時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​神様、どうか火が消えませんように!

2021年04月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


Georges de La Tour
LA FILLETTE AU BRAISIER. A Girl Blowing on a brazier/
private collection, USA
oil on canvas, 76x55 cm, ca 1646-48, indistinctly signed upper right...a Tour.
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《火鉢の火を吹く少女》


顔立ちからみてせいぜい10歳くらいだろうか。暗闇と思われる中で、小さな顔の女の子が、火鉢の中の火種を絶やさぬよう口をすぼめて吹いている。画面に描かれているのは上半身だけであり、他に取り立てて目立つものはない。背景もほとんど闇である。宗教的含意のようなものも感じられない。

Q:  BRAISIER (火鉢)の中で燃えているのは何でしょう? 
答は本記事文末に。

《火鉢の火を吹く少女》A Girl Blowing on a Brazier (La Fillette au brasier)と題されたこの絵画は、17世紀、ロレーヌ(現在のフランス東北部)で活動した画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの晩年の作品と考えられている。

この時までにラ・トゥールは、フランス王ルイ13世やロレーヌ公の宮廷画家にもなっており、画家としての名声は確立していたが、その生涯や作品にはいまだに謎の部分が多い。作品については専門家によって鑑定にも違いがあるが、大体50点余が今日現存する画家の真作とされている。

この作品はラ・トゥールの中心的テーマであるろうそくの焔に照らされた人物画の中で、唯一私有されていた作品とされてきた。その他の作品は美術館など公的機関の所有になっていた。しかし、コロナ禍の下、昨年末、この作品もドイツで競売に付され、個人の手を離れた。しかし、最終的行方は公表されていない。

作品はこれまで多くの場所で展示されてきたが、最近では2016年マドリッドのプラザ美術館での特別展に出展された。さらに2020年、コロナ禍の下であったが、ミラノのPalazzo Realeでも展示された。幸いブログ筆者は1997年 Grand Palaisの展示で見る機会があった。

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N.B.
2020年12月、17世紀フランス・バロックの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画が、ドイツの競売ハウスLempertzで€4.3 million (買い手費用含みで$5.2million、邦貨換算約5億6千万円)で落札された。入札前の予想では、€3million~€4millionと推定されていたので、それを上回った。

判明している来歴を見ると、この作品は、1646~48年頃制作されたとみられ、その後1940年頃にトゥルーズで発見されたらしい。1947年頃ニースのJan Negerが取得したが、その後何度か所有者が変わった。その後ケルンに本拠を置くオークション・ハウスLempertzでゲルマニア航空会社の創立者であった故ビショッフ Hinrich Bischoffのコレクションの一部として競売に付された。ビショッフは1975年にロンドンのクリスティの競売で本作品を£17,850で競り落としていた。その前にはニューヨークの蒐集家Spencer Samuels が所有していた。彼はロンドンのサザビーで1968年に£25,000で取得していた。

この作品は画家の真作とされているが、作品の劣化が進み画面右上の署名はほとんど読めなくなっており、ラ・トゥールの工房作ではないかとの説もある。同じ主題の作品は本作品の他に3点ほどあるともいわれている。しかし、すでにラ・トゥール研究の大家などが多くの賛辞を与えている(ex. Pierre Rosenberg 2006)。
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火が燃える神秘
この画家には類似の主題で《ランプの火を吹く坊や》《タバコを吸う若者》を描いた作品がある。炭火やタバコの火を吹いて絶やさないようにするという行為に、17世紀ロレーヌで活動した画家、そして顧客が何か惹かれるものを感じていたのだろうか。火が燃えるという現象自体、科学的な解明がなされていなかった時代である。焔に息を吹きかけて、それが燃え上がるという現象に神秘的なものを感じたとしても不思議ではない。
ラ・トゥール以外にも、エル・グレコなど同じテーマで制作を試みた画家もおり、なぜ当時の人々がこの行為に興味を惹かれたのか、今後の研究課題でもある。ユトレヒトのカラヴァジェスティからラ・トゥールがインスピレーションを得た可能性もある。

ラ・トゥールのジャンルとしては、どちらかといえば傍流といえる作品だ。あえてジャンルの分類をするならば、風俗画に入ると考えられる。しかし、観ていると次第に惹きつけられ、時間を忘れさせるなにかがある。この画家の中心的なジャンルは宗教画なのだが、一見すると世の中の普通の人々を描きながら、不思議と強い宗教性を感じる作品が多い。《生誕》が良い例だ。

さらに、この画家ラ・トゥールのジャンルには謎が多い。画家としてこれだけの力量を持っていたら、肖像画などの注文が多数あったと思えるが、現存する作品の中には見当たらない。また当時のジャンルの中では上位にあった歴史画も描いていない。しばしば対比される同時代の画家プッサンとは大きく異なる。これは、プッサンが生地フランスへ戻ることを拒否し、生涯にわたり居住し続けたローマが歴史研究に絶好の環境を提供していたのに対して、ラ・トゥールの活動したリュネヴィルの地は、戦乱や疫病などに絶えず脅かされることが多かったことが影響したのだろう。

しかし、ラ・トゥールはそうした不利を一点の制作に多くの時間を費やすことで克服しようとしたのではないか。生涯における制作数も数百点といわれるが、あくまで根拠の乏しい推定に過ぎない。ただ、ロレーヌという画家の活動した地域が、絶え間ない激動と苦難の地であり、逸失、滅失した作品は数多いと思われる。

苦難を癒す
ラ・トゥールの作品としては、やや周辺的とも思われる世俗画だが、想像するに、この画家の多大なエネルギー、努力が傾注された宗教画などの作品には当時から高値がついていた。画家のそれらの作品を自らのものとできない愛好家たちが、なんとかラ・トゥールの作品を手元に置きたいと考え、画家や工房に依頼し、それに画家が応えた作品ではないだろうか。



References
Georges de la Tour, the Last in Private Hands, Set Record of $5.2M
https://www. artmarketmonitor.com/2020/12/09/georges -de-la-tour-noctuurne-the-last-in-private-hands-sets-recird-of-5-2-million/

Jaques Thuillier, GEORGES DE LA TOUR, Paris:Flammarion, 2012

記事中のQuestionへの答
石炭といわれています。この地方ロレーヌは石炭、岩塩、銅などの鉱物資源には恵まれていました。

オークション・ハウス Lempertzの競売広告

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コンスタブルの空と雲

2021年04月16日 | 絵のある部屋


Mark Evans, Constable’s Skies: Paintings and Sketches by John Constable, Victoria and Albert Museum/Thames & Hudson, 2018、cover


ジョン・コンスタブルの作品を見ていると、風景画の定義について改めて考えさせられる。この画家については、これまで、かなりの数の作品を見てきたつもりだが、コンスタブルの研究者でもなく、到底全ての作品や遺稿に接したわけではない。

一般に「風景」というと、空は背景で、中心を構成するのはその下に広がる山や森、野原、田園、町など地表に広がる部分と考えがちである。イギリス風景画に大きな影響を与えたティティアン(c.1485-1576)、サルヴァトール・ローザ(1615-1673)、クロード・ロラン (ca1600 - 1682)、ジョシュア・レイノルズ(1723 – 1792) の作品などを見ていると、その思いは格段に強まる。例えば、ロランの作品を見る限り、地上の光景には多大な努力が注がれているが、空の光景は概して平穏で背景の役割に徹しており、コンスタブルの雲のような多様さと動態は感じられない。

他方、コンスタブルの作品の中には空だけを描いたものもかなりある。画面で地表の占める部分の比率が10%程度の場合も極めて多い。コンスタブルの風景画と空の描写は分かちがたい。空がない風景画はないのだ。空が全体の9割近い作品もある、しばしば空だけという作品も多く、こうなると風景画というより、「気象画」「空絵」とでも呼ぶべき新たな範疇を設定した方が良いのではと思うほどだ。

コンスタブルの空の変化、気象に関する研究意欲と関心はきわめて並大抵ではないことは良く知られている。後世、それについての研究書、論文の数も数多く刊行されている。今回はその中から、筆者が最近興味を惹かれた一冊を題材にコンスタブルの世界を紹介してみたい。ここで紹介する作品は、著者の所属の関係もあって、Victoria and Albert Museum 所蔵のものが多いことをあらかじめ注意しておきたい。


Mark Evans, Constable’s Skies: Paintings and Sketches by John Constable, Victoria and Albert Museum/Thames & Hudson, 2018

ジョン・コンスタブルはイギリスの天候、気象についての偉大な画家の一人である。彼の空の描写はこの画家の風景画における必須の構成要素となっている。例えば有名なThe Hay Wain/ and /Salisbury Cathedral from the Meadowsに始まってHampstead Heathについての多数の雲の研究は、絶えず変化する空を前提にした上で展開する地上の世界につながっている。



空の研究に専念した背景
コンスタブルの作品研究の権威Mark Evansの上掲の著書Constable’s Skiesは、画家の生涯を通してイギリスの気象の描写とその魅力、陶酔とを結びつける。コンスタブルは気象日誌をつけ、記録は絶えることなく続けられ、その変化に魅せられてきた。

コンスタブルのこうした考えは、当初は製粉業者の息子(次男)としての環境から生まれ、職業知識として必要不可欠なものだった。天候状態の変化は、農業地帯における風車などの運用に重要な意味を持っていた。経験的にコンスタブルはすでに若い頃から雲の変化について該博な知識を持っていたと思われる。

空はその性質において光の源であり、全てを支配している」 とコンスタブルは述べているが、彼にとっての雲は、17世紀画家のラトゥールにとっての焔のような存在だったのかもしれない。雲なくして作品は成立しないのだ。


コンスタブルは、1821年に友人のジョン・フィッシャーJohn Fisher, Bishop of Salisburyに宛てた手紙で、空を構図の不可欠な部分と考えない風景画家は、制作にとって極めて重要な要素を活用していないことになると述べている。空が作品の基調でもなく、作品構図の標準あるいは情緒の主要な根源ともなっていない風景画家は、風景画にとって最も重要な要素のひとつを十分活用していないことになるとも記している。

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N.B.
コンスタブルが制作に際しての関心と考察は、当時の気象学の発展からも大きな影響を受けたと思われる。
1923年には気象学の月刊誌が創刊され、気象学の父といわれる科学者Luke Howard(1772-1864) 及び自然科学者 Thomas Forrester(1772-1860)が中心となり、気象学の発展を目指す人々に向けて開かれていた。会費は当時の通貨で年間2ギニー(1971年以降は1ギニー10.5ポンド)の前払いであった。コンスタブルは熱心な読者であった。

1821-1822年には、コンスタブルは自らの考えを実践する上で、’skying’ campaign に乗り出し、毎日変化する雲のある空 ’cloudy sky ’ のスケッチを行い、その時の時間や気象条件を詳細に記している。油彩でのスケッチは1850年まで続け、その後は水彩に切り替えている。

印象派の時代には、コンスタブルのスケッチは、’faithful and briliant’ とされ、1937年画家の没後100年祭 CENTENARY には「抽象画とシュールリアリズムの先駆け」との賛辞も寄せられた。

さらに、コンスタブルは自分の作品に価格付けをし、展示に際しての作品評価の資料としていたともいわれる(Evans p.10)。

オランダ画家からの影響
さらに、コンスタブルは当時の気象学の研究から大きな影響を受けたばかりでなく、17世紀のオランダ画家の作品からも影響を受けたと考えられる。

なかでも17世紀の著名なオランダ画家 Jacob van Ruisdael (1628/9-1682: ヤーコプ・ファン・ロイスダール、最近ではラウスダールと呼ばれることも多い) の作品からも影響を受けたようだ。コンスタブルは1836年6月9日の講演でこの点に言及している。

コンスタブルは、1936年のHampsteadでの講演で自分の観察結果を話す予定だったようだ。ライスデールの模写がほぼ完成に近づいた時、コンスタブルは作品を長年の同僚でもあった友人のジョン・ダンスローン John Dunthrone に見せていた。彼はコンスタブルの試みに深い理解を示していたようだ。しかし、数日後ダンスローンは突如急死してしまった。コンスタブルにとって大きな悲しみであった。

しかし、コンスタブルは、1837年の夜、予期せぬ死を迎えた。



JOHN CONSTABLE. /A WINTER LANDSCAPE WITH FIGURES ON A PATH, A FOOTBRIDGE AND WINDMILLS BEYOND (AFTER JACOB VAN RUISDAEL. 1832.
ジョン・コンスタブル『路上の人、歩道橋及び後方の水車がある冬の光景:』(Jacob van Ruisdaelの作品に倣って。1832)

コンスタブルは友人の死を深く嘆き、ライスデールの作品に倣っての上記作品の制作にさらに傾注することになった。彼はこの作品の背後に、次のように記している:
“Copied from the Original Picture/ by Ruisdael in the possession of Sir Robtt Peel, Btt by me / John Constable RA / at Hampstead Sep. 1832 / P.S. color (…) Dog added (…) only (…) Size of the Original (…) and Showed this Picture to Dear John Dunthrone Octr 30 1832 (…) this was the last time I (…) Poor J Dunthorne died on Friday (all Saints) the 2d of November. 1832-at 4 o clock in the afternoon Aged 34 years.”
(Evans, p.11 あえて、原文のまま)

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この光景は時の経過に関連している。冬は過ぎ春が来る。そして死者はそこで新生する。コンスタブルにとって、ライスデールの作品に倣ったとはいえ、この光景は1832年秋の深い心の悲しみを写す格好の題材だったのだろう。
 
本書はジョン・コンスタブルの作品、とりわけ空の雲の観察と描写に大きなエネルギーを注いだ画家の作品と生涯を知るに、きわめて適切で心温まる一冊である。

(以下:本書所収のコンスタブル作品から)





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隠れた才能を掘り起こす:コンスタブルを世に出した人々

2021年04月09日 | 絵のある部屋



横顔は
John Constable, Selfportrait 1806, pencil on paper,
Tate Gallery London

コロナ禍の下、多くの美術展や音楽会が中止になる中で、「コンスタブル展」(東京駅三菱1号館美術館)が開催されたのは、薄暗い闇の中に灯火が見えるようで大変うれしい思いがする。

この画家コンスタブル (1776-1837)については、このブログでも何度か記事に取り上げたことがあるが、西洋美術史に輝く巨匠のひとりであるだけに興味深い点が多々ある。在英中に画家の故郷を訪れたこともあり、好きな画家の一人である。

 コンスタブルについては、イギリスの国民的画家であるだけ、非常に多くの研究書が刊行されている。筆者もコンスタブル研究者ではないが、かなりの数を手にしてきた。その中で、第一にお勧めするのは画家コンスタブルの手紙に基本的に基づいた下記の伝記である。筆者はかつて在英中に英文原著を読んだことがあるが、今回は本棚にあった翻訳書で読んでみた。

C.R. レズリー著/ジョナサン・メイン編『コンスタブルの手紙:英国自然主義画家への追憶』(斉藤泰三訳) 彩流社, 1989年
 Memoirs of the Life of John Constable: Composed Chiefly of His Letters (Landmarks in Art History) by  Charles Robert Leslie, Text has been edited and the illustrations chosen and annotated by Jonathan Mayne,  Phaidon Press, 1951

通常の伝記と異なり、コンスタブルが知人・友人たと交わした書簡を基礎に、画家の生い立ちから国民的画家への人格形成の過程が見事に描かれている。読み物としても、大変読みやすくお勧めの一冊と言える。

 秘められた才能を見出したのは誰か
とりわけ筆者が関心を抱いたのは、この画家の才能を誰が見出したかというテーマである。ジョン・コンスタブルは、かつては東イングランド小村の粉挽き屋の息子であった。 それがどうして英国美術史に燦然と輝く大画家にまでになりえたのか。長らく教育・研究の世界に身を置いたことも影響してか、若い人たちの才能の発掘にはかなりの関心を抱いてきた。本ブログの柱の一つ、ジョルジュ・ト・ラ・トゥールについても同じことを記したこともある。

例えてみれば、磨けば光るダイヤモンド原石であることに最初に気づき、画家になることを勧めたのは誰であったかというテーマなのだが、簡単に記しておきたい。ある若者がいかに優れた才能を秘めていても、それに気づき、激励、支援をして世に送り出すにはかなり偶然や運も作用する。多くの場合、芸術的蓄積があっても、行方定まらない若者に秘められた才能を発掘する教養人や時代を見通せる才人、そして資金の支援ができるパトロンの存在が必要だ。

本書は19世紀初期のイギリス自然主義画家ジョン・コンスタブルの生涯と作品を、家族や友達からとの間に交信された手紙を通して語ったものである。

 今でこそ、西洋絵画史を飾る巨匠としての評価は揺るぎないが、コンスタブルの生涯は決して順風満帆なものではなかった。出自は地方の富裕な製粉業者の次男であったが、家業の後継者となるべきことを強制され、画家の道へ進むには多くの難題が立ちはだかった。

晩成の画家
52歳になってようやくロイヤル・アカデミーの正会員に推されたが、ほとんど同じ年齢のジョン;ターナーと比べても大きく立ち遅れた。イギリスではあまり作品も売れず、むしろフランスで人気があり、バルビゾン派に大きな影響を与えた。

イングランド東部サフォークのイースト・ベルゴルに生まれ育ったコンスタブルは、生涯を通してこの地の自然を風景画として描き続けた。

 幼い頃からの父親の反対、周囲の無理解、ラヴェナムの寄宿学校などでの教師のいじめなど画家への修業に踏み出すまでに多くの障壁があった。コンスタブル自身の悩み、煩悶、絶望感なども高まっていた。 

 裕福な製粉業者としての父親は自分の仕事を継がせたいと思っていたが、それが叶わないならば聖職者の道を歩ませたいと思っていた。画家は不安定でどうなるかわからない職業だった。17世紀ロレーヌの小さな町のパン屋の次男として生まれたジョルジュ・ド・ラ・トゥールのことが思い浮かぶ。現代においても、芸術家の道を歩むことには大きなリスクが立ちはだかることが多い。

ジョン・コンスタブルは、しばらくは家業の手伝いをし「ハンサムな粉挽き屋」と呼ばれていた。自画像を見ても、その点がうかがわれる。粉挽き屋にとって毎日の天候がどう変わるか、大きな関心事だった。仕事を通して身につけた気象変化に関する経験は後の画家としての人生に大きく役立ったことだろう。

John Constable by Daniel Gardner, 1796


家族の理解を取りつけるまで
父親は次第にジョンを後継ぎにすることは難しいと感じるようになったようだ。しかし、なかなか思い切れなかった。他方、母親は最後まで息子の味方であった。ジョンのために、ジョージ・ボーモント卿 に紹介する労をとってくれた。卿は、当時デダムに住んでいた母上のボーモント老夫人に会うためにしばしばこの地を訪れていた。そして、ジョンの模写した版画などを見て、画才があると見抜いていた。そして所蔵していた水彩画家ガーティンの作品などを見せ、荘重さと迫真性のある作品だから研究するように勧めたようだ。

クロード・ロランの作品に接する
さらにジョンはボーモント老夫人の邸宅で、ロレーヌ出身で風景画家の大家となったクロード・ロランの『ハガールと天使』Hagal and the angelという作品を見せてもらった。このことをコンスタブルは後年、自分の生涯における画期的な出来事として回想している。さらに、著名な画家とは言えないが、ミドルセックスの親戚の家で職業画家ジョン・トーマス・スミスにも紹介された。

ウエスト氏の励まし
コンスタブルの描いたフラットフォード製粉所の風景画がアカデミー展で落選した時、ロイヤル・アカデミー館長ウエスト氏は「君はまだ若いのだ。落胆してはいけない。きっと再び君の名前を耳にすることになるだろう。君はこの絵を描く前に、その自然をとても愛したに違いない。」(レズリー, p47)と激励している。実際にその通りになった。
            
コンスタブルの父親も、ジョンの画家への強い志望に一時は頑なであった心を緩め始めていた。人気があり、作品が売れる肖像画家になってくれるならばと思うようになる。製粉業の後継は三男に委ねようと思い始めていた。

ロイヤル・アカデミーの付属絵画学校でコンスタブルは、Gainsborough, Claude Lorrain, Peter Paul  Rubens, Annibale Carracci, Jacob van Ruisdael などのオールドマスターズの作品の模写などで習作を重ねた。さらに詩文や古典もかなり読んだようだ。

1803年頃までにコンスタブルは、風景画家として身を立てる決意を固め、英国内を旅行するなどして、制作を続けた。かくしてコンスタブルは風景画家として自立してゆくが、生活の糧を得るため、肖像画や農家の家々の描写にも手を染め、かなりの数の作品を残した。

マリア・ビックネルとの愛
1809年には多くの反対に抗して、幼な馴染みのマリア・ビックネル嬢 Maria Elizabeth Bicknell との愛を深め、周囲の家柄の違いなどの反対にもかかわらず、40歳でようやく結婚にこぎつけた。イースト・ベルゴートの教区司祭は、コンスタブルは家柄から見て不釣り合いだと考えていた。


Maria Bicknell, painted by Constable in 1816
Tate Britain

ジョンの母はまたしても息子の大変良き理解者だった。二人の在り方を暖かく見守った。マリアの父チャールス・ビックネルは、マリアが弁護士としての名家の後継者でなくなることに難色を示していた。それでも、愛の力で難関を越えたジョンとマリアはその後も愛情に溢れた生活を送ったとみられる。その現れは1816年にコンスタブルが描いた婦人像は、肖像画としても極めて美しい秀作である。マリアの父とジョンとの折り合いの悪さなども、結婚後はまもなく解消し、ビックネル氏はジョンを大変好きになっていった。

しかし、コンスタブルの生活は依然として苦労が続いた。義父ビックネル氏は、二人の結婚に乗り気でなかったが、2万ポンドに近い遺産を残してくれた。これは貧しい画家にとって大きな支えとなった。コンスタブルがロイヤルアカデミーの正会員に推される前に、1928年マリアは世を去っている。ジョンはさぞかし残念な思いだったろう。

さらに1832年には生涯の友であったフィッシャー副司教とダンゾーン・ジュニアを相次いで失った。この時期はコンスタブルにとって、息子ともども病に伏すなど多事多難であった。そして、コンスタブルは1837年の突然の死を迎えた。死因は不明であった。

没後に高まる評価
総じてコンスタブルの生涯は、存命中は必ずしもターナーのように華やかで恵まれたものではなかった。作品の評価も十分高いとはいえなかった。むしろその仕事、評価は画家の没後急速に高まっていった。

本書はジョン・コンスタブルというイギリス風景画の巨匠の生涯を単なる画家の形成を記した伝記という域にとどまらず、一人の人間の苦衷と努力の過程が丁寧に描かれ、きわめて優れた著作に仕上がっている。巻末に付された資料と丁寧な翻訳は、読むことを楽しくしてくれる。コロナ禍の中、静かに人生を考えるにお勧めの一冊である。


Flatford Mill c.1816, oil on canvas, Tate Britain
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