On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■花は手向けずとも―37年間墓地の会計係を務めたジレット氏の葬儀

2022-12-25 | ある日、ブラフで

バルジライ・ジレット氏はイングランド出身の英国人である。

1877年頃に来日し、当時横浜のバンド(山下町)3番地にあったウィルキン&ロビソン商会に職を得た。

その4年後、45歳の時に独立し、バンド24番地Bを自宅兼事務所として船具やペンキを扱う個人経営の商社を開いた。

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来日するまでの経歴については、ロンドン近郊のべサル・グリーンにあるセントアンドリューズ・ナショナルスクールで学んだということぐらいしか知られていない。

控えめな性格であったが、天気の良い日は、自宅の前を通りかかる人に明るい声で朝の挨拶をすることを習慣としていた。

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独立したのと同じ1881年からジレット氏はある地域貢献活動を始める。

居留地民の間で「ゼネラル・セメタリー」と呼ばれていた横浜外国人墓地の管理委員会メンバーに加わったのである。

 

§

 

その頃、外国人墓地は居留民から選ばれた管理委員会によって運営されていた。

ジレット氏はその委員会の会計係として、新規の埋葬による収入、墓地の維持運営に必要となる支出、埋葬収入が途絶えたときのための積み立て基金など一切を管理し、年次総会で報告を行った。

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1903年3月に開催された年次総会でも例年通りジレット氏が会計を報告し、それが承認され、次年度の委員が選出された。

通常はこれで閉幕となるが、今回はその前に参加者のひとりであるジェームズ・ウォルター氏からある提案がなされた。

四半世紀近く会計係を務めてくれているジレット氏に対する居留地コミュニティからの感謝の気持ちを表すため、記念のプレートを贈ろうというのである。

§

即座にベラミー・ブラウン氏が賛成した。

自分は、世界で一番美しい墓地はバミューダにあり、それに次ぐのが香港のハッピーバレー、そして3番目に美しいのがこの横浜の墓地だと思っている。

その墓地を大切に管理してくれているジレット氏にとても感謝していると。

§

早速、準備委員としてウォルター、ブラウン両氏に加えて、ジェームズ・ペンダー・モリソンの3氏が任命された。

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感謝状贈呈式が行われたのはその年の12月9日水曜日。大勢の紳士淑女が見守るなかメソニック・ルームにおいて行われた。

§

当初、提案されていた記念プレートではなく、感謝状が用意された理由は、ジレット氏本人が高価な贈り物を辞退したからである。

そのようなものをいただいても、私には家宝として残してやるような家族はおりません。

もし地域の友人たちの名前が記された感謝状をいただけるなら、それはどんなプレートをいただくことよりもずっとずっとありがたく思うでしょう、ということばを準備委員たちは素直に受け入れた。

§

感謝状を読み上げる役目を引き受けたのはモリソン氏である。

§

本日、喜ばしくも皆さまのご承認を得まして、かくも意義深く、記憶に残るであろう機会にごあいさつをさせていただく栄誉に与ったことを、どれほどありがたく思っているかは申しあげるまでもありません。

私たちは、ジレット氏が自らに課した神聖な義務として、長きにわたりコミュニティの死者に奉仕してきたことを、敬意と愛情をこめて尊重しています。

この感謝状はその意を示すためのものであり、居留民256名が署名いたしました。

§

ジレット氏がどれほど熱心に、誠実に、自らの義務を果たしておられるかを、私以上に知る者はいないでしょう。

署名者を代表するとともに、私個人の感謝の意を込めてこの感謝状を捧げます。

§

以上、つたなく、言葉足らずのところはお許しをいただいて、これから感謝状を読み上げさせていただきます。

§

バルジライ・ジレット様

あなたは、四半世紀以上にわたってゼネラル・セメタリーの管理人としてコミュニティに貢献されました。

ここに名を記した横浜の住民は、あなたの私心のない、地道な、たゆまぬ奉仕活動に対して、心から感謝の意を表します。

§

あなたは長年にわたり、崇高な使命感と真心からのやさしさをもって、墓地の管理に多くの時間と思いを費やしてこられました。

私たちはそのことに心からの賞賛を捧げたいと思います。

あなたは混乱のなかに秩序をもたらしました。

すなわち、かつて荒れ果てたままにされていた場所を、この世を去った私たちの大切な人々が安らぐにふさわしい「眠りの園」へと変えたのです。

§

あなたのすべての行いが、仲間を愛するという最高の美徳によってもたらされたものであり、評価や見返りを期待したものでなかったことは確かです。

しかしながら私たち住民が、あなたに対し、決して報いることのできない恩義を負っていることは否めません。

§

私たちにできることは、あなたがこれまでも、そして今もなさってくれていることに対し、感謝の意を表し、あなたが私たちのうちに育んでくれた愛の記憶が、いつも私たちの心の中にあり、あたかも長年にわたってあなたの愛情を受けてきた緑の芝生のように、初々しく香り高いものとして、後世に受け継がれることを保証することのみです。

§

ジレット氏は強く心を動かされたようすだった。

そして次のように感謝の言葉を述べた。

§

ここにおられる紳士淑女、そしてこの感謝状を用意してくださった委員会の方々、私は皆さまにどのようにして感謝の気持ちを表せばよいのでしょう。

§

一人の人間が他者に表現しうる限りの熱意と愛情をこめて感謝の意を表せば、皆さまはそれがきっと私の心からのものであると信じてくださるでしょうが、わが友人たちよ、私にはどんな言葉を用いればよいのかわかりません。

§

皆さまとともに歩んできた長い年月の間に、いく人もが墓地へと身を移しました。

そして幾度となく私は目にしてきました。

あのひと、またこのひとが、自らの愛する者をそこに横たえ、見守り、花に水遣りをしているところを。

§

墓地に心を寄せて、いく人の尊敬すべき友人らが世を去り、そこに身を横たえているかを考えてみてください。

彼らの最後の憩いの場が適切に管理されているのを目の当たりにしたとき、喜びと満足を感じると思われないでしょうか。

横浜のような狭い地域では、このような仕事は一人の人間の義務以上のものではありません。

§

私が墓地のためにしてきたことは、愛の労働です。

見返りを期待したことなど一瞬たりともありませんでした。

数年前そのようなご提案がありましたが私は即座にとんでもないこととお断りしました。

ところがしばらくたつと、再び話が持ち上がり、銀製のプレートをというご提案がありました。

しかしながら私はむしろ感謝状をと申し上げました。

まさに今、私がいただいたようなものを。

いえ、これはそれ以上に素晴らしいものです。

§

私は、心の奥底から湧き出たものに従って奉仕してきました。

改めてこの感謝状に心からお礼を申し上げます。

年を取って、イギリスであれ日本であれ、一人きりでぽつんと部屋の中に座り込んで、私はきっとこの感謝状を手にとって、過ぎ去りし日々に思いを馳せるでしょう。

そこに記された愛情に満ちたことばと、名前をたどりながら「これはあの人だ、私の知っている人だ」とつぶやくでしょう。

それは私を良い気分にしてくれるはずです。

そう思われませんか。

§

横浜の人々は私にとってとても大切な友人です。

私はどこにいても、皆さまとともにあった日々を思い出し、墓地に携わることで、皆さまに少しでも貢献し、喜んでいただけたことに心から感謝するにちがいありません。

§

親愛なる友人たち、とりわけ若い方々にお願いがあります。

あなた方がこの墓地を通りかかるとき、そのとき私はすでにこの地を、あるいはこの世を去っているかもしれない、この場所で永遠の眠りについているかもしれない。

それでも、その昔、ある老人が長年この墓地のために働いたおかげで今の姿があるのだなあと思い巡らせてほしいのです。

あの爺さんでも、老いぼれおやじでも、何と呼んでいただいても結構ですが、その老人がB・ジレットという名前であったことを覚えておいてほしいのです。

§

この感謝状は私にとって貴重な財産です。

見るたびに喜びに満たされ、年老いたのちも心の慰めとなることでしょう。

§

皆さまに神の祝福がありますように。

皆さまの家庭、仕事、そしてすべてが祝福されることこそ私のただ一つの願いです。

§

ジレット氏は拍手のうちに言葉を終えた。

 

§

その後、モリソン氏はジレット氏から度々こう聞かされたという。

あの感謝状は自分の持ち物の中で最も大切なものですと。

§

ジレット氏はその後も墓地の会計を担当し、それは死の前年まで37年間にわたって続く。

1917年に管理委員会を辞したのちは、モリソン氏が役目を引き継いだ。

§

退任翌年の10月8日、道を歩いていたジレット氏は車をよけようとして転倒。

腰をしたたかに打ち、ゼネラル・ホスピタルに入院した。

その2年前にも居留地内で自動車事故に遭ったが幸いすぐに回復し、今回もまた順調に快方に向かっていた。

§

10月27日の朝、ジレット氏は看護婦やほかの患者たちと元気そうに話をしていた。

異変が起こったのはその後である。

昼食の最中に突然、椅子の背にもたれかかりそのまま息を引き取った。

82歳。

死因は心疾患だった。

§

 

葬儀は翌日行われた。

クライストチャーチで祈りをささげた後、参列者たちは墓地へと向かい、モリソン氏がそこで短い別れの挨拶を述べた。

故人の遺志により、花は手向けられなかったという。

ただ、今に残るその墓石には、‟BARZILLAI GILLETT”と刻まれた墓碑銘の上に、ごく小さな花環のレリーフがひとつ飾られている。

 

筆者注:感謝状は“for a period of over a quarter of a century(四半世紀以上にわたり)”としているが、実際には1881年から1903年までなので四半世紀には満たない。

 

図版(上から)
・外国人墓地内のジレット氏の墓(筆者撮影)
・横浜外国人墓地(撮影年不明)(筆者蔵)
・横浜外国人墓地手彩色絵葉書(筆者蔵)
・ウィルキン&ロビソン商会に勤務していた頃のジレット氏を描いたイラスト(Charles Wirgman, The Japan Punch, November, 1879)

参考資料
The Japan Weekly Mail, April 4, 1903
The Japan Weekly Mail, Dec. 12, 1903
The Japan Gazette, Oct. 28, 1903
The Japan Gazette, Oct. 29 1903
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)

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