On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■シドニー・ウィーラーの早すぎた死

2019-07-31 | ある日、ブラフで

1918(大正7)年2月19日火曜日付の『ジャパン・ガゼット』紙4面に「故シドニー・ウィーラー氏葬儀 シャンハイ・ジャーナルより」という見出しの記事が掲載された。

紙面の6分の一に及ぶその長文は、40歳という若さで赴任先の上海において病死したヨコハマボーイの葬儀の模様を、彼の故郷の人々に伝えるものであった。

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それより一週間前、2月12日付の同紙において横浜英国人コミュニティの人気者であり、多くの人に愛されていたエドウィン・ウィーラー医師の長男シドニーの死が報じられた。

葬儀の記事は、彼の明るい笑顔も、スポーツマンらしい身のこなしも二度と目にすることはできないのだということを改めて告げていた。

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1877(明治10)年11月5日、ブラフ97番地に住むウィーラー医師の妻、メアリーが二人目の子供を出産。

2年前に誕生した長女メアリーに続く大望の男の子はシドニーと名付けられた。

1880年の4月には弟ジョージが生まれる。

その後、一男一女の子宝に恵まれたがごく幼くして亡くなったので、子どもたちは3人兄弟として育てられた。

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父エドウィンは北アイルランド・ベルファストの出身で、1869年に英国海軍の軍医として来日した。

同郷のメアリーと結婚したのは1874年1月。

夫妻はその年に東京から横浜に移り、長女が生まれた翌年である1876年からはブラフ(山手町)97番地の広い屋敷を住まいとする。

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敷地の東側の斜面は谷戸坂に続き、西側は外国人墓地に隣り合っている。

南側の出入り口から続く小路はブラフのメインストリートに通じていた。

広い庭には樹木が生い茂り、その北側の一段低くなったあたりにはテニスコートもあって、おてんば娘ややんちゃ坊主たちがのびのびと育つにはうってつけの環境だった。

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日頃の訓練(?)の甲斐あってか、シドニーは8歳の時、ヨコハマ・アスレチック&クリケット・クラブ(YC&AC)で行われた9歳以下の陸上競技会に出場し、見事優勝を果たした。

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同じ年の10月、外国人子弟のための教育機関、ヴィクトリア・パブリックスクールがブラフ179番地に開校する。

確かな記録はないが、父エドウィンが設立委員に名を連ねていることからシドニーとジョージは第1期生として入学したと思われる。

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当時の新聞にはたびたびウィーラー一家が登場する。

父エドウィンは本業の医師としての活動のほかに、クリケット選手や横浜競馬の馬主として。

母メアリーはレディース・ローン・テニス&クローケー・クラブの会長として、長女メアリーもテニス・トーナメントの選手や、文芸協会の集まりでのピアノ演奏者として。

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その息子たちもしかり。

1887年7月、日本政府の法律顧問を務めるモンタギュー・カークウッド氏の結婚披露宴ではシドニーとジョージが兄弟でページボーイを務めている。

1891年11月の新聞には、ヴィクトリア・パブリックスクールの運動会の賞品としてシドニーが絵具箱を、ジョージが絵具箱とフットボールをもらったと書かれている。

1892年に開かれた水泳大会の15歳以下の75ヤードレースにはシドニーが出場している。

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その後しばらく二人の姿が紙面から途絶える

ヴィクトリア・パブリックスクール卒業後、ロンドン郊外にあるベッドフォード・グラマースクールで学ぶために渡英したのである。

ほんの数年前に設立された極東のパブリックスクールから、300年以上の歴史を誇る本国の男子校へ。

生まれて初めての家族から離れての生活とはいえ、彼等ならばきっと得意のクリケットや様々なスポーツを通じて大勢の友達を作り、すぐに新しい環境になじんだことであろう。

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ベッドフォードを卒業するとシドニーは香港上海銀行に入社し、ロンドン勤務となる。

ジョージもベッドフォードで学んでいたため、この頃横浜の家に残されたのはウィーラー医師夫妻とメアリーの3人。

1899年にはメアリーは、シドニーと同じ香港上海銀行の行員マリー氏と結婚する。

クライスト・チャーチで式を挙げた新婚夫婦は日光でのハネムーンのあと、マリー氏の赴任地である神戸に向かった。

ブラフ97番地の広い屋敷にはウィーラー医師とメアリー夫人のふたりだけが残された。

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しかしその翌年ウィーラー夫妻に嬉しいニュースが飛び込んできた。

シドニーが香港上海銀行横浜支店配属となったのである。

その年の4月、22歳のたくましい青年となって戻ってきたウィーラー家の長男は、再び懐かしい97番地の住人となった。

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さてその後、地元新聞に掲載されたクリケット試合の記事には必ずといってよいほどシドニー・ウィーラー選手の名前が記されている。

テニスやフットボールの試合のこともある。

YC&ACの主要メンバーとして会合に顔を出す、神戸とのインターポート試合で活躍する。

友人の結婚式で新郎の介添え役を務める。

スポーツに、社交に、青春を謳歌する姿が目に浮かぶようである。

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シドニーは1905年に神戸に転勤となり、さらに1907年には上海支店に配属される。

 

 

ウィーラー家自宅にて(左より:ウィーラー夫人、次男ジョージ、長男シドニー、ウィーラー医師、長女メアリー。子供2人はメアリーの息子たちと思われる)

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その年の6月、次のような競売の告知が新聞に掲載された。

ブラフ97番地として知られる貴重な物件

土地付き戸建て(権利証書上1,565坪)

ブラフ有数の最も素晴らしい立地

湾を隔て富士山を望む広々とした眺望

戸建て数戸分の面積、ホテルに絶好の立地

ブラフ側とキャンプヒルふもとからと二つの入り口あり

敷地内に貴重な樹木多数

 

夫婦二人には広すぎる屋敷がさみしく感じられたのかもしれない。

しかし競売は成功しなかったらしく、その後も夫妻が住み慣れた97番地を離れることはなかった。

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シドニーは上海から一時ロンドンに赴任し、また上海に戻る。

仕事では順調に昇進し、アモイ事務所の責任者を任せられたこともあった。

38歳のときには上海支店の「アクティング・サブ・アカウンタント」という役職についている。

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1913年の5月、上海からロンドンへの船旅の途中、両親に顔を見せに横浜に里帰りしたが、それ以降、シドニーが日本を訪れた記録は残されていない。

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新聞によると1918年2月6日頃、シドニーは肺炎に冒された。

最初は左、4日後に右の肺も浸潤し、同月11日、病を得てわずか6日後に上海ゼネラル・ホスピタルで帰らぬ人となった。

享年40。生涯独身だった。

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上海でのシドニーの様子を新聞は次のように伝えている。

たくましく健康的な外見、スポーツマンらしい明るい性格と独得のユーモアの持ち主。

どこに行っても大人気で、上海での集まりに欠かせない人物だった。

カントリー・クラブ、上海クラブ、ベース(?)・クラブのメンバーで、(中略)アスリートとしては上海ローン・テニス・ダブルスにおいてダドリー氏と共に勝利し、一度は上海ローン・テニス・チャンピオンシップにおいて準優勝を果たした。

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葬儀はウォーカー師の司式で執り行われた。

参列者でいっぱいになったチャペルから、香港上海銀行上海支店の行員全員が棺を墓地へと運んでいった。

ちょうど春節の時期で商店が閉まっているにも関わらず、目を疑うほどたくさんの花輪が届けられた。

数多くの弔電が海外から寄せられた。

「父母より」「メイ(メアリー)より」「ジョージより」と書かれていた3通は、かけがえのない家族を一人異郷の地に葬ることとなったウィーラー家の人びとからおくられたものであった。

 

図版:Peter Dobbs氏所蔵
・シドニー・ウィーラー肖像
・ウィーラー家集合写真

参考文献
Cronicle and Directory, 1908-1918
The Japan Gazette, Nov. 11, 1891
・― Oct. 17, 18, 20, 1900
・― Nov. 23, 1900
・― June 15, 1907
・― May 24, 1913
・― Feb. 12, 19, 1918
The Japan Weekly Mail, July, 23, 1887
・― Aug. 13, 1892
・― April 14, 1900
・― May 19, 26, 1900
・― June 23, 1900
・― July 14, 1900
・― Aug. 18, 1900
・― Sep. 28, 1901
・― Oct. 12, 1901
・― Dec. 21, 1901
・― Jan. 4, 1902
・― March 29, 1902
・― April 5, 1902
・― July 12, 1902
・― Aug. 23, 1902
・― Sep. 27, 1902
・― Oct. 18, 1902
・― May 7, 1904
・― July 30, 1904
・― Aug. 13, 1904
Belfast News-Letter, Apri 14, 1875
Homeward Mail from India, China and the East, March 7, 1908


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