On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■ヘボン夫妻とヨコハマの「家族」の間で交わされた惜別の言葉(後編)

2017-03-29 | ある日、ブラフで

ウィルキン氏、トループ氏をはじめとする古くからの友人たちからの心のこもった言葉とそこに込められた深い哀惜の思いに、ヘボン医師は強く心を動かされたようすであった。

そして自らの胸の内を語り始めた。

§

友人のみなさん、あなた方が見せてくれた心からの思いやりと愛情のしるしによって、私たち、妻と私は、日本を去ることが本当につらくなりました。

自分たちがこれらのすべてを得ていたことにいままで気付いていませんでした。

自らが横浜の人びとの心の中に重要な位置を占めていたことにも気づいていませんでした。

いま私たちが持っているものを、気付かぬうちに得ていたことにも。

§

私たちは周りの人をすべて愛しました。

周りの全ての人に心から敬意を払い、思いやりをもって心を寄せてきました。

私たちは長年にわたりずっと忙しく働いてきました。

だれしもなすべき仕事があり、だれしもそれを成さねばなりません。

自分が同胞の皆さんよりうまくやったなどというつもりはありません。

だれしも最善を尽くすのであって、私もそれ以上のことは何もしていません。

§

もし私がなにか成し遂げられたとしたら、それはわが創造者が私に授けてくださった才能のおかげです。

もしわたしに才能があるとしても、もしくはあったとしても、それはたいしたものではありません。

それはごく普通の人のそれに勝るものではありません。

もし私がこれまでの人生において何かを成し遂げたとしたら、それは粘り強く勤勉に、投げ出すことなく、取り組んだことすべてを最後までやり抜くことによってのみ成し遂げられたのだといえましょう。

§

しかしながら私たちはもう老いを感じています。

年齢が身に堪え、日々ますます、年月の重みが私たち二人の心身にのしかかり、日本での仕事から離れるときが来たと感じています。

今ここには、活力と才能と幸運に恵まれて、日本での仕事を引き継いでくれる人びとがいます。これまでには見られなかったことです。

歴史は、私たちが人に道を譲らなくてはならないことを教えてくれます。

種をまく者がいれば、刈り取る者がいるのです。

私たちは喜んで仕事を終え、よりふさわしい人びとの手に引き継ぎ、委ねます。

古のモーゼがそうしたように。

日本はいま、社会的にも宗教的にもその第一段階にあります。

近代国家としての歴史はまだ始まったばかりです。

日本は自らが特異な位置にあると認識し、自らを助けてくれる、活力豊かで、多才で、高い志を抱く人びとを必要としています。

私たちの神と、闇に閉ざされた人びとの心に真実の種をまくために、私たちをこの地に招いてくださったファーザーに感謝します。

§

私たちは人並み以上に長く生きてこられたことを感謝しています。

50年前の同胞はもうほとんどいなくなりました。

私が知り合ったアヘン戦争以前の日本の「昔の人」、彼らも今はもう鎧を脱ぎ、安らかに憩っています。

今日の新しい人びとのかたわらにあって、私たちは、自分たちはもう使い物にならなくなったと感じています。

モリソン、ウィリアムズ、ミルン、カルヴァートンその他私たちの知る多くの人びと、彼らは皆すでにこの世を去りました。

§

私たちは日本が嫌になり、他の場所に移りたくなったから去るのではありません。

老いの苦しみと、わが愛する妻の健康のために行かざるを得ないのです。

こうしてみなさんに囲まれてお顔を目にしていることを喜ばしく思います。

そう、33年前、この地に上陸した時と比べれば、本当に喜ばしいことです。

その変化は明らかです。

当時、横浜は漁村で、5、6人の外国人が掘立小屋か間に合わせのあばら家に住んでしました。

§

横浜に別れを告げるのがこんなに悲しいのは、私たちが住む横浜が特異な場所だからです。

私たちは様ざまな国から来て、いつかその国、故郷、母国、祖国に帰れることを願っています。

私たちはここではよそ者です。

だからこそ私たちは一つの大きな家族でした。

それゆえに古い友に別れを告げることは、抜け去ること、家族の一員でなくなることを意味するのです。

§

残念ながら私たちは去っていきます。

私は嘆き、またあなたがたもまた嘆いていることを知っています。

しかし妻と私はともに行きます。

生きている限り、それももう長くはないでしょうが、私たちはずっと横浜とそこに残してきた楽しい仲間たち、まだ第一段階にたどり着いたばかりの仕事に取り組んでいる彼らのことを思いだすでしょう。

§

50年間、私たちは苦しみも喜びも共にしつつ旅してきました。

陸上でも海上も事故に遭遇し、子を失うという悲しみも経験しました。

私たちは決して離れません。

私を日本に残して、健康を取り戻すために自分ひとりで1、2年アメリカに戻ることにしても妻はよしとしたでしょうが、私は言いました。

いま離れることはできないと。

§

だから私たちはあなた方に別れを告げます。

私たちの長い人生を通じて私たちのすべての望みをあらかじめ知り給った神が、あなた方に祝福と安らぎを与え、私たちにいつもそうしてくださったように、確かな助けを示してくださいますように。

§

そう述べるとヘボン医師は妻の隣の席に戻り、腰かけた。

別れの時が迫るその夕べ、人びとからのあたたかい心遣いや深い嘆きのことばが尊敬すべき夫妻を包み込んだ。

10時を少し過ぎたころ、会は幕を閉じたのであった。

 

図版:

・写真(トップ) クララ・ヘボン(筆者蔵)

 

参考資料

・The Japan Weekly Mail, October 22, 1892

・W. E.グリフィス 高谷道男監修『ヘボン -同時代人の見た-』(教文館、1991)

map 234

All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.
掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。

 


コメント    この記事についてブログを書く
« ■ヘボン夫妻とヨコハマの「家... | トップ | ■開港50年―モリソン氏が語る... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。