時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

潮の目変わるか、移民の流れ

2011年08月31日 | 移民政策を追って

 


移民の流れは変わったか

 日本は今、移民(外国人)労働者について、国民的レヴェルで真摯な議論ができる状況にない。福島第一原発、東日本大震災、超円高問題、世界が危惧する膨大な国家債務など、どれをとっても国家の屋台骨を揺るがすような重要問題が山積しているからだ。それでなくとも、日本はこれまで移民問題を国民的議論の対象とすることを極力避けてきた。しかし、ヒト(人)は、この地球を構成する最重要な資源(人的資源)であり、その動向は世界のあり方を定める。人類あっての地球なのだから。その中で、移民労働者はしばしばその行方を見定める先端指標の役割を果たしている。戦後最大の国難の時とはいえ、日本が世界に一定の影響力を持つ国として存在するかぎり、世界の移民の動向がいかなる状況にあるかは、把握しておかねばならない重要課題だ。  

  今年に入っても、アフリカ・中東での民主化抗争、ノルウエーでの惨劇、アフリカからの不法移民のEU圏流入、メキシコからアメリカへの不法移民、密貿易問題など、移民は世界のいたる所で問題の発火点としてジャーナリズムの前線に登場してきた。注目すべき点は、移民問題が政治、経済、文化、宗教などにリンクして、きわめて複雑になってきたことだ。

 一般にヒト、モノ、カネといわれる生産要素の中で、ヒトは自らの意志で独自の行動を起こすので、モノ、カネなどの移動と比較して、はるかに複雑な現象を呈する。その動向も読みがたいところがある。移民あるいは彼らにかかわるグループの政治・経済・文化、そして宗教などについての考えの差異から、しばしば党派的対立、偏執的行動なども生まれる。
 
 ノルウエーでの無差別テロは、そのひとつだった。こうした事件が起きると、受け入れ国は本能的ともいえる対応で、移民受け入れに制限的になり、人々の考えは保守化に傾く。こうした世界のヒトの動き、移民を生み出し、阻止している根源的問題について、多少なりと説得的議論をするとなれば、かなり多くの文献・根拠を視野に入れねばならない。


限界的移民労働者の典型
 最近の
The Economist が挙げている一例を取り上げてみよう。それによると、2000年代半ば、ポーランドからロンドンへ家事労働者(家政婦)として働きに来た女性がいた。当時、ほどほどに活況を呈していたロンドンでは、中産階級の家族は所得増加を目指して、競って働きに出たため、その後を支える家事労働者を必要としたのだ。彼女はそうした家庭を背後で支える家政婦として働きながら、英語学校へ通うだけの収入があった。

 
 ところが、その後の不況で所得は減少し、家政婦の収入だけでは足らず、駅のトイレの清掃をして僅かな金を稼いでいた。しかし、生活はさらに困窮化し、母国ポーランドで教師として働く姉が逆に不足分を仕送りするまでになる。しかし、それでも状況の改善は期待できず、彼女は
2010
年末にあきらめて帰国する。結局、イギリスでは低熟練の家政婦の仕事についただけで、母国にも仕事がないことを知りながらの帰国となる。

 この例は典型的な限界(マージナル)労働者の姿だ。出稼ぎ先国の経済活動の縁辺部門で、調整自由な労働力として本国と出稼ぎ先を行ったり来たりする。これは本人が勝手にとった行動で、送り出し国、受け入れ国の政府や企業などの関係者は責任がないとする単純な見方は、もはや今の世界では通用しない。

渦巻く新たな流れ 
 
他方、視点を変えて、彼女が出国するロンドンの空港では、上海の金融界で一旗揚げようと考える若いイギリス人、カナダのIT
産業で働こうと考える中国人技術者、テロ事件で世界を驚愕させたが、産油ブームで活況を呈するノルウエーへ行こうと考えるポルトガル人労働者など、新しいタイプのヒトの流れが渦巻いている。
移民という大河の流れは、新しく生まれた奔流で絶えず入れ替わっている。その変化は、ミクロ水準に下りるほど激しい。

 たとえば、伝統的な移民送り出し国であったアイルランドは、1989年以降、金融・土木建設産業の興隆で、アメリカなどから帰国する移民、ヨーロッパ諸国からの人材流入で、史上初めて流入が純増を記録するようになった。しかし、2009年以降、金融危機の悪化とともに再びアイルランドからの流出は増加し、昨年も移民フローでは純減が記録された。

 こうした流れを注視すると、現在は移民史におけるひとつの転換期に遭遇しているのではないかと思う点がある。急速な発展を続ける中国、インドなどの新興大国の反面で、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの先進国は、おしなべて厳しい苦境に直面している。先月の連邦債務問題の議論が示すように、超大国を誇ったアメリカも没落の道を進んでいる。

日本に加わった大きな重荷
 日本の立場は特別な面がある。深刻な経済停滞に加えて、東日本大震災、福島原発事故で、日本人が就きたがらない底辺部分の労働を支えてきた外国人
(労働者)が大挙帰国してしまった。総体として日本から多数の外国人が退去してしまった。他の先進国のように、移民労働者の帰国促進を図ったり、受け入れ制限的措置の導入に踏み切る以前に、外国人の方が自主的に逃避してしまったのだ。

 総じて、これまでの先進国は、急速に移民労働者受入に制限的になっている。典型的なイギリスを見てみよう。イギリスはEU域外からの労働者受入に上限”migration  cap” を設定した。キャメロン首相になって、不熟練労働者の受け入れはしない、受け入れる労働者には学力、職歴などでポイントを付して判定するポイント・システムを採用、学生ヴィザも以前より発行・運用が厳しくなった。

 最近のイギリスでは、新たに創出された雇用の半数以上が移民労働者によって占められているとの政府筋の発表をめぐり、賛否の議論が湧き上がった。特に経営者側にとっては、新たに生まれた雇用は、高い技能を持った移民労働者を意味することが多いことが、その背景にある。

 EU27カ国中23カ国の間には、パスポートなしの自由移動を認めるシェンゲン協定が存在するが、これについても実施面で制限を求める国が増加している。たとえば、デンマークのように犯罪防止と密輸対策の面から、国境管理を厳しくするという動きが出ている。その背後では、デンマーク国民党のような反移民的右翼政党の発言力強化も働いている。

 リーマンショック後の不況過程で、スペイン、デンマーク、日本などは母国へ帰国する意思を示した移民労働者に本国までの帰国費用を助成したが、効果は少なかった。スペインの場合、20104月までに11,400人の申し出しかなかった。情報の流通速度が飛躍的に高まった今日では、出稼ぎ先で帰国後の雇用状況までかなり把握できるようになり、帰国助成があっても簡単には帰国しないのだ。

 唯一、例外は日本だった。福島原発事故の放射能汚染に関わる情報は、驚くべき早さで在日外国人の間に伝わり、予想を超える外国人が急遽離日した。放射能の恐怖は、帰国助成という政策効果の比ではないという日本にとって予想外であり、そして悲しい効果をもたらした。

 放射能汚染の問題が存在するかぎり、日本の外国人を誘因する魅力は著しく低下し、その抑止効果はかなり長期にわたり継続するだろう。日本以外にも選択肢は多い。少子高齢化に伴い、将来にわたり日本人学生の増加が期待できない国内の多くの大学・大学院は、中国などアジアからの留学生増加に期待してきた。しかし、その期待は一部を除き、足下から崩れている。たとえば、大学院生は中国系がほとんどという大学院も多かっただけに、再構築は大変だろう。

拡大する中国
  
他方、オーストラリアの有名国立大学の責任者を務めるある友人は、一時は中国人留学生を学生不足対策の最重要因のひとつとして積極的に受け入れてきたが、今は学内に中国人学生があふれ、英語も話さないでキャンパス生活を送る学生まで現れ、対応に躍起となっている。短時日の間に、中国人の卒業生も急増し、この大学では北京での同窓会を人民大会堂で開催するほどになり、現実にその光景を目のあたりにした大学関係者は驚愕したようだ。

 世界最大の移民受け入れ国であるアメリカが移民問題で苦悩していることは、ブログでも再三記してきた。さらに書くべきことは余りに多い。オバマ大統領も「落ちた偶像」になりかかっている。かつてのあの生気に満ち、世界を魅了した演説も神通力を失った。難航した財政債務問題もあり、このままではアメリカも「日本病」になってしまうとの批評すらある。

 このように、移民の現状をグローバルな視点で俯瞰すると、2009年から世界全体の移民数は初めて純減したのではないかと推定されている。しかし、移民には移民先国でほぼ定住し、そこに生活の場を確率して動かない部分と、経済変動の緩衝材として流出入を繰り返す部分が併存している。すべてが砂のように流動する存在ではない。

 雇用環境の悪化に加えて、経済不振、テロの続発などで、人々は移動を控えるようになっているようだ。それが一時的なものか、かなり継続するものかは、判定にもう少し時を待たねばならない。しかし、人が移動しない世界は、停滞につながる。新しい考え、異なった考え、そして文化を持った人々が、共に活動することで、世界は活性化する。

 1ドル=360円時代の海外生活を体験した者として、現在は隔世の感に堪えないが、この円高が大きく円安に振れるとは当面考えられない。企業の海外移転、直接投資は不可避的に進行するだろう。流出する日本の雇用機会をなにで代替し、支えて行くか、次の世代にとって考えねばならない国民的課題だ。中央政府、首都機能のかなりの部分を、東北被災地域に移転し、復興活動を助け、雇用機会を創出し、かつ日本の国家的安定化を図るなど、大胆な構想とその具体化が必要に思えるが、日々伝えられる現実はあまりに遅遅としており、革新的試みが少なすぎる。復興構想会議の内容は、いかに具体化されているのだろうか。国民にはほとんど見えていない。

 

 

Reference
“Let them come”,  “Moving out, on and back,” The Economist August 27th 2011

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見ているだけで涼しくなる方法

2011年08月22日 | 回想のアメリカ

 
エンパイアステート・ビルの建設現場で働く労働者。右下後方に見えるのは、クライスラービル。
Photo: Lewis W. Hein



 3.11の地震が建設途上の東京スカイタワーを襲った時のTV映像を見た。現場におられた方は、文字通り生きた心地もなかったようだ。特に、タワー最上部におられた方々の恐怖に引きつった顔が迫真力をもって伝わってきた。幸い大きな問題はなく沈静化し、図らずもタワーの耐震テストになったと説明があったが、東京直下型の大地震(M9クラス)なども想定内なのだろうか。高所恐怖症ではないが、東京スカイタワーが完成しても、自分から上ろうというつもりはまったくない。

 ところで、今年は9.11同時多発テロ勃発後10年になるが、それまでニューヨークで最高の高さを誇っていたワールド・タワー・センターが崩壊してしまったため、次の建造物が完成するまでの間、ニューヨークの最高のビルは、つかの間とはいえ、あのエンパイアステートビルがその座を取り戻している。

 上に掲げた写真は、1930年、エンパイアステート・ビル建設途上のある光景を移した記録の一枚である。撮影者は、あの1930年代のアメリカのさまざまな職場の写真記録を残したルイス・ハイン (Lewis W. HIne)だ。

 エンパイアステートビルは、名門ホテル、
ウオールドルフ・アストリア・ホテルが移転した跡地に1930年に着工、当時としては驚異的に短い年月(公称建設期間:1929-30年)で竣工した(最高部までは443m、最上階までは373m)。その偉容は、アメリカの威信を示すシンボルとして、世界の注目を集めた。その高さを決めるに際して、ひとつの目標となったのは、すでにマンハッタンに建設されていたクライスラービル(写真背景に見える)の高さを凌駕することだった。筆者は今でもクライスラービルのアールデコ風の内外装が好きなのだが、完成してみると、エンパイアステートもさすがに独自の風格を誇示していた。

 ところで、エンパイアステートビルでは、多くの労働者が地上はるか天空の職場で、さまざまな作業に従事した。この労働者をよく見てほしい。彼らの多くは行動が制限されるからと命綱もつけずに、高所の鉄骨の上をこともなげに歩き、作業していた。職場の安全基準の法的整備が不十分であった時代である。高所恐怖症でなくとも、見ているだけで、背筋が寒くなってきそうだ。


スカイボーイと呼ばれる大変危険な仕事に従事する若い労働者
Photo. Lewis W. Hein
 
 エンパイアステートビルの建設には、多数の移民労働者とともに、あのモホーク族のインティアン労働者が働いた。彼らの一部は農業に従事していたが、ほとんどは都市部へ移住し、主に建設労働者となって、産業勃興期のアメリカを支えた。クライスラー・ビル、エンパイアステート・ビル、ワールド・トレードセンター、ジョージ・ワシントン橋、サンフランシスコのゴールデンゲート橋などの工事に際しても、モホーク族労働者の貢献は大きかった。9.11のビル崩壊後の残骸撤去、遺体収容などにも多数のモホーク族労働者が従事した。
 
 彼らは「スカイウオーカー」と呼ばれ、高所でも恐怖を感じることがなく、普通の人ではとても歩けないような梁の上なども、地上と同様に歩けるのだと伝説的に語られてきた。しかし、その後のインタビューなどによると、彼らも高所の作業は大変怖かったと語っている。

 移民で形成されたアメリカでは、早く新大陸に到着した移民ほど、概して社会的に上層部を確保・形成したといわれてきた。皮肉なことに、先住民族であるネイティブ・アメリカンが最も差別されて、最下層へ追いやられてきた。

 アングロサクソン系白人優位となったアメリカで、植民地時代以前から迫害されてきた先住民族、ネイティブ・アメリカンズは、高所作業や危険な作業など、誰もやりたがらない残された仕事につかざるをえなかったのだろう。実際、建設労働者には後から新大陸へ到着したアイルランド系などの移民労働者が多かったが、いずれも大変な苦労を重ね、アメリカ社会での地位を築いていった。

 歴史を正しく理解するにはある程度の熟成期間が必要になる。世界的大恐慌期の1930年代は、現代アメリカを理解する上で、きわめて重要な意味を持っている。多くの興味深い問題が、解明されることなく潜んでいるように思われる。

Reference
Lewis W. Hine. Men at Work. New York: Dover Press, 1997.

 下記の小説は、エンパイアステートビル建設をめぐるアイルランド系労働者などの時代環境を活写している。
Thomas Kelly. Empire Rising. New York: Picador, 2005, pp.390.

 

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過ぎゆく日々への思い

2011年08月15日 | 絵のある部屋

  

Éduard Manet
The Boy with Soap Bubbles
1968/69
etching and aquatint on green paper
plate 25.2 x 21.4cm on sheet 40.2 x 25.7cm
Andrew W. Mellon Fund
1977.12.13



 酷熱の日射しが戻ってきた一日、暑さ逃れに美術館へ出かける。国立新美術館『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展;印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション』と題する展覧会だ。印象派の絵画は、とりわけ好きでも嫌いでもない。美術に関連する仕事に誘われた時もあり、かなりの数の作品に出会ってきた。ワシントン・ナショナル・ギャラリーも、ごひいきの美術館のひとつでもあった。この地に住む友人・知人を訪ねるたびに、ほぼかならず足を運んだ。その意味で、今回展示される作品には、すでにご対面済みのものが多かった。

 今回の展示のように特定の画家やスクールの企画展ではなく、適宜見つくろいましたという一般向けの展覧会は、好みではない。展示作品も玉石混淆で、見た後の印象も薄い。集客数などの不純な動機が見え隠れするからかもしれない。見たいと思う作品は来てくれず、いくつか好きな作品に対面できたなという程度になってしまう。それでも、酷暑の中で体力も消耗し、思考力も薄れるよりは、節電とやらでいつもほど爽やかではない会場で、作品を見ていた方がはるかにましだろうと思って出かけてしまう。

 この国立新美術館、建物だけは大きいが、なんとなく軽薄な感じがする。所蔵品が少なく、歴史が短いこともあって、大型興業施設という印象だ。今後の時間がどれだけ国立の名にふさわしい重みを増してくれるか。これまでに何度か来ているが、今のところごひいきの美術館になってはいない。 

 とはいっても、見慣れている17世紀絵画と比較すると、印象派の作品は、概して色彩が明るく爽やかな感じを受けるものが多く、最近のような陰鬱な日々には、息抜きになるような思いもする。
 
 印象派以後の絵画は、誤解を恐れずにいえば、額縁の中だけが勝負だ。画題、色彩、表現などが、見る人にどう受け入れられるかで評価が定まる。歴史やアトリビュート、来歴などは特に考えないでよい。見た感じがよいか悪いかが、作品の評価に大きく関わる。いってみれば見た目がすべてだ。

 今回もいくつかの名作があった。ほとんどはここで改めてとりあげるまでもない良く知られた作品である。ここで改めて、それらに言及することはしない。今回展示されている作品の中で、小品でほとんど人々の注意を集めていなかったが、なんとなく惹かれた作品が1,2あった。上掲のマネのエッチングがそのひとつだ。これは、同じ画家の同じ構図の油彩作品(グルベンキアン美術館、リスボン所蔵)を忠実に反転したエッチングだ。所蔵者も違うこともあり、今回、油彩(下掲)は展示されていない。画題は、少年がシャボン玉を吹いている。ただ、それだけのことといえば、その通りである。



Éduard Manet

A boy blowing bubbles
oil painting, canvas  100.5 x 81.4cm
c.1867
Museu Calouste Gulbenkian, Lisbon Portugal

  マネの死後の1890年にこの版画が出版されるまで、この作品の試し刷りも発見されず、マネがこの版画を制作した意図はあきらかではない。もしかすると、推測されるように、自身の油彩画に従って一連のエッチング集を出版したいというマネのもくろみがあったのかもしれない。この作品、マネが1867年4月初旬におそらくパリのラペルリエの売り立てで見た、1745年頃作のジャン=バティスト・シャルダンの《シャボン玉》(下掲)に発想を得たともいわれるが、あくまで後世の推測だ。印象も大分異なる。このシャルダンの作品にも、少し違ったいくつかのヴァージョンがある。


Jean Siméon Chardin (French, 1699–1779)
TitleSoap Bubbles
ca. 1733–34
Oil on canvas
24 x 24 7/8 in. (61 x 63.2 cm)
Metropolitan Museum of Art
Line Wentworth Fund, 1949


   シャボン玉の麦わらはそのはかなさから、ヴァニタス(人生のむなしさ)を寓意しているともいわれるが、 画家がそこまで意識していたかは分からない。見る者としては、純粋に構図や雰囲気の美しさにひかれる。ただ、作品を見ている間に、またごひいきのエル・グレコや ジョルジュ・ド・ラトゥールの「火種を吹く少年」のことが思い浮かんだ。はかなく消えそうになりそうな火だねを、吹いてなんとか保とうとしている少年たちの姿に、シャボン玉とつながるなにかを感じていた。不安が覆う時代の空気が連想を呼ぶのだろうか。


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フェルメールの帽子(7):見果てぬ夢の果て

2011年08月05日 | フェルメールの本棚


北米5大湖・セントローレンス地域

 

 このブログ記事のいずれも、訪れてくださるほとんどの方には、およそ縁のないテーマだろう。きわめて私的な回想と結びついている。糸口が見つからない繭玉のように、一見混沌とはしているが、本人のどこかでは細い記憶の筋道としてしっかりとつながっている。

 若い頃、修業の時を過ごした北米東北部には、いたるところにヨーロッパから持ち込まれたとは思えない、不思議な地名が数多く目についた。たとえば、オスウェゴ、スケナクタディ、サスケハナ、タドウサック
、チコタミ、カユガ、アディロンダックなど枚挙にいとまがないほどだ。しばらくして、それらがこの地の先住民族(かつてはアメリカ・インディアンとも呼ばれていたが、近年はNative Americanが好まれる)であった人たちに、ゆかりのある地名であることを聞き知った。いつか余裕ができたら、その背景をより深く知りたいと思ってはいたが、忙しさにとりまぎれ果たせなかった。図らずも、ここでとりあげているトピックスは、そのある部分に関わっている。

 新大陸といっても、それはこの地へ、探検家、商人、鉱山師、兵士などさまざまな形で進入してきた外来者にとってのことであった。彼らが出会った先住者たちは侵入者によって次第に片隅に追いやられ、しばしば絶滅し、忘れられていった。侵入者たちが確たる地歩を築いた後に、こうした消えていった民族の在りし日の姿を再現しようとの試みがなされてきたが、時すでに遅く、多くのことが失われていた。先住民族には、彼らなりの壮大な活動、固有の文化の歴史があったのだが、今残るのはそのわずかな部分にしかすぎない。われわれが習う世界史が、いかに征服者の偏狭な視点からの理解に基づいているかを知らされる。 

実らなかったシャンプランの夢 
 
他方、ヨーロッパから大西洋を渡り、到達した新大陸をさらに西へ西へと向かうと、太平洋、そしてあの中国に到達できると探考えた探検家シャンプランの夢は、実ることはなかった。このフランス人は森を抜け、カヌーをあやつり、いつかの日か中国(当時の明朝)に行くことが夢であった。それが果たせなかったことは、シャンプランにとっては、大きな心残りだったろう。しかし、彼とその仲間たちがなしとげたことは、現代人が失っている大きな冒険心に富み、気宇壮大な試みだった。自ら記した探検記も小説などよりはるかに興味深い。

 そして、シャンプラン一行を送り出したフランスは、ルイ13世そしてリシュリューが権勢をふるった時代であった。彼らの世界像が、いかなるものであったのかを想像することは、今日きわめて興味深い。憂鬱な現実、酷暑の日々を忘れさせてくれる内容を含んでいる。

  さらに、やや脇道に逸れるが、今回の東北大震災をほうふつとさせる場所が、この北東カナダ、セントローレンス川流域にある。北米では比較的珍しい地震帯が何本か存在している。モントリオール、オタワ、コーンウオールを含む西ケベックの一帯は、そのひとつだ。1732年の地震では、モントリオールの古いビル街に大きな損傷が発生した。また、1944年の地震では、オンタリオからニューヨークにいたるセントローレンス川流域の両岸地域で、煙突や古い構造物が大きく損傷する事態が発生した。セントローレンス川流域でケベック下流を旅していると、そうした地震で被害を受けた町や村落を記念する墓地や記念碑に出会う。

 

1663年、この地Charlevoisで起きた大地震の被災者記念碑。大きな地滑りが発生し、Les Eboulements(地滑りの意)と名がつけられた村もある。

 

 熾烈な領土争い
 シャンプランの探検の過程では、さまざまなことが起きた。シャンプランの抱いた夢とは全く異なる、きわめて多くの出来事があった。とりわけ、北米大陸での領土と交易を争う国家間の争いは、熾烈なものだった。フランス、イギリス、オランダなどが、自国の威信をかけて、この新領土に橋頭堡を築こうとしていた。そして、そこに先住民たちの争いが加わり、殺伐たる光景が展開していた。その実態は歴史上、格段に残酷なものであったようだ。その状況はビーバー戦争の名で、今日に伝わっている。シャンプランの一行がセントローレンス川、タドウサックに到着した頃には、先住民間の争いも激化していた。このブログで記したように、シャンプランはたちまちその戦闘に巻き込まれた。そして、互いに利用し、利用され、ついには最後の戦いで自らも負傷する経験までしている。

 フランスの場合、1534年探検家ジャック・カルティエがガスペ半島に十字架を立て、国王フランソワ1世の領土であることを宣言した時から、1763年のパリ条約でスペイン、フランスに委譲するまでヌーヴェル・フランスの名で知られる領土として維持した。その盛期ともいえる1712年頃(ユトレヒト条約の前)でみると、フランス領は東はニューファンドランド島から西はロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のニューメキシコまでの広大な領域をカバーしていた。その後、領土はカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランドおよびルイジアナの5植民地に分割された。

 フランスに限ったことではないが、こうした植民・交易活動は、北米、とりわけ東北部の森林地帯に住んでいた先住民の生活基盤を壊滅ともいうべき事態へと追いやった。一時は隆盛を見せた毛皮交易も、乱獲によってビーヴァーやラッコなどの激減を招いた。さらに「ビーヴァー戦争」として知られるフランスの植民地軍と先住民イロコイ族の間の戦争は、部族間の激しい戦闘へと波及した。

新大陸へ持ち込まれた災厄
 残虐で大規模な殺戮もさることながら、ヨーロッパから移住民や兵士が持ち込んだ感染症、悪疫も先住民を危機に陥れた大きな原因となった。特に被害が甚大だったのは、ヒューロン族であり、1630-40年代にかけて猛威をふるい、1640年頃の天然痘は当初25,000人はいたといわれる住民を3分の1にまで減少させてしまった。30年戦争当時のロレーヌをなにやら思い起こさせる。

 ヒューロン族の中には、こうした危機からなんとか逃れたいと、キリスト教宣教師の教えに走った者もいたが、事態を改善するにはいたらなかった。とりわけ、イロコイ族との勢力争いを反転、有利に展開することはできなかった。1641年には、フランス人は先住民には銃を販売しないという考えを改め、改宗者だけに銃の販売をすることに決めたが、勢力関係の反転にはいたらなかった(Brooks 51)。

 最も苦難を経験したヒューロン族は1649-50年の冬の飢饉も加わって多数の同胞を失った。わずかに生き残った部族はヒューロン湖の南端の小さな島クリスチャン・アイランドに逃れ、暮らしたらしい。

 フェルメールの作品に描かれたビーヴァー・ハットが、オランダの下士官の手に届くまでは、実に多くのことが舞台裏で展開していた。後年、大航海時代といわれる、この時代、探検家の夢と野望が世界を広げ、地理学的にも世界周航と交易の拡大で、グローバル化の曙が訪れる時代である。グローバル化とは、世界の各地域に分散している市場が世界的規模で統合される過程と理解するならば、今日に続くその展開のプロセスを新しい視角から見直すことは、きわめて興味深いことになる。

 ヨーロッパに始まる世界周航の試みは、ジャック・カルティエやシャンプランの航海以前に、マゼランなどによって成し遂げられていた。ポルトガル、スペイン、オランダなどは、東を目指して中国に達した。シャンプランの目指した西回りで中国へ達する航路が実現するのは、はるか後のことである。(続く)



 スペイン王カルロス一世の援助を受けたマゼランが、1519年8月にセビリャから出発し、1520年10月に南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して、太平洋を横断し、グアム島、フィリピン諸島などを経て、1522年にセビリャに帰港した。マゼランはフィリピンで住民との争いで死亡した。出発当時は265名の乗組員が5隻に乗船しての試みであったが、部下エルカーノが率いるビクトリア号1隻のみが帰港しえた。帰り得たのはわずかに18名だった。


 

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晩夏を迎えて

2011年08月01日 | 特別記事

 晩夏

 今年はいつになく多くの人たちとの別れの時となった。知人・友人、そして人生の指南役でもあった人々が、突如として世を去っていった。

 まだ夏はこれからというのに。

 節電とやらで、酷熱の夏を覚悟しているが、舗道のアスファルトを溶かすような暑い日射しの日は少ない。もう秋のような風が吹いている。原発、地震の恐怖は、人々の心の底深く根づいてしまった。余震は絶えることなく続いている。中世ならば、人は末世の到来と思うかもしれない。 

 すでにかなり早い時期から恩師ともいうべき人たちを失ってきただけに、ひとりで歩くことには慣れているつもりだ。しかし、寂寞の感は容赦なく忍び込んでくる。これが人生なのだ。

 眼前から去ってゆかれた方たちは、それぞれ素晴らしい生を生き、ひとりの人間として毅然として旅立ってゆかれた。自分にもその時が近づいていることは、分かっているのだが、どんなことになるのか。今まで通り、ゆっくり歩いていくしかない。

 

 

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