時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

謎を秘めた美女:この人は誰

2014年01月28日 | 絵のある部屋

 

  • ペトルス・クリストゥス(1410/20ー1475・76)
    『若い女の肖像』
    1470年頃
    ベルリン絵画館
    Petrus Christus
    Portrait of a Lady
    About 1470, Oil on oak, 28 x 21cm
    Provenanve: Solly collection, London, Staatliche Museen
    Preussischer Kulturbesitz, Gemäldegalerie, Berlin, 1821


      絵画には「肖像画」というジャンルがあるように、古来実に多くの人間の顔が描かれてきた。写真が発明されるまでは、肖像画は写真の代わりを果たしてきた部分もある。

      人間ならほとんど当然のことだが、今日でもひと目見てきわめて強く印象に残る顔と、すぐに忘れてしまう顔があることは、写真も絵画もあまり変わりはない。一目惚れというように一度見たら、直ぐに好きになってしまう場合もあるが、好き嫌いを問わず、一度見たら忘れないほど強い印象を残す顔もある。

     ラ・トゥールの『いかさま師』に描かれた女性(いかさまの場を取り仕切る女性、彼女の召使い)あるいは『占い師』に描かれている女性たち(卵形の不思議な目をした人物、ひどく醜く描かれた占い師)などは、恐らく好き嫌いという次元を超えて、網膜に焼き付いてしまうタイプではないか。これらの人物は、画家の想像の産物という見方もあるようだが、モデルを最大限重視した画家の性格からも、当時画家の周辺にこれらの人物のモデルがいたと考える方が自然である。

     印象に残るタイプは、描かれた肖像あるいは見る側の性別でも多分差異が生まれるだろう。しかし、見る側の性別によって、肖像画の好き嫌いに有意な差異が生まれるかを実験した成果を管理人は残念ながら見たことはない。小さな標本でテストしたことはあるのだが、標本数が小さく統計的検証に耐えない。

    ペトルス・クリストゥスの名作
     
    今回、取り上げた作品は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールから、さらに時代を遡る15世紀中期にブルッヘで活動したペトルス・クリストゥス(Petrus Christus, 1410/1420-1475/1476)という初期フランドル派に分類されるオランダの画家である。画家の後期の作品で、フランドル絵画の傑作の一枚といわれている。

     上掲の作品は現在ベルリンの国立絵画館が所蔵するが、来歴には謎めいた部分があり、1821年に王室コレクションを経てベルリン絵画館に移るまでは、ロンドンのSally Collectionに隠れるように含まれていた。

     何度か訪れたベルリン絵画館で、対面したことがある筆者には長年にわたるおなじみの作品である。多くの場合、ほとんど観客のいない部屋で見たので、名画の多いベルリンでもながらく印象に残る一枚として脳裏に刻まれてきた。小品なので、知らない人は見逃しかねない。ある時など、どういうわけか、数室にわたり展示室に誰も観客がいなかったこともあった。巡回に当たっていた学芸員が、見どころまで丁寧に説明してくれた。この時はルーカス・クラナッハの作品まで、説明してくれた。日本ではほとんど起こりえないことだった。

     1994年にニューヨークのメトロポリタン美術館で、PETRUS CHRISTUS: Renaissance Master of Bruges と題して、特別展が開催された。管理人はながらく専門とは全く関係ない趣味の領域で、17世紀美術の源流にかかわることに興味を抱いてきた。その流れで、この画家には不思議に惹かれるものがあった。その内容はとても短くブログには書き切れないため、今回は省略するが、このクリストゥスの『若い女性の肖像』も、最初に対面した後、今日にいたるまで、ながらく残像が消えずにいる作品だ。有名な作品なので、日本でもご存知の方は多いと思う。

    謎を秘めた美女
     全体の雰囲気が非常に謎めいている。一見して古典的で貴族の子女と思われる面立ちを見せているが、その表情はかなり硬く、無表情というに近い。陶器の人形のような硬質さも感じる。初めて自分の容貌を画家に描かせるという緊張からか、少なからず人間離れしたような印象も受ける。緊張の極みなのかもしれない。当然、あの『モナリザ』のようなゆとりはまったく感じられず、かすかな笑みも浮かべていない。なんとなく不機嫌な表情との評もある。

     彼女はいったい、なにを考えているのだろうか。年齢も10歳代か20歳代か、判然としない。来歴にも謎がある。身につけている衣装、装身具などがフランスに由来するらしいことは指摘されてきた。しかし、彼女がだれであるかについては、イングランドの貴族タルボット卿 第二代シュルーズベリー伯(Lord Talbot, second earl of Shrewsbury, d.1453) の2人の娘のひとりなど諸説があるようだが、いまだに確定されていない。しかし、彼女が当時の高貴な家に関係しているとは、ほぼ間違いない。

     一時期、この作品がイタリアのフィレンツェ・メディチ家の1292年の美術品目録に記されていた ”Pietro Cresti da Brggia”ではないかとの推定もあるが、これも確証はない。ペトルス・クリストゥスがどこで、いかなる修業をしたかは明らかではないが、急速に有名になり、ヤン・ファン・アイクの死後、代表的画家の地位を占めていた。およそ30点近い作品が今日まで、継承されている。

     作品は木材のoak (カシ、ナラの類)の板を貼り合わせたものに描かれている。背景を見ると、木製の壁あるいは衝立のようなもので、画面中央部が二分されていて、特別の空間であることを思わせる。肖像を描くために、こうした場を設定したのだろう。

     こうして一人の若い女性は、自らにまつわる謎を明かすことなく、5世紀近い年月を超えて、われわれの目前に不思議な容貌のままに生きている。

 

所蔵美術館のブックマークから 

 

Reference
PETRUS CHRISTUS: Renaissance Master of Bruges, The Metropolitan Museum of Art,New York

 

 

追悼 ピート・シーガー氏逝去 2014年1月27日(94歳)
  1月18日の記事にサイモン&ガーファンクル、そしてジョン・バエズ、ボブ・ディランなどのことを記したばかりだった。ピート・シーガー氏が亡くなるとは、「花はどこへ行った」、「We shall over come」などがいたるところで聞こえていた時代に20代を過ごした筆者には、ことのほか思い出深い。謹んでご冥福を祈りたい。

 

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「L字型」と「逆L字型」の危機に対する世界

2014年01月25日 | 特別トピックス

 


 

  先日、このブログで10 Billion(『100億人』)というタイトルの小著(ステファン・エモット)を題材に、世界人口のかつてない増加がもたらすであろう恐るべき結末についての議論を記した。今回はそのトピックスに関連した記事を記してみたい。実はエモットの小著に限らず、このまま無策でいると、地球上の人類の衰退・滅亡がさほど遠くないことを論じた書籍、論文はかなりの数に上る。

「逆L字」世界に向かって
 エモットばかりではないが、現在およそ72億人と推定される世界の人口がこのまま増加すると、世紀半ば、おそくも世紀末には100億人に達することが予想されている。その過程で資源の浪費量、電力などエネルギー不足、水不足、食料不足、異常気象、移民・難民の増大など、これまでになく対応がきわめて困難な事態が発生する。とりわけ、次世代以降の若い人々が危機を迎えるのだが、それらの深刻な問題に人々は無力・無関心で、十分な対応策を持っていないとエモットは論じた。

  その結論があまりに衝撃的であったがゆえに、刊行以来多くの議論を生んでいる。結論はほとんど絶望的ともいえるもので、「息子に銃の使い方を教えておく」という衝撃的な一文で終わっている。

 人間は誰もいやなことは考えたくない。とりわけ、自分の世代ではなく、子供や孫の世代に危機や苦難が持ち越されるという問題については、考えたくないのだ。多くの人は自分の時代だけ無事過ごせれば、子供や孫など後の世代については、積極的に自分の世代の責任も感じることなく、なんとかなるのではないかと楽観視してきた。いやなことは考えず、先にのばすという人間に生まれ備わった本性かもしれない。しかし、もし今の段階において、世界レベルで対応を考えて努力していれば、次世代以降が直面する恐ろしい苦難を、ある程度軽減できるとなれば、現世代も努力する意義と責任を感じる
だろう。

「逆L字」型の反転はきわめて困難
 当然ながら、エモットの提示は議論を分かりやすくすることもあって、直裁に過ぎた。小著で説明不足の点が多々みられる。そのため、多くの反論を招くことになった。しかし、エモットの小著は、現代の人間が熟慮すべき問題提起と少なくも管理人は考えている。

 議論は始まったばかりだが、たとえば世界は生活環境の悪化、多数の女性が家庭外で働くようになるなどの変化を反映して、子供を産まなくなるから、人口は80億人台にとどまるという見方も出ている。果たしてそうだろうか。エモットなどの破滅的推論を嫌い、ことさら楽観視しているかにみえる。日本ばかりを見ていると、他の国々も少子化に向かうと安易に思いがちだが、他の国々、とりわけ新興国では人口は減少どころか増加の道を進んでいる。

 世界の人口は先進国ではおおむね減少あるいは停滞気味だが、中国、インドを含め、そしてアフリカなど開発途上の国では増加し続けている。一人っ子政策をとってきた中国でも、高齢者比率が高まり、社会の活力がなくなることが問題となり、制限を緩和しようとしている。しかし、そのタイミングを誤ると、母数が大きいだけに、思わぬ誤算となりかねない。

 日本は世界全体の人口が増加を続ける中で、これまで経験したことのない大きな人口減少、高齢化が進む国であることを注意しておきたい。成長ばかりを追わず、優雅に幕引きをして高度な文化を保つ小国として生きる方向を探索することも必要ではないか。世界に破滅的危機が来るとしても、同時一元的に起きるとは思えない。弱小な部分から破綻が始まるとみるのが自然だろう。

 世界の人々が来たるべき危機の内容を十分察知しているとは思えない。代替エネルギーの開発、環境改善技術の開発などを進めれば、まだ救いの手はあるはずだなどの反論も生まれてはいる。しかし、大気汚染や異常気象などについても、新興国での根強い自動車購買意欲、電力や水不足の深刻さを見れば、大気汚染などの環境も急速に改善するとは期待しがたい。肝心の自動車メーカーや電力会社が、車や発電所の販売をめぐり激しく競争している。地球上は車で溢れかえっている。しかし、自動車がないと生活できない地域も多い。

 オリンピック招致を決めた日本では、東北大震災復興工事もあって、すでに建設労働者が大幅に不足している。このところ、急に外国人労働者を受け入れねば、関連工事が遅滞してしまうとの声が出ているのも、長年にわたり外国人問題を観察してきた者にとっては、余りにご都合主義だとの思いがする。新興国での人口増、ギリシャ、スペインのような経済不振の国々、あるいはシリア難民など、世界には居住と働き場所を求めて、本国から流出する人たちが急増している。受け入れる国があれば、そこをめがけて殺到する。移民・難民問題の性格も、急速に変質しつつある。

細部よりも大きな流れを把握する 
 基軸的な要因である世界の人口の伸びを、長い歴史的な時間軸上でグラフに描くと、すべて右上がりの増加、それにほぼ比例する形で、エネルギー、水、食料、大気汚染などの問題数値もほぼ対応して右上がりになり、急速に資源が不足する現象や深刻な問題が次世代以降に増大することを、エモットはかなり単純化して示した。細部について異論が生まれることは先刻承知の上で、警告をしたのが同著の眼目なのだ。

 エモットが指摘した問題状況を、管理人は「逆L字型」の世界と名づけ、そこに生きることを強いられている次の世代のために、早急に対応策を考えねばならないことを記した。

懸念される「L字」型の経済停滞
 たまたま、1月24日付けの『朝日新聞』「2014年の世界経済」(1月24日付)というオピニオン特集を読む機会があった。その中に、カウシィク・バス氏(世界銀行・上級副総裁)の『L字形の低迷、挑戦恐れるな』と題された記事が掲載されている。ここで使われている「L字」型とは、上に記した「逆L字」型の問題とは重なる部分もあるが、やや別の次元の問題の指摘である。

 バス氏の指摘する問題は、世界経済に浸透している別の不安に関連する。それは世界のリーダー国や地域での経済成長が停滞し続ける、いわば「L字形」の低迷である。要するに、アルファベットの文字にたとえるならば、もはや楽観的な「V字形」や「U字形」の経済回復を望めなくなり、過去の高成長の時代(L字の縦の部分)が終わり、長い停滞(
「L字」の横線の部分)が継続することへの懸念と今後への警鐘である。これは「逆L字」の問題とほぼ平行して発生する、比較的中期の経済停滞の問題といえる。

 バス氏は、2013年について、アメリカ、日本などは長い停滞、大震災の痛手から立ち直り、少しずつ改善していると見る。しかし、楽観はできない。他方、欧州は失業率の上昇、改善の兆しがないなど、さらに状況が悪化していることを問題としている。

 そして先進諸国の景気減速・停滞が、今後長期化する可能性を論じている。こうした考えの人々を悲観論者と退けることはできない。すでに事態はこの局面にあるからだ。この閉塞状況を打開し、長期停滞の束縛から脱出する方途を考えねばならない。

 バス氏は新しい分析的な思考の必要を説く。世界大恐慌の際に政策の重要で画期的な成功をもたらしたような革新的思考である。現在はいわば袋小路から脱却する創造的思考が経済専門家の間で欠如しているとしている。しかし、バス氏自身のそれ以上の提案はない。

グローバルな対応の模索
 このふたつの「L字」「逆L字」の議論を読みながら、管理人が痛感しているのは、経済学、政治学、あるいは工学、医学などの伝統的科学が、今日展開しているグローバルな課題(イッシュー)に対応できる体制になっていないことにある。いくつかの例をあげれば、医学の発達は、病苦に悩む人々の苦痛を改善し、人々の寿命を延ばすことに多大な寄与をしてきた。天文学、宇宙物理学の発達は、これまで夢であった宇宙へ人間を送り、そこに滞在させることに成功している。経済学も専門化し、部分的問題へは処方箋を提示できるが、かつての政治経済学が持っていたような包括的視点を欠くようになった。議論は著しく専門化の度を加え、細分化し、このままの状況では、合成の誤謬を生みかねない。
皮肉なことに、こうした専門化した分野ごとの科学の発達の結果は、そのままでは地球全体の問題改善にはつながらないことだ。

 今日、世界における重要問題は、もはや一国の力量をもってしては解決しえないものが圧倒的に多い。急速に展開するグローバル・イッシューへ対応する上で、専門化が過ぎた諸科学の新たな再編、グローバル政策ともいうべき総合アプローチの構築が焦眉の急務と考えているが、日暮れて道遠しの感が強い。人間は未来のことを考えるのは得意でなく、破綻するまでは同じ路線に乗っていたいようだ。



カウシィク・バス「L字形の低迷、挑戦恐れるな」『朝日新聞』2014年1月14日朝刊

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1960年代の響き:Simon & Garfunkel - Scarborough Fair

2014年01月18日 | 午後のティールーム


Simon & Garfunkel
Simon & Garfunkel: Collected Works, CD, 1990
CD cover


 かなり長い間手元の音楽用のHDに入っていて、なにかの折に繰り返し耳に入ってくる曲がある。時々は入れ替えているのだが、いつも「お気に入り」リストから外しがたく、今日まで残っている。全体にクラシック曲が多いのだが、かなりのポピュラー曲も入っている。しかし、後者は1960-70年代のものが圧倒的に多い。以前に記したことのあるジョン・バエズの若き時代の弾き語りも残っている。

突然の再会
 そのひとつが、サイモン&ガーファンクルのシリーズだ。旧聞になるが、年末ラジオの周波数を調整していた折に、まったく偶然にNHKカルチャーラジオなる番組で久しぶりに出会った。それまでは、こうした番組を自ら進んで聴いたことはなかったから、大変懐かしく感じた。サイモン&ガーファンクルの曲はどれも大変好みなのだが、その中でも「スカボロー・フェア/詠唱」 "Scarborough Fair / Canticle" には今日まで特別の印象が残っていた。最初に聞いたのは、もう半世紀近くを遡る1960年代、アメリカ時代だった。まだ脳細胞が柔らかく、新しいこともほとんど抵抗なく次々と頭に入ってきた良き時代(笑)だった。慣れない英語の日々、連日アサインメントの消化に疲れた頭脳には、炭酸水のような爽やかさを残してくれた。

 最初に耳にしたのは、恐らくサンフランシスコだったと思う。この時代、日本からアメリカ東部への直行便がなく、ホノルル経由でサンフランシスコへ着いた時代であった。東部へ行く前にしばらくこの地で過ごした。後で思うと、空港へ迎えに来てくれた友人の車内にも流れていた。初めてのアメリカ、燦々と輝く太陽と美しい海、爽やかな空気は、長旅に疲れた身体も心も直ぐに癒してくれた。サイモン&ガーファンクルは、西海岸の文化、風土に実に合っていた。


 当時はまだCDが普及していなかったこともあって、CDカセットを使っていたと思うが、友人の車のオーディオには、サイモン&ガーファンクルの曲も入っていて、大学や野球場などへ案内してもらった時などに、いつの間にか脳細胞に入り込んでいたようだ。この時代、ニューヨークでもグリニッチヴィレッジを中心にして、フォークブームが流行していた。ボブ・ディランが大活躍をしていたことも思い出す。

ヴェトナム戦争の時代
 サンフランシスコやニューヨークには、僧侶のように丸刈りにした、黄色の衣をまとったヒッピーが目に付いた。今、ヒッピーといっても、若い世代では、イメージがすぐには浮かばないようだ。1960年代後半、ベトナム戦争への反戦ムードも次第にキャンパスに浸透していた。彼らはその象徴のような存在だった。こうした時を経過して、いつとはなしに、身体の一部のようになったサイモンであり、ガーファンクルだが、その歌詞の意味などを立ち入って調べてみたことはなかった。

 スカーボロー・フェアにしても、カリフォルニアのどこかで開催されるフェアのひとつ程度としか理解していなかった。近くにいる友人にでも尋ねればよかったのだろうが、そこまで入り込んでいる余裕がなかったのだろう。


 後にイギリスにしばらく住むことになり、ふとしたことでスカーボロが、より正しくはスカーバラ Scarborough であることに気づき、あれっと思ったことがあった。そこで分かったことは、スカーバラはイングランド北東部ヨークシャーの漁港であり行楽地であることを知り、にわかに別の興味が生まれた。すでに13世紀半ばから18世紀まで大規模な市が開かれており、有名な町であった。サイモンはこの地のことを歌った古くから伝わるバラッドをアレンジし、チェンバロの伴奏をつけて、クラシックギター風な演奏で歌ったのだった。

不思議な歌詞
深く考えることなく、聞いたり、口ずさんでいた歌詞にも、そういえば不思議な部分があった。とりわけ、歌詞全8節の内、詠唱 canticle の3節を除き、5回にわたって前後の脈絡も定かでなく、何度も繰り返される次の下線部分だ。

Are you going to Scarborough Fair;
Parsley, sage, rosemary and thyme.
Remember me to one who lives there.
She once was a true love of mine.

 この部分、「パセリ、セージ、ローズマリー アンド タイム」、大変美しく爽やかに響く。歌の途中に差し入れた、合いの手のような感じもする。最初に聞いてからしばらくの間、スカーバラの市で、売っている香草のことかと思っていた。イギリス人は、これらの香草を好む人が多く、料理の香り付けやポプリなどによく使われている。イギリス時代、ガーデニング好きな隣人に教えられて、こうした香草、季節の花の栽培には大分詳しくなった。

 この歌をラジオで聞いたことがきっかけで、歌詞のことが気になり、放送を担当された講師のテキストも読んでみたが、その出所は諸説あって、本当のところは分からないらしい。バラッドでは他の表現も使われているようだ。イギリスで長く歌い伝えられている間に変わったのかもしれない。

 サイモン&ガーファンクルの歌は、どれもそれぞれ味わい深く、陰影があって今でも聞いていて心地よい。そういえば、映画『卒業』 The Graduate にも使われていた。ダスティン・ホフマンも若く、キャンパスにいた学生たちの象徴のように魅力的だった。当時はヴェトナム戦争たけなわの頃、反戦運動もさまざまに沸き上がっていた。それでも生き甲斐を感じ、ひたむきに日々を過ごしていた思いがする。少し後になって振り返ると、アメリカも繁栄していた時代だった。       



 飯野友幸『サイモン&ガーファンクルの歌を詠む』NHKカルチャーラジオ 2013年10-12月(この『スカーボロ・フェア』については、11月1日放送)。





Simon & Garfunkel - Scarborough Fair


Source: You Tube 

 

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風船はいつまでもつか:EU移民議論

2014年01月06日 | 移民政策を追って

 

黒海よりの黄緑部分がルーマニア(上)、ブルガリア
薄青部分はEU未加盟のスイス、ノルウエー 

 

日本にはなぜかない議論
 今回は、外国からの旅行者は歓迎しても、外国人労働者、とりわけ低熟練労働者は受け入れませんという日本の移民受け入れ方針をもう一度考えてみるひとつの材料を提供したい。人口減少、高齢化の進行で、看護・介護分野での甚だしい人手不足、肉体労働分野での高齢化が進み、後継者がなく次々と廃業してゆく小零細企業の実態を見ていると、このまま放置すると、次の世代はいったいどうなるのだろうかと管理人は少なからず心配をしてきた。

  3.11後、さまざまな使命に燃えて、危険な原子炉の廃炉作業の工事に携わっている人たちにインタビューしても、今後どれだけ維持できるのか、不安がつのる。下請け労働者に委ねている領域を含めて、作業は今後少なくも数十年に及ぶという。技術の伝承、要員の教育体制を含めて心細く、今はほとんどその日暮らしのような体制だと伝えられている。廃炉に向けての作業は、核廃棄物や汚染水の処理のあり方を研究・開発しながら、果てしなく続く仕事に従事する人々を円滑に教育・供給していく体制は、風化する体験の中で信頼できるものになるだろうか。

 仕事が厳しく日本人労働者が就きたくない低賃金の仕事は、いったい誰が担ってゆくのだろうか。熟練度の低い外国人労働者は受け入れない方針を、日本はこれまで主として日系ブラジル人、アジア諸国からの技能研修生などを受け入れることで、なんとか対応してきた。しかし、その過程で日系ブラジル人や研修生が低賃金労働者化するなど、多くの弊害も生まれた。

 こんなことを考えながら、年末にふと見かけた建築現場では、アジア・中東系と思われる若い外国人が、現場の廃材やゴミの処理作業などを行っていた。実はこうした光景はいたるところで見ることができる。たとえば、この国の首都の玄関に相当する駅構内で営業するレストランや店舗は、洗い場などで働く中国、韓国などからの(学生アルバイト) パート店員なしではやっていけない。知る人ぞ知る労働の世界がいつの間にか根付いている。長いデフレや3.11の勃発など不測な出来事もあって、確かに、不法滞在者の数は減少したが、留学生のような合法滞在者でこうしたパート労働に従事する者は多い。

EUの決断 
 目をヨーロッパに転じると、新年1月1日からEUのイギリス、ドイツ、オランダなど9カ国では、それまで実施していたルーマニア、ブルガリアからの移民労働者への経過制限措置を撤廃した。

 ブログで管見してきたように、すでにさまざまな議論があった。ブルガリア、ルーマニアは、2007年にEU加盟を認められた。しかし、直ちに自由な人の移動は認められず、経過措置として、EUの受け入れ国側には、各国の事情で最長7年間、なんらかの制限・衝撃緩和措置を設定することを認めてきた。これによって、2013年末までイギリスなど9カ国が規制を実施してきた。しかし、新年1月1日からブルガリア、ルーマニアからの移民労働者に対する規制が撤廃されたというのがその意味である。イギリスの新聞などを見ると、ほとんど連日、この問題をめぐる記事で埋められてきた。その後も論争は絶えることなく続いている。

ポーランドEU加盟の際の経験は生きるか

当ブログ関連記事

 振り返ってみると、2004年当時、イギリスのブレア首相は、EUに加盟したポーランドなど東欧8カ国の労働者受け入れを規制することをしなかった。アイルランド、スエーデンも同じ立場をとった。その結果、イギリスを例にあげると、2001年58,000人だったイギリス居住のポーランド人は、その後10年で10倍以上に増加した。イギリス東部の地域では、ポーランドを含めて東欧からの移民の定住化が進み、外国人が住民の15%に達したところもある。

 こうした東欧労働者の多くは、イギリス人労働者が働かなくなった、農業、土木などのきつい作業の労働分野で働いてきた。ポーランド、スロヴァキアなどからの労働者は、働き先で異なるが概して受け入れ国での最低賃金に近い水準で働いている。

 連日外国人労働者をめぐる議論が盛んに行われているイギリスのメディアでは。BBCなどを聞いていると、最大の問題は、外国人労働者が集中している地域住民の側にさまざまな反対や不安があるようだ。とりわけルーマニアについては、ロマ人(かつてジプシーと呼ばれた)の移動について、住民の不安が多い。現地インタビューなどでも、住居がなく路上で生活したり、仕事につけず、物乞いで日々を過ごしている人々への不安や不満が目立つ。とりわけロマ人はかねてから定住の地を持つことなく、キャラヴァンでヨーロッパを移動し、移動先でほそぼそとした仕事をしていた。そうしたイメージは今日も根強く残り、大都市ではロンドン、ロッテルダム、ベルリン、デュイスブルグ、ドルトムントなどで、不満や苦情が多い。

 他方、1月11日(土)のBBCで、ブルガリアからイギリスへ働きに来ている若い乳児を抱える夫婦のインタビューを聞いた。それによると、イギリスは本国と比較して、英語は難しく、生活費は高いが、生活レヴェルが高く、本国より住みやすいし、人も親切だ、できるならばこちらに永住したいと答えていた。他のメディアの報道とは大きなギャップがある。ブルガリアは小国にもかかわらず、シリア難民が多数流入し、産業・雇用基盤も脆弱だ。海外へ働きに出ないと暮らして行けないという考えも伝わってくる。

外国で働きたいルーマニア人
 今回のルーマニア、ブルガリアからの全面受け入れについては、2004年以降のポーランド人労働者の受け入れ経験が下敷きになっている。ルーマニア、ブルガリア両国を合計した人口は、ポーランドの3900万人のおよそ4分の3である。しかも、ルーマニアの経済は改善途上にあって、失業率は5%以下、首都ブカレストでは2%という完全雇用に近い状況にある。しかし、それでもEU諸国の間には大きな経済格差があり、多数のルーマニア人が域内の先進国を目指す。

 ルーマニアの700万人近い労働力のうち、およそ1100万人は国内の公務員など安定的な仕事についている。これに対して、約300万人がEU加盟時以降、域内諸国への出稼ぎに出ている。2007年時点ではイタリア、スペインへそれぞれ100万、フランスへ50万、ドイツへ40万以上、イギリスでは12万人が働いていると推定される。彼らはほとんど行商など自分だけでする仕事あるいは季節労働者として働いている。企業などに雇用され安定した仕事をしている人は少ない。彼らは本国でのより安定した雇用が望めない限り、外国で働いている方が本国家族へも送金ができると答えている。

社会保障給付を求めての移民?
 
規制の失効を前に、昨年末、イギリスはEU加盟国からの出稼ぎ労働者に対する失業手当の申請を3ヶ月間禁止、国内での物乞いは強制送還した上で、1年間再入国も禁止するとの措置を設定した。この措置については、入国したが仕事に就けない、あるいは仕方なく物乞いをして過ごしているなどの外国人についての地域住民の不安や苦情に対したものと考えられる。

 さらに最近、これらの移民労働者が出稼ぎ先の国で、自国では期待できない失業給付、医療給付などの社会保障給付を受け続けるために不必要に滞在し、受け入れ国民の負担になっているという「社会給付移民」 Social Benefit Migration というタイプの移民が増えているとの批判も高まっている。

 問題が最も過熱しているのはイギリスだ。かつては、「ゆりかごから墓場まで」のスローガンで知られた社会保障優等国だった。キャメロン首相は移動の自由は、自活できない者が社会保障の福祉給付をもらうためにあるのではないと述べ、受け入れ制限の撤廃に反対の意を表明してきた。もっとも、イギリスはEUの中で唯一すべての国民に普遍的な福祉システムを導入しており、他国の場合は多かれ少なかれ当該国への貢献次第となっている。さらに、キャメロン首相はルーマニア、ブルガリアからの移民労働者は英語を話し、外国人カードを携行し、税金を納めることが条件だとも述べている。
 
 
ドイツの調査機関IABによると、今年は10-18万人のルーマニア、ブルガリアからの移民労働者の流入が予想されるが、それらのすべてが「貧困に基づく出稼ぎ」poverty immigration であるとは言い切れないとしている。それによると、ドイツ国内のルーマニア、ブルガリア移民の失業率は7.4%であり、全国平均の。7.7%より低い水準であり、さらに全移民労働者の平均の14.7%よりもかなり下回っているとしている。彼ら家族の65%が働き、税金を納付しているとの推定である。しかし、ドイツで働くルーマニアあるいはブルガリア人の3分の2は、国内労働者が就労しない不熟練労働に従事しているという事実がある。

  オランダのように小さな国(人口1700万)では、外国人労働者の数は小さい。しかし、同国の建築業などでは、外国人を雇う労賃の安い企業に対抗できないとして廃業するものが増加している。同国の社会問題省が委託研究した調査の結果では、東欧からの労働者は温室栽培の果物採取など、自国労働者が働きたがらない賃金の低い領域で仕事をしている。他方、労働組合は産業レヴェルの団体交渉で定められた賃率より低い賃金で外国人労働者を雇っていると批判している。最近の低賃金問題の根源には、同国で急増している難民の問題もある。

 オランダの賃金はポルダー協定といわれる政労使の3者協定で定められた賃金率に基づき寛大な社会保障給付が与えられてきた。しかし、EU加盟国数が拡大した今日では、賃金率も外国の影響を受けざるをえない。

 はるか以前から経済理論的思考だけでは到底解決できなくなっている移民労働者問題だが、行き着く先は国民の不満を抑えがたくなった国のEU脱退、EU自体の分裂ではないかと思われる。それともEUの理想である国境のない連合体の達成は、どれほど実現性があるのだろうか。域内諸国の間には、いまやあまりに大きな格差が生じている。

 たとえてみると、現在はかろうじて風船の破裂を抑え込んでいる状況にあるといえる。EU域内の移民受け入れ国では、移民受け入れ反対の感情が高まっている。政治への不信感の高まり、社会保障制度への批判などを含めて、こうした反移民の動きはしばらく高まるだろう。

 地球人口の歯止めがきかない増加、アフリカなどから危険を冒してまでヨーロッパを目指す人の流れ、シリア難民など戦火に追われて入国を求める人たちの流れなどが、背後で移民受け入れ制限への圧力になっている。きつい仕事はしたがらない、あるいはできない人たちが増えている先進国は、それをいとわない開発途上国からの労働者で支えられている。国家の盛衰は避けがたい。そして、何時の日か、その地位は逆転する。今日の先進国が明日も先進国の地位を保てるか、保証はない。歴史が教えるところである。


 

★ シェンゲン協定 Schengen Treatiesは、最初1985年に署名され、その後ヨーロッパの26カ国にまで拡大している。。シェンゲン圏内では渡航者が圏内に入域、または圏外へ出域する場合には国境検査を受けるが、圏内で国境を越えるさいには検査を受けないで移動することができる。アイルランドとイギリス以外のすべてのEU加盟国は協定を施行することが求められている。ブルガリア、ルーマニア、キプロス以外ではシェンゲン協定やその関連規定が施行されている。シェンゲン圏は4億を超える人口を擁している。


References
"Overflow: Dutch Immigration" The Economist August 24th 2013

”The gates are open” The Economist Jan 4 2014

 

 

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時の旅人になるひととき

2014年01月04日 | 午後のティールーム






新年おめでとうございます
A Happy New Year for 802701 AD!
 

 今年はどんな年になるだろうか。かなりはっきりしていることは、昨年に続き激動の年が予想されることだ。新年の展開を占う期待の証券界も、1月2日のニューヨーク、香港株式市場は大幅な値下がりで始まり、早くも今後の多難を思わせる幕開けとなった。東アジアの政治状況も予断を許さない。

誰も分からない未来
 9.11以来、世界はかなりの乱気流に見舞われている。大きな出来事に限っても、未来を予測出来る人は実はいないのだ。予測できると思っていても、それは世界の変化のきわめて限られた部分にすぎない。確実なのは自分が立っている現在の一瞬のみだ。時はとどまることなく過ぎて行く。

 他方、われわれ人類が来し方、過去については比較的語ることができる。このブログが焦点を当てている時代のひとつ17世紀「危機の時代」の人々には、将来はほとんど予想することもできなかった。30年戦争では先を見通すために、せいぜい怪しげな占星術が使われた程度だった。魔女が空を飛んでいた時代でもある。しかし、現代から17世紀を振り返ることはかなり可能だ。これまで継承してきた情報が不十分ながらも蓄積されてきたことによる。だが、未来を知る情報は著しく限られている。

 もし考え得るとすれば、「タイム・マシン」に乗り、それを操縦して時空を移動するタイム・トラベラーが生まれるかにかかっている。タイム・マシンというと、やはりH.G.ウエルズ(1866-1946)の世界に戻りたくなる。アインシュタイン(1879-1955)とH.G.ウエルズは同時代人であり、1930年、ロンドンで開催されたある講演で、アインシュタインはH.G.ウエルズに対面し、深い尊敬の言葉を贈っている。二人とも世紀を代表する、とてつもない巨人であった。

 H.G.ウエルズ(しばしばH.G.と簡略される)は、管理人がかなりごひいきの人物でもある。子供のころ、家にあった『世界文化史大系』(北川三郎訳、全12冊)に、不思議な魅力を感じ、分からないままに深入りし、読みふけった。今でも写真、挿絵のあらましまで覚えている。しばらくして、この縮約版ともいえる『世界文化史概観』(岩波新書、1950年、現在の『世界史概観』も読んだが、概略すぎてあまり面白くなかった。歴史は細部が大事で興味深い。そしてもうひとつ、今回話題とするH.G.の『タイム・マシン』 The Time Machine は、SFの嚆矢ともいえる傑作だ。

 The Time Machineは、宇宙飛行士が存在する今日の世界の状況でみれば、稚拙にすぎない話かもしれない。しかし、1895年の社会においては、驚くべき斬新な発想に基づくものであった。そして、多数の言語に翻訳され、映画化もされた。管理人は原作を読み、映画も見ているが、H.G.の図抜けた才能と構想には驚嘆した。その後、H.G.の作品は一時期、かなりマニアックに読んでみたが、その数はあまりに多く、目を通したものは半数にも達していないと思う。


H.G.のタイム・マシン
 分かりやすいように、『タイム・マシン』 The Time Machine の映画化された作品の概略を記してみよう。(映画は未来社会で出会うイーロイという言語能力のない存在に会話させるなど、原作にいくつかの変更を加えている)。原作では主人公は単に The Time Traveller と呼ばれる当代著名な科学者としてしか記されていないが、映画ではジョージなどの名前で呼ばれている。





 1899年12月31日の夜、主人公の邸宅に晩餐に招かれた4人の友人たちが待たされて、いらだっている。肝心のホストがまだ帰宅していないのだ。そこへ、衣服は破れ、ひどく疲れ果てた様子の主人公がどこからか戻ってくる。そして、今タイム・マシンによって、未来の旅から戻ってきたのだという。彼らの前には主人公が制作したタイム・マシンの一見精巧な模型が置かれている。求めに応じて主人公はそれを説明し、客人の葉巻を人間に見立てて載せたモデルは、客の手を借りて始動し、目前の机上から消滅する。客人たちは自分たちが見せられた現象を理解できず、主人公の頭がおかしくなったと思って、折角の晩餐もそこそこに新年の挨拶を交わして、あたふたと帰宅してしまう。



 主人公はその後、自宅の実験室で密かに製作していたタイム・マシンを操縦し、タイム・トラヴェル(4次元の旅)へ出る。そして、いくつかの試行のあげく、到着したのは紀元後802701年、80万年後の世界だった。そこにはみたこともないような奇妙で美しい花々が咲き競い鳥が飛び交う桃源郷のようだった。イーロイと呼ばれる人々?(H.G.の時代の有閑階級の末裔を暗示?)が一見平和に住んでいる世界であった。しかし、その実は裏側で洞窟に住む野蛮な人食い人種モーロック(かつて弾圧されていた労働者階級の末裔?)が支配する恐怖社会であった。

 その後、モーロックとの死闘など奇想天外な経験を経て、主人公は現代に帰還し、友人たちにその話をする。

 あっけにとられ、主人公は気が狂ったようだと思った友人たちが、口々に「新年おめでとう」と挨拶し、そさくさと帰って行く冒頭の場面である。

 その後、再びタイム・トラヴェルを試みた主人公は、いずことなく姿を消す。


 作品の中では主人公がタイム・マシンの操縦桿をわずかに動かしただけで、時が経過し、室内の時計がそれを告げ、蝋燭が短くなってゆく#。

 

 #記事冒頭のイメージは、監督バーンズによる映画の一場面。

 邦訳は多く、ハヤカワ文庫、1978年、岩波文庫、1991年、角川文庫2002年などがある映画化も何度かされているらしいが、管理人が最近見たのは、H.G.Wells's The Time Machine, WB DVD(監督ジョージ・パル)である(上掲DVD表紙)。ハリウッド映画だが、それなりに面白い。

*2 H.Gについてはおびただしい数の関連書籍が刊行されているが、管理人が多くを学んだのは、Norman and Jeanne MacKenzie. THE TIME TRAVELLER: The Life of H.G. Wells, 1973 (村松仙太郎訳『時の旅人:H.G.ウエルズの生涯』(早川書房、1978年)、さらに本書によって、H.G.の主要な資料コレクションがアメリカ、イリノイ大学稀覯書ライブラリーに所蔵されていることを知り、別件で同大学を訪れた時、その数だけを見て驚嘆したことがあった。さらに、最近、H.G.の奔放な女性関係を主題とした伝記的小説 David Lodge, A Man of Parts, 2011 (高儀進訳『絶倫の人』白水社、2013年)が刊行されたことを知り、H.G.の人間としての別の側面についてさらに驚くことになった。これらの点については、大変興味深いが、すでにブログの時も過ぎた。

 





 

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