On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■祝・完成! YC&AC新クリケット・パビリオン

2018-02-18 | ある日、ブラフで

横浜市中区矢口台―南山手とも呼ばれる一画に「ヨコハマ・カントリー・アンド・アスレチック・クラブ」通称YC&ACというスポーツクラブがある。

広大な敷地を有するこの施設の歴史は古く、開港期横浜にやって来た外国人たちが設立した「ヨコハマ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブ」(YC&AC )に遡る。

以下はYC&ACがまだ現在の横浜公園にあたる場所にあった時代の話である。

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1898(明治31)年、12月10日、前日の豪雨が嘘のように晴れ渡った日曜日、横浜在住外国人のスポーツの殿堂YC&ACに新たなパビリオンがオープンした。

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新しいクリケット・パビリオンの建設は昨年初めの年次総会で決定された。

先代のパビリオンは元々の平屋に2階を増設したもので、その後14年の間に建物は老朽化し、建替えが急を要すことは誰の目にも明らかであった。

幸い6,000円を超える総工費のうち3,000円がほどなく集まり、その年の秋には東京在住のガーディナー氏に設計が依頼され、翌2月から工事が始まった。

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その後、設計者が体調不良に陥ったため、現場監督はクラブの会長であるモリソン氏と副会長のダフ氏が務めることとなった。

彼らの献身的な努力の甲斐あって、新しいパビリオンは目を見張る出来栄えである。

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木造2階建。

外壁には暗褐色に塗られたオレゴン松を用い、建物の片側には時計塔がそびえ、アベンハイム氏から寄贈された素晴らしい時計が設置されている。

1階はバーと更衣室、競技用具倉庫、洗面所となっており、上階には昼食会やアフタヌーン・ティーのための広い部屋があり、その壁にはスポーツを楽しむ人々の写真や、モリソン会長と、1884年に様々なスポーツクラブの交流を実現したスポーツマンとして知られる故エドガー・アボット氏のポートレートが飾られている。

同じ階に委員会室と小さな倉庫も備えられていた。

1階の更衣室は特に優れた造りとなっていて、選手全員が使用するに十分なほど多数のロッカーがあり、使い勝手のよさそうな洗面所が設けられている。

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栄えあるオープン初日の午前のイベントはフットボールの試合、昼食を挟んで午後には自転車競技が行われる予定である。

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11時少し前、いよいよフットボールの試合開始。

前日の豪雨に洗われた空気は爽やかであったが、グラウンドは選手にとって過酷なぬかるみと化していた。

観客がほとんどいないなか、モス氏率いる21歳以下の「キッズ(若者)チーム」が先攻。

一時拮抗したものの、コンビネーション巧みで機敏さに勝る若者チームが、フォレスト氏がキャプテンを務める「老いぼれ(年長チーム)」を実力で制した。

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昼食会は新しい建物にある2階集会室で行われた。

会長のモリソン氏、ウィーラー医師、キルビー氏、イートン氏といった外国人コミュニティーの重鎮をはじめとする40人ほどのメンバーで部屋はいっぱいである。

本日の司会役はホワイト氏。

ライトホテルのライト氏の手になる素晴らしいご馳走を楽しんだ後、モリソン会長が立ち上がり、次のように話し始めた。

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さて、私にとって喜ばしい責任を果たす時が来ました。

ここに新パビリオンが正式に開館したことを宣言いたします。

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この新しい施設を会員の方々に託すにあたり、委員会を代表してこう申し上げるのをお許しいただければと存じます。

YC&ACの重要性と人気がさらに高まりつつあるなかで、この建物があらゆる点で満足のいく出来栄えであること、そして永続的な記念碑(この言葉はある方からのアドバイスによるものですが)であることは明らかであります。

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私がクリケット・パビリオンの建設に関わったのは三度だけですが、ご存知の方もおられるように、過去にはパビリオンのなかった時代もありました。

そのころは私も含む熱心なクリケット選手たちの小さなグループが、クリケットの道具をニュースワンプとして知られた場所の中央にあった小さな草原に運んだものでした。

今私たちがいる場所からクリークの方角に200か300ヤード行った辺りでした。

1868年のことです。

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1870年に現在の場所に移ってからも居留地からから道具を運び込んでいました。

2、3年後には、グランドの西側に平屋ではありますが、本格的なパビリオンを建てたのです。

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良い試合をたくさんしました。

その頃偉大なるボウラーとして現れた、トムソン氏やバンク氏、現在も偉大なるウィケット・キーパーであるダフ氏を思い出します。

当時のベストプレーヤーの一人であるR. D. ウォーカーの名も思い出されます。

またその兄、有名なハロウのキャプテンI. D. ウォーカーも。

彼はつい先日亡くなられました。

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エドガー・アボットの肖像が壁に掛けられていますが、彼の力のおかげで当時いくつかに分かれていたスポーツクラブの合併が成功しました。

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現在の建物がクラブと横浜の双方にふさわしいものであると申し上げても、ご異論はないと思います。

私は常に健全な肉体に健全な魂が宿るという古くからの金言を信じてきました。

また私はクリケット・グラウンドが横浜の若者たちに大きな影響を与えてきたし、永遠に与え続けるであろうと信じています。

それはこの地の家庭の長たち全員の心と、コミュニティーの福祉への貢献を意図する人々全員にふさわしいものです。

ここで私は再度申し上げます。

紳士諸君、新パビリオンがオープンしたことを祝って、YC&AC の成功とさらなる発展のために乾杯を願います。

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大歓声がようやく静まった頃、キングドン氏がユーモアいっぱいに自分のことをクラブの最年少メンバーと紹介し、これからもY. C. & A. C.が常にモリソン会長のような良い指導者に恵まれることを望むと述べた。

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次にブレイク氏が立ち上がり、会長であるモリソン氏に対し、クラブへの献身的な態度に尊敬と感謝をこめてささやかな記念品を贈ることを喜ばしく思うと述べた。

この建物の建設中、モリソン氏は関連する事項すべてに最大限の関心を抱き、多くの仕事を自ら引き受けてくれたが、それは余人にはできないことだとブレイク氏が続けると、またも歓声が起こった。

小さなメダルがモリソン氏に贈呈され、一同は素晴らしい会長のために盃を掲げて“彼はいい奴だ”の歌を唱和した。

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モリソン氏はブレイク氏をはじめとする委員会メンバーに対し、感謝の言葉を述べた。

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私は、クリケットクラブに多大な関心を注いできましたし、これからの人生においてもそうすべきだと思っています。

横浜に30年間以上にわたって住んでおり、終生ここに留まることでしょう。

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昔一緒にスポーツに興じた人々の多くがここに顔をそろえてくれています。

キングドン氏、1860年代、私は彼が所有していた有名な競走馬モンテズマ号の騎手を務めました。

彼だけではない、その頃の熱心なスポーツマンだったウィーラー医師、その数年後に現れたドッズ氏、さらに後年、キルビー氏は600ヤードのライフル射撃の名手として名を馳せました。

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古くからの仲間と昔の思い出を語るのは喜ばしいことですが、こんにちの若者たちの活躍を見るのもまた嬉しいものです。

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皆さまのお心遣いの心から感謝申し上げます。

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ホワイト氏が尊敬すべき副会長であるダフ氏のために乾杯の音頭を取り、彼がパビリオン建設のために多大な時間を費やしたこと、またこの部屋の装飾をデザインしたのも彼であると告げると声援が起こり、ダフ氏は応えて次のように述べた。

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いかなる形にしろクラブに貢献できることは彼にとって必ずや大きな喜びである。

しかし彼と同様に思っている人が多く、彼らの助けによって自分はクラブの役に立つことができた。

若いメンバーの活躍も活躍している。彼らが来シーズンも今シーズン同様の熱意を注いでくれることを期待している。

そうしてくれれば、クラブは全ての点において多大な成功を収めるであろう。

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午後の自転車レース観戦のため、一同がスピーチを切り上げて階段を下りると、代わって現れたのは、横浜社交界の面々の美しい方の半分、すなわち大勢のご婦人方である。

彼女らは新しい建物を旗などで飾り付け、好ましい景観を作り出した。

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この飾りつけのデザインを手がけたのはクラブの副会長であるC. M. ダフ氏で、クラブの整備員と長男が実作業を担当したが、花を用いた部分は全て息子によるものである。

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建物の前面一杯に菊による花文字で「スポーツマンの喜びは果てしない」と書かれ、その上にクラブのモノグラムが花のメダイヨンでしつらえられ、「彼らの喜びのために」という字句に囲まれており、その両側には“1868-1898”と刻まれたシールドが並べられている。

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クリケット用のバット、ボール、スタンプ(柱)、ベイル(横木)、グローブ、野球のバット、ボール、ガード、グローブ、ホッケーのスティック、フットボール等々が様々な趣向で吊るされており、スコア係とプレス席の上には「汝、永遠たれ」の字句が黄色い菊で描かれていた。

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上階の昼食室にも同じような飾り付けが施され、「すべてのスポーツがフィールドでのスポーツ同様に純粋であることが明らかになりますように」と記されていた。

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自転車レースは次の諸氏の管轄の元に行われた。

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審判員兼スターター:J. アイトン

審判補佐:モリソン、J. L. O. アイトン、ダフ

時間管理・得点係:キングドム、マクガワン、モッツ

競技長:G. A. スティーニー、A. M.ワット

プログラムには出走者の名が連ねられていたが、ほとんどのレースにおいて出走者は2名だったので、期待感は少なからず殺がれてしまった。

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しかしながら賞品はすべて立派なもので、それらは午後の間パビリオンの中に展示された。

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競技終了後、勝者たちは会長の妻モリソン夫人の手から賞品を受け取るためにパビリオンの2階の部屋に集まった。

J. L. O. アイトン氏が勝利を得た選手たちを紹介すると夫人は一人一人に祝いを述べながら賞品を手渡し、最後に手短に挨拶の言葉を述べた。

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お別れのまえに一言申し上げたいと思います。

このような些細なことにしろ、新しいパビリオンのオープンのお手伝いできたことは私にとって大きな喜びです。

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私が来日してからずっと、クリケットグランドは夫のお気に入りの趣味でした。

彼はパビリオンのために多大な時間を割きましたが、その結果を見ればその時間は無駄ではなかったし、夫の働きを私は誇りに思います。

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意欲に満ち、しかも素晴らしく手際のいいブラザー・チャーリー、すなわちダフ氏が夫を手助けしてくれました。

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メンバーの方々が新しいパビリオンを大いに誇りに思って当然でしょう。

それはクラブと横浜にとっての名誉でもあります。

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ここにおられるご婦人方全員も私同様、YC&ACの繁栄がいつまでも続くことをきっと願ってくれるでしょう。

そして午後のひととき素晴らしい楽しみを与えて下さったアイトン氏とニッポン自転車クラブのメンバーの方々への感謝を忘れてはならないでしょう。

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会長夫妻と副会長を称える乾杯の声が響きわたり、喜ばしい1日は大成功の裡に幕を閉じたのだった。

 

図版(2点とも):手彩色絵葉書(筆者蔵)

参考資料:
・The Japan Weekly Mail, December 10, 17, 1898
・The Japan Gazette, December 10, 17, 1898


 

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