していたデンバーを含むアメリカ海軍の艦船の乗組員たち、艦隊副官マニックス中尉、補佐官W・S・アンダーソン少尉、海兵隊旗艦レインボーのエリソン少尉、ペンス少尉、S・W・ボーガン少尉)、戦艦デンバーのハザード少尉と海軍兵学校生ウィザーズ、戦艦クリーブランドのリーベ少尉と海軍兵学校生D.J.コープランド、戦艦コンコードのJ.H.ニュートン少尉などの海軍将校らのほか、地域社会の主だった人々が顔をそろえて参加者は多数に及び、婦人の姿も多く見られた。

§

礼拝が行われた芝生広場の三方を戦艦レインボーのボーガン少尉が指揮する射撃隊を含む水兵と海兵隊員がとり囲み、主宰者のパビリオンの前には献花がふんだんに飾られていた。

花を手配したのはバグナル夫人、コルトン夫人、デュ・ボース夫人、マンリー夫人、サース夫人から成るアメリカ人婦人らの委員会である。

旗艦コンコードのバンドが数曲演奏し、合唱の伴奏を務めた。

合唱の先導をしたのは男女数名による合唱団である。

§

バンドによる「アメリカ(My Country 'tis of Thee)」の演奏で礼拝は幕を開け、戦没者をたたえる「リパブリック賛歌(Mine eyes have seen the glory of the Lord)」の合唱が続いた。

H.ルーミス牧師が詩篇90と黙示録の一部「そして私は新しい天と新しい地を見た」を朗読し、その後参加者全員で「星条旗」を合唱した。

T.ローズベリー・グッド牧師が祈りを捧げた後、「大洋の宝コロンビア」をバンドが高らかに演奏した。

§

続いて主宰者であるトーマス・オブライエン米国大使が会衆の前に立った。

大使は、アメリカ人参加者にとってもすでに過去の記憶となった南北戦争と、それを契機としてアメリカ国民の団結が生まれた歴史について語り、この記念すべき日を期に、祖国のために命を捧げた人々を悼むとともにアメリカ合衆国国民としての団結への思いを新たにしてほしいと人々に呼びかけた。

大使の言葉に会衆は盛大なる拍手をもってこたえた。

§

讃美歌「主よ 御許にちかづかん」の合唱の後、バンドが葬送曲を演奏した。

E・S・ブース牧師による祝福と、ラッパの合図により正式な式典は終了した。

§

その後、中隊は墓地まで行進して墓に花を供え、3発の一斉射撃が行われた。

池上本門寺と新しい墓地にも同日の朝花が届けられた。

(池上本門寺には1869年観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦オネイダ号の犠牲者の遺骨の供養碑がある。「新しい墓地」はおそらく根岸の外国人墓地を指す、筆者)

オネイダ号乗船者の墓前にて弔砲3発を撃つ海兵隊の警備兵(横浜外国人墓地にて)

 

戦艦デンバー中隊(横浜外国人墓地にて)

 

ユニオン・チャーチで礼拝

翌日曜日にはユニオン・チャーチにおいてメモリアル・デーを記念する特別礼拝がささげられた。

司式を務めたT・ローズベリー・グッド牧師が「国家のための献身」という題で説教を行なった。

信徒以外にも大勢の人が集まっており、米艦サプライの水兵約50名のほか、米軍病院に入院中の将校及び兵士のほか、教会役員から招待されたヘドワース・ラムトン提督麾下の英国艦隊将校及び兵士120名から成る分遣隊も出席していた。

§

この日のために聖歌隊が特別に増員され、礼拝には通常の賛美歌のほかに「As Pants the Heart」、「Let your Light so Shine」(奉献唱)などがささげられた。

礼拝の最後の歌はアメリカ国歌であった。

§

星条旗が掲げられた説教壇にグッド牧師が立ち、テモテ4章6、f7節をテキストに雄弁に説教を行った。

§

牧師は戦争が正当化されるべきものであったかという問題について考察した。

南北戦争は極めて悲惨な出来事であったが、アメリカに恩恵をもたらすものでもあったと述べ、なぜならこの戦争こそが国家の結束と、国がよって立つところの崇高な理想を生み出す契機となったからであると結論付けた。

§

キューバにおける戦いによって結果的にキューバ人が自らの政府を手にしたこと、アメリカ政府が義和団事件の賠償金の余剰分を中国に払い戻したこと、日露戦争においてルーズベルト大統領が和平調停に果たした役割について牧師は言及し、市民生活、ビジネス及び政治活動について公正に記録することを行政府に代わって望むと述べた。

そして主が歩まれた道を自らもまた誠実に歩もうとし、主が与えると約束された力を求めようとしない限り、人は真の人間、真の市民にはなり得ないのであると語り掛け、人々の心をイエス・キリストの理想的な生涯へと導く言葉で説教を終えた。

 

図版:
・最初の写真 ジョン・カウト氏の日記に張られていた蔵書票(筆者蔵)
・その他の写真 すべてジョン・カウト氏旧蔵品(筆者蔵)

参考資料:
The Japan Weekly Mail, June 6, 1908.
・ジョン・カウト氏の日記

 

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■アリアンス・フランセーズ「文学と音楽の集い」

2023-07-27 | ある日、ブラフで

アリアンス・フランセーズ(フランス協会)は世界各地に拠点を持つ団体であり、日本においては1903年10月に横浜で結成された。

東京・横浜在住のフランス人居留民が中心となって文芸や演劇関係の講演等を行うサークルとして、居留地の娯楽活動の一端を担っていたようである。

§

1906(明治39)年1月16日火曜日、ブラフ178番地に建つヴァン・スカイック・ホール(フエリス和英女学校講堂)にてアリアンス・フランセーズの定期会合が開催された。

§

今回のテーマはフランスにおけるロマン派の代表的詩人にして政治家としても活躍したラマルティーヌ。

会合の議長を務めるコグラン氏自らによる、この詩人の代表作『瞑想詩集』に関する研究発表と、それに続く演奏会を目当てに少なからぬ人々がホールの客席を埋めていた。

§

冒頭、コグラン氏は次のように述べた。

当初は散文と詩作を含むラマルティーヌの作品全体について概観することを意図していたが、研究を進めていくうちに『瞑想詩集』が最も興味深い部分だと気づいた。

その作品にこそ詩人の天才的特質が見事に表れているのである。

そして次のように続けた。

§

ラマルティーヌは生来の詩人というよりも、歌い手として生まれついたのである。

彼の詩はほとばしるナイチンゲールのさえずりにほかならない。

それは、夜明けを、薫る風を、銀色の月を、木々の小枝の上に生まれた恋人たちの喜びと幸福を、そしてそれがなえていく時の悲しみを褒めたたえる。

ラマルティーヌの『瞑想詩集』を研究するために、書物の最初から最後まで目を通す必要はない。

あてずっぽうに本を開けばいずれのページにも、どのような情念が彼のことばに霊感を与えたかはっきり見て取ることができる。

なぜならそれらはその瞬間に生まれ出た嬰児だからだ。

§

一つの例を挙げると、詩人は2人の友人とともに漁師のボートに乗って、ブルジェ湖に漕ぎ出した。

すると激しい嵐が起こり、湖の対岸にある小さな島の岩の上に打ち寄せられた。

ボートの修理が終わるまでの数日間、島の古城に住む老紳士が彼らに宿を貸してくれた。

その後ラマルティーヌは 「湖」という詩を書き、漁師に託してかの紳士に贈った。

§

もうひとつの「瞑想」は、彼の心から涙とともに生まれた。

それは芸術家の想像力の産物ではなく、ジュリーの死によって呼び起こされたものであったように思われる。

ジュリーの臨終に立ち会った友人のM. de V.は、彼女が死の間際に唇の上に置いていた十字架を詩人のもとに届けた。

ラマルティーヌは、1年のあいだ沈黙を守り、悲しみのうちに喪に服した後に「十字架」を書いた。

詩人は二度とその詩を読むことはないだろうと言われていた。

書いただけで十分だったからだ。

§

ラマルティーヌは革命前にブルゴーニュの丘や森で一人の修道士に出会った。

革命後に彼は還俗して一市民となった。

彼は広大な領地の持ち主で、詩人は手元不如意になったとき、またジュリーを失った悲しみを癒したいと願ったとき、そこに足を向けるのが常だった。

そこで彼は「夕暮れ」を書いた。

§

「一輪の花へ」「幼子へ」の二編の朗読の後、コグラン氏は、詩人とその姉妹が子供の頃、天使の音楽と呼んでいたものがどのように演奏されていたかに思いをはせた。

それはラマルティーヌ自身によって語られている。

§

子どもたちは柳の枝を弓形や半円に曲げてその両端を留め、ラマルティーヌは姉妹の長い髪から数本を抜き取り、ハーブのように形作り柳に結びつけてつるした。

夏のそよ風が、眠りを誘う様に、また目覚めさせるように、時にやわらかく、時に力強く弦を奏で、それは松の枝に吹く風の音のように、柔らかく甘美な和音を奏でた。

子供たちはそれを聴いて、まるで天使が歌っているみたいだと言った。

このハープには、少女の巻き毛から抜き取ったばかりの初々しい絹のような毛が使われた。

子供たちはある日、天使は別の人の髪の毛でも同じメロディーを奏でられるだろうかと考えた。

§

その様子を見ていた年老いた叔母が、自分の髪にハサミを入れることに同意した。

今度は長い白髪である。

別のハープが作られ、両方ともつるされて風に吹かれた。

片方のハープがもう片方より強く張られていたのか、それとも片方のハープに吹く風がもう片方のハープより弱かったのかはわからない。

しかし子供たちは、空気の精霊が、少女の金髪よりも白髪の弦のほうで、物悲しく、哀れを誘う様に歌っていることに気づいた。

いずれも美しい調べを奏でたが、弦となった髪の毛の持ち主たちの年齢が異なるように、音楽のうちに宿る魂もまた異なっていた。

二編の詩が、人生における二つの時代それぞれを正確に表現している。

--青春時代の夢と喜び、晩年の憂いと悲しみ、人生への挨拶と別れ。

しかし、その別れは、人生の夕暮れ時、最も目に鮮やかな光を地平線上に放つ幻影への厳粛で神聖な挨拶だったのである。

§

講演のなかでコグラン氏が触れた作品のうち「十字架」をジャミン氏が朗読し、歌曲としても知られる「湖」と「夕暮れ」をルイナット氏が美しい歌声で披露した。

§

第二部となる演奏会の最初の曲「スラブ舞曲」を演奏したのはザンガー夫妻である。

これまでヴァイオリン、チェロまたは歌唱の伴奏者としてのみザンガー氏の演奏を耳にしてきた人々にとって、ザンガー夫人との連弾は素晴らしいサプライズだったろう。

特に二曲目で彼は観客を舞い上がらせた。

彼が伝えようとする、作曲家の魂に深く迫る深く情熱的な洞察力の広がりがみごとなテクニックに込められていた。

そしてその結果はほとんど天啓と言っていいほどであった。

§

続くヴァイオリン独奏ではボロウスキーの曲をプール氏が切れ味の良い音色で聞かせた。

§

次に登場したアーウィン夫人は「五月の夜」と「ニノン」の二曲を歌い、彼女特有歌い方で観客を魅了した。

§

会の掉尾を飾ったのはザンガー、プール、シュミットの三氏による三重奏である。

チェリストとして素晴らしい腕前を披露したルドルフ・シュミット氏は、今後、会の音楽指導者の役割を担う人物である。

コグラン議長は年次総会において、シュミット氏がこの骨の折れる仕事を引き受けてくれたおかげで、アリアンス・フランセーズの音楽部門はさらなる発展を遂げるだろうと述べた。

 

<パンフレット 表面>

横浜アリアンス・フランセーズ

文芸と音楽の会

1906年1月16日5時15分

ヴァン・スカイック・ホール

 

<パンフレット 中面>

第一部

A. ラマルティーヌ:瞑想詩集
講演 コグラン氏

a.  「湖」
曲:ニーダーマイヤー
歌唱:ルイナット氏

b.  「十字架」
朗読:ジャミン氏

c.   「夕暮れ」
曲:グノー
歌唱:ルイナット氏

第二部

I.    a. スラブ舞曲 No. IV. 
b. 同 No. VIII. ドボルザーク
ピアノ:ザンガー夫妻

II. 「崇拝」ボロウスキー
ヴァイオリン プール氏

III.   a. 「5月の夜」 G.トーマス
b. 「ニノン」 トスティ
歌唱:アーウィン夫人

IV.  三重奏 作品102 終章 ラフ
ピアノ ザンガ―氏、ヴァイオリン プール氏、チェロ シュミット氏

 

図版:
・「アリアンス・フランセーズ 文学と音楽の集い」パンフレット(筆者蔵)
・写真 記事に登場するプール氏(右端)が、ドイツ人ヴァイオリニスト アウグスト・ユンケル氏(左端)と弦楽四重奏を共演した際のもの。ユンケル氏はお雇い外国人として東京音楽学校でヴァイオリンと管弦楽の教育にあたり、瀧廉太郎や三浦環ら多くの音楽家を育てた。(アントニー・メイトランド氏所蔵)

参考資料:
The Japan Gazette, Oct. 22, 1903
The Japan Weekly Mail, Jan. 20, 1906

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■エルドリッジ少佐かく語りき―1897年デコレーション・デー

2023-06-28 | ある日、ブラフで

国を二分して戦われた南北戦争終結後、アメリカでは戦没者の墓に花を供える習慣が生まれた。

やがて毎年5月30日がデコレーション・デーと定められ、人々はその日、祖国のために命を捧げた軍人を称えるためにその墓を訪ね、花を捧げるようになる。

そして祖国から遠く離れた横浜の地においても、5月30日はアメリカ人戦士たちの墓が花で飾られる日となった。

*後のメモリアル・デー、現在では5月の最終月曜日

§

その始まりは、横浜に入港しているアメリカ艦船の乗組員が小部隊で上陸して外国人墓地を訪れ、異国の地に眠る兵士の墓に花を供えるというささやかな行為に過ぎなかった。

1889年からはアメリカ領事やアメリカ人居留民がこれに加わり、実質的に横浜におけるアメリカ国民の公の行事となった。

§

式典では南北戦争に従軍した経験のある軍人が式辞を述べるのが慣例であったが、1897年のデコレーション・デーでは、横浜居留地の高名な医師スチュワート・エルドリッジ氏がその任に当たることとなった。

§

エルドリッジ氏は1843年1月2日ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた。

17歳で陸軍に入隊すると翌年4月12日に南北戦争が勃発。

エルドリッジ青年は北軍ウィスコンシン第28義勇軍の一員となり、1864年トーマス将軍の麾下、高級副官に任じられる。

§

戦争は翌年4月に終結した。

その傷跡は大きく、4年に及ぶ戦いの間に南北両軍合わせておよそ50万人が命を落としたといわれている。

§

終戦の年にエルドリッジ氏はフランセス・ヒース嬢というウィスコンシン州ウォーキシャー出身の女性と結婚。

1866年までジョージ・ヘンリー・トーマス将軍の部下として働き、その後ワシントンに移りオリバー・オーティス・ハワード将軍のもとで、奴隷解放局に勤務した。

一方、名門ジョージタウン大学に入学し1868年に医学博士の学位を取得。

大学では解剖学の助手に任命され、さらに講師への昇格も果たす。

§

1869年エルドリッジ氏はワシントンの連邦農務局に奉職し、初代農務局図書館司書として農務関係資料収集に尽力する。

§

1871年、日本政府から派遣された黒田清隆開拓使次官がアメリカ視察に訪れた。

彼は農務局長ホーレス・ケプロン氏に開拓使顧問として来日するよう要請し、ケプロン局長もこれを受け入れた。

そしてエルドリッジ氏もまた農務局と大学の両方の職を辞し、ケプロン顧問の秘書兼医師として開拓使顧問団の一員となることを決断したのである。

§

エルドリッジ氏が日本へと発つに際し地元紙には次のような記事が掲載された。

§

当市在住のスチュワート・エルドリッジ医師はケプロン将軍率いる派遣団の一員として日本に向かう。

エルドリッジ医師は若年ながら、ジョージタウン大学医学部講師として、また農務局司書として確たる名声を得た人物である。

農務局がすぐれた図書館を有するのは氏の調査力判断力に負うところ大である。

戦時中は少佐としてハワード将軍の参謀を務めた。

*実際には、ハワード将軍のもとで勤務したのは戦後になってから。

§

日本到着後、エルドリッジ氏は函館病院に医師として勤務する傍ら函館医学所の教授に就任。

治療、教育共に熱心に取り組んだ。

1874年に当初の契約期間が終了すると、翌年横浜に居を移して医療活動を再開した。

30歳の時である。

§

以来、長年にわたりゼネラル・ホスピタル等に勤務する傍ら、地元の医師らと協力してコレラ防疫や衛生環境向上に努めるなど医療活動に力を尽くし、1897年4月にはこれらの功績を認められて日本政府から勲四等に叙せられるという栄誉に浴した。

§

1897年5月30日デコレーション・デー。

この日は日曜日にあたり、横浜外国人墓地には例年より多くの人々の姿が見られた。

午前9時30分、米国艦ヨークタウン号、ペトレル号所属の水兵及び海兵隊員の一団が谷戸橋付近から上陸し、軍楽隊を先頭に行進。

やがて隊列は人々の待つ墓地に到着した。

§

式典の会場はオネイダ号犠牲者のための記念碑を囲む一画である。

アメリカのアジア艦隊艦船オネイダ号は休暇のためアメリカに戻る途中、1870年1月24日、横須賀・観音崎沖でイギリス船と衝突して沈没。

亡くなった将校や兵士らは母国から遠く離れたこの地に葬られ、その霊を慰めるために横浜外国人墓地の一画に碑が建てられたのである。

§

例年通り米国旗と花で飾られた石塔のまわりを兵士らが取り囲むように整列し、花環や十字架を手にした人々がその背後に並ぶ。

「主よ御許に近付かん」の調べが静かに流れ、ヨークタウン号のストックトン大尉が短い祈りを捧げた。

再びの演奏を挟んだのちに大尉は記念日について手短に語ると、スチュワート・エルドリッジ氏にその場を譲る。

戦場を離れてすでに30余年、横浜居留地において誰知らぬ人のいない医師を、大尉は「エルドリッジ少佐」と紹介した。

§

エルドリッジ少佐は次のように語り始めた。

§

死者を敬うことは、人間の本性の美しく敬虔な本能であり、これは未開の部族の人々でさえも例外ではありません。

世を去りし人々について、生前の至らぬところを記憶にとどめることなく、美徳をのみ思い出すことは、全人類にほぼ共通していると言えるでしょう。

そしてもしその死者たちが名誉に値する人々であるならば、私たちは彼らの残した記憶をより一層大切にせねばなりません。

人類のために命を捧げ、その行いにおいて世界に貢献した人々の記憶を。

§

そこで、大きな内戦において、祖国を、そして人類の自由と進歩を守るために亡くなった人々を記憶にとどめておきたいという願いから、アメリカでは、1年のうちのある1日、試練の時の記憶を新たにし、戦いに命を落とした人々と、戦いに臨んだ人々の墓を花と国旗で飾る習慣が生まれました。

それは今も、この明るい春の季節に続けられています。

その時、私たちが捧げる花の甘い香りは、彼らのかぐわしい行いとともに天まで立ち上るのです。

私たちはその行いを祝福します。

我が広大なる国土のいたるところにおいて。

その場所において、愛され、失われた人々は安らぎを見出し、そして今、国民から心からの感謝のこもった供物を受け取るのです。

§

北軍と南軍、ブルーの軍服、グレーの軍服に身を包んだ兵士たちは、ともに大軍団から徐々に数を減らしつつも、4年もの長きにわたり、世界中が目を見張るほどの崇高で愛国的な献身をもって闘い、命を失いました! 

ああ、それが時に過ちであったとしても、彼らは私たちの美しい南の地の勇敢な息子たちとともに、死んでいった仲間を称えるために向かったのです、時に神に感謝しつつ! 手を取り合い、兄弟として。

§

戦争は非常に大規模で、かかわった人数も膨大であったため、商売や旅行のために外国から人が訪れるような場所なら、地球の広い国境のなかで、アメリカ人のための祠のない墓場などほとんどありません。

§

だからこそ、私たちは今日、このさいはての海辺において、私たちが誇りとする国家と国土を保つために戦った人々の記憶に敬意を表するのです。

このささやかな神の庭には、戦争の危険から逃れながらも、病気の犠牲者となってこの異国の地で命を落とした人々が眠っています。

すべての戦争において、銃弾や剣よりも多くの人を死に追いやるのは病気なのです。

その傍らには、海戦の試練を無事に乗り越えながらも、突然の難破で亡くなった人々が眠っています。

彼等は戦死した仲間のもとに赴いたのです。

§

この英雄たちの墓にささやかな賛辞を捧げるにあたり、本日の式典が、私たち全員に愛国心を学ぶ機会を与えるものであることを思い起こしましょう。

人々の間で起こることは皆、すぐに忘れ去られてしまい、すでに多くの人にとって、叛乱の戦いの記憶は夢の中のことのようにぼやけてしまっています。

若い世代にとっては古代史のことのように思えるかもしれません。

そして、豊かで多くの人口を抱え、あらゆる条件が整っている平和な我が国では、戦争は二度と起こらないと感じています。

§

それゆえ、1861年(南北戦争の)の雷鳴がとどろいたとき、互いに愕然とし、戦争が、残酷で血なまぐさい戦争が、実際に私たちに迫ってきていることに気づきませんでした。

しかし、その悲惨さは、戦場からの最初の使者の後を追いかけるように現れ、悲しみ、苦しみ、死がひとつとなって、瞬く間にこの国のほとんどすべての家庭を巻き込むこととなりました。

§

神よ、戦いを告げる鐘が我が故国に鳴り響くことが二度と再びありませんように。

しかし、万が一逃れる術なく戦いが起こったとしても、今日の若者たちが、彼らの父たちがそうであったように、愛する国のために喜んで命を捧げることができますように。

§

最後にエルドリッジ少佐はアメリカの詩人セオドア・オハラが米墨戦争の戦没者に捧げた有名な詩の一部を朗読した。

‶安らかに眠れ、香によりて聖別されし死者たちよ

汝らが流した血と同じように愛しい者たちよ

邪悪な足音がこの場所に足を踏み入れることはない

汝の墓所に生える草の上を!

汝の栄光が忘れられ去られることはない

名声がかの記録を残し、

名誉がかの神聖な場所を指し示し、

武勇がそこに安らかに眠っているのだから”

§

エルドリッジ少佐のことばは人々の胸に深く刻み込まれた。

その後、いくつもの花環が捧げられ、海軍分遣隊は楽団の後に続いて上陸地点まで戻っていった。

残された大勢の横浜居留民らは墓地を散策し、友人らの眠る墓に新しい花を供えるものもあった。

 

図版(上から)
・ 開拓使顧問団一行(左から2番目がホーレス・ケプロン団長、右端がスチュワート・エルドリッジ氏)
  Frank Leslie’s Illustrated Newspaper, Dec. 2, 1871. P. 189

・オネイダ号記念碑写真(カール・ルイス撮影)、筆者蔵

参考資料
The Wheeling Daily Register, July 8, 1871.
The Japan Weekly Mail, June 5, 1897.
The Japan Weekly Mail, Nov. 23, 1901.
・大西泰久編著、六角柾那・高雄訳『御雇医師エルドリッジの手紙 : 開拓使外科医長の生涯』(みやま書房、1981)
・宗田一ほか編著『医学近代化と来日外国人』(世界保健通信社、1988)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)

 

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■「サン・トイ」再び

2023-05-30 | ある日、ブラフで

1901年、横浜において少なくとも3回「サン・トイ」というコミック・オペラが上演された。

最初は2月、ついで3月にモリソン商会の経営者ジェームズ・ペンダー・モリソン氏の山手の私邸において。

よほど好評を博したのであろう、3度目は5月22日、横浜山手の娯楽の殿堂パブリックホールに舞台を移しての公演となった。

§

パブリックホールでの上演の模様は本ブログの過去記事“「サン・トイのリハーサルでメチャメチャ忙しい」横浜素人芝居評判記”で取り上げた。

出演者か裏方かはわからないが、関係者と思われる「フレッド」という人物から英国在住の従妹に宛てられた絵葉書をたまたま入手したことがそのきっかけである。

公演の5日前、5月17日付のその葉書には「サン・トイのリハーサルでメチャメチャ忙しい」と書かれている。

当時の新聞を調べてみると、長文の関連記事が2日にわたって掲載されていたのでそれらをもとに記事を作った。

§

今回再びこの劇を取り上げることにしたのは、またも偶然にすばらしい資料に出会ったからである。

§

今年の初め頃、横浜居留地関係情報をネットで渉猟するうちに、たまたま英国人アントニー・メイトランド氏が運営するサイトにたどり着いた。

メイトランド氏は1945年生まれで、サイトに掲載されている家系図によればナサニエル・G・メイトランド氏とその妻エリノア(旧姓プール)の孫にあたる。

同サイトに掲載されている氏の大伯父ハーバード・プールの手記には、エリノアとナサニエルは1904年横浜のクライストチャーチで華燭の典を挙げたと記されている。

エリノアが遺したアルバムの写真も数点添えられており、その中には横浜で撮影されたと思われるものもあった。

早速、連絡を取ると、メイトランド氏はアルバムの全写真データを快く送ってくれた。

§

70枚を超える画像データの一枚一枚をつぶさに観察するにはそこそこ時間がかかる。

入手して暫く経ってからのこと、写真に添えられた手書き文字の判読を試みていたところ、二人の若い女性が肩を寄せ合っている1枚の下に書かれたメモに目が吸い寄せられた。

「F. メンデルソン嬢、エリノア・プール嬢 “サン・トイ” モリソン邸にて」。

「サン・トイ」の写真! 結婚前のエリノアが、自分が出演した劇の写真をアルバムに残していたのだ。

§

画像を開いていくと、芝居の1場面らしきものや、洋装や中国服に身を包んだ人々の集合写真などが次々と現れた。

そのうちの1枚には「“サン・トイ”、モリソン邸にて、1901年2月」とメモ書きが添えられている。

モリソン氏の私邸で行われた「サン・トイ」初演時に撮影されたものに間違いない!

§

早速手元にあった関連の新聞記事をメイトランド氏に送ると、「祖父(サン・トイの恋人ボビー役を演じたナサニエル・メイトランド氏)とプール家の人々に関する記事を本当にありがとう! 楽しく読ませていただきました」といううれしい返事が返ってきた。

§

さて今回ご披露するのはモリソン邸での再演の際に新聞に掲載された短い記事と、メイトランド氏所蔵の「サン・トイ」関連写真14点(11画像)である。

写真に添えられていた手書きメモをカギ括弧で画像の下に記し、記事等と照らし合わせてみてわかった情報も書き加えておく。

もしお時間があればぜひ過去記事“「サン・トイのリハーサルでメチャメチャ忙しい」横浜素人芝居評判記(前・後編)”にも目を通していただきたい。

そしてふとした偶然から120年前の華やかな舞台の一端を目にすることができた幸福を少しでも共有していただければ、筆者の喜びこの上ない。

 

§

去る3月20日水曜日の夜、ジェイムズ・ペンダー・モリソン氏の山手の私邸において、シドニー・ジョーンズ氏作曲による大人気のコミック・オペラ「サン・トイ」が再演され、会場を埋め尽くした観客らはその愛らしい音楽と踊りを心行くまで楽しんだ。

前回上演も見事だったが、さらにその上を行くものであったと言えるかもしれない。

J. P. モリソン氏と、思いやりに満ちた夫人のたゆまぬ努力に心から感謝の意を表したい。

新しいクリケット・パビリオンとクライストチャーチの再建資金に大きく資することはよろこばしい限りである。

§

ソロ、デュエット、コーラス、ダンスが次々と繰り広げられ、さらに義和団事件と北京包囲戦といった時事にまつわる曲(ダンス付き)をモリソン家のジョン君とマデリンちゃんが完璧に演じて見せた。

卒なく描かれたプロローグとエピローグ、がらんとした客席を1時間ほどのうちに観客で埋め尽くしたフローレンス・ブラムホール嬢による愛らしいスパニッシュダンスなどなど、それはめくるめくエンターテインメントの一夜であった。

モリソン夫人はサン・トイの主役を見事に演じ、それを支えるキャストたちも申し分なく役目を果たした。

ただ詳細な批評を控えておくことは言うまでもない。

出演者の名前と簡単なあらすじは次の通り。

 

配役

英国海軍大佐 ボビー・プレストン:N. G. メイトランド氏
清朝の役人 イェン・ハウ:E. W. メイトランド氏
イェン・ハウの秘書 リ:G. G. ブラディ氏
小間使い ダドリー:メイトランド夫人
ポピー:F. メンデルソン嬢
ブランシュ:プール嬢
ミ・サン:J. P. D. モリソン君
プラム ブロッサム:マデリン・モリソンちゃん
ユン・シ:ジェイムス嬢
ミ・コニ:A. ページ嬢
シュー:メンデルソン嬢
シェイ・ピン・シン:H. ページ嬢
リ・キャン:ストローム嬢
フ・ユ:T. ページ嬢
トリクシー:フローレンス・ブラムホール嬢
サン・トイ:モリソン夫人

コーラス:アンブレラ・ベアラーズ、ガーズ、バーバー、デンティスト、フォーチュン・テラー、ライス・セラー他

 

第一幕:ピンカ・ポンの通り
第二幕:北京皇帝宮殿

あらすじ

これは、清朝の役人イェン・ハウの娘サン・トイの数奇な人生を描いたものである。
第一幕では、娘を皇帝のもとに差し出すのを免れようと、父親が彼女を男の子として育てていることが物語られる。
次の幕で、皇帝がイェン・ハウに息子を北京に送るよう命じ、彼は役人として非常に厄介な立場に立たされる。
しかし、サン・トイは自ら父を窮地から救い出し、英国海軍大佐ボビー・プレストンとめでたく結ばれる。

 

この劇はロバート・ケナウェイ・ダグラス教授(19世紀後半に活躍した英国人東洋学者 筆者注)による「A Chinese Girl Graduate(中国少女の卒業)」を翻案したものである。

(左の写真の人物はナサニエル・メイトランド氏だが、別の芝居に出演した際のものと思われる)
(右の写真)「F. メンデルソン嬢、エリノア・プール嬢 “サン・トイ” モリソン邸にて」
英国領事令嬢ポピー役のメンデルソン嬢とブランシュ役のプール嬢)

 

「“サン・トイ”、モリソン邸にて、1901年2月」
(1番左端の人物から右横へ)F. メンデルソン嬢(ポピー)、一人おいてプール嬢(ブランシュ)、ナサニエル・メイトランド(英国領事令息、英国海軍大佐ボビー・プレストン)、モリソン夫人(サン・トイ)、エドワード・メイトランド氏(清朝役人イェン・ハウ)、G. G. ブラディ氏(イェン・ハウの秘書 リ)、メイトランド夫人(小間使い ダドリー)

ボビー役のナサニエル(サッシュを着用し右を向いている)とその右側、イェン・ハウ役のエドワード(中国服の男性)は兄弟。
ナサニエルとエドワードのミドルネームはそれぞれジョージ、ウィリアムで、アントニー・メイトランド氏によれば、二人のイニシャルを合わせると「N. G.(役立たず)とE. W. (さらにひどい)メイトランド兄弟」となる。実際にはエドワードのほうが兄。

 

2点ともイェン・ハウとその6人の妻たちほか。
(記事トップの写真も)

 

(左の写真)主役を見事に演じたと評されたモリソン夫人
(右の写真)「モリソン家の子どもたち」
ジェイムズ・モリソン氏の娘マデリンちゃんと息子ジョン君

 

「サン・トイ モリソン夫人、キャプテン ボビー・プレストン N. G. M.」
N. G. M. はナサニエル・ジョージ・メイトランドのイニシャル。
彼とエリノア・プールが結婚するのはこの3年後。

 

「リ G.ブラディ、ダドリー 小間使い エセル」
いかにも芸達者そうな脇役二人。
ブラディ氏はアマチュアながら横浜や東京の舞台で20年以上にわたり活躍してきた玄人はだしの実力者。
エセル・メイトランドはエドワード・メイトランド氏の妻で、後にエリノア・プールの義理の姉となる。

 

「サン・トイ 横浜パブリックホールにて 1901年 ‘ピンカ・ポンの通りの場面 E. バート氏による」
パブリックホールで上演された際の第一幕の舞台。
「ピンカ・ポン」は中国の架空の都市。
舞台装置と背景画はE. バート氏が担当した。
新聞の劇評では絶賛されているが、看板の文字はかなり微妙。

 

中国服でポーズをとるエリノア・プール嬢。

 

図版:すべてアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料:
The Japan Weekly Mail, March 23, May 25, June 1, 1901
・San Toy Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/San_Toy)
・Poole FAMILY Genealogy, www.antonymaitland.com/poole001f.htm

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■日本ラグビー史上に残る一戦! YC&AC対慶應義塾

2023-04-26 | ある日、ブラフで

JR根岸線を山手駅で降りて10分ほど坂を上った住宅地の一角に、広い駐車場を備えた低層の白い建物が見えてくる。

ヨコハマカントリー&アスレチッククラブ-通称YC&AC。

今も英語が公用語というこのスポーツクラブの歴史は古く、明治初年に英国人居留民らによって今の横浜公園のあたりに設立されたヨコハマクリケットクラブにさかのぼる。

§

1900年頃にはヨコハマクリケット&アスレチッククラブ(YC&AC)へと名称を改めた。

英国人のみならず他の外国人も加わってクリケット以外の野球、ラグビー、陸上競技などを共にプレイするようになった。

§

1887年にブラフ(山手町)にヴィクトリア・パブリックスクールが開校すると、クラブは生徒たちにグラウンドを貸すようになる。

そこでクリケットや陸上競技で競い在った少年たちの多くが卒業後、会員として慣れ親しんだグラウンドに戻り、幼馴染やご近所同士といった気の置けない仲間たちとスポーツを楽しんだ。

§

当時の新聞はクラブのメンバーがプレイした様々な試合のようすを頻繁に伝えている。

「ヨコハマボーイ(横浜生まれの外国人子弟)」対「それ以外」、「独身者」対「妻帯者」、「パブリックスクール卒業生」対「それ以外」といった条件を設けてチームに分かれて対戦した。

§

1901年12月7日。

この日行われたラグビー試合のチームは異例の顔ぶれだった。

YC&ACに挑むのは東京からやってきたから慶應義塾の選手ら。

すなわち日本ラグビー史上初の日本人チーム対外国人チームの対決である。

§

慶應チームを率いるのは、同校で教鞭をとるE. B. クラーク。

冬の間何もすることがないように見えた三田の学生たちに英国のスポーツであるラグビーを紹介した人物である。

クラークに頼まれてチーム育成に力を注いだ田中銀之助もメンバーとして参加。

クラークと銀之助はヴィクトリア・パブリックスクールで首席を争った秀才同士、その後それぞれケンブリッジ大学に進み、帰国後はYC&ACのメンバーとなっていた。

写真上より E. B. クラーク、田中銀之助

§

迎え撃つ外国人チームの選手のうち少なくとも4名もまたヴィクトリア・パブリックスクール出身者である。

シドニー・ウィーラーの父はゼネラル・ホスピタルに勤務する医師エドウィン・ウィーラー。

ジョージ・オールコックは生糸検査人の、ジョアン・ドゥラムンドは日本郵船の船員であった。

(残る1名モスは兄弟が多いためファースト・ネームが特定できない。父の職業も不明)

シドニー・ウィーラー

§

さてこの日本ラグビー史上に残る対決はどのようなものであったのか。

『慶應義塾体育会蹴球部百年史』に詳しいので引用する。

§

キックオフ=慶應

レフリー=J. H. バスゲート氏

試合の得点表記は当時の得点方式による

[前半]

① 開始早々モスがトライ。スチュアートのコンバートは失敗。(Y:3 慶:0)

② 続いてウィーラーがトライ。スチュアート再びゴールに失敗。(Y:3 慶:0)

③ ドゥラムモンドがトライ。 自らコンバートに成功。(Y:5 慶:0)

④ ドゥラムモンドが再度トライ。ゴールを決める。(Y:5 慶:0)

⑤ キルビーがトライ。ドゥラムモンドのコンバートならず。(Y:3 慶:0)

⑥ 慶應が1トライ(塩田賢次郎)を返す。クラークのゴール成功。(Y:0 慶:5)

前半;T:3、G:2=(Y:19 慶:5)

[後半]

① ドゥラムモンドが3本目のトライ。スチュアートのゴール成功。(Y:5 慶:0)

② ウィーラーがトライ。 再びスチュアートがコンバートに成功。(Y:5 慶:0)

③ クロフォードがトライするもキックに対して販促のコール。(Y:3 慶:0)

④ クロウがトライ。クロフォードのゴールキック外れる。(Y:3 慶:0)

⑤ オールコックがトライ。スチュアートのコンバートは失敗。(Y:3 慶:0)

⑥ 再びオールコックがトライしたが、スチュアートがゴール失敗。(Y:3 慶:0)

後半;T:4、G:2=(Y:22 慶:0)

§

この後、両チーム話し合いのうえで日本人と外国人を半々に分けて混合チームで対戦することとなった。

残念ながら日本人対外国人では勝負にならなかったということである。

§

慶應チームのメンバーは、クラークと田中を除いて全員が普通の靴を履いてプレイしたため、頻繁に足を滑らせ思うように動けなかったことが災いした。

しかし決定的な敗因は体格と体力の差であった。

試合についての新聞記事は、日本人チームは試合運びの知識も勇敢さも持ち合わせていたとしているが、それをもってしても身体能力の違いは遺憾ともしがたかったのである。

§

さて試合を終えて東京に戻る汽車の中、ラグビー発祥の国の人々との圧倒的な力の差を思い知らされた日本の若人らの胸中やいかに。

悄然として言葉もなかったかと思いきや、いつの日かの雪辱を期して次のような決議をおこなったという。

すなわち"現在の踵をついてしゃがむやり方は足の成長を妨げる傾向があるので、将来の世代のために、我々が結婚して父親になったら、妻や子供には椅子に座るように主張する"と。

§

その後、慶應義塾ラガーマンたちはいよいよ練習に励み、YC&ACに挑み続けた。

そしてついにYC&ACに勝利を収めたのは初戦から約7年を経た1908年11月14日のことであった。

 

図版
・YC&ACグラウンド 手彩色絵葉書(筆者蔵)
・田中銀之助肖像写真(Wikipediaより転載)
・E. B. クラーク肖像写真(京大英文學研究會『Albion』第二巻第一号 昭和9年)
・シドニー・ウィーラー肖像写真 (ピーター・ドブズ氏所蔵)

参考資料
The Japan Weekly Mail, Dec. 14, 1901
The Japan Gazette, Nov. 1, 1904
・『慶応義塾体育会蹴球部六十年史』(昭和33年)
・慶應義塾体育会蹴球部黒黄会編『慶應義塾体育会蹴球部百年史』(慶應義塾大学出版会2000年)


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