On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■横浜に誇りと実利をもたらす施設―メイプルズホテル堂々オープン!

2020-02-29 | ある日、ブラフで

 

地図上でブラフ(山手町)を見ると、北側を頂点にして二等辺三角形状に東西に広がっていることがわかる。

その三角形のほぼ中央にあたる小高いあたり、山手町85番地に2000年6月までセント・ジョセフというインターナショナルスクールがあった。

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学校の設立は1901(明治34)年9月に遡る。

東京にある暁星中学校を運営していたカトリック修道会マリア会が、外国人子弟を対象とした学校を設立することとなり、ルイ・ストルツ校長等8名の教員と生徒70名が横浜に移った。

当初山手町43番地にあったが、やがて生徒が増えてきたため1904年1月、山手町85番地の土地と建物を購入。

同年4月に見晴らしの良い広々とした学び舎で新たな学期を迎えたのである。

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学校が買い取った建物は、元々隣接するブラフ82番地にあるゼネラルホスピタルの医師達が中心となって設立した、サナトリウムを兼ねた宿泊施設、メイプルズホテルであった。

約30名の寄宿生を抱える同校にとってこれは格好の条件で、建物は校舎、寄宿舎、教員宿舎としてそのまま転用することができた。

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メイプルズホテルの開業は1899年10月20日のことであった。

当時ゼネラルホスピタルに勤務していた英国人医師マンローや医療顧問のベルツ博士、臨床担当P.B.クラークらが発起人となり、横浜の外国資本の銀行や外国人資産家たちが出資して設立された。

マンロー医師の2階建の住居が建つ1,097坪の敷地にホテルの施設として2階建3棟と小さな平屋1棟が建設された。

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マンロー医師はインド航路の船医として1891年5月に来日し、当初は山下居留地で医院を開業していたが、1896年10月からゼネラルホスピタルで勤務していた。

彼は医師としてのみならず後に考古学者として知られ、アイヌ研究でも名を残すことになる。

ベルツ博士は当時、東京帝国大学医科大学の教師で明治天皇と皇太子の従医でもあり、すでに名医として名を馳せていた。

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メイプルズホテルは健康を求める人々に新鮮な空気と眺望に恵まれた静かな環境を提供するためのサナトリウムという側面をもっていた。

そのためマンロー医師とベルツ博士による医学的な助言のもと、建物のつくりから内装まで衛生面や快適さに配慮して設計され、運動や入浴施設も設けられていた。

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ホテルの支配人はマンロー医師の弟、ロバート・マンロー氏。

建物の設計を担当したのは、鹿鳴館や旧ニコライ堂などの建築家として知られる英国人、コンドル氏である。

一流建築家を起用した贅沢な保養施設の開業は横浜外国人コミュニティにとって華やかな一大ニュースだったであろう。

オープン翌日の新聞はメイプルズホテルの様子を次のように伝えている。

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今月20日、瞬く間に横浜の誇りとなるばかりか、実利をもたらすであろう施設がブラフ85番地にオープンした。

このメイプルズホテルはベルツ、マンロー両医師の医学的な助言を受けて設立された。

いまだ当初予定されていた規模には届いていないものの、現状においても、病人はもちろん、静かで衛生的な暮らしを手に入れたいと願う人々に間違いなく十分なサービスを提供できる。

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メイプルズホテルは深刻な病人のためというより、健康上の理由で病院並みの待遇を必要とする人向けといえるだろう。

健康の衰えた人のために、体調を回復し、体力をとりもどすために新鮮な空気と規則正しい生活、明るい環境、入浴療法、適度な運動を提供する。

病に苦しむ人々の辛い姿を日々目の当たりにする薄暗い場所を想像されるかもしれないが、それは当たらない。

単純に言えば、衛生面から人目を引く部分まで周到に整備された、具体的には排水施設のような細かい点からからダイニングルームの光り輝く電灯に至るまで気の配られたプライベートホテルなのである。

すばらしい食事と心地よい居室、そして快適な環境まで兼ね備えたメイプルズホテルは、大規模ホテルの騒がしさや仰々しさを嫌う、もの静かで上品なツーリストやビジターにとって格好のリゾート施設になることは間違いない。

 

 

メイプルズホテルはコンドル氏の設計による広大かつ美しい木造建築から成り、ブラフのもっとも小高い地にあることから、ひとつの場所からはめったに望めない、陸と海の素晴らしい景色を見晴らすことができる。

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本館と二つの別館と広々とした庭があり、庭の一角には日本庭園風に吟味された石が配置され、池には魚が泳ぎ、盆栽が置かれている一方、すばらしい芝のテニスコートもある。

本館表口は西に面している。

訪れた人は目の細かいメイプル(楓)のパネルの設えられた美しいロビーに迎えられる。

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すぐ右手には心地よい小部屋があり、ライブラリーとなっている。

蔵書はサー・ジョン・ラボックが選定した100冊を含む、「オデッセイ」から 「アウト オブ ザ ハリー バリー」(訳者注:当時流行した滑稽本)まできわめて多岐にわたり、その数500冊に及ぶ。

家具と装飾は一般的なライブラリーより軽やかで明るい感じとなっているが、特に素晴らしいのが電気照明システムであり、照明がすべて調整できるためどこでも好みの場所で読書ができる。

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壁にはサー・フレデリック・レイトンをはじめとする画家による版画が展示されており、ビリヤードルームを除く本館の他の部屋にも同様のしつらえがもたらされる予定である。

ビリヤードルームにはスポーツを行う環境にふさわしい版画が選ばれている。

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ライブラリーの窓のひとつから本館の二辺にめぐらされているベランダに出ることができる。

このベランダは、夏はもちろんのこと、冬も暖房設備があるので心地よいラウンジとして利用できるだろう。

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ライブラリーの隣はビリヤードルームとなっており、サーストン社製のテーブルが置かれている。

メインエントランスの反対側が事務所となっている。

ドローイングルームは壁紙がピンクで、天井にはフレスコ画が描かれた広い立派な一室である。

パネルと木材にはすべてメイプルが使用され、全体的にチャーミングな印象で、芝のテニスコートを一望でき、ブラフと湾の広大な見晴しもまた好ましい。

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ドローイングルームの隣がダイニングルームである。

45×24フィート(約14m×7m)の広さで、壁は薄緑色、天井にはフレスコ画が描かれている。

きわめて素晴らしいデザインのシャンデリアもまた電灯で、家具はすべてしっかりと彫を入れた樫材で作られており、サイドボードはまさに逸品といえる。

隣の小型のサービスルームと厨房との間には油圧式のリフトが備えられている。

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建物の下部には使い勝手よく整備された厨房、配膳室、グラス室、トイレその他必要な付帯設備がある。

給湯設備により館内は一定の温度に保たれるという点も注目に値する。

しかし下部施設のなかで特に注目すべきは入浴システムのすばらしさであろう。

これらの設備をみれば、すぐれた医療面での配慮のもとにつくられた施設という特性が一目瞭然である。

浴槽はすべて大理石で、最大限の入浴効果が得られるよう、健康的で楽な姿勢で浸かれる特別な型となっている。

硫黄・鉄風呂、電気風呂、熱気浴、蒸気浴にシャンプールームまで備わっているが、後者については極めて大きな大理石板を採石場から特別に切り出さなくてはならず、まだ届いていないため準備中である。

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上階にある寝室は、シンプルながら趣味の良いしつらえで、磨きこまれた床のここかしこに敷物が引かれている。

塵がたまりやすく、風通しの妨げとなるカーペットや分厚いカーテンは用いられていない。

部屋からベランダに出ることができ、夏季には引き戸をあければ部屋は完全にオープンになる。

家具はすべてレーン&クロフォード商会の最上級品である。

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さらに屋上に上がればマットで日よけした広々としたデッキを散歩することができる。

東西南北いずれにおいても素晴らしい見晴らしで、富士、箱根の山々、東京に続く地域や港、湾、根岸、本牧など、どちらを向いても魅力的で心安らぐ景色が眼前に広がる。

この屋上が耐震性に配慮して造られており、いかなる危険にも実際に耐えうるであろうことは特筆に値する。

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本館のすぐそばにジムがあり、肺の収縮や筋肉の退化を防ぐための十分な設備が用意されている。

運動する場所の前の壁は鏡張りで、細い水平バー1本と運動器具が何セットか壁に設置されている。

ダンベルは全サイズ、様々な種類がそろっており、シャワー、バス、更衣室が隣接するという最良の設計となっている。

このジムはアイデアも出来栄えもまさに称賛に価するといえるだろう。

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照明のための発電施設は稼働音を抑えるため地下に設置され、水道は石油発動機を利用しており、タンクは建物の屋上近くに設けられている。

ベランダを含む館内全体に温水暖房器が完備されている。

階段室のシャンデリアの美しさもまた特筆に値する。

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現在受け入れ可能なゲスト数は20から24名であるが、部屋数については将来的に増える見込みである。

全体としてきわめて興味深い試みであり、成功が切に望まれる」

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長い記事を締めくくる「成功」という2文字は、残念ながら実現されなかった。

開業翌年の5月頃にはホテルの経営に影が差し、1901年3月まではYC&ACのインターポート・クリケットディナーが開催されたりしているものの、その後急速に経営状況の悪化が表面化する。

4月に手形が不渡りとなったのに続き、翌月、元支配人E.P.ビショップ氏から給与の未払いで訴訟を起こされ、8月には事業の清算が決定。

11月に破産が申請された。

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1902年6月にホテルの土地・建物は競売の結果、アーレンス商会の所有となった。

その後、セント・ジョセフに買い取られ、海と山を臨む立地と庭付きの瀟洒な建物が外国人子弟にすばらしい学習環境を提供するに至った次第は冒頭に記したとおりである。

 

図版
・メイプルズホテル封筒
・The Weekly Books of Curios, March 16, 1901

参考資料
The Japan Weekly Mail, Oct. 21, 1899
・―, March 9, 1901
・―, June 8, 1901
・―, Aug. 24, 1901
・―, June 25, 1902
The Japan Times, Sep. 23, 1899
・『横浜貿易新報』(1901年4月26日)
・同(1901年4月27日)
・『J.コンドル設計の横浜山手メイプルズ・ホテル』「開港のひろば」第39号(1992)所収
・J. ヴェルニエ『日本マリア会史』(宗教法人日本マリア会、1987)
・「マリア会日本管区 100年のあゆみ 歴史編・資料編」(マリア会日本管区本部、1899)
・『N. G. マンローと日本考古学―横浜を掘った英国人学者』(横浜市歴史博物館、公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団、2013)
・横浜外国人社会研究会/横浜開港資料館 編『ヨコハマと外国人社会―激動の20世紀を生きた人々』(日本経済評論社、2015)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)

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