On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■日本馬タイフーン号、中国馬チャンピオンを堂々制覇!

2020-06-30 | ある日、ブラフで

1873(明治6)年5月16日(金曜日)、根岸競馬場におけるヨコハマ・レース・クラブ春季大会3日目最終日。

日本政府工部省寄贈の鉄道賞杯、1マイル1/4、賞金200ドルのレースの火ぶたが今しも切って落とされようとしていた。

出走馬はいずれも大会1日目、2日目のレースの勝馬。

中国馬と日本馬の混合チャンピオン戦である。

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いずれ劣らぬ強豪馬の中で、ひときわ人々の注目が集めるのはタイフーン号。

英国公使館付き医師エドウィン・ウィーラー氏が招魂社(後の靖国神社)競馬で目をつけて買い取った日本在来種の馬である。

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1871年秋季レースで2勝してデビューを飾り、翌年の春季大会の日本馬レースにおいては強豪モクテズマ号を退けて婦人財嚢賞を勝ち取っている。

昨年の秋季大会では日本馬のチャンピオン戦に勝利したが、日本馬に勝ると言われる中国馬との混合レースでは着外に終わっていた。

果たして今回、中国馬を制し、雪辱を果たすことはできるのか。

真価が問われるレースである。

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根岸に日本初の洋式競馬場が完成したのは7年前の1866(慶応2)年12月。

外国人居留民の強い要望を受けて幕府が山手の高台に続く広大な土地をヨコハマ・レース・クラブに貸与した。

翌年より本格的な芝のコースで年2回、春と秋にレースが開催され、娯楽と社交の一大イベントとして居留地の人々に親しまれてきた。

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開催の2、3ヶ月前には番組表が各新聞に掲載され、1ヶ月前にエントリーが締め切られると、紙面で馬の調子などが伝えられ、居留地のクラブやホテルでは連日ロッタリーが販売された。

競馬開催期間中は銀行や商店も半日休業となる。

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当時の競走馬は、現代の競馬で思い浮かべるサラブレッドのような西洋馬ではなかった。

冒頭の写真はタイフーン号と馬主のウィーラー医師(左の人物)だが、馬の体高(地面から肩までの高さ)は成人男性の肩より低く(サラブレッドの体高は160-170cm)、全体にずんぐりむっくりしている。

英字新聞は「馬」を指す単語として「horse」ではなく「pony」(現在の基準で体高147cm以下の馬)を用いていた。

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いざレースに臨んでも「全頭一斉に飛び出す」とは限らなかったようだ。

一歩も前に進まないものあり、途中でコースをはずれて走り出すものあり、いわゆる「バカつく」馬も珍しくない。

たとえゴールまで疾走したとしてもその速度は西洋馬と比べるべくもない。

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農耕や運搬に用いられてきた日本在来馬は、身体的特徴や調教の難しさから、西洋人の思い描くような競走馬には向いていなかったようだ。

しかし国内競馬の発展に向けて、ヨコハマ・レース・クラブ役員N.P.キングドン氏をはじめとする外国人らによる馬匹(ばひつ)改良の努力が続けられていた。

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一方、日本より早く欧米人が進出していた中国では、すでに1848年から上海で競馬が行われており、そこでは中国産の馬が競走馬として用いられていた。

レース用に調教され、血統や成績から能力がほぼ明らかな中国産競争馬。

ヨコハマ・レース・クラブ役員トーマス氏をはじめ資金力のある居留民は中国から馬を輸入し、日本のレースに参加させた。

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根岸競馬場の第1回目のレースでは、日本馬のみのレースのほか、日本馬・中国馬の混合レースが組まれていた。

第2回となる1868年春季大会からは中国馬のみのレースが加わる。

以来、日本馬中国馬それぞれのチャンピオン戦、日本馬・中国馬混合のチャンピオン戦の三レースが大会の目玉となった。

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本格競馬を目指すならば、それにふさわしい能力を持つ中国馬のレースを中心に据えるのが望ましい。

しかしそれは資金力のあるオーナーや厩舎が勝利を独占することにつながりかねない。

また日本馬の改良の動きに逆行することにもなる。

中国馬派、日本馬派の対立は次第に深刻化し、後にレースクラブ分裂の原因の一つになるのであるが、タイフーン号が中国馬との混合戦に挑む1973年春季大会では日本馬10、中国馬13、混合3のレースが組まれていた。

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注目の一戦いよいよスタート! 残念ながらレースの詳細な記録は残されていないが、タイフーン号は見事に勝利を収めた。

今季の中国馬レースで2冠に輝く強者クルセイダーが2着。

3着は同じく中国馬でトーマス氏の持ち馬ギャリーオーウェンであった。

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同年の秋季大会においてタイフーン号は中国馬に敗れるが、翌年の春は同大会の中国馬チャンピオン、ディクシーをものともしない堂々たる勝利でまたしても雪辱を果たす。

根岸競馬場において大人気を博し、居留民はこの馬を、親しみを込めて「リトルマン」と呼び、新聞は「ヨコハマ・コースの誇り」と書き立てた。

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その後も数々の勝利を収めたタイフーン号は、1879年春季レースを最後に長きにわたる競技生活に終止符を打つ。

競走馬としての日本馬の可能性を証明して見せた小さな巨人。

その 生涯成績は48戦23勝であった。

 

図版:
The Far East, July 1, 1872(横浜開港資料館 蔵)
Illustrated Sporting and Dramatic News, Nov. 25, 1876

参考資料:
・立川健治『文明開化に馬券は舞う―日本競馬の誕生―』(世織書房、2008)
Japan Weekly Mail, April 27, 1872
・-, May 11, 1872
・-, May 17, 1873
・-, May 22, 1873
・-, May 10, 1879
The Daily Japan Herald, Sep. 24, 1874


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