On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■ペティエ神父叙階50周年記念式典(前編)

2019-05-30 | ある日、ブラフで

ブラフ(山手町)44番地にそびえ立つ白亜のカトリック教会聖心聖堂。

その主任司祭を務めるのは、ブルターニュ地方の小都市シャトージロン生まれのフランス人、アルフレッド・ペティエ神父である。

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1918年(大正7年)6月6日(木曜日)。

今日、叙階50周年記念の日を迎えた神父のために聖心聖堂では盛大な祝典が催される。

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宣教師を志すペティエ青年がパリで叙階の秘跡を受けたのは1868年6月6日。

その3か月後にはパリ外国宣教会の一員として横浜の地を踏み、以来、2回の海外渡航をはさみつつも、この極東の地に留まり、キリストの教えを広めるために文字通り身も心も捧げてきた。

半世紀に及ぶ神父としての道のりは、決して平たんなものではなかった。

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当初、日本における最初の赴任地は北海道・函館の予定であった。

未だ日本人への宣教は許されていなかったが、開港地である函館の居留民や外国人水夫のために司祭が求められていたのである。

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国内ではその年のはじめに明治新政府の樹立が宣言されたが、旧幕府軍との武力衝突、すなわち戊辰戦争が勃発。

戦いは徐々に北上して12月には函館が戦場となった。

この混乱によって北海道行きを阻まれたペティエ神父は、約1年間、フェレ、マルタイン、ド・ロ神父らと共に横浜、横須賀、江戸での教会建設に取り組むこととなる。

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翌年10月、いまだ戦争の傷あと生々しい函館にようやく着任。

およそ3年間の活動を経て、1872年6月、28歳のペティエ神父は函館の任を解かれ、横浜聖心聖堂の主任司祭となる。

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1873年3月のある日、元町・百段の高札場を通りかかった神父は、目にするたびに心を暗くしてきたキリスト教を禁ずる高札が、取り去られていることに気付く。

ついに禁教令が解除されたのである。

一刻も早くこのよき知らせを仲間たちに伝えようと神父は教会への道を急いだ。

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その頃の教会はバンド(山下町)80番地にあり、ごく質素な木造の建物であった。

だがその小さな神の家すら自己資金では運営できず、宣教会からの援助に頼らざるを得なかった。

礼拝に使われる小さな携帯オルガンはペティエ神父の私財であった。

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1874年の大晦日に起こった火災により、横浜聖心聖堂に隣接する宣教会の建物が全焼した。

建物はもちろん印刷所や貴重な文書などが焼失し、損害額は当時の価値で10万フランを下らないと見られた。

教会は類焼を免れたものの、宣教会の大損害はすなわち教会の財政破たんを意味する。

翌年、オズーフ司教に請われ、財政再建に必要な寄付を募るため、ペティエ神父は司教と共にアメリカ経由で欧州へと向かった。

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1876年に帰国。

函館や東京・神田の教会で働いた後、1883年7月、神父は再びなつかしい横浜教区に戻ってくる。

しかしそれもつかの間、同じ年の9月には再び資金調達のため、オズーフ司教とともにアメリカに向かう船上の人となった。

活動は一定の成果を得たものの、旅行中に喉を傷めた神父はフランスでの療養を余儀なくされた。

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1885年12月、ペティエ神父はようやくまた横浜に帰ってきた。

翌年には主任司祭に叙任される。

以後、神父は30年以上にわたり横浜での司牧生活を続けることとなる。

それはまた教会運営のための資金不足に心悩まされる日々でもあった。

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教会の建物はすでに老朽化し、横浜の発展と共に増加した信徒らを受け入れるにはあまりに狭く、信者席は粗末に過ぎた。

1898年、ペティエ神父は私財を投じて教会の建物を改築した。

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それから10年もたたないうちに、ペティエ神父は更なる大仕事に取り組むこととなる。

バンドからブラフへの教会移転である。

クライストチャーチはすでに1901年に、ビジネス街であるバンドから、多くの信者が住まうブラフの一画に建物を移していた。

カトリック信者らの要望に応えるためにペティエ神父はブラフ44番地に教会を移転することを決意する。

ここでも問題は資金調達である。

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少しでも効率よく、そして費用を節約するために、解体された古い教会の木材や石には番号が書かれ、新しい建物の資材として使われた。

しかしそれだけでは必要な資金を賄うことはできない。

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神父は収入確保のために、様々な工夫を凝らした。

新教会建設のために大量のレンガを購入し、その一部で貸家を立てて賃料収入を得るというアイデアもその一つである。

また、信者席の一部に豪華なつくりの家族専用指定席を設け、裕福な信者が相当の額を納めてそれらを確保するという仕組みも考案した。

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こうして1906年5月、ペティエ神父の自己犠牲の賜物ともいえる山手聖心聖堂がついに完成した。

天に向かって高くそびえる二つの尖塔。

白壁に穿たれた窓には美しいステンドグラスが嵌め込まれ、御堂には神父がフランスに特注したりっぱなパイプオルガンが据えられていた。

図版:ペティエ神父肖像写真『七つの御悲しみの聖母天主堂創設者パリ外国宣教会宣教師ピエール・ムニクー師と同僚宣教師の書簡 : 1868年7月-1871年10月 : 神戸における日本再宣教』ショファイユの幼きイエズス修道会日本管区、2014

参考文献:
・板垣博三『横浜聖心聖堂創建史』エンデルレ書店、1987
・『パリ外国宣教会年次報告3(1902-1911)』聖母の騎士社、1998
・『声359号』明治39年5月25日 
・『声511号』大正7年6月15日
・『声512号』大正7年7月15日
The Japan Weekly Mail, May 19, 1906
The Japan Gazette, June 6, 1918
The Japan Gazette, June 8, 1918
・パリ外国宣教会ウェブサイト(仏語)https://archives.mepasie.org/fr/notices/notices-biographiques/pettier

 

 

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