On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■開港50年―モリソン氏が語る「横浜の思い出」(その5)

2017-03-09 | ある日、ブラフで

60年代の社会生活においてご婦人方の存在感は極めて希薄でした。

コミュニティーにおけるご婦人の数は両手の指で数えるほどもなかったのです。

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男性は互いの仲間に頼らざるを得ず、その結果、親しい友人の輪を作ることになり、私の場合それは、長年にわたって擦り切れることなく、怒りの言葉を投げ合うようなことすらほとんどなく、お迎えがくるときまで断たれることはないでしょう。

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70年代初期にはそれでもご婦人たちの数がいくらか増えてきたようでした。

私たちの何人かでアソシエーション オブ フライ バイ ナイツを発足させたのはその頃で、ご婦人方に楽しんでいただくためでした。

冬の間、最も適していると思われる何軒かの家で、何回かダンスの会を開くというアイデアでした。

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ダンスが行われた4軒のうち2軒がまだ残っています。

1軒は(山下居留地)48番地の私の自宅で26年間住んでいます。

現在も山下町に残るモリソン商会の遺構

遺構の入口のアーチ上部に掲げられたキーストーン

 

遺構についての解説板

もう1軒は現在ダーネル氏の自宅兼事務所になっていますが、当時は私の親愛なる友人であるジャック・フレーザーとガス・フェアリーが代表を務めていた6番地のオーガスティン・ハード商会がありました。

残りの2軒は、前に述べた74番地のギルマン商会の平屋と、4番地のバターフィールド アンド スワイヤー商会で、こちらは現在、ヨコハマ ユナイテッド クラブが建っているところの一画にありました。

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後にこうした個人宅では手狭になったため、アソシエーション オブ フライ バイ ナイツはジャーマン クラブの向かいの古いメソニック ホールに会場を変えました。

その後数年間はそこに集まったものです。

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とはいえそのために個人宅でのダンスが妨げられることはなく、数多く開かれました。

と申し上げるのも今宵その画像をいくつかスクリーン上でお目にかけたいからです。

1876年か77年ごろに1番地のJ. J. ケズウィック邸で開かれた名高い仮装舞踏会の時のものです。

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当時のジャーナリズムといえば、私たちが昔から知っているジャパン・ヘラルド、ジャパン・メイル、ジャパン・ガゼットに代表されますが、不思議なことに、その頃の彼らのビジネスの中心は、現在同様、互いのあら捜しをすることのようでした。(笑)

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私が購読しているジャパン ガゼットは横浜で発行された最初の外国語新聞で、今夜はもっとも初期の編集者の一人であるJ. R. ブラック氏の写真をお見せしようと思っています。

「ヤング・ジャパン」の著者です。

もしまだ読んだことがない方がいらっしゃったら、すぐにお読みになるようおすすめします。

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ブラック氏は、有能で描写力のある記者だったばかりでなく、素晴らしい声の持ち主で、特にスコットランド民謡で昔はよく私たちを楽しませてくれたものです。

自ら買って出てコンサートを何度も開き、幸福で楽しいふるさとを思い出させてくれました。

彼はステージでもたびたび歌を披露しました。

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私がお見せしているのはジャパン・パンチに描かれたブラック氏です。

チャールズ・ワーグマンが経営し、編集していた雑誌です。

ワーグマンは多くの方が存知のように、優れた芸術家で、イラストレイテッド・ロンドン・ニュースの特派員でもありました。

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彼の墓石には、ジャパン・ヘラルドのブルック氏同様、「永遠の冗談男」と刻まれました。

毎月、彼のほとばしる才気はジャパン・パンチとして放出され、コミュニティーはそれを少なからず楽しみにしていました。

彼のペンと鉛筆の餌食にされる恐れをいだくような、身に覚のある者らは不安を禁じえませんでしたが。 

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E. J. モス氏の親切心とカール・ルイス氏の技術のおかげで、この有名な定期刊行物から数点より抜きの風刺画を見本として御覧に入れることができます。

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ところでブラック氏は初の日本語新聞「万国新聞」の発行者でもありました。

発行された期間は極めて短いものでしたが。

日本国政府はこのような革新に対する準備ができておらず、当時の英国公使ハリー・パークス卿に対して申し入れを行い、そのため直ちに中止に追い込まれたのです。 

ワーグマンはもちろんこの事件に飛びつきました。

その結果ブラック氏がどう描かれたかというと―後ほどスクリーンでご覧いただきましょう。

 

ジャパン・パンチに描かれたブラックと彼をとりまく日本の役人たち

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環境に恵まれていたとはとても言えなかったにもかかわらず、演劇活動はごく初期のころから盛んに行われていました。

現在チャイナタウンと呼ばれているところにあった倉庫が劇場として使われました。

94/96番地に面した建物の並びの裏手でした。

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その頃、私自身も「辛抱するペネロペまたはユリシーズの帰還」と題した古いパロディー劇に出演しました。

ほかの出演者たちの姿はもう見かけないように思います。

少なくとも横浜では。

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68番地に古いゲーテ座ができてからは、ヨコハマ アマチュア ドラマティック クラブが地域の社交生活において、抜きんでて大切な要素となりました。

パロディー劇、喜劇、音楽演奏、ついにはギルバート アンド サリバンのオペラまでが次々と矢継ぎ早に上演され、「陪審裁判」「軍艦ピナフォア」「ペイシェンス」は、大成功したもののなかでも特筆に値しました。(次回に続く)

*本文は J. P. Mollison Reminiscence of Yokohamaから「東京訪問」「箱根旅行」「大名行列」ほか一部を除いた抄訳に、適宜加筆したものです。なお記事を全6回に分割して掲載する都合上、原文の項目の順番を変更・再構成しています。

なお、モリソンの述懐であることから、本人の記憶違い等による事実と異なる内容や、また後世の研究から見て妥当と思われない事柄も含まれています。今回の掲載分中「ブラック氏は初の日本語新聞「万国新聞」の発行者」という部分はそれに当たると思われます。このような点をご理解の上お読みいただくようお願いいたします。

図版:
・写真(トップ) 佐々木茂市 編『日本繪入商人録』(1886)
・旧横浜居留地48番館 遺構 写真3点 筆者撮影
・イラスト Charles Wirgman, The Japan Punch, January, 1876

参考資料
・The Japan Weekly Mail, January 9, 1909, January 16, 1909
J. P. Mollison,‘Reminiscences of Yokohama', Japan Gazette, Yokohama, January 11, 1909
斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)

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