時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

コールセンター:光と影

2006年04月30日 | グローバル化の断面

  4月24日の『クローズアップ現代』のトピックスは、「コールセンターの光と影」*であった。コールセンターが大都市から地方に展開し、産業の少ない地域の雇用創出に役立っている。しかし、新たに生まれる仕事の内容を考えると、もろてを上げて歓迎というわけにはいかないという内容であった。実は、こうした問題設定自体が時代遅れと思われるほど、コールセンターはIT時代到来以前から、われわれの日常生活に深く浸透してきた。製造業などと違って、業務の内容が見えにくいために注目を惹くことが少なかった。

広がるコールセンターの可能性
  コールセンターは、地理的に離れた供給者と消費者の間の意思伝達を電話を含むIT技術を駆使し、ヴァーチャルな「対面」方式で実施するシステムである。そのビジネス領域は銀行業務、コンピューターのヘルプライン、サポート、受発注、セールスなど、あらゆる分野へ拡大している。

  雇用機会が地元にない地方では、賃金率は低いが一度に多数の雇用を創出することが可能なgため、歓迎する地域が多い。地方の都市を訪れると、以前は賑わっていた商店街などがシャッターを下ろし、閑古鳥がないている光景がいたるところに見られる。地方都市の衰退は明らかだが、その再生は容易ではない。

  さしたる大企業なども存在しない地方では、一度に50-100人分の雇用を生み出すことは至難なことである。そのため、自治体が事務所などのインフラまで助成、提供してまでコールセンターを誘致していること もある。少しでも労働コストの安い地域を求めて、札幌のような大都市でも40社以上が進出している。

  情報通信関連企業立地促進補助金(コールセンター補助金)などの名目で、県などの誘致側が新規雇用者への人件費補助、さらに回線使用料、事務所賃借料などを補助する場合が多い。雇用されるのは、主として30-40代の主婦が多いが、雇用機会がない地域では高校などの新卒者も働いている。

現代の「女工哀史」?
  しかし、TVが映し出したように労働者の定着率は良くない。時間賃金率がきわめて低い上に、仕事の内容が精神衛生上あまり良くない。消費者のクレームなどが、オペレーターにとって大変厳しいプレッシャーとなる。確かに、手厳しいクレームなどに直面するオペレーターは、直接雇用でもないのになぜこんなことをいわれねばならないのかという思いがするだろう。しかし、電話の反対側でクレームをつける消費者は、そんな事情はまったく分からない。心身ともに疲弊してしまう現代版「女工哀史」といわれる状況が生まれている。

  実はグローバルな視野で見ると、アメリカやイギリスなどの企業は英語圏としての優位を生かして、自社のコールセンターをインド、フィリピン、アイルランド、南アフリカなど国外に置くまでにいたっている。アメリカの消費者が購入した製品について問い合わせたところ、少し変な応対だったので問いただすと、マニラ郊外のコールセンターであったというようなことが実際に展開している。

アウトソーシングの新たな形
  インターネットの発達は、従来考えられなかったような新しい仕事、労働の次元を創り出した。インターネット上で、仕事の機会が瞬時に外国へ移動してしまう新たな形態での「アウトソーシング」である。いわば、「ヴァーチャルな移民」ともいうべき新しい形態である。

  インターネット上での仕事の移動には、移民と国民国家との間に生じるさまざまな軋轢をある程度回避する効果も期待される。人の地理的移動を伴わないだけに、移民による文化的衝突のリスクを軽減するという利点もある。しかし、すべての仕事がインターネット上で移動するわけではない。製造業、農業、建設、レストランなど、大部分の仕事は、本来的に立地と不可分な関係にある。

産業革命以来の激変
  それにもかかわらず、コールセンターに象徴される人の目に見えない「仕事の機会の移動」は、今後注視してゆかねばならない重要な意味を持っている。英語と異なり、日本語圏は小さいためコールセンターが海外へ置かれる例は少ないが、ソフトウエア開発の場が中国やインドへネット上で移転するオフショアリングは明らかに進んでいる。「仕事の世界」は、あまり注目されていないが、産業革命以来経験したことのない変容をしているといえるだろう。


本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/c32d8d1db444d48542d7153bfd0b5a0f

References
*
「コールセンターの光と影」『クローズアップ現代』2004年4月24日

コンピューターテレフォニー編集部編『コールセンター白書2005』リックテレコム、2005年

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難しい国境の開き方

2006年04月29日 | 移民政策を追って

  4月20日の「アイルランド・モデルの可能性*の記事で記したが、EU諸国を隔てる国境は、そう簡単にはなくならない。日本のジャーナリズムには、「EU拡大=国境開放」という構図がすぐにも実現するような論調が多い。さらに「開放」は「良い、前向き」、「制限」は「悪い、後ろ向き」という思い込みに支配されている。しかし、この理解はあまりに単純すぎる。

複雑な過程
  EUは域内の人の移動の自由を定めており、本来ならば市民はどの加盟国でも自由に働ける。しかし、EU拡大に伴う混乱を回避するため、2004年5月のEU拡大時に、旧加盟国については暫定措置として2年間の移動制限を認めた。この措置は地中海のマルタとキプロスを除く新規加盟8カ国と、新規加盟国以外では(イギリス、アイルランド、スエーデンを除く)
12カ国が採用した。この暫定措置はこの4月末で終わるが、さらに3年間の延長、2年間の再延長が認められている。この措置は、加盟国間での賃金格差が大きいなどの理由で、認められている。

開放の難しさ
  今年4月末でEU拡大からまる2年が経過するが、多くの国が期限延長を行った。ドイツとオーストリアは09年まで3年間の制限延長をEUに通告した。ベルギーやデンマークなども一定の緩和策は導入するが、制限は延長する。CPEのストが学生や労働側の勝利に終わったこともあってか、フランスは完全自由化は見送り、制限撤廃は建設業やレストランなど人材の確保が難しい業種に限定している。

  新たに移動制限の撤廃に踏み切るのはスペイン、ポルトガル、フィンランドの3カ国にとどまる。EU拡大時から移動の制限を設けていないイギリス、アイルランド、スエーデンは、制限撤廃が直ちに低賃金労働者の急増にはつながらないと強調してきた。


コストとベネフィット
  確かに、イギリスやアイルランドの経済的パフォーマンスは、大陸諸国を上回っている。しかし、労働市場の開放だけが成功の要因とは断定できない。各国はさまざまな受け入れに伴うコストとベネフィットを秤量した上で、開放か制限かの選択をしている。

  グローバル化は寄せては返す波のようだ。簡単には国境開放という方向へは進まない。国境をめぐるせめぎ合いは、これからも続くだろう。国民国家の本質にかかわる問題だけに、簡単には決着はつかない。一人のグローバル・ウオッチャーとして、当分その動きからは目が離せない。

*
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20060420

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ラ・トゥールを追いかけて(70)

2006年04月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Claude Deruet(1588-1660)
before 1642, Oil on canvas, 194 x 258,5 cm (whole painting) Musées des Beaux-Arts, Orléans
Courtesy of:
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/deruet/fire.html


もう一人の謎の画家 クロード・ドゥリュ 

  わき道にかなり入ってしまったストーリーを、少しずつ元に戻そう。舞台もパリを離れて、再び画家ラ・トゥールの主たる活躍の舞台であるロレーヌに戻る。それでもまだしばらくは、わき道から抜けきれない。実はこの時代、現実の世界だけでなく、美術の世界も多士済々で老化の進む脳細胞の補填のためにも書き留めておきたいトピックスがかなりある。

ロレーヌ美術の黄金時代
  パリがフランス王室の栄光で輝きはじめたルイXIII世の治世の頃から、ロレーヌ公国の美術界は最盛期を迎えていた。この小国は芸術面では大きな光を放っていた。その背景には、洗練されたロレーヌ公の宮廷、当時の芸術先進国であったイタリアなどへの開かれた環境、多数のパトロン、収集家の存在、カトリック改革の最重点地域とされた先進性と重みなど、さまざまな有利な条件があった。1580年から1635年の間でも、およそ260人の画家と20人の版画家たちが活動していた。そして半数以上がナンシーに拠点を置いていたといわれる。まさにロレーヌ美術の黄金時代であった。

  ロレーヌ美術繁栄の礎石は、1580年頃ロレーヌ公国公爵シャルルIII世によって新たなナンシー市の造営が行われた時点に求められる。そして、この輝いた時代が終焉を迎えたのは、1633年にフランス軍がナンシーを攻略、1638年にはリュネヴィルも占領された時であった。その後、フランスの支配の下、戦争、悪疫、貧困などの悲惨な状況が展開する時期を迎える。他方、フランスは太陽王ルイXIV世の治世となり、強大な権力の下、輝かしい繁栄の時を迎える。

公爵が欲しかった作品:ラ・トゥールとドゥリュ
  1642年、宰相リシリューが世を去り、その後を継いだ宰相マザランによってロレーヌの総督に任命されたラ・フェルテ公爵 the marquis de La Ferteは、1643年にナンシーへ赴任した。ロレーヌはフランスの支配下に入った。ラ・フェルテはマザランの影響もあってか、きわめて熱心な美術愛好家で収集家でもあった。

  ラ・フェルテはナンシーとリュネヴィルに毎年、上納金の代わりに絵画の献呈を要請していた。こうしたことが許された時代だったのだろう。これに応じて、ナンシーはクロード・デルエの作品*、リュネヴィルはラ・トゥールの作品を贈ったようだ。

  ラ・トゥール(1593-1652)については、これまで記した通り、かなり謎の部分が解明されてきたが、デルエ Claude Deruet (1588―1662)については、ほとんど闇の中に隠れている。しかし、ラ・フェルテがラ・トゥールと並んで格別にご所望の画家であったドゥリュは、日本では専門家以外にはほとんど知られていない画家である。どんな画家だったのだろうか。今日、判明していることについて少し記しておこう。

ドゥリュの生涯
  ドゥリュは1588年にナンシーに生まれた。ラ・トゥールとまったく同時代の画家である。若い頃にイタリアに画業修業に行ったことが分かっている。ローマのヴォルゲーゼ邸で小さなフレスコ画を制作している。しかし、プッサンのようにローマへ残ることもなく、イタリア美術の影響はあまり強く受けなかったようだ。イタリアへ行ったか否かで議論のあるラ・トゥールについてもいえることだが、ドゥリュも活動の基盤をロレーヌの伝統風土においていた。

宮廷画家としてのドゥリュ
  ドゥリュは、ロレーヌ公アンリII世のお気に入りで宮廷画家であった。またルイXIII世もお好みの画家で、王の絵画の先生でもあった。未見だが、王が画家を描いた作品が残っているらしい。

  大変残念なことにロレーヌの宮殿などに描いたと思われる壁画などは、ほとんどすべて戦火や火災のために灰燼と化してしまって残っていない。また、カルメル会の教会のために描いたフレスコ画も1789年の革命時に破壊されてしまったようだ。

  さらに、1626-27年の間だけだが 風景画の名手として知られるクロード・ロランClaude Lorrain(1600-1682)を教えたことで知られている。この時期、デルエはカルメル派教会のフレスコ画の制作で忙しかったようである。ロランはまもなくローマへ移っている。この点は徒弟契約からはっきりしている。洗礼記録や徒弟記録は、この時代の資料として大変重要な意味を持っている。

  美術品の多くが残念にも多数失われてしまった時代なのだが、幸い残っている作品をつなぎ合わせることで輪郭を描くことはできる。

宮廷文化の光景
  ドゥリュが手がけた絵画でわずかに残っている作品の中に、リシリュー枢機卿が生前に自らの宮殿のために依頼したオルレアンに残る「要素」(空気、大地、火、水)Elementsと題された4枚のシリーズ物と、1651年にラ・フェルテ公に贈られた「サビーネの略奪」Rape of Sabines(Alte Pinakothek, Munich)と呼ばれる作品がある。

  話の筋道からすれば、後者をとりあげることになるが、残酷なテーマで見ていてあまり楽しくない。ローマの故事に由来する有名な主題で多くの画家がとりあげているが、どうも好きになれない。そこで、リシリュー枢機卿のために制作され、ラ・トゥールの研究書などにもしばしば登場する前者から「火」を紹介してみよう。

  これは、4枚のシリーズの一枚だが、大変装飾的で「劇場的」構図である。当時の流行であった花火観賞の光景が描かれている。 ルイXIII世時代の後半に好まれた審美的で華やかな様式だが、王室とそれを動かすリシリュー枢機卿の全盛期の一こまを描いている。拡大して見ないと分からないが、画面右手回廊、赤い衣をまとったのがリシリュー枢機卿ではないかと推測されている。
華やかな宮廷文化の一面が花火の光に美しく映し出されている。



ジャック・カロについては、東京の国立西洋美術館「ラ・トゥール展」の展示にも含まれていたので、ご覧になった方も多いと思う。この時代を代表する優れた銅版画家については、改めて記したい。ラ・フェルテに贈られたデルエの作品の中には、デルエが原画を描いて、カロが版画に制作したものも含まれていたかもしれない。

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フランスのCPE反対デモ:学生たちはなにを得たのか

2006年04月23日 | グローバル化の断面


  フランスのCPEをめぐる学生、労働組合などのプロテストは、当初予想しなかった形で幕引きとなった。シラク大統領、ド・ヴィルパン首相側が提案を全面撤回したことで、学生側は勝利を得たかにみえる。しかし、彼らはなにを得たのだろうか。

  昨年の「郊外暴動」に続く、今回の「若者たちの反乱」でいかなる前進があったのか。政府側は事態を打開するために、CPEを取り下げるとともに、若者の訓練プログラムと若者を雇用した企業への助成金給付を中心とする旧来型の施策で対応した。しかし、これが綻びを取り繕っただけであることは説明するまでもない。

デモに道を譲った議会制民主主義
  将来に不安を感じた若者がデモに走ったことは理解できるが、新たに多くの難問が生まれ、今後に大きな課題を残した。とりわけ、れっきとした議会制民主主義の道がありながら機能せず、衝動的で振幅の大きな学生主体の運動によって、本来の道が拒否されてしまうという動きは、いかにもフランス的ではある。しかし、社会的に鬱積した不満が、ことあるごとにこうした形で噴出するのは好ましいことではない。このところ、この方向が定着しつつあるかにみえる。

  9週間にわたった政府側の対応は、傍目にも右往左往していた。CPEの導入プロセスはいかにも拙速であった。エリート主導型政治の悪い側面が不要な反発を招いたところもある。議会での十分な検討、新制度の持つ意味のPR、学生、労使など関係者の合意形成など、いずれも不徹底であった。学生を含めて多くの人は、紛争が大きくなって初めて、CPEなるものが含む意味に関心を持つようになった。

消えてしまった政策評価
  残念だったことは、肝心の政策討議と評価が冷静に行われなかったことである。TV報道で、CPEの検討に当たった経済諮問委員会のエリック・コーエン氏が述べていたように、政府側はこれを最善の施策と考えていた。こんな結果になるとは思ってもいなかったようだ。

  資本主義社会での失業が避けがたいとすれば、その重荷を誰が背負うかが問題になる。フランスやイタリアでは公共部門を中心に雇用保障が手厚い。そのしわ寄せは労働市場の入り口にいる若者や女性などに集中しかねない。フランスの労働市場の最大の問題は、単純化すればその二重性にある。すなわち、居心地良くしっかりと雇用を保護されている公的部門を主とする長期雇用部門(インサイダー)と対極に置かれた流動的で雇用保障が薄弱な部門(アウトサイダー)である。この特徴は、多くの先進国に共通してみられるが、フランスの場合は明暗がかなりはっきりしているようだ。

若年者失業の重み
  失業が不可避だとしても、その負担が若者や女性などに重くかかってくる状況は決して望ましくない。教育の過程を終えて、「大きな希望と少しの不安」を持って仕事の世界(労働市場)に向かう最初の段階で襲いかかる冷酷な試練は、社会経験を積んだ中高年者が受けるものとはかなり異なる。しばしば、その後の人生にマイナスの衝撃を与え、大きな社会的損失になりかねない。「若年失業」youth unemploymentと呼ばれるこの問題への対処は、1970年代の石油危機以降、ヨーロッパの労働市場の大きな課題であった。しかし、その後の怒濤のごときグローバル化の展開は、内在する問題を包み隠していた。

  今回の失敗で、フランスの雇用改革は一段と難しくなった。来年の大統領選挙は、確実に「社会モデル」の内容を問うものとなる。雇用政策を中心とする労働市場の改革は、その中心部分を占めることになる。しかし、理念の上では多くが語れても、実効性ある施策を提示することは、かなり困難である。提案いかんでは、再び不満が噴出することになりかねない。

  今回の「若者の反乱」はフランス以外の国にとっても、「対岸の火事」ではない。発祥の地であるイギリスでは知る人が少ない「ニート」NEETとか、英語の辞書にもない「フリーター」という妙な言葉が広まってしまった日本だが、若者は総体におとなしい。彼らは現状に満足しているのだろうか。それとも冷めてしまっているのか。「物言わぬ若者」、「怒らない若者」は「静かな反乱」をしているのかもしれない。政治の責任の重みを改めて思う。



Reference
"A Tale of two France" The Economist, April 1st, 2006.


Note
  NHKの『クローズアップ現代』が4月12日、「フランス:若者たちの反乱」と題して紹介をしていた。しかし、掘り下げが足りないし、放送されたときには現実は先に進んでしまっている。番組編成まで時間がかかるのだろうが、これではとてもインターネット時代に対抗できない。在仏の方々のブログの方が、はるかに迅速かつ多様な側面を伝えてくれた。あまりに多数あるのでサイト名まで記しきれないが、状況を理解するには十分な情報量であった。とりあえず感謝の念を記しておきたい。


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アイルランド・モデルの可能性

2006年04月20日 | 移民政策を追って

  4月18日のBS1『きょうの世界』で「EUの労働市場の課題」として、アイルランドの外国人労働者問題をとりあげていた。

  アイルランドは、1990年代中頃からEU加盟国の中で最高水準の経済成長率を続けてきた。かつてはヨーロッパでも指折りの貧困国であり、典型的な移民送り出し国であった。2月15日、このブログ*でもとりあげたことのあるフランク・マコートの『アンジェラの灰』 (Frank McCourt. Angela's Ashes. New York: Scribner, 1999)の舞台である。とりわけ知られているのは、19世紀の大飢饉により、アイルランド国民の約4分の1がアメリカ大陸を中心に海外へ移民したことである。この移民国アイルランドに1990年代に入って大きな変化が起きている。

    1990年代中頃から経済成長率は急速に高まり、97年には10.7%を記録している。最近でも年平均4%以上の成長率を継続している。一人当たりGDPも1986年にはEU平均の61%に過ぎなかったが、1999年頃からはEU平均を上回っている。

理想と現実との葛藤
  2004年以降、拡大EUでは、加盟国25カ国の市民であれば域内で自由に労働できることになった。しかし、大多数の国々が最大7年の猶予措置に頼って、労働者の受け入れを制限している。その中でアイルランド、イギリス、スエーデンだけは受け入れている。

  アイルランドは人口約400万人の小国だが、ポーランドなどから来た17万人の外国人労働者が働いている。アイルランドはこの数年高度成長が続いたため、製造業などで自国民の労働者が不足するようになった。昨年は9万人分の仕事の機会が創出されたが、そのうち半分は外国人によって埋めている。今は経済発展の大きなチャンスである。

  しかし、アイルランド政府にも誤算はあった。高い賃金率に惹かれて予想の5倍以上の17万人もの外国人労働者が流入したからである。
アイルランド人の雇用が奪われる例も見られるようになった。ラトビアなどからの外国人労働者が、国内労働者の半分以下の賃金で雇用されていることをアイルランド労働組合などが指摘している。

少ない文化的摩擦
  労働市場での問題はあるとはいえ、外国人労働者の増加に伴う文化的な摩擦は、今のところ起きていない。外国人労働者の受け入れ経験年数が短いアイルランドでは、大陸のフランスやドイツのようにトルコやアフリカなどからのイスラム系の国からの労働者が少ないことも、ひとつの理由であろう。受け入れ数の著しいポーランドは、アイルランドと同じカトリック教徒の多い国である。

  アイルランド政府は、今後7-8年は労働力不足が継続するだろうと見ている。不況になれば外国人は帰国するだろうと楽観的である。当面、政府は査察官の数を増やしたり、EU新加盟の国からの労働者に向けての事前の案内などを行って対応してゆくとしている。

成功の秘密
  コメントをした庄司克宏慶応義塾大学教授は、大陸諸国のように猶予期間を設定して、受け入れを制限しているのはナンセンスであると述べている。そして、アイルランドの成功の理由として、1)大陸諸国ほど解雇規制が厳しくない、2)労働市場が弾力的で採用・解雇は容易だが、社会保障などのセフティネットの支えがある点を指摘している。これは、時にFlexicurity(市場の弾力性Flexibilityと社会保障Securityを接合した造語)と呼ばれる特徴である。

  確かに、大陸諸国では、フランスに代表されるように、解雇規制が強く、労働市場が硬直的であるとされてきた。結局撤回されたが、フランスのCPEの提案もその点を改善したいとの意図もあった。

アイルランドはモデルとなりうるか
  しかし、アイルランドが直ちにEU諸国のモデルとなりうるかは、かなり疑問である。アイルランドは小国であり、島国でもあって地政学上も国境管理が容易である。受け入れ国側に転換したばかりで、移民受け入れの経験が浅い。フランスの国民投票の前にみられた、安い賃金で働くことを辞さない「ポーランドの配管工」がフランス人の仕事を奪うという問題も、杞憂であると一蹴するわけには行かない。現実はかなりグレーゾーンがあるからだ。

  移民が定着し、人口の一定比率を占めるようになると、困難な問題が生まれるともいわれてきた。宗教、教育など文化的摩擦が表面化するためである。福祉国家としてのコストとベネフィットを考量すると、直ちにアイルランド・モデル採用とは行きがたい。現にEUレベルでの方向決定と各国との対応には大きな乖離がある。EUの統一移民政策はいわば「総論賛成、各論反対」の状況である。

グローバル化と国民国家
  問題の本質は、グローバル化と国民国家の主権との対立の中に求めらべきだろう。労働市場の実態は、各国によってかなりの特殊性を持っている。そのため、労働市場の規制は、各国の問題でもある。簡単にアイルランド・モデルなりイギリス・モデルを受け入れられない事情が厳然としてある。しかし、グローバル化は国民国家とのせめぎ合いを超えて確実に進行する。きわめて長い未来を望めば、おそらく国境はさらに後退し、存在感を薄めるだろう。しかし、国境が国家の最後の砦であるかぎり、そう簡単には消えることはない。時間的にもかなりの行きつ戻りつは、必至である。答は、「多様性の中での統合」の可能性をさらに追求
する中に見出されることになろう。


* 本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20050215
 

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リシリューのイメージ(2):『三銃士』再読

2006年04月18日 | 書棚の片隅から

ラ・ロシェルの攻防戦におけるリシリュー*
Courtesy of:
Henri Motte 1846-1922
Richelieu at the siege of La Rochelle,
1881
Oil on canvas, 112.2x190.5 cm
La Rochelle, Musée des Beaux-Arts

『三銃士』再読
    ある会議出席のため、列車と航空機でかなりの時間を過ごさねばならないことが分かった。そこで機内の退屈しのぎに、2,3の書籍を選んで持ってゆくことにした。たまたま最近のブログで話題としたフランス宰相・枢機卿リシリューに関連して、この際、あのアレクサンドル・デュマの名作『三銃士』を読み直してみようと思いついた。中学生の頃だったろうか、一度読んだことは覚えているのだが、翻訳者も誰であったかまでは記憶していない。当時はヨーロッパの歴史についての知識も十分でなく、フランスにも行ったことがなかったのだから、強い印象が残らなかったのも当然なのだが。

時間を忘れられる書物
  そこで、携帯に便利で入手しやすい岩波文庫版『三銃士』上下(生島遼一訳、1970年改訳)*を持ってゆくことにした。 機内で読み始めてみると、これが想像していたよりはるかに面白い。訳文はちょっと古めかしい感じもするが、ほとんど気にならない。昔読んだ時も面白かったという記憶は残っているが、これほど巧みにストーリー展開が考えられていたとは思わなかった。

  特に複雑なプロットや思想などが込められているわけではない。リシリューの時代の出来事を虚実を含めて描いているのだが、最後まで読者を倦ませることがない。あらためて、デュマの力量に感嘆する。最初は新聞小説の体裁をとったといわれるから、読者はさぞや次が待ち遠しかっただろう。しかし、日本人としてこの作品を読むについては、やはりヨーロッパ、とりわけ17世紀のフランス史について知識がないと面白みは半減してしまう。

  お読みになった方はご存じの通りだが、三銃士とダルタニャンにとって、リシリュー枢機卿(生島訳では枢機官になっている)はいわば不倶戴天の敵役である。本書では枢機官の名で、頻繁に登場する。政治的にも、軍略の上でも際だった辣腕の持ち主として描かれている。王に忠誠を誓いながらも、実は王とも対立しており、王と王妃も反目していた。さまざまな策略が渦巻き、リシリューは多数の密偵を放ち、あらゆる情報を集めていた。いわば、今日のCIA長官のような役割も果たしていた。

  リシリューはルイXIII世と並び、あるいは王を凌ぐ権力の持ち主であったといわれるが、それだけに敵も多かった。暗殺者も横行し、日夜を通して、油断できない毎日を過ごしていたようだ。ひどい不眠症であったといわれるが、こうした緊張感が生み出したものだろう。もしリシリューの日常がこのデュマが描いたものに近かったならば、とても落ち着いて寝られるような人生ではなかったに違いない。

リシリューの実像は?
  さて、『三銃士』の中で、リシリューがうわさではなく、実際に姿を現すのはダルタニャンが一時、部屋を借りていたボナシュウという小間物商が捕らえられて、尋問のためにリシリューの部屋につれて行かれた場面である。ちなみに、この男の妻ボナシュー夫人は身分に比して才たけて、密かに王妃の絶大な手助けとなっており、われらがダルタニャンと愛人関係にもなっていた。

  ボナシュウがまさか枢機官とも知らずに連れて行かれた部屋での状景は次のように描かれている:
  
「暖炉の前には、尊大な容貌をした中背の男が立っている。広い額に鋭い眼、口髭のほかに唇の下にのばした髭が痩せた顔を一層細面に見せていた。この男はまだせいぜい36、7の年齢だったのに、髪も髭ももうごま塩になりかけているのだった。剣はつっていなくとも、十分武人と見える面魂があったし、まだ埃の少し残っている長靴は、その日のうちに馬上どこかに出かけたことを語っていた。 この人こそ、アルマン=ジャン=ヂュブレシ、すなわりリシリュー枢機官だったのである。」 (上巻216ページ)

  リシリューについては、肖像画などを通して、表面的にはあるイメージを再現することができるが、実際にはいかなる人物であったか、さまざまな風説もあり、本当のところは不明な点が多い。敵とすればこれほど怖い存在はないが、忠誠を誓って部下となれば徹底して庇護したともいわれる。しかし、波乱万丈、一時も気を許せない環境に生きたために、心身の疲労も一通りではなかったのだろう。椅子に深く腰掛けた小柄な老人のような姿を描いた作品もある。

  後年、デュマの時代に形成されていた一般的イメージを推し量る意味で、この『3銃士』で描かれているリシリュー像はきわめて興味深い。そこで長くなるが、続けて引用してみよう。

  「この人物の姿として我々がよく教えられている、老朽して殉教者のように苦しみ、体躯は折れ屈み、声は衰えて、この世ながらの墓のように深い肘掛け椅子に身をうずめている老人、ただ精神力だけで生きており、知力だけで全欧州を向こうに闘っていた人、そんなのではなく───いま眼の前にいるのは、この時代に実際にそうであったままのこの人の姿なのである。つまり、俊敏で風雅な武人、すでに体力は衰えかけているが前代未聞の傑物たらしめている精神力に張り切って、マントゥア公領でヌヴェール公を援助し、ニームを攻略し、カストル、ユゼスを奪取した後、いよいよイギリス軍をレ島から追い払い、ラ・ロシェルを攻囲しようと意気込んでいる人なのであった。」(217ページ)

文人としての側面
  さらに、その後、プロテスタントの拠点として著名なラ・ロシェルの戦いを前に、ダルタニャンが対面した時のリシリューは、自室で書類を調べている裁判官のような男に見えたが、実際には机に向かって指で韻を数えながら、詩を書いていた。その表紙には『ミラーム5幕悲劇』と書かれていた(118ページ)。こうして、リシリューには多忙な日々の中にも、詩作にふける文人としての一面があったことが伝わっていた。

  デュマのこの描写から推察できるように、当時リシリューについて行き渡っていたイメージは、権謀術数にたけた武人でありながらも寸暇を惜しんで詩作にふける文人でもあった。しかし、心身の疲労も急速に進んでいたのだろう。年齢よりも老人に見えたに違いない。彼の日常がこのデュマが描いたようなものに近かったとしたら、とても神経が休まる時などなかったろう。なにしろ、身辺にいる者の誰が敵方のスパイや暗殺者であるか分からなかったほど、複雑怪奇な実態が展開していた。

  さらに、デュマの『三銃士』には王妃をはじめとして、あのミレディーなる妖艶にして恐ろしい貴婦人も登場し、ストーリーが展開する。当時の読者ならずも、次に何が起こるか胸をときめかせて読みふけることは疑いない。途中で筋が割れてしまうようなことがないのは、さすがである。

  かくして、出かける時はいささか憂鬱であった長旅も、始めてみると、あっという間に終わってしまった。こうした書物にはワインに熟成の時があるように、読む側にもそれにふさわしい準備が必要なことを痛感させられた。


*イギリスの軍船を港に近づかせぬよう、リシリューの創意でプロテスタントの拠点であるラ・ロシェルの港に築いた大防波堤。

* デュマ(生島遼一訳)『三銃士』 1970年改訳版、岩波書店

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難航するアメリカ移民法改正

2006年04月12日 | 移民政策を追って

アメリカ上院の状景

  移民(外国人労働者)は、今日、多くの先進国にとって対応がきわめて困難な問題となっている。いまだ記憶に新しいフランスの「郊外暴動」の根源も移民問題にあった。

  アメリカでも不法移民問題は、いまや内政の最大焦点といってよい。ブッシュ大統領が昨年11月、包括的移民法政策の構想を打ち出して以来、議会での議論、そして移民法改正に反対するデモが全国規模で白熱化している。

収斂しない上院・下院の議論
  下院はすでに昨年12月、移民法改正案を可決した。その主たる内容は、カリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、デキサス州に延べ1116キロに及ぶフェンスを設置し、不法移民のみならず使用者、ブローカーなど援助した者にも罪を科する。今は民事法違反の不法滞在を、改正法では重罪の刑事法違反とし厳罰を科す。全般に不法移民に厳しい政策である。

  他方、上院では3月27日、マッケン・ケネディ両議員が提案した法案を根幹とした移民法改正案を可決した。法案提出者が変わり、ヘーゲル・マルティネス法案と呼ばれている。この法案は下院通過の法案と異なり、不法移民に一定期間、労働を許可し、その間に永住権取得などの手続きを認めるもので、ブッシュ大統領の構想に近いものである。下院案に比較すると、移民に寛容である。

  上院では本会議の審議に移り、可決すれば上下両院協議会で双方の法案を修正し一本にまとめる過程に入るが、双方の隔たりは大きく難航が予想される。

非現実的な認識

  現実がきわめて複雑なだけに、議論もなかなか収斂しない。議員など関係者の認識が非現実的なことも多い。移民受け入れ論者は、不法移民はアメリカ人がやりたがらない仕事を目指してくると述べている。あたかも移民労働者のいない都市は、庭師もいないような話である。確かにカリフォルニアなどでは庭師はほとんど移民ではあるが。

  他方、移民受け入れの反対論者は、不法移民はアメリカ人労働者の仕事を奪うと主張してきた。これも、仕事の数が固定されていて、移民と国内労働者がとりあっているようなおかしな話になっている。賛成、反対論者ともに、不正確な現実認識や思い込みがある。

  議会の外では、全国的に大規模なデモが展開している。参加者はヒスパニック系を中心とする不法滞在者やその支持者が多い。その数は予想を超えて大規模なものとなっている。1986年に移民法を改正し、300万人近い不法滞在者にアムネスティを一定条件で認めたことがあったが、当時は今回のような大規模な反対は起きなかった。

アムネスティの難しさ
  しかし、その後不法滞在者の数は1200万人と推定されるまでに増加した。前回の法改正によって、不法入国しても、じっと耐え忍んでいれば、いつかはアムネスティが発動されてアメリカ市民になれる道が開かれるかもしれないという期待が、不法滞在者を増加させた可能性も指摘されている。

  背景には1日あたり2300人近くが、入国に必要な書類を保持せずに国境を越えて不法入国している現実がある。ほとんどは、アメリカで働くことを目的としているが、テロリストが紛れ込む可能性は否定できない。

  かねてから、外国人(移民労働者)の人口に占める比率が一定レベルを越えると、急激に問題が増加するともいわれてきた。フランスの場合もそうであったが、不法移民を放置しておけば、問題が発生した場合の対応は一段と難しくなる。

  国内に滞在する移民が増えるほど、選挙票への影響など、政治家にとって圧力となり、望ましい対応を歪めるような要素も増えてくる。アメリカでも中間選挙との関係で、この問題が論評されている。移民を票田に取り込みたい議員候補者は、移民(とりわけヒスパニック系)に傾斜する。

  移民法改正反対デモが予想外に多数の動員となったことにも、ヒスパニック人口の増加が明らかに影響している。近年ではヒスパニック系社会でのメディアも発達し、迅速な情報伝達ができるようになっている。ヒスパニック系住民の大人の87%はラジオ、TV,新聞などのスペイン語によるメディアに頼っているといわれる。

判定が難しい移民と賃金の関係  
  移民と賃金の関係は、理論・実証ともにあまりはっきりしない。現実が複雑であり、条件を正確にコントロールして比較することが困難なためである。結果として、誰もが納得する実証結果を得ることが難しい。すぐに反論・異論が生まれる。たとえば、移民の多い都市と少ない都市を標本として比較した経済学者カードの実証研究も、誰もが納得しているわけではない。標本抽出にバイアスがあるなどの批判が生まれている。一見、客観的な経済分析にしても、テロリストの問題など政治的要因が加わると、政策は急速に保守的方向に傾いてしまう。

  おびただしい数の調査研究が行われてきたが、十分説得的な実証成果は得られていない。ただ総合してみると、長期的な視点に立てば、低コストの移民労働者の増加は労働市場にとってネガティブな影響が増すと懸念されているが、当面は国内の熟練度の低い労働者の賃金には、あまり大きな影響を与えないと推定されている。しかし、これとても誰もが納得しているわけではない。

  グローバル化の時代とはいえ、国境を挟んで数倍の賃金水準の格差がある上に、9.11以降のテロリストへの対応などを考えると、国境管理が負わされた任務はきわめて重いものとなり、移民政策はどうしても政治経済的な視点が必要になる。

  アメリカの移民法改正がどこに妥協点を見出すか。アメリカの行方を定める基本軸にかかわるだけに、しばらく目を離せない。

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MacSE/30~この長いつき合い

2006年04月11日 | 雑記帳の欄外

 届いたばかりの『考える人』(2006年春号No.16)を見ていたら、「特集:直して使う」の中で、「あれっ?」と思う写真が目についた。堀江敏幸氏(2001年芥川賞)「日々を取り繕う」の冒頭に掲載されていた。今ではほとんど目にすることがなくなったマッキントッシュのSE/30である。実は、その仲間?が、私の仕事場でも働いている。混み合って居場所がなくなった机の上から机下に移ってはいるが、今でも立派に現役である。

  振り返ると、パソコンとの縁もずいぶん長くなった。最初はローマ字入力し、スムーズに漢字に変換されるだけで大変感動した。手動のレミントン・タイプライターで論文を作ることからスタートしているので、当時は日本語でこれまでできる時代が来るとは思ってもいなかった。一時はすっかりのめり込み、今思えば計算するのも怖くなるくらいの投資もした。とても回収できたとは思えない。

  インターネットにいたるその後の変化は驚嘆すべきものだが、この機種とのつき合いは、ひとしお格別なものがある。マッキントシュとの出会いの最初が、このSE/30であった。それまでは国産機種を使っていたが、暗号文書のようなマニュアルと悪戦苦闘し、やっと動いてくれるMS-DOS系の機械と違って、最初から「ユーザー・フレンドリー」を標榜したマックには親近感があった。しかし、とにかく高価であり、SE/30については初期には日本へは輸出されないという話だった。

  1991年だったと思うが、会議で出張したハワイ大学のCOOPで対面し、即座に購入を決意した。アカデミック・ディスカウントでも50万円以上したと記憶している。持ち合わせではとても足りなくて、大学の友人から融通してもらって別送品扱いで大事に持って帰った。成田税関でパソコンは関税はかかりませんよと言われて、一寸得をしたような感じだった。最近のような簡易包装ではなく、小型冷蔵庫が入るくらい大きく頑丈な段ボール箱詰めで、車のトランクが閉まらず苦労した。

  筐体はマレーシア製、9インチの一体型モノクロ・ディスプレイである。メモリーは当初40メガバイトだったが、後に100メガまで増強した。ソフトウエアでは結構苦労したが、ハードウエアはしっかりしており、メモリーやハードディスクの増強などの改造はしたが、故障したことはない。
  
  改めて確かめてみると、「漢字トークJ1-7.5.3」が入っていた。「ワード」も「ユードラPro」まで入っている。キーボードもテンキーもついた頑丈なつくりの純正品であり、普通の仕事には十分である。

  これまでにOSがヴァージョンアップするなど、さまざまな理由から使用をあきらめたりで、多くの機種が目の前から消えていったが、SE/30には人生のかなりの時間をつき合ってもらっているので、処分する気にはなれなかった。現に電源を入れると、「ポーン」という独特の起動音で、Welcome to Macintosh と迎えてくれる。最近はデザインも機能も洗練されたものになったが、マック、ウインドウズを問わず、愛着を感じるような強い個性を持った製品が少なくなった。

  今、主として使っている機種はWindows系だが、もう一台、目前で働いてくれているマックがある。キューブと呼ばれるトースターのような形状でデザイン的にも大変ユニークな機種である。しかし、こちらはSE/30と違って、初めから問題山積だった。数年前発売直後に購入したが、半年くらいは故障ばかりでほとんど「入院」状態だった。そのためもあってか、後継機は生まれなかった。ただデザインはきわめてユニークであっただけに、MoMA(Museum of Modern Art, New York)に納められたようだ。これも苦労させられただけに、お役ご免にするのも忍びがたく、今でも目の前に並んでいる。幸いその後は「元気」で、i-tuneでダウンロードした音楽などで楽しませてくれる。

  パソコンのような機械でも、長年にわたって使っていると不思議と愛着が生まれてくる。今日までよくがんばってくれたなあという思いがする。技術進歩の速度が速く、製品の陳腐化もめまぐるしい日本だが、「物を大切に」、ゆっくりと生きることの大切さを改めて考えさせられた。
  

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再読「真珠の耳飾りの少女」

2006年04月07日 | 書棚の片隅から



「17世紀のデルフトでは、生活に秩序があった。富める者も貧しい者も、カトリックもプロテスタントも、主人も召使いも、それぞれの場所をわきまえていた。」
Tracy Chevalier. Girl with a Pearl Earing, Limited Edition, 2005.

  この小説の著者トレイシー・シェヴァリエについては、このブログでも何度かとりあげたことがある。2000年に刊行された直後に読み、大変印象が深かった。その後、この作家のスタイルを確認したいと思って、 『貴婦人と一角獣』も読んでみた。

「お気に入り」リストに入った
シュヴァリエ
  ご存じの方も多いはずだが、オランダ17世紀の画家フェルメールを題材とした小説である。映画化もされた。なぜ、もう一度読むことになったのかというと、最近、ふとしたことで、この原作で「限定版」(Limited Edition with new material and illustrations)と銘打ったハードカヴァーを手にしたことによる。以前読んだのは同じ出版社ハーパー・コリンズ社のペーパーバック版であった。

  この「限定版」は大変表紙も美しい。そして、著者の「あとがき」や小説に出てくるフェルメールの作品、年譜、デルフトの地図なども掲載されていて、読者にとっては便利でもあり、大変魅力的な書籍に出来上がっている。それでもう一度、読んでみたくなった。

デルフトの記憶
  小説の舞台デルフトには10年ほど前、1995年に一度だけ訪れたことがある。実は、毎日愛用しているデルフト焼きのマグも、その時買い求めたものだ。静かな落ち着いた感じの町であった。当時はアムステルダムのティンバーゲン研究所のヴィジティング・フェローとして短期間受け入れてもらっていたこともあり、たまたま体験できたオランダの美術環境には、さまざまな関心を呼び起こされた。

  記録によると、フェルメールは1632年に生まれ、1675年に43歳で突然に世を去っている。このブログでも取り上げているロレーヌの画家ラ・トゥールよりは少し後の生まれだが、美術史上はほとんど同時代の画家といってよい。ラ・トゥールが「赤の画家」とすれば、フェルメールは「青の画家」である。

  この限定版で特に興味を惹かれたのは、ペーパーバックにはない著者「あとがき」Afterword である。それによると、この作品は1999年の刊行だが、シュバリエが小説とする発想を抱いたのは、97年11月であったとのことである。ある朝、自宅の壁に長らく掲げられていたフェルメールのこの作品のポスターを眺めていて、小説への発想が生まれた。19歳の時に購入し、その後16年近く見ていたと記されているから、まさに突如として気づいたようだ。

少女の表情が生んだ小説
  作品のプロットが展開するきっかけになったのは、やはりこの少女の表情らしい。それまでずっと眺めていて気づかなかった不思議な表情に突然閃いたものがあるようだ。世間を知らない少女のようでありながら、成熟した女性のようでもある。画家フェルメールはいかなる背景の下で、この少女をモデルとしたのだろうか。この点がシュヴァリエの発想の原点となる。

  シュヴァリエはデルフトにも行き、フェルメールの作品や生涯についても調査を行った。世界中に多数のファンがいるフェルメールだが、この画家もラ・トゥールに似て、その生涯がいかなるものであったか、あまり良く分からない。年譜によると、1653年には富裕な家の出自でカトリック教徒の妻を迎え、プロテスタントであった自分はカトリックに改宗したようだ。11人の子供が生まれた。当時のデルフトでは、市民のおよそ20%がカトリックであった。新教国オランダでは、この時期にプロテスタントが圧倒していたのだ。そして、画家は結婚した年に、画家のギルドGuild of St. Lukeに親方画家master painter として加入している。

  シュヴァリエは、この限定版のアイディアを大変喜んでいる。その最大の理由は、読者にフェルメールのファンが多いとはいえ、小説に出てくる作品のイメージを思い浮かべる人はそう多くないからだ。作家は「あとがき」に、この絵を言葉で説明するには「7500語を費やしても難しい」と記している。そのために、シュヴァリエは小説技法として、仕事中の事故で視力を失った少女の父親に、奉公先の画家や作品の説明をする形で、詳しい記述をしたと記している。最初から限定版のアイディアがあれば、良かったのにと思うのは素人考えだろうか。いずれにせよ、フェルメールの作品が挿入されたことで、大変リッチな一冊となった。フェルメールについては、世界的にも多数のすばらしい研究サイトがあるが、最小限必要な資料などが本書の中に含まれることになったのは、読者にとっては大変有り難い。

不思議なつながり
  さらに、興味があることが記されている。シュヴァリエはこの小説でフェルメールについての既成観念を創り出してしまうことを懸念したと述べている。しかし、この小説を書いてから1年くらいして、小説の方向として多分間違っていなかった(perhaps I was on the right track)という奇妙な形の確認ができたとの感想を記している。それは、最初主人公であるこの少女の名前をGriet(Margrietを短くしたもの、英語ではMargaret、日本語邦訳では「フリート」と表記されている)とした。短くて、はっきりしていて、すべてを尽くしており、彼女の名前として最適と思ったからだという。ところが、もっと学のある人がその後知らせてくれたことによると、この名前が彼女にふさわしいもっと良い理由があるという。それは、Margrietはラテン語で「真珠」を意味する 'margarita' に由来するからだとのことであった。


原著
Tracy Chevalier. Girl With a Pearl Earing. London: Harper Collins, 2000.
邦訳
トレイシー・シュヴァリエ、木下哲夫訳『真珠の耳飾の少女』白水社、2004年。

______.Girl With a Pearl Earing. Limited Edition with new material and illustrations. London: Harper Collins, 2005.

Homepage of Tracy Chevalier:
http://www.tchevalier.com/gwape/inspiration/index.html
 
References
  フェルメールはファンが多いだけに、世界中に多数の関連サイトがある。その中で、今回シュヴァリエが参考になったと記しているサイトを紹介しておこう。ちなみにこのサイトは質量ともにきわめて充実している:
http://www.essentialvermeer.com/index.htm

 

 

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リシリューのイメージ

2006年04月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Charles Edouard Delort (1841-1895)
The Cardinal's Leisure
Before 1885, Oil on canvas, 78.7x 61cm
Detroit, Detroit Institute of Arts
Courtesy of Detroit Institute of Arts:
http://www.dia.org/the_collection/overview/full.asp?objectID=42360&image=1


興味尽きない人物
  
ラ・トゥールの人生もそうだが、リシリューのそれも大変興味深い。画家と宰相・枢機卿というまったく異なる立場の人物である。しかし、つながっている。そこへ立ち入ると、どこまでもわき道へ入っていきそうだ。なにとはなしに、今に残る作品に描かれたリシリュー像を見ていると、死後350年以上も経過しているのに、この時代のさまざまな光景が目の前に彷彿として現れてくる。こうした人物はそれほど多くない。世界史に残る偉大な人物であったことは間違いない。メモ代わりのブログ、もう少しだけ、記しておこう。

  リシリューはその盛期には、宰相・枢機卿としてフランス国王に次ぐ地位にあり、王に仕えることをもって自らの最大の栄光としていた。「王を間に挟んでフランスを支配する」ともいわれた実力者だった。自画像が絵画、彫刻ともに大変多いことを考えると、多分、かなり自己顕示欲の強い人間だったのだろう。

  シャンパーニュに描かせた、当時は王しか描かれることがなかったといわれる全身像の自画像は、大変お好みだったのではないかと思われる。愛好家にも人気のあるイメージらしく、モントリオール展には、後年1905年に別の画家が制作した作品も展示された。

枢機卿の楽しみ
  リシリューのイメージは、さまざまにとらえられてきた。権謀術数にたけた辣腕政治家という面、フランス王への絶大な忠誠心の持ち主、芸術家や美術制作のパトロン、自らも当代屈指の文人であるとの自負の側面などである。そして、時代が経過するとともに、カリスマ的な存在という面から人間個人としてのこの人物の精神的、情緒的な面への関心も高まってきた。

  リシリューの死後、創り出されたイメージもかなり面白い。19世紀後半に描かれた作品には、リシリューが仕事の合間にか、王宮近辺を描いたような図の上で、数匹の猫が遊んでいるのを楽しんでいる情景を描いたものがある。この当代稀に見る多忙な人物にとって、私的な時間とはきわめて限られたものであったに違いない。そして、おそらくこの時代の屈指の文人ともみられていたのだろう。宮殿の階段をなにか書物を読みながら降りてくるリシリューに、行き交う宮廷人たちが帽子をとり、会釈をしている構図の作品もある。

映画になったリシリュー
  そして、小説の世界ではあのデュマの『三銃士』 Les Trois Mousquetaires (1844年)は、あまりにも良く知られている。映画化するにもきわめて格好な人物であった。20世紀初めから、これまでに50本を越える作品が制作されているという。『枢機卿の陰謀』、『シシリュー』など、この人物が主役になっている作品もある。忘れてしまったが、私もどこかで見たような記憶がある。ハリウッド作品が多い中で、最も史実に近い考証の上に作られたのは、チャールトン・ヘストンがリシリューに扮した『三銃士』(監督リチャード・レスター、1973年)とのこと。

  小説や映画の世界でも、リシリューは多くの場合、いつも画面に現れているわけではないが、どこか大きな存在感があり、卓越した知性を持った実力者と描かれている。これは、実際のリシリューが望んだ姿なのかもしれない。

大きな転換の年
  1642年は大きな時代の変わり目であった。リシリューは1642年5月23日、遺言書をナルボンヌで口述した。病名は不明だが、人生の終末が近いことを悟っていたのだろう。そしてこの年、7月3日には、ケルンであのマリー・ド・メデシス(アンリIV世の2番目の妃、ルイXIII世の母后)が死去した。

  9月には、プッサンが失意のうちにパリを去り、ローマへ戻った。この画家はフランス生まれだったにもかかわらず、ローマに魅せられ、パリへ来るのは気が進まなかったのだ。そして12月4日にリシリューが死去した。

  生前リシリューがルイXIII世に勧めていたマザランが地位を継承する。しかし、そのルイXIII世も翌年1643年5月14日、この世を去ってしまう。後を継いだルイXIV世はまだ5歳であった。

  1643年末、アンリ・ド・ラ・フェルテ=センヌテールHenri de La Ferté-Senneterreが、マザランによって、ロレーヌ総督に任命された。美術愛好家であるラ・フェルテにとって、ラ・トゥールの作品は上納金よりも欲しいものになっていた。


本ブログ関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/c/80db6c548a8b1605813b56417098c0be/1

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/b3847054ad06e5e52702a369e13ed4f6

ラ・フェルテとラ・トゥール:
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/388817acbfe8c2d2db3edaf9580dfda6

Reference
Judith Prokasky. 'From Painted Campus to Silver Screen: Richelieu in Film', Ed. by H.T.Goldfarb. Richelieu: Art and Power, 

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アメリカを引き裂く移民問題

2006年04月02日 | 移民政策を追って

アメリカを引き裂く移民問題  
  パスポートやヴィザなどを所有せずに入国したり、ヴィザの定める期限を越えて数年間、ある国に滞在している外国人は、本国へ送還されるべきだろうか。それとも数年間がまんしていたのだから「恩赦」(アムネスティ)の対象となり、定住する権利を認められるべきだろうか。

  アメリカ移民問題を専門とする調査機関「ピュー・ヒスパニック・センター」の最新調査によると、「不法移民は出身国に帰るべきだ」が53%、「なんらかの法的地位が与えられるべきだ」が40%と、世論はほとんど二分されている。「今日、いたるところで、民族は国家を引き裂いている」といったのは、歴史家のアーサー・シュレジンジャーである(Times, July 8, 1991)。

  これまで度々移民法改正を行い、大火にいたる前になんとか消し止めてきたアメリカだが、ついに予断を許さない段階になった。連日のように移民法改正反対の大規模なデモが全米各地で繰り広げられている。

  ブッシュ大統領はかねてから「包括的なアプローチ」を提案している。その内容は国境警備の強化、不法移民や彼らに依存する雇用主の取り締まり強化、アメリカにいる不法滞在者に期限を区切って合法就労を認める一時的労働許可制度(ゲストワーカー・プログラム)の3本柱からなっている。

強硬な下院
  これに対して、下院は昨年12月に規制強化だけを盛り込んだ強硬な法案*を通過させた。アメリカ国内にすでに入っている不法移民(家族を含む)に対する罰則の強化、メキシコ国境に新たに障壁を追加・新設するなどの対応を含んでいる。不法滞在を重罪とし、不法移民を雇った経営者にも違反1件について25000ドルの罰金を科す。メキシコ国境にも約1120キロのフェンスも張り巡らす。不法移民を助けた者にも罰則が適用される。

  他方、3月末から始まった上院司法委員会は、ゲストワーカー・プログラムを取り込んだ法案を可決。審議の舞台は上院本会議へ移った。

賛否が分かれる上院
  上院でゲストワーカー・プログラムを推進する勢力は、共和党のマケインJohn McCain議員と民主党のケネディTed Kennedy議員である。両議員からの立法案をめぐって、上院では「不法移民への恩赦(アムネスティ)は認められない」、「ゲストワーカー・プログラムは恩赦ではない」という応酬が行われた。

  アムネスティについては批判が多い。レーガン大統領当時、1986年の移民制度改革で、すでに入国していた不法移民の合法化(アムネスティ)と雇用主の罰則強化で問題解決を図ろうとした。300万人近くが合法化されたといわれる。しかし、その後も不法移民は増加し続けた。専門家が予想した通り、次のアムネスティを期待しての不法移民が流入し、事態は悪化してしまった。今回もアムネスティが対応案に含まれるという噂が広まると、国境を越える不法移民が激増するとの懸念も生まれている。

  「
ピュー・ヒスパニック・センター」によると、アメリカ国内に居住する不法移民は1200万人近いと推定されている。2000年時点では840万人と推定されていたから、急速に増加したことがわかる。年85万人以上のペースで不法移民が増加していることになる。アメリカにおけるヒスパニック系の影響力は、政治・経済、文化などの面で明らかに拡大しており、政治的にも無視できない要因となっている。

  アメリカ・メキシコ間の賃金格差は数倍から10倍近くあり、地図上では一本の国境が画しているだけである。そのままでは不法移民の流れを阻止することはほとんど不可能である。国境の物理的障壁を強化し、不法移民への罰則を強化し、少しでも流れを弱めたいというのが強硬派の対応である。

  根本的には、メキシコの経済発展を促進し、送り出しの圧力を弱めて行くことが最も有効な政策である。1994年にNAFTAが成立した当時の構想では、メキシコはもっと早期にアメリカ経済に追いつき、統合が進むはずであった。

国境隣接州のいらだち
  国境に隣接するアリゾナ、テキサスなどの州は、次々と進入してくる不法移民と麻薬取引の横行に頭を抱えている。たとえば、アリゾナ州はほとんど緊急事態宣言の下にある。連邦政府は国境管理に十分な対応をしていないとの批判が強い。確かに、アメリカの連邦国境管理はほぼ11,000人の人員で行われているが、ニューヨーク警察はこの4倍の人員である。

  不法移民が国境を越える地域も、カリフォルニアからアリゾナ、テキサスなどに移動しており、その方法も手が込んでいる。国境パトロールが人員、監視装置などの点で手薄なことが露呈している。このため、隣接州が自らの予算で防衛手段を講じるなどの動きがみられる。ミニットマンと呼ばれる自警団組織が編成されている。さらに、従来は平穏であったカナダ国境側も、管理強化の必要が生まれている。

  不法移民の多くは低賃金労働者として働いている。農業、果樹栽培、建築業など、移民労働者なしには存続し得ないような産業も多い。他方、9・11の同時多発テロ事件以降、保守中間層を中心に「反移民」感情が高まってきた。彼らは「一部業界の利益のために、不法移民にかかわる医療費や教育費など国民の負担が増えて国益が失われている」と批判している。

行方の見えなくなった議論
  上院でゲストワーカー・プログラムを取り入れた法案が通過したとしても、下院との両院協議会がある。中間選挙、2008年の大統領選挙への対応を含めて、議論がどこに落ち着くか、行方は見えなくなった。ブッシュ大統領が不法移民に一定の合法性を認めようとするのも、もはや無視できなくなったヒスパニック系への配慮があることはいうまでもない。この問題については、まずまず妥当と思われる方向を選択しているブッシュ大統領だが、民主党自体をコントロールできていない。共和党は賛否二つに割れている。


  首都ワシントンをはじめとして全米主要都市で大規模な移民法改正のデモが展開しているが、その中心となっているのは、アメリカ国内にいる不法滞在の移民やその賛同者である。ヒスパニック系が圧倒的に多い。その規模は、イラク戦争反対のデモをを上回った。不法滞在者であろうとも、その数が大きくなると無視できなくなる。賛同者も増えて、大きな政治的圧力となる。

  フランスの「郊外暴動」の根底にも移民問題が存在したが、放置して不法移民が増えるほど、鬱積した不満の突然の爆発など、不測の事態に対応が難しくなる。不法滞在者を摘発して送還するだけで、定住・永住への方向性を示さない日本だが、どうするつもりなのだろうか。島国日本に安住している時間はとうに終わっている。

* 提案議員の名をとって、Sensenbrenner bill と呼ばれる。

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/cd515fcd50fe7819a506ac94ce910b94

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