On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■開港50年―モリソン氏が語る「横浜の思い出」(その6・最終回)

2017-04-12 | ある日、ブラフで

モリソン氏の回想はヨコハマ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブの前身、横浜で初めてのクリケットクラブ、ヨコハマ・クリケット・クラブ創設時の話へと移った。

氏は、上海滞在時に香港・上海インターポートマッチに選手として参加したほどの熱心なクリケットプレイヤーであった。

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1868年初、故国から日本に戻ると、私はクリケット場を設けてクリケットクラブを発足させようと考えました。

アーネスト・プライスという名の若者が熱心に手伝ってくれました。

彼の兄とは前の年、対香港戦で共に上海チームのメンバーとしてプレイした仲でした。

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私たちは居留地265番地の近くのあたりに60ヤード(約55メートル)四方ほどの土地を整備し、芝を植える許可を取り付けました。

ニュー スワンプ(新しい沼地)として知られていた場所の真ん中でした。

現在のクリケット場(現 横浜公園)から元町の川(現 堀川)へと続く幅広の道路から、北東側は現在の加賀町警察署を過ぎて三番目の橋(現 西の橋)につながる広い歩道まで広がっていました。

いわゆるスワンプ(沼地)は数年前に埋め立てられていたものの、現在より3フィート(約90センチ)ばかり低いままでした。

―建築工事の許可を得るために、その後さらに盛り土されました。

そこはその頃、低木の繁る石ころだらけの荒れ地で、野手はそのまんなかに陣取らねばなりませんでした。

それでも1870から71年頃まで主に英国駐留軍の第10連隊を相手に何回か好試合をしましたが、彼らもクリケットには熱心でした。

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現在のクリケット場の場所は当時、水路によって海とつながった一種の内陸の湖となっていて、水路は鉄道の駅に行くときに渡る橋の下を流れていました。

そのすぐそばをボートで横切ろうとするジョージ・デアの写真をご覧にいれましょう。

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現在同様、40年前の横浜でもスポーツが行われていました。

乗馬、ボート、クリケット、ラグビー、陸上競技、どれも緑滴る月桂樹のように栄えていました。

とはいえ、ほとんどどれもが同じ人びとによって支えられていました。

§

例えばこんな具合です。

たとえばある人が乗馬を、別の誰かがボートを好むとすると、一方が相手に「私のクラブに参加してください。私もあなたのクラブに参加します」とと申し出るのです。

だから、私が申し上げたようにすべてのスポーツが盛んになったわけです。

楽しい時を過ごしました。(歓声)

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ローンテニスはまだ生まれていませんでした。

実際、1875年にレディース クラブによって始められるまで横浜では行われませんでした。

今も盛んなのは喜ばしいことです。

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当時は、立派なラケットコートが、最初は現在のチャイナタウンの真ん中に、その後、バンド沿いの脇道に建つクラブホテルの裏手にできました。

赤いコートの英国軍が駐留していた間は、このすばらしいゲームが奨励されていました。

しかし1874年に彼らが去ってしまうとプレイする人が減り、費用が手頃で女性も参加できるローンテニスが登場するや、ラケットコートは人気がなくなり遂に閉鎖されてしまいました。

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ポニー ペーパー ハントもまた何年もの間、人気を博したスポーツでしたが、作物を台無しにすると農家から苦情がきて、遂にあきらめざるを得なくなりました。

私たちは彼らを懐柔しようと、英国領事のラッセル・ロバートソンを通して皆で分け合うようにと寄付金を与えました。

ロバートソンはこの件で大変な苦労をしました。

ところが農夫たちは金額の割り当てをめぐってもめ合い、結局このスポーツは完全になくなってしまいました。

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とはいえ、クリスマスの日に馬にまたがった自らの姿を想像してみてください。

当時の私たちのように、3、40人が競走場に集まり、そのうち何名かは緋色に身を包んでいて、射撃場へ、もしくは本牧へ1時間ばかり走ると、ニューロード沿いに1マイルばかり引き返して丘へと戻り、競走場の中央で障害物を何度か飛び越えて締めくくるところを。

あの時のなにもかもを、すばらしいレースに参加した楽しい仲間たちの一人ひとりのことを思い出すと、未だに胸の高まりがよみがえってきます。

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古き良き時代を巡るモリソン氏の回想が最後にたどり着いたのはインター ポート ローイング コンテスト(都市対抗ボート競争)の思い出であった。

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ボートはすでにコミュニティーの若者たちの中にしっかりと定着していました。

ローイング クラブを発足の中心人物はジョージ・ハミルトンでしたが、人々が彼のことを「横浜のボートの父」と愛情をこめて呼ぶのをよく耳にしたものです。

彼がニューヨークで未だ健在なのは喜ばしいことです。(歓声)

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彼は私の会社に勤務しており、同じく現在ニューヨーク在住のイヴァン・フレーザーや故ニコラス・ハンネン閣下、故ライト海軍大尉、もう亡くなりましたが、コックス(舵取り)を務めたギルマン商会のグレニー氏とともにチームを組み、1871年初の4本のオール(神戸との)都市対抗レースで横浜に勝利をもたらしました。

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今宵この勇敢なクルーの写真を何枚かお見せできることを嬉しく思います。

この写真について語っていると、もうずいぶんと時を費やしたことが思い出されます。

皆様の忍耐力も同じように尽きてしまったのではないでしょうか。

とはいえ、もし古い日々とその情景についてのこの中途半端な思い出話がいくらかでも皆様の興味を引いたとしたら私は大いに満足で、これを用意するのに費やした時間も手間も大いに報われたと感じるでしょう。

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回想の終わりに当たって、J. H. フェルプス、カール・ルイス両氏により50枚ほどのスライドが幻灯機でスクリーンに映写された。

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クリケット パヴィリオン、競馬所の大スタンドをバックにしたウィーラー医師、初期の頃のウィーラー医師の有名な競走馬「タイフーン号」、故フリント・キルビー氏とH.J. ヴィンセント氏を含む9人の競技選手、故オーストン氏、デア兄弟を含む7人の競技選手、横浜在住のH. J. スノー氏を含む8人の競技選手、モリソン氏を含む1875年の富士山巡礼団、アマチュア劇団の俳優たち、馬上の故キングドム氏、1869年の二つのボーリングチーム(市民チームとヴィジターである故エジンバラ公とヘンリー・ケッペル提督を含む海軍チーム)、横浜居留地1番地、2番地にあった旧英国公使館、ジャパン・パンチから数点、次々と映し出される映像についてモリソン氏は手短に説明を加えた。

最後にハリー・パークス卿とその令嬢2名の写真、次いで現駐日英国大使クロード・マクドナルド卿の写真が写されると、モリソン氏は次のように述べて説明を締めくくった。

§

ハリー・パークス卿は英国政府が外国に派遣した公使の内で最良の人物の一人でした。

一方、現在の英国大使であるクロード・マクドナルド卿について言えば、かつていかなる外交官も彼以上に同国人にも日本人にも人気を得ることはなかったと言えるでしょう。

§

モリソン氏が席に戻ると、聴衆からは大歓声が上がり、委員会とそのメンバーを代表して副会長(ヴィンセント氏)から、有益かつ興味深い講義に対する感謝の言葉が贈られた。

続いて催された音楽プログラムには、モリソン夫人の采配により、横浜訪問中の高名なピアニストであるケーラー氏が招かれ、フレデリック・グリフィス教授、W. M. スチュワート氏、G. G.ブラディ氏も出演した。

演奏は、熟練した音楽家であるケーラー氏とグリフィス教授によるピアノとフルートの二重奏から始まった。

次いで、すでに横浜の聴衆に知られ、好感を抱かれているスチュワート氏が「デヴォウト・ラヴァー」(M. ヴァレリー・ホワイト作曲)を歌い、温かい称賛を受けた。

ケーラー氏はショパンのプレリュード、ノクターン、タランテラの3曲で聴衆を魅了し、熱烈なアンコールに応えて寛大にもさらに一曲披露した。

モリソン夫人は、ウッドフォルデ・フィンデンの歌曲集「ダマスカスの恋人」からの2曲「ファー・アクロス・ザ・デザート・サンド」と「イフ・イン・ザ・グレート・バザール」のほか、1曲歌った。

グリフィス教授は自ら作曲した「スーベニア」という大変美しい曲をフルートのソロで演奏し、次にピッコロでル・ティエール作曲の「ポラッカ・ド・コンセール」を演奏した。

いずれも素晴らしい演奏で、歓声に感謝してピッコロのソロをもう1曲を奏でた。

プログラムの最後を飾ったのは、ブラディ氏による「ザ・ニュー・ボーイズ・デット」(ジョージ・R. シムズ作)と「ザ・レッド・インディアン(マーク・トウェイン作)の朗読であった。

ペーソスとユーモアをたたえたこれら二つの作品はブラディ氏によって見事に披露され、氏は優れた演技で聴衆を引き込み、それにふさわしい賛辞を贈られた。

リンガー夫人が歌唱の、カール・ヴィンセント氏がグリフィス教授のソロのピアノ伴奏を務めた。

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会長であるモリソン氏が音楽プログラムに貢献した全員に対して感謝の言葉を述べると、横浜リテラリー・アンド・ミュージカル・ソサエティ(横浜文芸音楽協会)の例会は幕を閉じた。

*本文は J. P. Mollison, Reminiscence of Yokohamaから「東京訪問」「箱根旅行」「大名行列」ほか一部を除いた抄訳に、適宜加筆したものです。なお記事を全6回に分割して掲載する都合上、原文の項目の順番を変更・再構成しています。なお、モリソンの述懐であることから、本人の記憶違い等による事実と異なる内容や、また後世の研究から見て妥当と思われない事柄も含まれています。このような点をご理解の上お読みいただくようお願いいたします。

写真:根岸競馬で活躍したタイフーン号(日本在来種で、現在は絶滅した南部馬だったといわれる)と馬主のウィーラー医師(左端)。様々な資料に所収されている有名な写真だが、モリソン氏の回想時に映写されたものと同一かは不明。The Far East, July 1, 1872(横浜開港資料館 蔵)

参考資料
・The Japan Weekly Mail, January 9, 1909, January 16, 1909
・J. P. Mollison,‘Reminiscences of Yokohama', Japan Gazette, Yokohama, January 11, 1909
斎藤多喜夫『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』(明石書店、2017)
・『横浜開港150周年記念 文明開化と近代競馬』(馬の博物館、2009)

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