On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■互いに健闘をたたえあった横浜・神戸インターポートディナー

2021-03-30 | ある日、ブラフで

1884(明治17)年に設立されたヨコハマ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブ(以下YC&AC)は、当時の横浜の陸上競技スポーツクラブとしては最大の会員を有していた。

前身となるヨコハマ・クリケット・クラブは現在の横浜公園にグラウンドとクラブハウスを持っていたが、これにいくつかのスポーツクラブが順次合併してYC&ACとなった。

1885年の会員数は113名、その後増加して1903年には241名を数えるまでになる。

会員の大半を英米人が占めていた。

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当時、神戸にも同様のスポーツクラブ、コウベ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブ(以下KRAC)があり、これらふたつのクラブは、毎年「インターポートマッチ」という交流試合を横浜と神戸で交互に開催した。

競技種目は複数に渡り、クリケットは1884年11月、フットボールは1888年2月、野球は1896年10月から対戦が始まっている。

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なかでも人気の競技はクリケットで、そのシーズンは毎年5月下旬・6月上旬から10月下旬から11月上旬ごろまでであった。

YC&ACもKRACもクラブ内の紅白戦で腕を磨き、シーズン最後に行われるインターポートマッチにおいてその年の栄冠を争うのである。

そして試合の後は開催地のクラブの会長が両チームのメンバーや関係者を招いてインターポートディナーという親睦会を開催するのが恒例であった。

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1903年のクリケット試合は横浜で行われた。

10月19日(月曜日)から3日間にわたって熱戦が繰り広げられ、ついにYC&ACが勝利を収めた。

この年までの戦歴はYC&AC9勝、KCC5勝、2引き分けだったが、直近の2回は神戸チームが連勝。

今回2年ぶりに横浜チームが勝利の旗を取り戻したのである。

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10月21日の夕刻、海岸通りのクラブホテル(山下町5B番地)の宴会場、旧ヨコハマ・ユナイテッド・クラブのビリヤードルームに横浜・神戸両チームのメンバーと関係者約80名が集まった。

会場は感じよく飾り付けられており、点滅する電飾が雰囲気を盛り上げている。

インターポートマッチを締めくくるお楽しみ、インターポートディナーが始まるのである。

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会を主宰するのは、この年の4月にYC&AC会長に選出されたウィーラー医師(横浜英国領事館のメディカル・オフィサー・神奈川県庁のメディカル・アドバイザー)である。

ヨコハマ・クリケット・クラブに1874年に入会して以来の熱心なプレーヤーで、60歳を過ぎて出場回数はさすがに少なくなっていたものの、クリケットへの熱い思いはいささかも変わらない。

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腕自慢の料理長が用意した今宵の献立は次の通りである。

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オリーブ、ソーセージ

コンソメ・フロレンティン(ほうれん草ピュレと鶏つみれ入り澄ましスープ)

エビのターバン ノルマンディー風

ヴォロヴァン(小さなパイ)トゥルーズ風

牛フィレ肉 当世風

鶏のガランティーヌ

青豆、ジャガイモ

シギのロースト

サラダ

ババロア モンモランシー

アイスクリーム マラスカン(サクランボリキュール)風味

フルーツ、ナッツ

コーヒー

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出席者一同、質量サービスすべてにおいて申し分のない食事を堪能したところで、ウィーラー会長が立ち上がった。

恒例により「われらのそれぞれの国の統治者たち」のために乾杯した後、「神戸からのお客様」に向けて心からの善意とスポーツマン精神のこもったスピーチが始まった。

§

今回の試合については私が説明する必要はありません。

各チームの主将のほうが私よりずっと適任ですから。

インターポートマッチは退屈な生活に喜ばしい憩いのひと時を与えてくれます。

それには二つの役割があります。

文字通りには、私たちの国民的スポーツであるクリケットと野球を練習して力を向上させること、そしてもう一つは私たちに神戸の友人たちに会う機会を与えてくれることです。

口上はこれくらいにして、皆さんとともに神戸からの客人たちが健やかに富み栄えることを祈って乾杯しましょう。

§

続いて横浜のアトキンソン氏がメーソン氏の伴奏で歌劇カルメンの中から‟闘牛士の歌“を披露すると、神戸チームの主将であり、名投手として知られるG.C.マリー氏が大歓声に迎えられて立ち上がった。

一時期横浜に住んでおり、YC&ACに所属していたマリー氏はウィーラー医師の娘婿でもある。

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彼は心のこもった乾杯に礼を述べたのち、さて辛い義務に取り掛かる時が来ました、と続けた。

それは「旗」を横浜の主将に手渡すことである。

「旗」は1901年にマリー主将の手に渡って以来、神戸が守ってきたが、ついに引き渡す時が来たのである。

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この愛しい旗をホワイト氏に手渡すにあたり、(声援・悲痛なうめき声も)神戸は素晴らしい時を経験し、試合を楽しんましたが、残念ながら思い通りの結果にはなりませんでした。

とはいうものの、この結果はきっと将来のために役立つことでしょう。

次のインターポートで勝つために、来年はゴルフを少し控えてクリケットに力を入れなくてはなりません。

私個人としてはこんなに楽しいインターポートディナーは経験したことがなく、次が待ち遠しくてならないほどです。

クリケットディナーが自分にとっても他の人たちにとってもこんなに楽しいのは、楽しい記憶をあふれるほどに思い出すからでしょう。

共に過ごした楽しい時の思い出、初対面の人、クリケット場で会った人、ディナーのテーブルで顔を合わせた人、そういうことが実にうれしいものです。

5年前、10年前、20年前を振り返ると、インターポートマッチにはいい奴が大勢集まっていました。

そして良き友、信頼できる仲間となったのです。

これは神戸と横浜を一つにする絆であり、これからも長く続いていくことでしょう。

YC&AC メンバーの健康を祈ることは私の喜びであり光栄に思います。

神戸の皆さんにはご起立の上、盃を高く掲げていただきたい。

横浜はいつものように十分にもてなしてくださいましたが、来年は神戸もまた負けないつもりです。

敗軍の将は大喝采に包まれて言葉を終えた。

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米国海軍デービス大佐によるお里のスラング満載のスピーチと歌で大いに盛り上がったところで、F. E. ホワイト氏が立ち上がりYC&ACを代表して神戸の主将からの言葉に対し感謝を述べた。

彼は横浜チームの主将であり1901年も主将を務めていたが、その時、横浜チームはホームグラウンドでのインターポート試合で初めて敗退を喫した。

今回ようやくその雪辱を果たすことが出来たのである。

§

このようなチームを率いることができたことを光栄に思います。

神戸から旗を奪うことができたのは11人全員の健闘によるものであり、これをずっと守れるよう願っています。

神戸チームの試合ぶりは賞賛に値するものでした。

横浜チームも試合運びにおいて賞賛すべき点がいくつかありましたが、キャプテンとしては2、3ミスがあったことも否めません。

このようなミスを来年繰り返してはならないでしょう。

さらに「日本生まれ」のチームメンバーに感謝します。

彼らは試合の中で自分たちが柱であることを実証しました。

101得点のハリー・キルビー、88得点のムーレイ・モリソン、33得点のエドワード・キルビーについてはどんなキャプテンも誇りとするでしょうし、彼らのことも彼らが試合で見せた姿についても実に誇らしく思います。

残念ながら11人のうちの多くが「老いぼれ」であるといわざるを得ません。

まず私自身が老いぼれですが、盛りを過ぎたとはいえ若者の素晴らしいプレイへの称賛を惜しむことはありません。

ハリー・キルビーによる101得点は私が見たインターポートのクリケット試合の中で最も素晴らしいものでした。

そして本人とその兄弟が今晩同席できなかったことをことのほか残念に思っています。

横浜は常に神戸を歓迎し、できればより頻繁に訪れてくれることを願っています。

§

その後、審判を務めた横浜のウィルキンソン 氏が、審判や得点記録係、グラウンドを「芸術的」なまでに整備したC.M.ダフ氏ら関係者一同、そして横浜と神戸の婦人たちに感謝を述べた。

試合の合間にクラブハウスでアフタヌーンティーをふるまうなど、朝早くから試合が終わるまで細やかな心配りで皆を支えてくれたウィーラー会長夫人をはじめとするご婦人方の労をねぎらったのである。

§

この三日間にわたり横浜クリケットグラウンドにおいてみられた美しい衣装と愛らしい笑顔こそが、思うにインターポートウィークの中でもとりわけ素晴らしい思い出であります。

一同大歓声を以ってこれに同意を示した。

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ヨコハマ・クリケット・クラブの創立メンバーで初代会長であり、またYC&ACの会長も務めたJ. P. モリソン氏が‟Farmer’s Boy“を披露し、36年前に上海で開かれた最初のインターポートディナーでもこの歌を歌ったと懐かしげに語った。

横浜に来る前、上海のクリケットチームの選手として対香港インターポートマッチに出場していたのである。

聴衆は歌にもそのコメントにも大いに熱狂した。

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最後の正式な乾杯はホワイト氏によるもので、会長であるウィーラー医師の健康のためにささげられた。

ウィーラー会長はこれにこたえて昔からのお得意である‟Yo-heave-ho!“を高らかに歌った。

「航海の歌を歌えば間違えっこない」というリフレインが威勢よく室内に響き渡った。

§

これでプログラムは終わったが、その後も何曲か歌が続き、全員による‟Auld Lang Syne(過ぎ去りし懐かしき昔)“の大合唱をもって1903年のインターポートディナーはようやくお開きとなった。

 

図版:2点ともクラブホテル外観写真絵葉書(筆者蔵)

参考資料:
The Japan Weekly Mail, April 4, 1885
The Japan Weekly Mail, April 25, 1903
The Japan Weekly Mail, Oct. 24, 1903
The Japan Gazette, Oct. 22, 1903
・山本邦夫・棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』(道和書院、昭和52年)


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