On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■英国領事裁判開廷(ビール工場での騒動・前編)

2018-08-25 | ある日、ブラフで

開港とともに外国人を迎える玄関口となった横浜。

外交官や宣教師といった人々に混じって一攫千金をもくろむ商人や血の気の多い船乗りといった面々も続々と上陸した。

しかし当時、外国人が事件を起こしても、日本政府は彼等を裁く権利をもたなかった。

1899年の条約改正に至るまで、被告となった外国人は自分の所属する国の法律のもと、領事法廷において裁判を受けたのである。

§

1888(明治21)年3月12日月曜日、横浜においてJ. カーレイ・ホール英国代理領事(44歳)による即決裁判が行われた。

被告は4日前にブラフ(山手町)のビール工場で暴行事件を起こしたリチャード・アベイ氏(43歳)。

原告はその被害者ヘルマン・ヘッケルト氏である。

§

ヘッケルト氏はビール工場、ジャパン・ブルワリー(ブラフ123番地)の醸造技師である。

ジャパン・ブルワリーはアメリカ人醸造家コープランドによって設立されたスプリング・ヴァレー・ブルワリーが1884年に経営不振により廃業に追い込まれた後、その跡地に開業した。

§

新会社が醸造技師をドイツから呼び寄せようとしたとき、その白羽の矢がヘッケルト氏に当った。

ヘッケルト氏は1887年7月から醸造技師として、醸造所全般の作業の監督を担当し、1888年2月23日(事件の前月)にはジャパン・ブルワリーとして最初のビールの仕込みを成功させていた。

§

ヘッケルト氏に暴行を加えたとされる被告リチャード・アベイ氏は元々電信技士で、1875年、お雇い外国人として来日した英国人である。

1880年には横浜―神戸間に二重電信機を設置する工事を担当するなど、鉱山局での勤務を合わせて約12年間にわたり日本の電信技術の発展に貢献した。

事件当時はすでに日本政府の仕事を退き、ジャパン・ブルワリーに隣接するブラフ122番地に家族とともに住んでいた。

§

裁判官を務めるホール代理領事は1844年アイルランド生まれ。

ベルファストのクイ-ンズ・カレッジを卒業後、1867年、駐日英国公使館の通訳官見習いとなった。

1871年7月から9月にかけて、日本政府が香港とシンガポールの監獄の視察を行った際、通訳官として同行している。

これは領事裁判権の廃止を望んでいた日本政府に対し、英国公使パークスが提案して実現したもので、目的は司法や裁判制度の研究にあった。

§

その後、神戸領事館勤務を経て横浜の領事館で通訳官を務め、一時帰国して法廷弁護士の資格を取得。

再び来日して東京公使館書記官、長崎の代理領事を歴任。

事件当時は横浜の代理領事の地位にあった。

§

最初に証言したのは原告ヘッケルト氏である。

ただし、ドイツ人であるヘッケルト氏の英語力に問題があったためか、キュヒラーという人物が本人に代わって陳述している。

§

私はビールの醸造を職業としています。

あの日のことは決して忘れません。

午後5時少し前にビール工場の中庭に立っていると、アベイ氏が何かわめきながら私に向かって走ってくるのが見えたのです。

なんだか酔っぱらっている様子だったので、私は技師のワット氏を呼びました。

§

よく聞いてみると、工場の日本人従業員が建物の裏手、被告の家に隣接しているところですが、そこで不心得な事をしていたと苦情を言っていることがわかりました。

そこで私は彼に、それについては何も知らないが、知っていたらすぐに止めただろうと言いました。

§

ところが彼は、私が彼を怒らせようとして日本人に命じてやらせたのはわかっていると言いました。

私には何も思い当たることはありませんでしたが、彼は「卑劣な犬野郎」とののしりながら、私をリボルバーで脅すような身振りを見せました。

内ポケットからリボルバーを取り出して私に見せつけてから脇のポケットにしまったのです。

そしてまたリボルバーを右手にしたまま、左手で私の肩をつかんでののしり続けました。

§

技師がやってきて被告を私から引き離すと、今度は日本人に向かっていき、彼を殴りました。

そして日本人が逃げ出すと、リボルバーの銃口を彼に向けたのです。

技師が彼を捕まえて追い出しましたが、相変わらず口汚くわめき続けていました。

§

どのようなピストルだったかは分かりません。

全てがあっという間のことで、私もとても興奮していたので、ピストルだということしかわかりませんでした。

§

次いで、事件に立ち会ったワット技師が証人として出廷した。

§

8日の午後、確かその日だと思いますが、私がエンジンルームにいたとき、ボイラー室の方で騒ぎを聞きつけました。

誰かが大声で助けを求めているようでした。

§

ロス技師と私が何事かと思って外に出てみると、ヘッケルト氏とアベイ氏がドアの近くにいました。

アベイ氏はとても興奮していて、大声を上げていました。

ビール工場の従業員の何名かが彼の敷地に面したところで迷惑な行いをしていたので、彼等を殴り、マネージャーであるヘッケルト氏に従業員への指導を要求しに来たらしいと分かりました。

§

ヘッケルト氏は私に被告がいっていることについて何か知っているかと尋ねました。

私は知ってはいるが、全てを思い出すのは困難だと答えました。

§

アベイ氏はリボルバーの銃床を見せながら、工場の従業員が迷惑をかけるようだったら、身を守る用意はできているぞと言いました。

私は彼にリボルバーのような物騒なものをここで使わせるわけにはいかないと言いました。

そして静かにしろと言って正門から彼を追い出しました。

§

彼に殴られた日本人がやって来たので、どうして殴られたのかと尋ねました。

彼はわからないと答えました。

§

私たちが話していると再びアベイ氏がやって来て日本人の頭を平手で打ちました。

日本人はエンジンルームの後ろのドアに向かって走りだしました。

アベイ氏は彼に「戻ってこい、撃つぞ」と叫びました。

私は彼に、ここで発砲することはならん、何か苦情があるならしかるべき方法で訴えるようにとなだめて追い出しました。

§

私は彼がヘッケルト氏の肩に手をかけてリボルバーを見せたところは目撃しませんでした。

彼がポケットからピストルを出したのを見たのは一度だけで、その時は非常に高いところを狙っていました。

§

彼が日本人を平手打ちしたところは目撃しました。

少なくともその時、日本人は彼を怒らせるようなことはしていませんでした。

私が見た限りでは、手出しをされたのは日本人だけです。

§

続いてロス技師が証言台に立ったが、証言の内容はおおよそワット技師のものと同様であった。

 

図版:絵葉書(筆者蔵)

参考資料:The Japan Weekly Mail, March 17, 1888(裁判についての記述はこの新聞記事によるものだが、内容を一部割愛した)
The Japan Weekly Mail, May 6, 1899
The Kobe Weekly Chronicle, Dec. 20, 1899
The Japan Weekly Mail, Nov. 22, 1913
・『横浜毎日新聞』(明治21年5月27日)
・『麒麟麦酒株式会社五十年史』(麒麟麦酒株式会社五十年史編集委員会、1957)
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』 (有隣堂、2012)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)
・キリン株式会社ウェブサイト(https://www.kirin.co.jp/company/history/)

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2 コメント

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Unknown (ハンセン)
2021-07-06 22:52:12
コープランド氏はアメリカ人醸造家だと書かれていますが、実はノルウェー生まれ・ノルウェー育ちの方でした。
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Unknown (on the bluff)
2021-07-07 14:25:39
ハンセンさんブログをお読みいただきありがとうございます!
ご指摘の通りコープランドはノルウェー生まれ、ノルウェー育ちですが、
アメリカに渡って帰化し、その後、日本に来ました。
「ノルウェー南東のまちアーレンダールに生まれたヨハン・マルティニウス・トーレセンは
渡米して帰化し、アメリカ人ウィリアム・コープランドとして来日した」ということになります。
参考資料:斎藤多喜男『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012年)
     武内博『来日西洋人名辞典』(日外アソシエーツ、1995年)
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