時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ヴァザーリ回廊の自画像

2007年05月31日 | レンブラントの部屋

Rembrandt van Rijn?. Self-Portrait, 1665

 

  画家が自画像を描く時はなにを考えているのだろうか。10数年前のことになるが、ある国際会議のアトラクションとして、フローレンス、アルノ川に架かるヴェッキオ橋上の「ヴァザーリ回廊」の見学が組み込まれていた。通常はあらかじめ予約をとりつけておかないと入れない。得がたい機会だった。ヴァザーリ回廊は1565年に作られ、ピッティ宮殿をヴェッキオ宮殿と結ぶ特別の通路だった。

  実際に見てみて驚いたのは回廊が予想外に長かったこと、そして多数の肖像画のコレクションであった。短時間で見るには、へきえきするほどの量だった。後に知ったのだが、ここの肖像画コレクションは世界最大級のものであった。

  コレクションは、枢機卿レオポルド・デ・メディチによって1664年に始められた。現在では1630点に達し、西欧美術のおよそ6世紀をカバーしているといわれる。このコレクションの中から、芸術家が自らを描いた作品に限って厳選された50点が、ちょうど今ロンドンのダルウイッチ・ギャルリー Dulwich Picture Gallery で展示されている(「ウフィッツイからの芸術家の自画像」*)。

  展示された作品には、ヴェラスケス、フィリッピノ・リッピ、ベルニーニ、レニ、カウフマン、ドラクロア、アングル、シャガールまで含まれている。晩年のレンブラント(1655)自画像も含まれている。もっともこの自画像の制作者が、レンブラント本人であるかはいささか議論もあり決着していない。よく知られているように、レンブラントは90点近い多数の自画像を画いており、それ自体がいわば自分史となっている。画家自らが記しているように、「私がどんな人間であったか、あなたは知りたいだろう」というレンブラントの考えがこれでもかとばかりに伝わってくる。少なくも、画家の生涯について考えるきわめて重要な手がかりが与えられている。

  実は、このダルウイッチ画廊の歴史も大変面白い。フランス人、ノエル・デセンファンと若いスイス人の友人フランシス・ブルジョワの二人による画商としてスタートしている。それも、デセンファンの妻マーガレット・モリスの結婚持参金に頼ってのようだ。そして、1790年にポーランド王スタニスラス・オーガスタスからの注文で、「ポーランドの美術振興のために」、ゼロからの出発だが(イギリスのナショナル・ギャルリーのような)王室コレクションを創り出すという大仕事を請け負った。ところが、ポーランドは衰退を続け、1795年には独立国家としては消滅してしまった。王は退位し、画商は仕事半ばの収集品を手に放り出されてしまった。(スタニスラス王家については、ナンシーとの関係で以前に少し記したが)、画商がたどったその後の経緯も大変興味深い。後は画廊のHPをご覧ください。


*
“Artists’ Self-Portrait from the Uffizi”, Dulwich Picture Gallery, London, until July 15th.

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漂流するアメリカ移民政策改革

2007年05月29日 | 移民政策を追って

    不法移民の増大を初めとして、アメリカの移民政策は問題山積である。1200万人に達した不法滞在者をはじめとして、もはやまったなしの事態に追い込まれている。中間選挙敗退後も、失点回復の契機を見出せないブッシュ大統領は、移民法改革に大きな期待を寄せてきた。ブッシュ案はむしろ民主党の考えに近いとされ、与野党協力でなんとか実現しようとしてきたが、予期に反して難航している。

  前回紹介したように、左派のテッド・ケネディ民主党上院議員と右派のジョン・キル共和党上院議員を中心に振幅を大きくとり、なんとか超党派で成立させようとのたたき台が出来上がった。 5月17日に公表された議員立法案は、昨年末に提出された案と比較して、入国に必要な書類を保持せずに越境する者と彼らを雇用する者に対して、厳しい対応になっている。すでにブッシュ大統領は法案が議会を通過すれば、直ちに署名するとの意思表示をしているが、問題は下院を通過できるかにかかっている。

  日本では包括的な視点に立った外国人労働者(移民)受け入れ政策の議論はなく、今になっても断片的な議論しか行われていない領域だが、今後のためにも少しアメリカの政策論議の中身に立ち入ってみよう。

  ケネディ=キル法案は、ほころびが目立つ現行移民システムを繕おうと、かなり苦労の跡がうかがわれる。最初のステップとして、すでにブッシュ大統領が着手したように、国境の管理体制を強化する。国境を自動車で直接突破できないように、問題地域に障壁を200マイル(320キロ)にわたり設置する。さらに370マイルの障壁と18,000人のボーダーパトロールを新たに投入する。

  そして、従業員が合法に入国し、就労資格を持っているか容易に判定できる電子確認装置を使用者に導入させる。不法入国者であることを知っていて雇用した使用者に対する罰則を強化する。こうした政策は、右派からの支持を確保し、移民システムへの信頼を回復するためには必要と考えられる。

  すでにアメリカ国内に不法滞在している1200万人(あるいは2007年1月1日以前に入国している者)については、法案は苦心の策ともいえる合法的市民への道を準備している。彼らは指紋登録、犯罪歴のチェックを受け、1000ドルの罰金を支払う。その上でアメリカに滞在することを認められ、アメリカで新しいカテゴリーとなる“Z”ビザで働くことを認められる。「グリーンカード」(永住資格)の申請資格も与えられるが、戸主は一度自国へ帰国し、申請しなおさねばならない。再入国は審査の上認められるが、さらに4000ドルを支払う。この部分については、不法移民に「アムネスティ」(恩赦)を与えるものだという右派からの反対に対応するため、従来の案よりもかなり考えられた内容になっている。

  彼ら不法滞在者の多くは、アメリカ人が働きたがらない農場、建築などの分野で働いている。1200万人という数は、いまやオハイオ州の規模であり、右派が主張してきた全員の本国送還はほとんど非現実的になっている。ケネディ=キル法案については、アムネスティだという批判もあるが、罰金が課される上に他の条件も付加されており、アムネスティではない。

  すでにアメリカに合法居住している者の家族など、「家族との結合」のために入国申請をしている者の待ち時間も短縮する。2005年5月以前に申請し、許可を待っている者の数はすでに400万人に達している。しかし、この促進措置をとっても、さらに8年間を要するといわれる。移民政策は放置しておくと、後々大きな負担となることを示す例である。今後受け入れの基準は、従来の「家族のつながり」の程度よりも「熟練の重視」へ重点移行する。今後、「家族の再結合」ヴィザの発行対象は、主として18歳以下の配偶者と子供になる。こうしたメリット・システム移行の陰の犠牲者となるのは、おそらく貧乏で熟練度の低い若いメキシコ人などだろう。

  他方、IT技術者など高い熟練を持った外国人を受け入れる一時枠は、今年は85,000人に限られている。当初のケネディ=キル案では、産業界の要請に応じるため、ポイント・システムを使って年間38万人について永住を認める提案を含んでいた。ポイント付与の基礎は、仕事に関連する熟練、教育、英語能力に置かれる。

  さらに、法案は当初年40万人分のテンポラリー(一時的)労働者の枠を設けていた。これは1回2年間に限って、最大3回まで更新が認められるが、2年就労するごとに完全1年間の中断が要求される。彼らは主として農業、建築、レストランなどの分野で働く、教育程度は義務教育終了程度の労働者である。しかし、このいわゆるゲストワーカーの枠は、20万人に半減された(5月23日、上院通過)。実際にはアメリカへ入国し、就労を望む者はこれよりもはるかに多いため、この措置では解決できず、不法越境者は増加し続けるだろう。しかし、国境管理も強化され、その道は今よりも厳しく危険になる。

  ケネディ=キル法案の内容が明らかになると、批判、反対も多くなった。不法移民の大量送還をまじめに提案する者は少ないとはいえ、不法入国者を雇用することが違法であるとの措置を強化するならば、不法滞在者は論理的にも全部帰国させるべきだと主張する議員もいる。

  労働組合は概して懐疑的だ。ゲスト・ワーカープログラムは賃金を引き下げ、労働条件を悪化させる労働者のプールを使用者に与えるものだと主張する。

  ポイント・システムについても批判がある。現実を知らない官僚よりも使用者のほうが適切な判断ができるという見解だ。市場の需給に任せたほうが、どの職種、分野が不足しているかを見極めるに現実的だとの見方も強い。法案を通過させて、ブッシュ大統領に内政上のポイントを与えたくないとの下院民主党グループもある。

  こうした騒ぎにもかかわらず、世論は法案の基調には賛成している。少なくも60%のアメリカ人は、まじめに働いている不法滞在者には市民権への道を開くべきだと考えている。下院の最終投票まで数週間はかかるだろう。そして、その後上院が判断することになる。立案者が思うようには動かない移民法改革だが、もうまったなしの所まで来てしまった。

 

References

CBS News

“Better than nothing.”

“Immigration: Of fences and visas.” The Economist May 26th 2007.

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画家と寿命

2007年05月25日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

  

    職業と寿命の間には有意な関係があるのだろうか。画家は大変長生きな人が多いという記事をなにかで読んだ記憶がある。小倉遊亀(104歳)、奥村土牛(101歳)、横山大観(91歳)、葛飾北斎(90歳)など、幾人かの画家のことが頭に浮かぶ。高齢化時代の今日では、さほど珍しくないかもしれないが、こうした画家たちの同時代人との比較では、やはり驚くべき長寿といえる。

  その後、別に体系的に統計を調べたわけではないが、漠然とそう思わせる事例には数多く出会ってきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの家系を見ていると、まさにぴったりの事例である。ジョルジュの両親であるパン屋のジャンとシビルの間には、ジョルジュより1歳年上である長男のジャックをはじめとして男5人、女2人、計7人の子供が生まれた。その中で最も長生きしたのは画家の道を選んだジョルジュ(1593-1652、58歳)まさにその人だった。戦乱、悪疫蔓延のこの時代としてはかなり長寿なのだ。没年は正確には分かっていないが、これら7人の子供の中には、生まれてすぐに死んでしまった子供も多いようだ。乳幼児の死亡率は非常に高かった。

  そして、画家となったジョルジュとディアンヌ夫妻の間には、フィリップ(1619 -? ) をはじめとして、男6人、女4人計10人の子供が生まれた。その中でジョルジュとネールの両親よりも長生きした子供は、画家としていちおうジョルジュの後を継いだことになった次男のエティエンヌ(1621 - 1692、71歳)とクリスティーヌ(1626 – 1692頃)の二人だけである。クリスティーヌがいかなる人生を送ったかは不明である。

  親としては、子供たちに先立たれてしまうことほど悲しいことはないだろう。この時代の子沢山には、こうした時代に生きる防衛策の意味が暗に含まれていたと思われる。

  ラ・トゥールと並んでごひいきの画家レンブラント(1606-1669)にいたっては、最初の妻、再婚した妻にも先立たれ、ただ一人生き残った長男にまで先立たれてしまった大変気の毒な例である。

  レンブラントは製粉業を営んでいた父親と母親の間に8番目の子供として生まれている。最愛の妻であったサスキアとの間に2男2女が生まれるが、最初の3人は誕生後2-3ヶ月から1年以内に死亡している。次男のティトウスだけが成人するが、レンブラントが63歳で世を去る1年前に死去している。

  サスキア死去の後、内縁の妻であったヘンドリッキエとの間にできた娘も共にレンブラントよりも前に世を去った。

  ラ・トゥールの生涯を、その家系まで遡って探索しようとしたのが、今回紹介するアンネ・ランボルの労作である。遠い昔の人々が手書きで記した、変色して読みにくい古文書をたんねんにめくり、欄外に書かれたメモを判読したり、想像をめぐらす仕事はパズルか宝探しのような面もあるが、実際の作業の厳しさは想像を超える。この画家について、深く立ち入ってみてみたいと思う人は必読の文献*である。表紙の蝋燭は、図らずも人生の残り時間の短さを暗示しているようである。

 
Contents
Premiére partie Vic-sur-Seille: parentéles 1593-1619

Seconde partie Lunéville: le patronage du duc Henri II 1620-1624

Troisiéme partie Entre guerre et peste: Sous le signe de Sébastien 1625-1634

Quatrieme partie Le désastre de Lunéville: sous le signe de Job 1635-1638

Cinquieme partie L’expérience parisienne 1639-1641

Sixiéme partie La difficulté du retour 1624-1645

Septieme partie Une gloire ma l aimee 1646-1653

ANNEXES

* Anne Reinbold. Georges de La Tour. Fayard, 1991. pp.271.

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アメリカ移民法改正の行方

2007年05月22日 | 移民政策を追って

  ブッシュ政権にとって、イラク問題に次ぐ重要度を持つ政策課題のひとつは、上下院でいまだに折り合いがつかない移民法改革である。議論が混迷して先が見えなくなっていたが、ようやく妥協のためのたたき台が提示されるようになった。

  ブッシュ大統領と上院の民主・共和超党派議員団は、5月17日、移民に永住権を認める際に学歴や技術・熟練度を重視する項目を盛り込んだ包括移民規制改革で合意したと発表した。この案は、民主党左派のケネディ上院議員と共和党右派のカイル上院議員らが中心になりまとめたことから、議論の振幅を収斂させ今後の議論の軸になる可能性が高いといわれている。

  合意案では、1)国境警備の強化、2)不法移民に一時就労許可を与える、3)一定の条件を満たせば、不法移民にも永住権を認める、などが柱になっており、ブッシュ大統領が提案してきた内容に近い。不法移民を雇った企業への罰則強化も盛り込まれている。

  移民制度改革は米世論を二分する政治問題であり、来年の大統領選挙における焦点のひとつになっている。しかし、農業やサービス業などを中心に、産業界には移民労働力がなければ存立しえないという意見も強い。このため提示された合意案には、学歴や熟練度に基づく永住権枠を徐々に増やす半面、すでに米国内にいる家族と同居するための永住権の割合を減らす内容が盛り込まれている。

  カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスに続いて、アメリカもポイント・システムを導入し、若い、よく働く貢献度の高い労働者に高いポイントを与える方式を採用することになるのではないか。そして、これまでの移民政策の主流を構成してきた家族の結びつきを重視する方向は、重要度を低下させるだろう。

  難問のひとつは、不熟練労働者の受け入れ数をどの水準に定めるかという点にある。少なすぎれば、枠に入れない者は今まで通り不法入国の道を選ぶからだ。この点について、下院での議論は依然としてかなり分裂していて、日本のメディアが報じるほど簡単には収斂しそうにない。1200万人の不法滞在者を一度、なんらかの形で表面化し、帰国させた上で改めて合法的に受け入れる("touch-back")方式でも、少なくとも8年間を要するといわれる。

  アメリカがいまだに結論を出し切れない移民受け入れ政策の内容は、実は日本にとっても無縁ではない。グローバル化の波は移民政策の次元にも押し寄せている。ヨーロッパを含め先進諸国の移民政策は、それぞれの国の歴史的多様性をとどめながらも、基幹的部分において次第に収斂の動きを見せている。認められる特徴は、移民受け入れ政策を構成する要素間の統合性を強める方向へと進んでいることである。移民政策とは、近い将来の国民を選び定める政策であることを考えれば当然のといえよう。これに反して、わが日本の実態は、外国人技能実習制度の再編論議に見られるように、省庁間の縄張り争いという低次元の段階に留まっている。

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レンブラントの実像は?

2007年05月19日 | レンブラントの部屋

  過日、パリ、リヴォリ通りに面したお気に入りの書店W.H.Smithで、店頭に平積みになっている本の表紙を見た時、あれと思った。手にとってみると、やはりそうだった。レンブラントについての小説である。表題は『ファン・リャン』 Van Rijn(レンブラントは母方の曾祖母の名がなまったものらしい。ファン・リャン家)と、そのままである。

  実はレンブラントを題材とした小説は他にもあり、以前に読んだことがあった*。レンブラントはラ・トゥールと並んで、ごひいきの画家である。気づいてみると、自分の中では甲乙つけがたいほどの存在になっている。オランダに短期滞在した折、暇ができると、かなりのめり込んで作品を見たこともあった。いつの間にか、アムステルダムのレンブラント・ハウス美術館の間取りまで覚えてしまった。

  レンブラントはフェルメール、ラ・トゥールなどと並び、活動した地域は異なるとはいえ、時代の上ではほぼ同時代人である。とりわけレンブラントとラ・トゥールについては、もしかすると直接会わないまでもお互いの作品をどこかで見た可能性はかなり高い。とりわけ、このブログで追いかけているラ・トゥールを当時のヨーロッパ世界に客観的において見ようとすると、イタリアと並んでオランダなど北方世界への視野拡大が必要になってくる。

  1667年12月29日、アムステルダムの若い作家・編集者ピーター・ブラウは、フローレンスのトスカーナ大公、コシモ・デ・メディチをレンブラント・ファン・リャンの家へ案内することを依頼される。これが小説の発端である。この時のレンブラントは最晩年(1969年10月4日死去)に近く、すでに大変著名な画家となっているが、同時にもはや取り返しがたい大きな影を背負っていた。

  そこには画家の最愛の息子であるティトゥスも登場する。知られているように、画家に先立って世を去ってしまった。この偉大な画家の人生は、決して順風満帆であったわけではない。晩年は破産、不幸、世間の悪評、健康不安など多くの問題に悩んでいた。これほど大きな人生の光と影をドラマティックに背負いこんだ画家は多くはない。

  レンブラントを主題としたこの小説は、限りなく史実に近い虚構の世界である。レンブラントの作品はかなり多数残されており、現在真作と思われる作品は600点近い。20世紀初めの段階では1000点近かった。 画家個人の生活にかかわる記録もかなり残っている。さらに多数の自画像は、画家の人生の有為転変、心の内面などを微妙に伝えている。しかし、近年この偉大な画家について形作られてきたイメージを改めて見直そうとする試みがなされているように、従来のレンブラント像が必ずしも実像に近いわけではないようだ。

  概して美術史家は、こうした小説化のような試みには消極的だ。発掘、検討した資料の与える情報のかぎりで画家や作品像を構築しようとする。ラ・トゥールのイタリア行きのように、明らかにイタリア美術界の影響を作品に感じながらも、具体的な記録などが発見されないかぎり行ったことがないことにされる。ちなみに、レンブラントも、共に工房を持っていたリーフェンスも、ローマ行きを誘われたが、行く必要はありませんと答えている。オランダでイタリア絵画の傑作は見られるし、忙しくて時間がないという理由だった。

  現代においてもほんのひと世代前の人間でも、その後まったく別の見方がなされることがあるように、われわれの世界での評価の移り変わりは激しい。遠く過ぎ去った過去の作品や作者の評価となると、化石の断片から恐竜の全体の姿をイメージするようなところもある。存在しない断片を推理や想像の力で埋める作業も大きな意味がある。レンブラント好きな人には、この小説は新たな想像の世界を垣間見せてくれる。


Sarah Emily Miano. Van Rijn. London: Picador, 2006

*Renate Kruger. "Licht auf dunkelm Grund ein Rembrandt-Roman" Leipzig: Prisma-Verlag Zenner und Gurchoft, 1967. (邦訳:レナーテ・クリューガー著、相沢和子・鈴木久仁子訳『光の画家レンブラント』エディションq、1997年)。この小説については、別に記す時があるかもしれない。


  この書店の2階には、かつてパリには珍しいイギリス風のティールームがあった。フランス風カフェとは異なった別の空間を形作っていた。その後売り場拡張のために閉鎖されてしまい、大変残念な気がする。




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たそがれのクライスラー

2007年05月16日 | グローバル化の断面

  2003年、ベルリンのダイムラークライスラーのアトリウムで開催されたある国際会議に出席したことがある。目を見張るばかりの吹き抜けが自慢のビルだった。ベルリンが誇る現代建築のショーウインドウのひとつである。それから 約5年後の今日、ダイムラークライスラーは、業績不振に陥った北米クライスラー部門を米投資ファンドのサーベラス・キャピタル・マネジメントに売却することで合意したと発表した。

  合併が成立した1998年当時は、自動車産業の名門企業同士、「世紀の合併」といわれたが、約9年間で破綻した。当時、喧伝されたシナジー効果は生まれなかった。合併時はクライスラーもダイムラーも、中期的には業績のピーク時を迎えていた。お互いに売り時だったのだろう。

  さて、このクライスラーのサーベラス売却は両社を救うのだろうか。ダイムラー側は今回の売却でもクライスラーの負債削減などで12億ドルを超えるリストラ費用が発生し、結果的には持ち出しとなる。それでも、技術力があり高級車志向のダイムラーは、合併前のような労組・従業員との協力関係の復活も期待でき、なんとか立ち直れるだろう。

  しかし、クライスラーの側はきわめて厳しい。北米市場は日本企業などによる市場席巻などで様変わりしてしまった。かつて繁栄をきわめたビッグスリーの面影はどこにもない。

  1960年代、クライスラー社のメインバンク、マニュファクチャラーズ・ハノーヴァートラストに父親が勤務していた友人に案内されて、クライスラー本社を見学・インタビューさせてもらったことがあった。日本車はサンフランシスコの坂を上れないなどといわれ、ビッグスリーの大型車が席巻していた時代であった。当時はあのアールデコ風のクライスラー・ビルに、本社、関連バンクなどが入っており、日本の自動車会社と比較して、その壮大さに驚かされた。とりわけ、オフィスの立派なこと、社員のゆったりとした勤務ぶりなど、同じ会社でも日米これほどまで違うのかと思わされた。

  しかし、石油危機後、自動車産業の舞台はめまぐるしく変わった。ハイウエーはあっという間に日本や欧州からの中・小型車で埋まった。自動車産業アナリストが予想もできないといったほどの変わり方だった。

  サーベランスというファンドによって、クライスラーの回復はできるのだろうか。クライスラーは今回のサーベランスによる買収で今後は非公開会社となる。膨大な医療費と年金コストを抱えたクライスラーについて、アナリストたちは誰もが、成否は雇用削減次第と言っている。ファンドは情け容赦なく人減らしをするだろう。全米自動車労組であるUAWとクライスラーとの労働協約は今年改定時を迎えており、交渉上の立場も弱い。サーベランス側は、雇用削減を受け入れなければクライスラーは倒産すると迫るだろう。UAWは仕方がない選択と言っているが、組合にかつての力強さはない。

  自動車企業の経営改革が成功するか否かは、4-5年はかかるとみられ、サーベランスがそれだけの期間待っているか、疑問が持たれている。記者会見ではいちおう5年は株式保有するつもりといってはいるが、ファンドが製造企業の経営回復の目処がつくまで長期的にコミットするか疑わしい。少しでも有利な兆候が見られるようになれば、簡単に切り売り、売却、処分の対象とするだろう。サーベランスの語源は地獄の入り口に立つ犬とのこと。名門クライスラーの命運やいかに。

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傭兵化進む米軍:「グリーンカード」兵の増加

2007年05月15日 | グローバル化の断面


  イラク派兵もついに5年目に入り、国論が2分化し、レームダック状態が強まるブッシュ政権。国民の反戦・厭戦気分もかなり拡大しているようだ。かつてヴェトナム戦争末期に徴兵忌避、カナダへの逃亡などが注目を集めたが、今回は別の深刻な問題も生まれている。

  多数の海外派兵で兵力が不足し、必要兵員数を充足できなくなっている。新規応募も少なくなり、1年の海外派兵上限も15ヶ月に延長された。その中で、アメリカ国籍を持たない外国人を兵員として採用する動きが進んでいる。アメリカではメキシコ人など外国人でも「グリーンカード」といわれる就労(定住)認可を得れば、アメリカに住み、働くことができる。除隊後の市民権獲得にも有利となる。かくして、グリーンカードの保持者から兵員を募る動きが進行している。

  アメリカに来たものの、良い仕事の機会にありつけない若い外国人労働者などが、応募している。兵役は厳しく、決して良い雇用の機会ではない。しかし、衣食住に心配なく、給料までもらえるとあっては、失業しているよりはましと考える若者もいる。

  ヒスパニック系のメキシコ人などが応募、入隊し、メキシコ国籍のままイラクなど前線へ送られるケースが増えているという。「グリーンカード」兵の出現である。その数はすでに4万人に上るといわれる。在外米軍の数は20万人近いといわれるから、無視できない数である。イラクの前線に派遣され、メキシコ国籍のままクラスター爆弾によって戦死するという例が報じられていた。遺体が帰国後、アメリカ国籍が付与される。ついにここまできたかという思いがする。いわば現代の傭兵である。祖国のためという大義もなく、出口も見えない戦いをいつまで続けるのだろうか。

Reference
BS1 2007年5月8日 「もうひとつの標的 グリーンカード兵」


5月15日、日本の衆議院は「イラク復興支援特別措置法」改正により、自衛隊の派遣を2年間延長することを可決した。

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過ちを繰り返すことなかれ:外国人技能実習制度

2007年05月11日 | 移民政策を追って

 このブログでも時々とりあげてきた外国人研修・技能実習制度がようやく再編されるらしい。メディア*の報じるところでは、政府は、これまでの労働関係法が適用されない研修制度を廃止し、受け入れ企業と雇用契約を結び、最低賃金などが保障される「実習制度」に一本化する方針を固めたようだ。

  これまでの制度は、「研修」と「雇用・就労」という異なった概念、内容の制度を無理にひとつに
折衷していたために、「研修」の名を借りて実際は低賃金で就労させるなどの違法が絶えなかった。

  一人のウオッチャーとしては、再編は遅きに失したと考えている。この制度について、「低賃金労働の隠れ蓑」というマイナス・イメージがアジア諸国などに根付いてしまったからだ。日本の制度に似た同様な制度を導入した台灣、韓国などでも違反が相次ぎ、制度破綻に追い込まれた。日本の場合、欠陥は制度成立当初から予想されていただけに、問題が露呈した早い時期に改革に着手すべきであった。しかし、今回の改正?案には、検討不十分と思われる多くの問題が残されている。

  「研修」と「就労」の制度を切り離すのは、これまでの流れからすれば当然な措置である。しかし、切り離すについては、十分検討しておかねばならない多くの重要問題がある。そのひとつは、「実習」制度に一本化するからには、「実習」と「就労・雇用」をいかに区分するかという問題がある。「実習」が再び「低賃金労働」の隠れ蓑になってはならない。

  「実習」という言葉には、実地(現場)における技能(熟練)習得という語感がある。技能の「研修」という響きを少なからず継承している。
ところが、今回の制度変革案では、「実習」の名の下でも受け入れ企業と「雇用契約」を結ぶ以上、外国人実習生が実質上、労働者として雇用されることはほぼ明らかである。

  これまでの経緯からみると、新たな制度の下で「実習生」が低賃金労働者として固定化されてしまうことが当然予想される。新聞の見出しとは裏腹に、「外国人を働かす実習制度」が生まれる。それも「実習生」の名の下に低賃金で雇用するとなれば、事態はこれまで以上に悪化しかねない。

  これでは厳しい労働力不足の到来を前に、低賃金の新たな外国人労働力を「実習」という不透明な受け入れ経路で確保しようとする動きとしか思われない。透明性のない制度はかならず悪用につながって行く。

  今回の制度は、これまで単純(不熟練)労働は受け入れないとしてきた日本の入管政策の実質的転換を意味するといえよう(と言っても、すでにさまざまな形で不熟練労働分野で、外国人労働者は働いているのだが)。日本がどうしても不熟練労働の分野での人手不足に対応するために、外国人労働者を受け入れる必要があるならば、そのあり方に十分な検討を行った上で、より透明性の高い制度改革がなされるべきだろう。「実習生」という名の新たな低賃金労働者を生み出してはならない。

  実質的に労働力として受け入れるからには、国内の労働需給とどのようなリンクをさせるか、外国人労働者の人権、労働条件をいかに確保するかなどの点について、国内労働者と同等の条件の保障
、切り離した「研修」の今後など、詰めるべき数多くの問題が残されている。禍根を残した旧制度の轍を踏まないよう、今後の法案化に向けて、十分な検討を望みたい。

* 「外国人働かす研修廃止案」『朝日新聞』2007511

** その後、この制度をめぐり、厚生労働省、経済産業省、さらには法相私案まで出されて、国論統一の場はどこにあるのだろうか。縦割り行政の弊害きわまれりという有様である。このままでは結果がまた歪んだ妥協の産物となることは目に見えている。

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真実と虚構の間(2):パスカル・キニャール

2007年05月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

   ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを取り上げた文芸作品は数多いが、今回はパスカル・キニャールについて少し書いてみよう。この作家は現代フランス文学を代表する大家の一人といえるが、17世紀ヨーロッパ、バロックの世界にかなり深く関わっている。      

 ジョルジュ・ド・ラトゥールを直接取り上げた作品もあるし、その他の作品でも多数のバロックの文人、美術家などが登場する。ラ・トゥールについてのこの著作は、画家の生涯における主要な出来事と作品をめぐるいわばエッセイであり、紹介でもある。この作品は正面から画家をとりあげているので、ラ・トゥールについてある程度知っている読者ならば、比較的スムーズに読むことができる。

 しかし、キニャールの他の著作はかなり難物である。この作家は大変な博覧強記で、しかも相当衒学的なところも持ち合わせている。虚実取り混ぜて、作品にさまざまな仕掛けをしている。多くの作品で、読者の力量がテストされているようなところがある。代表作『ローマのテラス』**からそのひとつの例を挙げてみよう。ちなみに、この著作は、2000年度のアカデミー・フランセーズ小説大賞受賞作品である。

 舞台は17世紀のヨーロッパ、バロックの世界。ヨーロッパ中の画家や画業を志す者はこぞってローマを目指した。ラ・トゥールがローマへ行ったかどうかは、美術史家のひとつの論点だ(今のところ、確証がない)。レンブラントがイタリアへ行かなかったことはほとんど確実だが、当時の画家としてはむしろ珍しい。

 さて、この小説では、腐食銅版画家モームの生涯が主題となっている。著作の一節に次のようなくだりがある:

 モームの肖像画は一つしかない。夕暮れの陽射しが草を食む家畜たちの上に落ちるローマの田園地帯、左手を古びた壁に当て、指で耳をおおいながら読書にふけっている聖ヨセフに似せた坐像である。作者はアブヴィルのポワリー。画面右下に《F.ポワリー彫。Pascet Dominus quasi Agnum in latitudine》とある。
 
  第一の親友はクロード・ジュレだった。クロード・ジュレのほうが年長だったが、彼より十五年長生きした。彼もまたロレーヌの出身だった。ミシェル・ラーヌはノルマンディーの人、ヴェヤンはフランドルの人、アブラハム・ヴァン・ベルシェムはオランダの人、ルーブレヒトはファルツ選帝侯領の人、ホントホルスト
はユトレヒトの人だった。彼は2季節の契約でアブラハム・ボス・トゥーランジョに版画を教えた(邦訳 pp115-116)。


 
  この短い節に出てくる人物も、実在が確定した人物ばかりではないようだ。キニャールは例のごとく「意地の悪い」仕掛けで読者を試している。他の翻訳書によくある「読者のための訳者注」は、少なくとも日本語訳書については付されていない。訳注を作成するだけでもかなり大変だ。翻訳家もお手上げなのだろう。
 


*
Pascal Quignard. George de La Tour. Paris: Galilee, 2005, pp.71.

**
Pascal QUIGNARD. Terrasse a Rome, Gallimard, 2000.
邦訳:パスカル・キニャール(高橋啓訳)『ローマのテラス』青土社、2000年、pp118

 

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真実と虚構の間

2007年05月08日 | 書棚の片隅から

  先日の旅では、思いがけないことからレンブラントへの連想が生まれた。そして同じ旅のつれづれに、新聞書評につられて読んだ1冊が、『ブラック ブック』*だった。これも偶然の一致ながら、舞台はオランダであった。ナチスとユダヤ人(ホロコースト)問題がテーマである。このジャンルの書籍はこれまでにもかなり読んだが、読後はほとんど例外なく、しばらく強制的な鬱状態へ追い込まれる。それでも読まずにはいられないので読んでしまう。

  この作品、フィクションとはいいながらも、背景の調査・考証に多大な時間を割き、かぎりなく事実に近いことを標榜している。その文句に引っ張られて、読む側も知らず知らず肩に力が入ってしまい、思わずのめりこむ。ストーリー自体が緊迫した展開で読み出したらやめられず、一気に読んでしまう。ハリウッドで映画化されただけに、ドラマティックな構成である。

  1944年、ナチス占領下のオランダ。美貌のユダヤ人歌手のラヘルが南部へ逃亡する途上で、ドイツ軍によって家族を殺されてしまう。レジスタンスに救われ、自らも運動に参加する。その後が敵味方の謀略、裏切り入り乱れてすさまじい展開となる。

  戦争を知らない世代が過半数になっている今日、この作品がひとつのサスペンス・ミステリーとして受け取られないよう祈るばかりである。戦争とは実際に体験することになれば、いかなることになるのか。TVゲームの発達などで、戦争がしばしば仮想の世界の出来事のように語られがちな状況で、映像の役割はきわめて大きい。今日もイラクでの自爆テロが伝えられているが、「殺戮の日常化」には言葉がない。映画では事実がかなり省略されていると記されているので、書籍を手にしたのだが、映画とどれだけの差異があるのかは見ていないので分からない。 

  さらに、ここに描かれたような歴史的状況があったとしても、現実と虚構の差は避けがたい。作者は「想像が介入する余地のない現実からきたものである」ことを強調するが、読者としては術中にはまってしまったかとも思う。「シンドラー・リスト」や「ヒトラー最後の12日間」とはかなり異なった読後感だった。
今回はいつも経験する鬱症状にはあまり悩まされずに済みそうだ。

 

 
*ポール・バーホーベン、ジェラルド・ソエトマン(原案)、ラウレンス・アビンク・スパインク、イーリック・ブルス著 戸谷美保子訳『ブラックブック』(エンターブレイン、2007年) 248pp.

 


  

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カブールに光の射す日

2007年05月05日 | グローバル化の断面

  10数年前、ある小さな個人的体験からイスラームの家族や社会のあり方について、かなり強い関心を持つようになった。イギリスに住む考古学者、家族との交友がきっかけだった。サダム・フセイン存命中、湾岸戦争たけなわの頃である。彼らが日本にある信頼を寄せてくれていることが伝わってきた。しかし、今、彼らが同じ思いでいてくれるかはまったく分からない。お互い、母国語でない言葉を介してのメールでは、心のひだなどとても読めない。

  その後、国と場所は変わっても戦争だけは絶えなかった。連日のように報じられる自爆テロと死傷者の記事には心が痛む。「殺戮の日常化」は、人々の感受性を著しく劣化させている。

  BS1のドキュメンタリー「アフガニスタン国軍203部隊」は、アフガニスタン、パクティア州ガルベス市に置かれたアフガニスタン国軍基地における軍隊訓練風景を主として伝えていた。この国が抱える荒涼、殺伐たる現実とその未来は、同じ地球に生きる人間として、さまざまなことを考えさせる。タリバンが支配していた時代と比較して、事態は良い方向へ進んでいるといえるのだろうか。あの『カイトランナー』、『カブールの燕たち』が描いた情景を思い起こす。すでにヤスミナ・カドラによる次の作品、その名も『テロル』が翻訳、刊行されている。

  ボン会議で決定された國際治安部隊の活動の心臓部として、この国軍203部隊は大きな意味を持っている。パクティア州、ガルベス市の基地には、陸軍、空軍を含む国軍全体の半数以上の3500人が駐屯している。その数は急速に増加した。しかし、戦う組織、軍隊としての「質」は高いとはいえないようだ。2005年5月以来、基地内には国軍の訓練を指導する米軍の兵舎が置かれている。しかし、言語、文化の違いを含めて、国軍と米軍の間に緊密な信頼関係が築かれているとはみえない。傍目にもかなり不安定な状況であることが伝わってくる。

  この地域は反米感情も強く、長老の力が強い部族社会である。パシュトン、ハダラなど20近い部族が混在して住む国でもあり、部族間の愛憎入り混じる複雑な感情などは、駐屯する米軍にはほとんど理解できず、介入もできない。関係者は相互に不信感を秘めながら恐る恐る事態に対応していることが画面から伝わってくる。

  ガルベスは、タリバンが侵入してくる道があるパキスタン国境に近い、防衛上の拠点である。しかし、4月になっても日中、氷点下10度という厳しい環境風土である。荒涼とした状況で、地元住民とタリバンを見分けることは、地元の人でも難しい。

  国軍に入隊してくる兵士は経済的な理由で志願する者が多く、愛国心や郷土愛が働いているとも見えない。兵士の給与も月5千アフガニー(12000円)と、他の職業と比較しても安すぎ、脱走を図る兵士も多い。

  兵士たちと離れて、家族が暮らすカブール周辺も荒廃が進み、冬季には零下20度にもなる。小さな泥づくりの家に10人近い人々が住む厳しい貧困が支配する。国際的な援助や政府補助も、一部の旧軍閥や政治家に流れてしまうという。その実態は分からない。それでもカブールの人口は、最も少なくなった時の8倍近くまで増えた。見かけは復興の途上にあるとはいえ、40%にもおよぶという失業率を前にして、軍隊もひとつの働き場所、それも危険で低賃金な仕事にすぎない。

  国軍と米軍だけでは治安維持もままならず、ついに地域警察までを組み込む体制が作られつつある。しかし、3者の関係は木で竹を継いだようにしかみえない。タリバン掃討作戦の見通しはつかず、米軍から国軍への引継ぎも先が見えていない。2008年という目標も空虚に見える。人々は不安をいつもどこかに抱きながら生きている。



* 
BS1 ドキュメンタリー「アフガニスタン国軍203部隊」2007年4月28日
‘ Iraq: A row over a wall’ The Economist April 28th 2007

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炎が創り出すもの

2007年05月04日 | 絵のある部屋
  この画像、なんでしょう。そうパン屋の店頭。パリの町中を歩いていて偶然出会った。ことさらに伝統的な製法を継承しているようで、古いパンの抜き型なども並べられている。店はすでに閉店していたが、ウインドウを通して店内を覗いてみると、パン窯もかなり使い込んだらしい煉瓦と石積みである。照明も意図的に暗くしているようだ。外から見ると、窯に燃える赤い炎だけが目を惹く。なかなか効果的だ。パンや陶磁器を焼く窯の炎はなんとなく暖かさや親しみとともに不思議な力の存在を感じさせる。  

  ふと見たTV番組*で、これまで人の目に触れたことがないといわれる炎があることを知った。陶磁器を焼く登り窯の最奥で燃え盛る高温の炎である。こうした炎を、「大口」といわれる窯の入り口の所では見たことのある人もいるかもしれない。しかし、「一の間」、「ニの間」、「三の間」、「四の間」と高温になる上方の窯の内部で、装填された作品に炎が作用する光景は、これまで人間が見たことがなかったあるいは見ることができなかったものだった。窯へ装填したら、その後の過程は「神の手」に委ねられる。土器が陶器へと変容する過程であり、制作の主体が人間の手から離れる瞬間である。   

  TVでは益子焼の登り窯へ耐熱チューブカメラを入れ、ハイスピードカメラで撮影していた。2度と同じ形をとることなく、めらめらと燃えている。神秘とも奇怪とも思われる光景である。  

  炎が繰り返し押し寄せる波濤のように、作品をなめるように繰り返し覆っている。温度は1200度近い。温度がある段階に達すると、器が発光する現象がみられる。炎の色が暗い赤色から明るいオレンジ色へと変化して行く。釉薬がかけられている場合には、ガラス質の釉薬に含まれる銅などの発色剤が変容して絶妙な色となる。釉薬によっては、「ぬか白」といわれ、白く焼きあがる場合もある。こうした発色の有り様については、これまでの長い経験からかなりの程度、陶芸家がコントロールできる範囲ではある。しかし、最後にどんな作品が出てくるかまでは分からない。  

  陶磁器やパンを焼く窯の中の炎、蝋燭の焔など、それぞれ考えてみると、そこには人間の手のおよばない神秘的なものがひそんでいるようだ。「創造過程というものはつねに神秘的な世界のうちに留まっているのである」というケネス・クラークの言葉を思い出す。ラ・トゥールの作品に描かれた蝋燭の焔に、画家はなにを感じていたのだろうか。



* BSTV:4月17日『アインシュタインの眼 陶器誕生:炎の美』
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桜とレンブラント

2007年05月01日 | 絵のある部屋

青柳邸内展示パネルの一枚 
レンブラントの模写部分についてのパネル説明文は、次のように書かれている:
(Rembrandt)レンブラント(オランダの有名な画家・1606年-69)筆の人体解剖図を写す。        Ayata?(模写内署名)



  
桜見物のために角館を訪れていた時のこと。公開されている武家屋敷のひとつ青柳家で屋外に置かれた展示物を見ていると、思いがけないつながりに驚かされた。日本の蘭画画家としての小田野直武についてのパネルがあった。小田野直武の名は聞いたことがあったが、その生い立ちや活動についてはほとんど知らなかった。

  杉田玄白の名は『解体新書』(安永3年、1774年)とともに、日本人の間ではあまりにも
著名だが、小田野直武はその図版(挿図)を担当した画家であった。画家が表紙絵と図版を描いた初版の『解体新書』は庭園内「ハイカラ館」に展示されている。  

  当時、角館の主藩であった久保田藩は、財政立て直し政策の一環として鉱山開発を企図、この事業に精通している平賀源内と鉱山技師の吉田理兵衛を1773年(安永2年)に藩に招いた。滞在中に小田野の屏風絵などを見て、画家としての才能を見出した平賀源内が江戸へ連れ出し、杉田玄白に推薦したようだ。

  小田野直武(1749~1780)は角館城代・佐竹義躬(よしみ)の槍術指南役を勤めていた下級武士、小田野直賢(なおかた)の四男として生まれた。  

  小田野家と青柳家は姻戚関係にあり、公開されている青柳邸内で、小田野直武の胸像が置かれた付近に、かつて小田野家の本家、即ち、直武の生家があったらしい。その胸像近くのパネルには、小田野直武の一生がわかりやすく説明されている。年少期より画才を発揮し、15歳で久保田藩の御用絵師から狩野派の画法を学んだ。直武と同じ年の城代、義躬が直武の後ろ盾となり、その才能を発揮させるよう助けたようだ。 

  屋敷内の素晴らしい桜に魅せられて、展示を見ている人は少なかったが、展示パネルにここに掲げる模写図が含まれていた。屋外に設置されていることもあって、あまり立派な展示ではない。しかし、模写の原画は明らかに、レンブラント Rembrandt Harmenszoon van Rijn (1606-1669)の
『テュルプ博士の解剖学講義』 *である。レンブラントは1632年にこの作品を描いた。きわめて短い期間に、当時のオランダ美術界の流行、最先端技法を身につけ、グループ・ポートレイトと言われるジャンルでの代表的作品として知られている。 

  描かれているのは、当時のアムステルダムの有名外科医ギルドの主要メンバーである。テュルプ博士の卓越したスキルを驚嘆の目で見つめる医師たちの表情が、新たなジャンルの肖像画としての特徴をもって生き生きと描かれている。日本に来たオランダ人医師などが持ち込んだ模写図などを見て、誰かが描いたのだろうか。展示には、その点についての説明はなかった。 

  レンブラントは17世紀を代表する画家であり、ラトゥールと同様に「光と闇」の描写をひとつの特徴とした。生年はラ・トゥールよりほぼ13年若いが、ほとんど同時期の画家である。オランダとロレーヌと、活動の場は異なったが、共にカラバッジョの影響が見出されるなど共通している点もある。レンブラントについては、ラ・トゥールの作品を見る時に、暗黙のうちに、ひとつの比較基準として考えてきた。それだけに、レンブラントとその作品についても多くのことが思い浮かぶ。レンブラントも知名度の割には謎が多く、近年、新しい視角からの大規模な見直しが行われている。いずれ、その一端を記すこともあるかもしれない。ひとまず、桜が想起させたレンブラントと日本の画家との不思議な縁を記しておきたい。

*
Rembrandt Harmenszoon van Rijn . The anatomy lesson of Dr. Nicolaes Tulp (1593-1674), Amsterdam reformed prelector in anatomy and future burgomaster Inscribed Rembrandt f: The Hague, Koninklijk Kabiner van Schilderijen Mauritshuis

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