On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■横浜に生まれ南アフリカで生涯を閉じたアメリカ人、K. ヴァン・R. スミス ~プール嬢のアルバムから

2024-06-30 | ブラフ・アルバム

1888(明治21)年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの5回目、今回はエリノアが遺した写真に度々登場するK. ヴァン・R. スミスを取り上げます。

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冒頭の写真で、花のような乙女たちに囲まれて自らを草にでも見立てたのか、地べたに寝転がってポーズをとっているのがスミス君。

袖の膨らんだおしゃれなスーツ姿で右端に収まっているのがエリノア嬢。

「1889年10月6日、本牧にて」と手書きのメモがあるので当時19歳。

スミス君は彼女より二つ年下ですが、すでに堂々たる体躯の青年です。

メモの一番下の1行 "Kiliaen Van Rensselaer Smith" が彼のフルネーム。

普段は「ヴァン」と呼ばれていたようです。

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外国人居留地の気の合う若者たちが集まって本牧までサイクリング。

いずれの顔にも笑みがあふれ、青春真っ盛りといった一コマ。

陽気な歌声でも聞こえてきそうです。


本牧にて。前列右がヴァン、左がエリノアの兄バート、後列の左から4人目が弟チェスター、2列の左から3人目がエリノア。

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エリノアたちプール家の兄弟とヴァン・スミスの関わりは、彼らの父の代にさかのぼります。

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ヴァンの父、ナサニエル F. スミスはニューヨーク州ロングアイランドの都市スミスタウン出身。

来日後、製茶貿易の会社で働いていましたが、1868年に同僚のコルゲート・ベーカーとともに独立してスミス・ベーカー商会を起こしました。

そして1888年、茶の輸入商社に勤めていたオーティス A. プールを社員としてアメリカから呼び寄せたのです。

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さて、スミス家の三男ヴァンは居留地生まれのヨコハマボーイ。

7歳になると、ブラフ(山手町)179番地に開校したばかりのヴィクトリア・パブリックスクールに入り、ブラフ1番地の自宅から通学することになります。

来日してブラフ89番地に居を構えたプール家の兄弟たちも間もなく同校に入学。

3人は少年時代の約6年間、ほぼ毎日顔を合わせて過ごしたのです。

しかしその舞台となったヴィクトリア・パブリックスクールは、実際には慢性的な経営難にあえいでおり、1894年ついに閉校に至ります。

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学び舎を失ったヴァンはブラフにあったウィンストンスクールに転校し、15歳の時に父の会社であるスミス・ベーカー商会に入社。

その後、アメリカの石油会社であるスタンダード・オイル社の横浜支社に転職します。

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一方、プール兄弟は家庭教師についてフランス語や日本語のほかタイプや速記といった実務を学んだ後、バートはアメリカン・トレーディングカンパニーの速記者を経て、ヴァンと同じスタンダード・オイルに籍を置きます。

弟のチェスターはドッドウェル・カンパニーというイギリスの商社に勤め、支配人を務めるまでになりました。

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こちらの写真は場所も年代も分かりませんが、やっぱり一人だけ寝転んでいるヴァン君。

お得意のポーズだったのでしょうか。

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ヴァンはアメリカへの帰国など何度か海外を旅行しますが、ブラフ1番地から離れることなく、横浜のスタンダード・オイル社に勤務していました。

スポーツマンで、フットボールやテニスの試合に参加した記録が当時の新聞に残されています。

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次の2枚の写真も撮影場所・年代とも不明です。

最初の1枚にはバートが、2枚目にはチェスターが写っているので、二人が交代で撮影したのかもしれません。

ヴァンとチェスターは生涯を通しての親友で、チェスターが結婚した際にはヴァンが花婿の付添人を務めました。

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1922年、ヴァンはロンドンの教会でヘレン・バトラーと華燭の典を挙げます。

40歳と遅い結婚でしたが、花嫁は23歳、二人は日本に戻り横浜山手の父のもとで新婚生活をスタートさせました。

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翌1923年3月12日、ヴァンとヘレンの間に女児が誕生し、モオリーンと名づけられました。

そして同じ年の9月1日、大震災が横浜を襲います。

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後年、チェスターが記した関東大震災の体験記「古き横浜の壊滅」にはスミス一家についての記述もあります。

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その日、いつもの通り出勤していたチェスターは、ランチを取りにオフィスを出る寸前に大きな揺れに見舞われました。

建物は崩壊しましたが、辛くも脱出して一命をとりとめます。

翌日、一面の廃墟となったブラフを歩いていたとき、現在の代官坂のあたりでヴァンの父に出会います。

息子一家の安否を尋ねられると、彼はもうろうとした様子でしたが「大丈夫」と答えました。

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後でわかったことですが、実際には、ヴァンの妻と幼い娘は落ちてきた屋根瓦で負傷していました。

スタンダード・オイルの事務所にいたヴァンは幸いなことに怪我もなく、家族と合流してエンプレス・オブ・カナダ号に乗り、神戸へと避難します。

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ヴァンの父、ナサニエル・スミスはその後、娘を頼ってイギリスに渡り、そこで生涯を閉じます。

享年84。

アメリカから日本に来て会社を起こし、居留地の名士として人望を集め、製茶輸出の発達等の功により日本政府から勲四等に叙勲され、歴史に残る大地震を体験してイギリスに没す。

波乱の人生と言えるでしょう。

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スタンダード・オイル社は東京の帝国ホテルに事務所を移し、ヴァンはそこで勤めを続けました。

震災の翌年には二女に恵まれます。

その後何度か会社の住所は変わりますが、いずれも東京内で、ヴァン一家がどこに住んでいたのかは不明です。

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1929年2月21日付のロンドン&チャイナ エクスプレスに、2月18日ロンドンに到着した日本郵船熱田丸の搭乗者としてヴァン・スミス夫妻の名前が記されています。

横浜ではなく門司から乗船したようです。

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残念ながら夫妻のその後の足取りはつかめていません。

家系図サイトAncestryによるとヴァンの終焉の地は南アフリカ・ヨハネスブルク。

1968年8月2日、87年間の生涯でした。

旅券申請書に貼られたヴァン・スミス38歳当時の写真。身長約180cm、髪の色は茶、目はグレーと記されている。(United States Passport Applications, 1919)

図版
・最後の1枚を除いてすべアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料
Poole FAMILY Genealogy, (http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
・O. M. プール『古き横浜の壊滅』有隣堂 昭和51年
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
London and China Express, May 25, 1922.
・―, Mar. 15, 1923.
・―, Oct. 30. 1924.
The Japan Weekly Mail, Jan. 21, 1905.
・―, July 20, 1907.
・―, Sep. 14, 1907.
London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1938 for K. V. R. Smith.
・明治期外国人叙勲史料集成_第四巻
・K. Van・R. Smith経歴(https://www.ancestry.com.au)

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■横浜から池上へ ~プール嬢のアルバムから

2024-04-29 | ブラフ・アルバム

1888年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの4回目、今回は池上(東京都大田区)を訪れた際の写真をご覧いただきます。

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エリノアのアルバムには彼女が16歳頃の1894年から、結婚するまでの約10年間の写真が収められていますが、その間に少なくとも3回池上を訪問しています。

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池上本門寺は1282(弘安5)年に日蓮上人が没した地、武蔵国池上に建立され、古くから人々の信仰を集めてきました。

徳川家康の江戸入府以降、参拝者は次第に数を増し、江戸時代後期となると、年に一度の日蓮聖人御命日の法要「お会式」に庶民が群れを成し、浮世絵の題材となるほどのにぎわいを見せたといわれます。

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1870(明治3)年、アメリカの艦船「オネイダ号」が横須賀・観音崎沖で沈没し、115名の尊い命が失われました。

南北戦争において数々の功績を挙げた栄えある軍艦の不幸な事故を追悼するために、横浜外国人墓地にオネイダ号記念碑が、また犠牲者のうち身元不明の人々のための慰霊碑が、池上本門寺に建てられました。

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その後、メモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)にはアメリカ軍関係者が横浜外国人墓地と池上本門寺を訪れるようになったことから、池上の地名はアメリカ人のみならず居留地の外国人たちにも知られていたのでしょう。

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エリノアのアルバムに残された最初の池上の写真の日付は彼女が数えで16歳の1894年6月4日です。

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一行は、男性9名、女性は彼女を含めて5名、総勢14名のグループでした(撮影者も同行したとすると15名か)。

写真の下に記された名前を見ると山手にあったドイツ海軍病院のランクウィッツ医師やシモン・エバース商会横浜支店に勤務するドイツ人カウフマン氏、山手在住のスイス人ストラー夫妻など多国籍で、プール家から参加したのはエリノアのみだったようです。

前列左から3人目がエリノア。

 

お友達のアンナ(右)と。アンナの苗字は不明。

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次の池上での写真には、エリノアが19歳の誕生日を目前に控えた1897年12月5日と記されています。

横浜からサイクリングで訪れたようで、道中の様子まで撮影されています。

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渡し舟で越えたのは多摩川でしょうか。

 

池上に到着。

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右端がエリノア。

今回は子供を含めて8名のグループ。

エリノアの両親や兄弟の姿は見当たりません。

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池上行、最後の写真は撮影年月日不明ですが、1904年から1905年頃横浜に滞在していたシドニー・ウィーラーが写っていることから、その時期のものと考えられます。

今回は総勢18名の大所帯。

なかにはエリノアの母と兄バート、弟チェスターのほか、1904年9月に彼女と華燭の典を挙げるナサニエル・メイトランドの顔もみえます。

このころは婚約者もしくは夫だったことになります。

シドニーとエリノアの兄弟とはヴィクトリア・パブリックスクール時代からの友人で、プール家とウィーラー家は家族ぐるみで親しく付き合っていました。

 

池上本門寺の表参道、九十六段の石段、此経難持坂 ( しきょうなんじざか ) にて。

この写真から池上を訪れた時のものだと分かりました。

外国人の団体に思わず振り返る日本人女性。

坂の下から物珍し気に見上げる女の子たち。

家に戻ったらきっと「今日は本門寺に外人さんたちが大勢来てた」と家族に報告したことでしょう。

 

図版:すべてアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料:池上本門寺ウェブサイト https://honmonji.jp/

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■避暑地を満喫! 1900年の箱根旅行 ~プール嬢のアルバムから

2024-03-20 | ブラフ・アルバム

1888年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの3回目、今回は箱根旅行の写真をご覧いただきます。

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当時人気の避暑地は日光や軽井沢、箱根でしたが、横浜の外国人たちはそれらに限らず近郊への小旅行を頻繁に楽しんでいようです。

場所が特定できるものだけでも、箱根のほか、池上(現 東京都大田区)、鎌倉、江の島、金沢冨岡(現 横浜市金沢区)、大磯の写真がアルバムに残されています。

エリノアの新婚旅行先が日光であったことがわかっていますが、残念ながらその時のものと特定できる写真はいまのところ見つかっていません。

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1899年、改正条約の発効により、それまで行動範囲が限られていた外国人たちは国内を自由に旅行できるようになりました。

かつては旅行免状が必要とされた箱根への遠出も容易となり、1900年8月、21歳のエリノアは横浜外国人コミュニティの仲間たちとともに早速箱根旅行に出発します。

宿泊先は分かっていませんが、人気の避暑地である箱根には有名な富士屋ホテルをはじめ外国人も受け入れる旅館もしくはホテルがいくつもありました。

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グループ一行で記念撮影。

写真の下に名前が記されています。

左よりコーさん、エリノア、(ベアトリックス)・タイナー夫人、ナサニエル・メイトランド氏、ミナ・スミス、ファニー・エルドリッジ、ポラード氏。

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日本人と思われるコーさんはおそらく一行のお世話役でしょう。

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ナサニエル・メイトランドはエリノアより3歳年上のイギリス人で、この年、上海から来日して横浜の外国人コミュニティーに加わったばかり。

そしてこの旅行から4年後、二人は結ばれ、クライスト・チャーチで華燭の典を挙げることとなります。

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ベアトリックス・タイナーとファニー・エルドリッジはアメリカ人医師スチュワート・エルドリッジの娘です。

姉のベアトリックスはデンマーク人生糸商ぎタイナー夫人となっていました。

妹のファニーも後にデンマーク人弁護士ウォーミングと結婚します。

姉妹の父、エルドリッジ医師は南北戦争において北軍ハワード将軍の参謀を務めた後、連邦農務省に奉職し、縁あってお雇い外国人として北海道開拓使団の顧問として招聘された人物です。

1875年に横浜に居を移して医師として活動し、1897年、検疫などの多年の功績に対し、日本政府より勲四等旭日章を贈られました。

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背景の右半分、暗くて見づらいのですが、仏像が認められます。

これは元箱根石仏群にある俗称「六道地蔵」と呼ばれる磨崖仏(石仏の一種で、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏像)です。

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右から1人目と3人目の人物はほかの写真に写っていないため、もしかすると別の機会に撮影されたものかもしれません。

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現在、摩崖仏は覆屋に覆われていますが、これは江戸時代以降失われていた覆屋を復元したものとのことです。

そのためエリノア一行が訪れた際にはこのように露出していました。

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エリノアのものではありませんが、こちらの古写真には摩崖仏が鮮明に写っています。

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芦ノ湖で舟遊び。

写真の下に書かれている「La Perla」はイタリア語で真珠の意。

帽子のリボンにも同じ文字が見えるので、おそらくこのボートの名前と思われます。

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ハコネ・レイクで海水浴ならぬ湖水浴する人々。

芦ノ湖って遊泳禁止じゃなかったの?と思って調べたところ、江戸時代は箱根の関所破りを防ぐため、芦ノ湖での舟運や泳いで渡ることは厳しく禁止されましたが、明治時代になるとそのような制限は撤廃され、観光目的の舟運が盛んに行われるようになりました。

水遊びもご法度ではなかったとのことです。

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現在、国内で泳げる湖は琵琶湖や猪苗代湖など数か所に限られており、芦ノ湖もまた遊泳禁止となっています。

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ピクニックや舟遊びに湖水浴まで、箱根を満喫できたエリノアたちの時代がちょっとうらやまししいですね。

 

図版:
・上から3番目の写真を除きすべてアントニー・メイトランド氏所蔵
・上から3番目の写真 筆者蔵

参考資料:
斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・芦ノ湖と摩崖仏の歴史については箱根町教育委員会 生涯学習課文化財係にご教示頂きました。

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■ユンケル四重奏楽団 ~プール嬢のアルバムから

2024-02-27 | ブラフ・アルバム

1888年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの第2回。

前回は彼女がアマチュア女優として活躍した山手ゲーテ座を取り上げましたが、今月は演奏会に関する写真をご覧いただきます。

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プール一家は音楽に造詣が深く、エリノアとその母はピアノを、兄ハーバートはヴァイオリンをたしなんでいました。

左より)シュミット夫人、プール夫人、カウフマン夫人、エリノア

1898年に世界的なヴァイオリン奏者であり、後に東京音楽学校の教授となるアウグスト・ユンケルが来日すると、ハーバートはユンケル管弦楽四重奏団の一員としてゲーテ座(パブリック・ホール)などで度々演奏するようになります。
(トップの写真 左より ユンケル、R. シュミット、F. シュミット、H. プール)

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ユンケルは1868年ドイツに生まれ、ケルン音楽院でヴァイオリンを学び首席で卒業。

16歳でデビューを飾りました。

アメリカに渡りシカゴ交響楽団に入団しますが、その後独立して世界各地のステージで活躍し、中国を経て横浜に現れます。

横浜での活躍の舞台となったゲーテ座に関する研究書『明治・大正の西洋劇場 横浜ゲーテ座 第二版』には次のように書かれています。

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さて、日本楽団育成の恩人と称されることもあるアウグスト・ユンケルも、ソーブレットやパットン、ブロックサムなどと同様、東京音楽学校の教師に就任するまでは、横浜が活動の中心舞台であった。

ユンケルの来日を1899年とする説は『音楽事典』を始めとして多くの書物に見られるのだが、彼が横浜に姿を現したのは1898年の初頭であって、パブリック・ホール初登場は3月10日の夜である。

その後、ユンケルの活躍はめざましく、その年の秋から翌年にかけて、彼は文字通り横浜の音楽シーズンの中心人物となった。

合唱団及び管弦楽団と弦楽四重奏団を組織し、それぞれ三回の演奏会をパブリック・ホールで開くに至ったからである。

合唱団及び管弦楽団は、アマチュアの団体であるヨコハマ合唱協会とフィルハーモニック協会のメンバーを中心に編成され百名を超す団員を擁していた。

(中略)一方、弦楽四重奏団は、ユンケルと三人のアマチュア音楽家(H. プール、F. シュミット、R. シュミット)がメンバーであった。

第一回と第三回の演奏会には、当時すでに東京音楽学校に出講していたラファエル・フォン・ケーベルが特別参加しているのが注目を引く。

ユンケルは1899年4月に東京音楽学校の教師となり、彼の活動の舞台は東京へ移るが、横浜との関係はその後も続いた。

特に、横浜のアマチュア音楽家を中心にして、ユンケルはベートーベン協会という音楽団体を組織し、およそ10年にわたって主宰していたからである。

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ユンケルが東京音楽学校に職を得た経緯について、弟子の一人である山田耕作は著書『耕筰楽話』に次のように書いています。

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先生が来朝されたのは先生の二十二の時であった*。

何の目的もなしに、アメリカのある金持ちが東洋見物の時に先生を同伴されてきたのであった。

そして横浜で外人達の為に演奏会を催したりしたのを幸田延子先生**が知られ、学校当局に、ユンケルという立派な音楽家が来朝中だが先生にしないか、と話され、始めは嘱託として関係されたのであった。

*ユンケルは1868年生まれで1898年に来日したため「二十二歳」は誤り。  
**幸田延(1870-1946、「延子」は山田の誤りか)は明治から昭和にかけて活動したピアニスト、ヴァイオリニスト、作曲家、音楽教育家。作家 幸田露伴は実兄。

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ユンケルは1912年まで東京音楽学校でヴァイオリンと管弦楽の指導にあたり、山田耕作のほか、瀧廉太郎、三浦環ら数々の音楽家を育てました。

日本人女性と結婚し、東京音楽学校を辞して後、いったん故国に戻るも妻の健康上の理由から1934年に再来日。

武蔵野音楽学校で再び教鞭をとり、1944年東京にて生涯を閉じます。

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音楽教授としての指導ぶりについて山田耕作は「ユンケル先生には何といつても熱があった。

音楽の技術だけでなく、芸術そのものを吹き込まうとする真剣さがあった。」と記しています。

(前列左より)ロバート・シュルツァ、アウグスト・ユンケル、ドーン
(後列左より)フリッツ・シュミット、ロドルフ・シュミット、ハーバート・プール、カウフマン、フリードランダー

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さて、『明治・対象の西洋劇場 横浜ゲーテ座 第二版』よると、ユンケルが東京に拠点を移す以前、ゲーテ座で弦楽四重奏の公演を行ったのは1898年12月21日、1899年2月22日、同年5月11日の3回です。

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第1回と第3回には、東京帝国大学教授であるロシア人ケーベルがピアノ奏者として参加しました。

ケーベルはロシアで音楽を学んだ後、父の母国であるドイツで哲学を修め、明治政府のお雇い外国人として1893年から1914年まで21年間にわたり東京帝国大学において哲学、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、ドイツ文学を講じたほか、東京音楽学校でピアノ教授も行った多才な人物です。

1898年12月の演奏会ではピアノ独奏のほか、ユンケルのヴァイオリンとの二重奏を披露し、喝采を浴びたことが新聞で報じられています。

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ケーベルが参加しなかったゲーテ座での第2回演奏会ではエリノアがピアノ奏者を務めました。

プール家の兄妹の晴れの舞台を伝えるこのときの新聞記事はいつになく相当に辛口ですが、ご参考までに紹介します。

(前列左より)カウフマン、プール夫人(エリノアの母)、シュミット夫人、フリードランダー
(後列左より)カウフマン夫人、R. シュミット、ユンケル、H. プール、シュルツァー、F. シュミット、ドーン、エリノア

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ユンケル弦楽四重奏団による第2回室内楽演奏会が、水曜日の夕方、パブリック・ホール(山手ゲーテ座)のロビーで大勢の聴衆を迎えて行われた。

残念ながら12月27日(12月21日の誤り)に行われた第1回演奏会のような高い芸術的レベルには達していなかった。

このような大きな違いが生じたのは、ケーベル教授が参加しなかったためである。

弦楽四重奏によるモーツァルト初期の変ホ長調と、ピアノ四重奏によるベートーベン変ホ長調が足かせとなった。

これらはまとまりに欠け、アンサンブルも完璧ではなかった。

他の演奏曲は、アレンジも含め、古今東西から集められたもので、聴衆は楽しんでいたようだ。

ユンケル氏は、ボームという無名作曲家による「カヴァティーナ」という作品で、素晴らしい音色とカンタービレ的なスタイルを披露したが、曲自体は面白みがなく、氏の能力にふさわしいものでなかったことが惜しまれる。

ペイン夫人、クラーク夫人、シュルツァー氏らが務めた独唱が救いとなった。

特にペイン夫人によるブラームスのコントラルト独唱は見事であった。

プール嬢は本演奏会初登場ながらベートーベン作品に堂々と挑戦して魅力を発揮した。

全体的に見ればとても楽しい一夜だったといえよう。

ただ、次回は更に良いものを期待したい。

本演奏会の最後の公演までに、四重奏か三重奏のどちらか1曲でもいいから、完璧なものを聴かせていただければ幸いである。

 

プログラム

第一部

1. 弦楽四重奏「変ホ長調」モーツァルト・・・ユンケル氏、R. シュミット氏、F. シュミット氏、プール氏

2. アルト独唱「鎮められた憧れ」ブラームス・・・ペイン夫人

3. 弦楽四重奏
(a)「メヌエット」ハイドン
(b)「ミニョン」トマ

4. テノール独唱「エレジー」マスネ・・・シュルツァー氏

第二部

1. ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲「変ホ長調」ベートーベン・・・プール嬢、ユンケル氏、R. シュミット氏、F. シュミット氏

2. ソプラノ独唱「アヴェ・マリア」マスカーニ・・・クラーク夫人

3. ヴァイオリン独奏「カヴァティーナ」 ボーム・・・ユンケル氏

4. 弦楽四重奏
(a) 「無言歌」 作品17 メンデルスゾーン
(b) 「アンダンテ・カンタービレ」チャイコフスキー(リクエスト曲)
(c) 「メヌエット」ボッケリーニ

人物と服装から察して上から3番目のの写真と同じときに撮影されたと思われる

 

図版:すべてアントニー・メイトランド氏所蔵。撮影日時不明。

参考資料:
・瀧井敬子「夏目漱石とクラシック音楽 第20回 ユンケル家と岩倉家の結婚」(『月刊 資本市場(No. 417)』2020年5月所収)
・山田耕作『耕筰楽話』(清和書店、昭和10年)
・升本匡彦『明治・大正の西洋劇場 横浜ゲーテ座 第二版』(岩崎博物館(ゲーテ座記念館)出版局、1986年)
・ベルリン日独センター編『Brückenbauer : 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター、2005年)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)
The Japan Weekly Mail, Feb. 25, 1899.

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■山手ゲーテ座(1885-1923年) ~プール嬢のアルバムから

2024-01-31 | ブラフ・アルバム

今回は番外編としてイギリス在住のメイトランド氏から提供頂いたエリノア・プール嬢のアルバムから、1890年代から1904年にかけてゲーテ座で上演されたアマチュア演劇と演奏会の写真をご紹介します。

メイトランド氏はエリノアとその夫、イギリス人N. G. メイトランドのご子孫です。

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エリノア・プールは茶の輸入商社に勤める父オーティス・オーガスト・プールの長女としてアメリカのシカゴに生まれました。

父が横浜の製茶貿易会社スミス・ベーカー商会に招かれ一家で日本に移住することを決めたため、1888(明治21)年4月、9歳の時に両親と兄ハーバート、弟チェスターと共に来日しました。

一家はブラフ(山手町)89番地Aに居住します。

プール家は社交的で家族ひとりひとりが文化的な生活を大切にしていました。

父オーティスは太平洋を汽船で82回横断するほど仕事で多忙だったようですが、アマチュア写真家として有名な人物でした。

母エリノアはピアノが上手で、横浜文芸協会や横浜コーラス協会の会員でした。

兄ハーバートもアマチュアのヴァイオリン奏者で、東京音楽学校教師ユンケルとたびたび共演しています。

弟のチェスターは水泳やテニスなどのスポーツに堪能でした。

エリノアも母と同じくピアノの演奏に優れ、さまざまな音楽イベントでその腕前を披露しています。

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エリノアのアルバムには、彼女が横浜で過ごした青春時代の出来事の数々が記録されています。

ブラフやバンドで催されたパーティー、演奏会など様々な催し、親しい友人たちとのピクニック、鎌倉や江ノ島、富岡(現 横浜市金沢区)などへの遠足、箱根への旅行などなど。

今回はそれらの中からゲーテ座に関する写真をいくつかご紹介したいと思います。

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エリノアは17歳で横浜の欧米人の社交界にデビューし、25歳で結婚するまでの間に何度かゲーテ座で上演されたアマチュア演劇に出演しました。

一番初めに出演したのは、王女会が主催した1896年11月25日の文学カーニバルで17歳の時でした。

このプログラムはいくつかの寸劇から成っており、同年代の少女たちが多数出演しています。

彼女はミス・クーンと共に屋台のキャンディ売りの役を務めました。

次いで1898年12月6日に上演された「治安判事」では、ヒロインであるポスケット夫人の妹役を、翌年1899年4月7日の「三人の母」では、ヒロインの娘たちのひとりとして出演しています。

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1901年5月22日に上演された、中国の宮廷を舞台にしたコミック・オペラ「サン・トイ」に、エリノアは皇帝の側室のひとりとして出演しました。

この時には将来の夫となるN. G. メイトランドがヒロインの相手役で共演しています。

 

こちらは「サン・トイ」の舞台セットです。

 

「サン・トイ」の出演者一同。

エリノア(右端)が洋装していることから、ゲーテ座での公演に先立って行われたモリソン邸での上演の際に撮影されたものと思われます。

 

中国服に身を包んでポーズをとるエリノア。

「サン・トイ」についてはこのブログのほかの記事でもご紹介しているのでそちらもご参照ください。

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こちらの写真については演目を特定中ですが、男性陣の一部が顔を黒く塗っているのが特徴的です。

中央左寄りの白い衣装の女性がエリノアと思われます。

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この写真についても演目が分かっていません。

中央の椅子に座る王様の左に立つ人物がN. G. メイトランド、その隣がエリノアと思われます。

トップの写真も同じ時に撮影されたものです。

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兄ハーバートはゲーテ座での演奏会にたびたび出演しています。

 

この写真がいつの演奏会かのものかは特定中ですが、中央左寄りにヴァイオリンを手にしたハーバートが写っています。

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手の込んだ舞台衣装やセット、そして観客たちの華やかなファッションからは、当時の横浜の外国人コミュニティの豊かで華やかな暮らしの様子が覗われます。

 

図版:
・すべてアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料:
The Japan Weekly Mail, Nov. 28, 1896
The Japan Weekly Mail, Dec. 10,1898
The Japan Weekly Mail, Apr. 15, 1899
The Japan Weekly Mail, May 25, 1901

 

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