On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■エルドリッジ少佐かく語りき―1897年デコレーション・デー

2023-06-28 | ある日、ブラフで

国を二分して戦われた南北戦争終結後、アメリカでは戦没者の墓に花を供える習慣が生まれた。

やがて毎年5月30日がデコレーション・デーと定められ、人々はその日、祖国のために命を捧げた軍人を称えるためにその墓を訪ね、花を捧げるようになる。

そして祖国から遠く離れた横浜の地においても、5月30日はアメリカ人戦士たちの墓が花で飾られる日となった。

*後のメモリアル・デー、現在では5月の最終月曜日

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その始まりは、横浜に入港しているアメリカ艦船の乗組員が小部隊で上陸して外国人墓地を訪れ、異国の地に眠る兵士の墓に花を供えるというささやかな行為に過ぎなかった。

1889年からはアメリカ領事やアメリカ人居留民がこれに加わり、実質的に横浜におけるアメリカ国民の公の行事となった。

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式典では南北戦争に従軍した経験のある軍人が式辞を述べるのが慣例であったが、1897年のデコレーション・デーでは、横浜居留地の高名な医師スチュワート・エルドリッジ氏がその任に当たることとなった。

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エルドリッジ氏は1843年1月2日ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた。

17歳で陸軍に入隊すると翌年4月12日に南北戦争が勃発。

エルドリッジ青年は北軍ウィスコンシン第28義勇軍の一員となり、1864年トーマス将軍の麾下、高級副官に任じられる。

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戦争は翌年4月に終結した。

その傷跡は大きく、4年に及ぶ戦いの間に南北両軍合わせておよそ50万人が命を落としたといわれている。

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終戦の年にエルドリッジ氏はフランセス・ヒース嬢というウィスコンシン州ウォーキシャー出身の女性と結婚。

1866年までジョージ・ヘンリー・トーマス将軍の部下として働き、その後ワシントンに移りオリバー・オーティス・ハワード将軍のもとで、奴隷解放局に勤務した。

一方、名門ジョージタウン大学に入学し1868年に医学博士の学位を取得。

大学では解剖学の助手に任命され、さらに講師への昇格も果たす。

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1869年エルドリッジ氏はワシントンの連邦農務局に奉職し、初代農務局図書館司書として農務関係資料収集に尽力する。

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1871年、日本政府から派遣された黒田清隆開拓使次官がアメリカ視察に訪れた。

彼は農務局長ホーレス・ケプロン氏に開拓使顧問として来日するよう要請し、ケプロン局長もこれを受け入れた。

そしてエルドリッジ氏もまた農務局と大学の両方の職を辞し、ケプロン顧問の秘書兼医師として開拓使顧問団の一員となることを決断したのである。

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エルドリッジ氏が日本へと発つに際し地元紙には次のような記事が掲載された。

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当市在住のスチュワート・エルドリッジ医師はケプロン将軍率いる派遣団の一員として日本に向かう。

エルドリッジ医師は若年ながら、ジョージタウン大学医学部講師として、また農務局司書として確たる名声を得た人物である。

農務局がすぐれた図書館を有するのは氏の調査力判断力に負うところ大である。

戦時中は少佐としてハワード将軍の参謀を務めた。

*実際には、ハワード将軍のもとで勤務したのは戦後になってから。

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日本到着後、エルドリッジ氏は函館病院に医師として勤務する傍ら函館医学所の教授に就任。

治療、教育共に熱心に取り組んだ。

1874年に当初の契約期間が終了すると、翌年横浜に居を移して医療活動を再開した。

30歳の時である。

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以来、長年にわたりゼネラル・ホスピタル等に勤務する傍ら、地元の医師らと協力してコレラ防疫や衛生環境向上に努めるなど医療活動に力を尽くし、1897年4月にはこれらの功績を認められて日本政府から勲四等に叙せられるという栄誉に浴した。

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1897年5月30日デコレーション・デー。

この日は日曜日にあたり、横浜外国人墓地には例年より多くの人々の姿が見られた。

午前9時30分、米国艦ヨークタウン号、ペトレル号所属の水兵及び海兵隊員の一団が谷戸橋付近から上陸し、軍楽隊を先頭に行進。

やがて隊列は人々の待つ墓地に到着した。

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式典の会場はオネイダ号犠牲者のための記念碑を囲む一画である。

アメリカのアジア艦隊艦船オネイダ号は休暇のためアメリカに戻る途中、1870年1月24日、横須賀・観音崎沖でイギリス船と衝突して沈没。

亡くなった将校や兵士らは母国から遠く離れたこの地に葬られ、その霊を慰めるために横浜外国人墓地の一画に碑が建てられたのである。

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例年通り米国旗と花で飾られた石塔のまわりを兵士らが取り囲むように整列し、花環や十字架を手にした人々がその背後に並ぶ。

「主よ御許に近付かん」の調べが静かに流れ、ヨークタウン号のストックトン大尉が短い祈りを捧げた。

再びの演奏を挟んだのちに大尉は記念日について手短に語ると、スチュワート・エルドリッジ氏にその場を譲る。

戦場を離れてすでに30余年、横浜居留地において誰知らぬ人のいない医師を、大尉は「エルドリッジ少佐」と紹介した。

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エルドリッジ少佐は次のように語り始めた。

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死者を敬うことは、人間の本性の美しく敬虔な本能であり、これは未開の部族の人々でさえも例外ではありません。

世を去りし人々について、生前の至らぬところを記憶にとどめることなく、美徳をのみ思い出すことは、全人類にほぼ共通していると言えるでしょう。

そしてもしその死者たちが名誉に値する人々であるならば、私たちは彼らの残した記憶をより一層大切にせねばなりません。

人類のために命を捧げ、その行いにおいて世界に貢献した人々の記憶を。

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そこで、大きな内戦において、祖国を、そして人類の自由と進歩を守るために亡くなった人々を記憶にとどめておきたいという願いから、アメリカでは、1年のうちのある1日、試練の時の記憶を新たにし、戦いに命を落とした人々と、戦いに臨んだ人々の墓を花と国旗で飾る習慣が生まれました。

それは今も、この明るい春の季節に続けられています。

その時、私たちが捧げる花の甘い香りは、彼らのかぐわしい行いとともに天まで立ち上るのです。

私たちはその行いを祝福します。

我が広大なる国土のいたるところにおいて。

その場所において、愛され、失われた人々は安らぎを見出し、そして今、国民から心からの感謝のこもった供物を受け取るのです。

§

北軍と南軍、ブルーの軍服、グレーの軍服に身を包んだ兵士たちは、ともに大軍団から徐々に数を減らしつつも、4年もの長きにわたり、世界中が目を見張るほどの崇高で愛国的な献身をもって闘い、命を失いました! 

ああ、それが時に過ちであったとしても、彼らは私たちの美しい南の地の勇敢な息子たちとともに、死んでいった仲間を称えるために向かったのです、時に神に感謝しつつ! 手を取り合い、兄弟として。

§

戦争は非常に大規模で、かかわった人数も膨大であったため、商売や旅行のために外国から人が訪れるような場所なら、地球の広い国境のなかで、アメリカ人のための祠のない墓場などほとんどありません。

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だからこそ、私たちは今日、このさいはての海辺において、私たちが誇りとする国家と国土を保つために戦った人々の記憶に敬意を表するのです。

このささやかな神の庭には、戦争の危険から逃れながらも、病気の犠牲者となってこの異国の地で命を落とした人々が眠っています。

すべての戦争において、銃弾や剣よりも多くの人を死に追いやるのは病気なのです。

その傍らには、海戦の試練を無事に乗り越えながらも、突然の難破で亡くなった人々が眠っています。

彼等は戦死した仲間のもとに赴いたのです。

§

この英雄たちの墓にささやかな賛辞を捧げるにあたり、本日の式典が、私たち全員に愛国心を学ぶ機会を与えるものであることを思い起こしましょう。

人々の間で起こることは皆、すぐに忘れ去られてしまい、すでに多くの人にとって、叛乱の戦いの記憶は夢の中のことのようにぼやけてしまっています。

若い世代にとっては古代史のことのように思えるかもしれません。

そして、豊かで多くの人口を抱え、あらゆる条件が整っている平和な我が国では、戦争は二度と起こらないと感じています。

§

それゆえ、1861年(南北戦争の)の雷鳴がとどろいたとき、互いに愕然とし、戦争が、残酷で血なまぐさい戦争が、実際に私たちに迫ってきていることに気づきませんでした。

しかし、その悲惨さは、戦場からの最初の使者の後を追いかけるように現れ、悲しみ、苦しみ、死がひとつとなって、瞬く間にこの国のほとんどすべての家庭を巻き込むこととなりました。

§

神よ、戦いを告げる鐘が我が故国に鳴り響くことが二度と再びありませんように。

しかし、万が一逃れる術なく戦いが起こったとしても、今日の若者たちが、彼らの父たちがそうであったように、愛する国のために喜んで命を捧げることができますように。

§

最後にエルドリッジ少佐はアメリカの詩人セオドア・オハラが米墨戦争の戦没者に捧げた有名な詩の一部を朗読した。

‶安らかに眠れ、香によりて聖別されし死者たちよ

汝らが流した血と同じように愛しい者たちよ

邪悪な足音がこの場所に足を踏み入れることはない

汝の墓所に生える草の上を!

汝の栄光が忘れられ去られることはない

名声がかの記録を残し、

名誉がかの神聖な場所を指し示し、

武勇がそこに安らかに眠っているのだから”

§

エルドリッジ少佐のことばは人々の胸に深く刻み込まれた。

その後、いくつもの花環が捧げられ、海軍分遣隊は楽団の後に続いて上陸地点まで戻っていった。

残された大勢の横浜居留民らは墓地を散策し、友人らの眠る墓に新しい花を供えるものもあった。

 

図版(上から)
・ 開拓使顧問団一行(左から2番目がホーレス・ケプロン団長、右端がスチュワート・エルドリッジ氏)
  Frank Leslie’s Illustrated Newspaper, Dec. 2, 1871. P. 189

・オネイダ号記念碑写真(カール・ルイス撮影)、筆者蔵

参考資料
The Wheeling Daily Register, July 8, 1871.
The Japan Weekly Mail, June 5, 1897.
The Japan Weekly Mail, Nov. 23, 1901.
・大西泰久編著、六角柾那・高雄訳『御雇医師エルドリッジの手紙 : 開拓使外科医長の生涯』(みやま書房、1981)
・宗田一ほか編著『医学近代化と来日外国人』(世界保健通信社、1988)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)

 

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