時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

はるかにサスケハナ川を望んで:3.11の源流

2013年02月28日 | 特別トピックス

 

 

 早くも3.11が巡ってくる。われわれはこの間なにをしていたのだろうか。福島には少なからぬ縁がある自分の無力さにも心が痛む。折しも、アメリカのTVがスリーマイル・アイランドの原発事故後、まもなく34年が経過することを報じていた。この年、1979年の3月、この原発の加圧水型炉で、炉心の半ばが溶融し、放射能が外部へ漏出する大事故が発生した。この事故は人災だったが、発生した時期は福島同様に3月だった。

 福島第一原発はもちろんだが、この世界を震撼させたスリーマイル原発も今もって廃炉にはほど遠い状況だ。いつになれば安心した状況になるのか、両者共に専門家でもよく分からないままに、気の遠くなるような年月を待たねばならないのだ。
スリーマイル原発のことを考える時には、必ずサスケハナ川 Susquehanna river のことが思い浮かぶ。この原発はアメリカ東部ペンシルヴァニア州ハリスバーグ市を流れるサスケハナ川にあるスリーマイル島(中州)に建設されていた。

 サスケハナ川はアメリカ大陸の北東部を流れる大河で、流域はニューヨーク、ペンシルヴァニア、メリーランドの3州にまたがっている。水源はニューヨーク州中東部のオチゴ湖とされ、その後下図のように大小の蛇行を繰り返しながら、最終的にはメリーランド州北東部、大西洋のチェサピーク湾に注ぐ。サスケハナの名前は、先住民族サスケハナ族(アルゴンキン語族)の言語によると
、「一マイルの幅、一フィートの深さ」あるいは「泥まみれの流れ」というような意味だったらしい。ちなみに、1853年7月、ペリー提督来航時の提督の旗艦(蒸気フリゲート艦)の船名も「サスケハナ」であった。




サスケハナ川の流域。水源のある上部一帯がニューヨーク州、左隅はオンタリオ湖。中央部がペンシルヴァニア州。右下がチェサピーク湾。

 この川はたとえば、ペンシルバニア炭田の石炭を運ぶなど、古来アメリカの北と南を結ぶ重要な河川であったが、急流が多く途中で船が転覆するなどの事故も大変多かったようだ。管理人はかつてペンシルヴァニア州スクラントン近くの広大な露天掘り炭鉱を見学したことがあった。とても日本の炭鉱などが束になっても太刀打ちできないと思ったほどの迫力だった。しかし、これもエネルギー革命の進行とともに、急速に衰退していった。色々な事件があったのだが、話を進めるために、省略せざるをえない。


 管理人がこの川に関心を抱いたのは、まだ若く好奇心が強かった滞米中に、しばしばこの流域を通っていた経験があることによる。ニューヨーク州北東部にあった大学からニューヨーク市やニュージャージー州の親友の家に行くには、途中、この流域を通るのが最短だった。いつも、スリーマイル島の原発の巨大な冷却塔を眺めながら走っていた。昼も夜も昭明で照らし出され、冷却塔からは水蒸気が白い煙のように、もうもうと立ちのぼっていた。

 この大発電所が後年、世界を震撼させた大事故を起こすとは夢にも思わなかった。事故発生後、しばらくして、訪米の旅の途上で、現地を訪れたが、厳重な警戒と外側からはなにが起きたのかまったく知ることができないことに気づかされた。福島原発のように誰が見ても破滅的な光景に接しないかぎり、原子炉の内部でなにが起きているかは、少数の専門家以外は、外からはまったくわからないのだ。

 サスケハナ川には、さまざまな思い出がつきまとった。野球の大好きな友人が近くのクーパーズ・タウン(野球の殿堂があることで有名)へ連れて行ってくれた時もこの川のほとりで休んだ。

社会実験の舞台 
 
さらに、興味深いことがある。ニューヨーク州北部、ペンシルヴァニア州はさまざまな社会実験が行われた興味深い土地であった。旧大陸からアメリカへ逃れたプロテスタントの中には、この地に住み着いた人たちも多かった。クエーカーなどはよく知られている。アーミッシュの人たちも有名だ(このブログにも記したことがある)。よく知られた宗教運動ではセブンスデー・アドヴェンチスト教会と末日聖徒イエス・キリスト教会のことをご存知の方もおられよう。日曜学校と孤児院の設立、テンペランス集団(アルコール消費の廃止)、反奴隷制団体、女性の政治的権利獲得を目指す運動などが、19世紀初めから中頃にかけて、活発に活動した。筆者の友人が手助けしていたアルコール中毒者の矯正施設などは、今日でも存在している。

 Upstate New York といわれる美しい森と湖や川に恵まれた地域は、南北戦争前から、アメリカにおけるさまざまな先進的・社会的実験の温床のようなところだった。逃亡奴隷の保護活動、そしてさまざまな婦人の権利向上の試みも見られた。1848年にはセネカ・フォールズで最初の婦人参政権(woman'suffrage)の集まりがあった。イギリス、ヴィクトリア朝の社会を思い起こしていただきたい。

 さらに、興味深いことは、この地域のオナイダやスカニアトレスなどで、ユートピア社会の試みが行われ、大きな注目を集めた。英文学の研究者などの間ではかなり有名な話なのだが、イギリスの著名な文学者・詩人のコールリッジとサウジーが、1974年、このサスケハナ川の近くにパンティソクラシー(Panthisocracy: ギリシャ語が語源。すべてにとって平等な政府に起因する平等社会)といわれる一種のユートピア社会の建設を「サスケハナ計画」の名の下に構想したことだ。しかし、1975年頃までにサウジーが計画の実行可能性に疑問を抱き、合意が壊れ、計画は挫折してしまう。サスケハナ河畔の広大な土地にユートピア社会が実現していたら、どんなことになったろう。世界中でさまざまなユートピア計画が構想され、あるものは実現したが、多くは消滅してしまった。このサスケハナ計画と発案者については、もっと書くべきなのだが、今はただそうした構想があったということしか記す時間がない。

「サスケハナ計画」への飛翔
 管理人は世界で試みられた同様なユートピア計画にはかなり長い間、関心を抱いてきたが、多忙にまぎれて十分に調べることが出来ずにいた。先日、ふとしたことから著名な英文学者だった由良君美氏(1929-1990)の著書『椿説泰西浪曼派文学談義』[青土社、1972年)を手にすることになり、あっと驚くことになった。なんと、「サスケハナ計画」なる一章が含まれているのだ。惜しむらくは、談論風発であった氏の作品らしく、章の途中で話が他へ飛んでしまっている。

 この著者には遠くなった記憶だが、かなり明瞭に網膜に残る一齣がある。ふとしたことで管理人の恩師であったドイツ文学のN先生と著者の由良先生が座談をされる機会に陪席させていただいたことがあった。お二人の先生は30歳代半ばであったと思う。まだ学生であった筆者は恐れ多く、お二人の談論風発、とどまることを知らない議論の展開にひたすら驚くばかりだった。場所は今はもうなくなってしまった東京渋谷駅に近接した『ジャーマン・ベーカリー』という店であったことまで覚えている。大変残念なことは、お二人とも若くして世を去られてしまったことだ。

 「サスケハナ計画」の話は残念ながら、その時には出なかった。ひとつ覚えているのは、学問の世界の議論に、境界は百害あって一利なしというお話だった。われわれはともすれば、「専門」という人為的な壁を作りがちな欠陥に気づかされた。管理人がアメリカへ行くことを考え出したのは、この頃であったかもしれない。さまざまなことが頭の中をかけめぐっていた時期であった。当時の日本ではイデオロギー論争がたけなわで、どちらの側につくか、そして専門領域はなにかという壁が厚く、息苦しくなってきていた。今、こんな変なブログを書いている背景には、この時代の影響が強く残っているような気がしている。

  「サスケハナ計画」、そしてスリーマイル島の原発事故のことを思うと、福島の地を50年後には世界の人々に希望を与えることができるいわばユートピアのような地にするような雄大な計画は、構想できないのだろうか。言葉の意味に近い理想的な社会、理想郷は地球上どこにも存在しない。しかし、まさにほとんど壊滅に瀕した地を豊かに花が咲き、人間らしい生活の場に戻すための知恵や手段は、それがたとえユートピアにはほど遠いものであったとしても、かぎりなくあるはずだ。復興のテーマソングだけに終わらせてはならないと思う。たとえていえば、多くの夢と可能性に溢れた ”FUKUSHIMA-Utopia Plan"
を世界中から募集できないだろうか。人々が故郷を失い、年を追うごとに増えるばかりで減ることのない汚染された水のタンクや汚染土の山など、誰も見たくないはずなのだから。

 

 

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余はいかなる王なりしか:リチャード3世の真実

2013年02月24日 | 午後のティールーム

 



復元されたリチャードIIIの顔
(c)The Richard III Society


  リチャードIII世の遺体が発見され、さらにDNA鑑定で、遺骨が本物であることが確認されたニュースは、イギリスを中心としてヨーロッパでは大きな注目を集めた。しかし、日本ではニュースメディアにもほとんど取り上げられていない。掲載されていても、短い記事にすぎない。管理人の目に触れたかぎりで、少し大きな記事といえば去る2月23日の『日本経済新聞』がWorld Watchなるタイトルで取り上げていた。しかし、主たる目的は英語学習者用の記事だ。記事のタイトルは、Richard III's face reconstructed 「リチャードIII世の顔は・・・」となっている。

 前回記事としてとりあげたのだが、管理人から見ると、この記事に関心を抱いて呼んだ読者がどのくらいただろうかという疑問を持つ。周辺の人々に聞いてみても、リチャードIII世について知る人は少ない。この王のことを世界に知らしめた、シェークスピアの作品を読んだことのある人々自体がきわめて少ないのだ

 しかし、イギリス人にとっては知らない人はない著名な王である。国民的作家、詩人、劇作家であるウイリアム・シェークスピアの代表作の一つでもある以上、そのイメージは生活の中に深くしみ込んでいる。日本人にとって、シェークスピアの作品を知らなくても、日々の生活にはなんの関係もないと思われる人も多いだろう。管理人もそのことは否定しない。しかし、イギリスにしばらく暮らし、多少なりとアカデミックな世界の一端を経験してみると、シェークスピアはさまざまな形で彼らの思考や人生観を形作るに深く関わっていることに気づく。日常の会話で使われる短いフレーズが、シェークスピアに由来していることを知らされることはしばしばある。

 現代の日常の生活には、関係がないから知らなくても支障がないと思われる人も居られよう。しかし、グローバル化し、小さくなった世界に生きる現代人、とりわけ若い人たちにとって、思わぬことが人生に深みをもたらしたり、新たな世界が見えてくるきっかけになることを記しておきたい。管理人の人生でも、こうしたことを知っているか否かが、思わぬ交友や理解を広げることが度々あった。


 リチャードIII世は、1452年に生まれ、1485年に非業の死をとげた王である。ヨーク朝最後のイングランド王だが、在位は2年余りであった。シェークスピアがこの史劇を執筆、初演したのは1592年と伝えられているから、王の死後ほとんど1世紀余りが経過している。その間に、リチャードIII世については多くのことが語られ、伝承されてきたに違いない。毀誉褒貶ただならぬ王であった。シェークスピアは王位を手にするためには、兄弟、息子を含めて多くの身内の人間を殺害した、極悪非道の人物として描いている。

 しかし、この王はそれほど悪辣、極道、権力のためには手段を選ばない王だったのだろうか。シェークスピア劇を演じる俳優にとっては、ハムレットと並んで一度は演じたい究極の役といわれてきた。リチャードは残忍、冷酷、醜悪不遜、マキャヴェリズムの権化のような人物とされており、それが俳優を志す人々にとっては自らの演技の世界を広げる魅力なのだろう。

 薔薇戦争といわれる30年近い戦争を勝ち抜き王位についたヨーク家のエドワードIV世。そしてその弟である、グロスター公リチャードは虎視眈々と王位を狙い、次々と優位な競争者たちを殺害、破滅させ、ついにリチャードIII世として王座を手中にする。

 しかし、造反した貴族たちがヘンリーV世の孫リッチモンド伯ヘンリー・チューダーの下に結集し、反旗を翻す。そして、リッチモンドとリチャードの軍隊は、ボズワースの平原で激しく戦い、リチャードは壮絶な死をとげる。

 しかし、このストーリーの真実性に疑問を抱く人たちもいた。とりわけ、グロスター家の関係者にとっては、心中収まらないことも多かったのだろう。

 1924年アマチュアの歴史家でリヴァプールで外科医を開業していたSaxon Burton と友人たちが、The Richard III Societyなる小さな協会を設立する。彼らは皆アマチュアの歴史家であった。彼らは世の中で当然とされてきたこの王の生涯に疑問を抱き、もうすこし公平な観点から、この悪名高い王を見直してみたいと調査や研究を続けていた。

  リチャードIII世について考え直す転機はいくつか訪れた。なかでも1950年代には、王の生涯にかかわるジョセフィーヌ・テイ Josephine Tey なる女流作家による『時の娘』 The Daughter of Timeと題する探偵・犯罪小説が話題を呼んだ。さらに、名優ローレンス・オリヴィエ主演の映画化、P.M.Kendallによる王への同情的な伝記も刊行された。メーキャップされたオリヴィエの容貌は、ハムレットと異なり、かなり強面(こわもて)の人物に見える。



 注目すべきは、このThe Richard III Societyの働きだ。王の最後の戦場となった ボズワース Bosworthの戦場に近いLeicestershireのレスター大学の研究ティームなどと協同して20年近くにわたり、最後の戦闘の跡などを追跡調査してきた。実際の戦いについての伝承はかなりはっきりしており、1485年8月7日、Bosworthの戦いで、王は身内の裏切りのため、フランスから上陸したヘンリー・テューダーの軍に敗れ、戦死した。かくして、前回記したように、リチャード・パンタジネットは、戦場で死んだイングランド最後の王として記憶されることになった。

 そして、これも前回記したが、ついに昨年、8月、記録された埋葬場所と一致するレスター市中心部の駐車場の地下から遺骨が発見された。

 その後の興味深い展開として、頭蓋骨の骨格から生前の王の容貌を復元する試みが行われた。その結果は予想を裏切り?、かなり温容な容貌に見える。これまで悪名高かった王への同情、温情が働いているとの指摘もある。”Good Richard”と呼ぶべきだとの提唱も見られるほどだ。歴史の真実とはいかなるものか。この一人の王に対する時代の毀誉褒貶の変化は、決して過去の500年ほど前の人物の問題に限ったことではない。一般に、本人が生きていた時代の評価は、後年かなり大きく変化することは、政治家たちの例に見るまでもない。数世紀後にも、この地球が存在するとしたら、現代人への評価はいかなるものになっているだろうか。 


 


このたびのRichard IIIに関する新たな評価についての論評は数多いが、The Richard III SocietyのHPが、きわめて詳細に経緯を記している。ちなみにこの王のために、立派な棺と安住の地も確保されたことも分かる。関心をお持ちの皆さんには、必読の記録サイトとして一見をお勧めしたい。 

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かくも長き地底の日々:よみがえった一人の王

2013年02月14日 | 午後のティールーム







かくて不満の冬も去り、ヨーク家にも輝かしい夏の太陽が戻ってきた。

Now is the winter of our discontent
Made glorious summer by this sun of York

シェクスピア史劇『リチャード3世』の開幕の台詞
sunとson(Edward IV のこと)をかけた地口


 イギリス史あるいはシェークスピアの史劇に多少なりと関心のある方ならば、シェークスピアの『リチャード3世』 Richard III なる王について、聞き及んでおられることだろう。シェークスピアによって、希代のマキャベリスト、悪逆非道な人物に描かれている。しかし、後代の小説家などからは、正義感の強い、兄思いの人物というイメージも提示されている。イギリス史上、最も偉大な人物のひとりとの評もある。長い年月にわたり、この王の真の姿は歴史の闇に隠されてきた。

 最近きわめて興味ある論評を目にしたので、例のごとくメモ代わりに記しておきたい。シェクスピア劇の中でも屈指の名作とされる『リチャード3世』は、かつて滞英中にBBCの番組で見たが、細かい部分は忘れてしまった。ローレンス・オリヴィエ主演のドラマの映像も見たような気がするが、『ハムレット』ほどには覚えていない。

 昨年、2012年9月イギリス、レスター市中心部の社会サービス施設の駐車場の地下から一体の人骨が発掘された。長らく歴史家などによって探求が進められてきたリチャード3世の埋葬場所とほぼ一致した地点であった。遺骨は王の遺体と推定された。全体として当時の人々より少し背が高く、手足は女性のように細かった。そして、多分子供のころからとみられる、かなりひどい脊柱側湾症があった。多分、生前の王はそのハンディキャップを隠すために、椅子や衣装に特別のパットを入れるなど、多大な努力をしていたと思われる。王の頭蓋骨にはひびが入り、背骨には矢じりが刺さっていた。レスター大学の考古学調査ティームは、リチャード3世の姉のアン・オブ・ヨークの女系の子孫(現在カナダ人)を、ミトコンドリアDNA鑑定を実施し、今年2月に問題の遺骨がリチャード3世のものであると断定した、

 遺体の発見された場所は、レスター市の今はなくなった小修道院の聖歌隊席の下あたりのようだ。王が最後の時を迎えるに適当な場所ではない。あわただしく埋葬されたらしく、頭蓋骨の口は開いていて、 ”Treason! Treason!”
「裏切りだ」、「裏切りだ」と叫んでいたかに見えたらしい。

 王は1485年8月22日
、フランスから進入してきたランカスター派のヘンリー・テューダーとボズワース Bosworthで戦い、味方の裏切りで戦死したと伝えられてきた。発見された遺体は顔面を除き、身体はかなり痛んでいたようだ。激しく切りつけられ、殴られた跡だ。自ら斧を振るい戦ったという言い伝えを示すものだろう。その後、遺体は修復されたが、32歳という年齢よりも若く見えるようだ。

 この発見を契機に、かつては悪名高かった王の実像を描きなおそうとの試みも進んでいるようだ。他方で、それにもかかわらず、生前の王の有名なモットー、tant le desiree ("余はそれ(王座?)がとても欲しかった")という言葉で知られるように、ひたすら権力の座を求め続けたことも事実のようだ。

 王の最後はやはり凄惨な戦いだった。遺体の状況から、乱闘で馬から下りての戦闘で、王は兜も脱げ落ち、頭部を刀剣で刺されたか、後頭部をひどく切られて、さらに多くの傷を受け、腹部には刀剣が刺さったままだったという。伝えられるように、王に対する激しい恨みの念の現れともみられる。そして、遺体はそのまま馬の鞍に乗せられ、引きずられて近くの今回の発見個所に運ばれたようだ。

 リチャード3世の生きた時代も、激しい政争、闘争の時代だった。幼少期には兄とともに、Low countiries 現在
のオランダに追放されてもいる。いかなる環境や経験が、この激しい気性の王の性格を形作ったのかはよくわからない。現代のCT scan やDNA分析を駆使した研究は、多くのめざましい発見をし、この時代の歴史的事実の確認に貢献しているが、死んだ人間の心や心情までは解明できないのだ。

 ひとつ感心したことは、この発見のストーリーを、Obituary 「
蓋棺録」という形で再現してみせた The Economist誌のいつもの才覚である。

  記事を読みながら、リチャード3世は、フランスの貴族アンジュー伯アンリ*2から始まったプランタジネット朝の傍系につながり、その最後の人物となったことを思い出した。思いがけない連想ではあった。プランタジネットとはマメ科の植物エニシダ(planta genista: 日本名は、金雀枝)であり、これが紋章に使われていた。管理人の猫の額のような庭には、このエニシダの小さな木が植えられている。かつてイギリスで隣家の老夫婦から教えられたガーデニング向き植物のひとつである。5月ころに黄金色の小さな花が多数咲き、その散り際が大変美しい。



Obituary Richard II
The Economist February 9th 2013

*2 長くなりすぎて、今はこれ以上書けないが、管理人は比較的最近プランタジネット朝にかかわる北西フランスのアンジェを訪れる機会があった。これについては別途、記す時があるだろう。

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回想のエル・グレコ

2013年02月09日 | 絵のある部屋

 




エル・グレコ『聖アンナのいる聖家族』油彩、カンヴァス 127x106cm、トレード、タベーラ施療院
El Greco, The Holy Family with Saint Anne
ca. 1590-95
oil on canvas, 127x106cm
Fundacion Casa Ducal de Medinaceli
Hospital de Tavera, Toledo, Spain


 

 小春日和のある日、ふと思い立って、『エル・グレコ』展(東京都立美術館)に出かける。きっかけになったのは、仕事部屋の片隅に置かれたこの小さな絵だった。かつてスペインを旅した折に、なんとなく買い求めたものだ。考えてみると、40年近く私の背中を見ていたことになる。聖母マリアの視線は気になっていた。心中、彼女はなにを考えていたのだろうか。幼子イエスへの思いを、画家は考え抜いて描いたはずだ。この作品がエル・グレコの手になることに、ほとんど疑いの余地はない。

  しかし、同時に出展されていた『白貂の毛皮をまとう貴婦人』(下掲)
の制作者は本当にエル・グレコだろうか。管理人は、前から疑問を持っていたが、最近では、異議が差し挟まれているようだ。改めて、実際の作品を見ても、エル・グレコの他の作品とあまりに違いすぎる。しかし、グレコでないにしても地中海沿岸の画家のようだ。こちらは、今の社会でもどこかにいるかもしれないリアリスティックな美人である。

 厳しい経済停滞に苦しむ昨今のスペインだが、あの抜けるような青空と爽やかな空気は、変わることなくあるに違いない。白貂の毛皮をまとう貴婦人は見つからないにしても。

A Lady in a Fur Wrap
1577-80
Oil on canvas, 62 x 59 cm
Kelvingrove Art Gallery and Museum, Glasgow


  このところ、
人々の背中越しに作品を見るような展覧会が多かったので、混み具合は気になっていた。ところが、拍子抜けしたくらいの人数で、楽に鑑賞することができた。日本でのエル・グレコの知名度が低いからだろうか。

 作品はこれまで人生のどこかで見たようなおなじみのものが多かったが、初めて見た作品も少なくなかった。なにしろ、この画家はギリシャ(クレタ島の都カンディア)からイタリア(ヴェネツィア、ローマ)そしてスペイン(トレード)へと遍歴の人生を送った上に、作品の数がきわめて多い。ご多分にもれず、真贋論争も激しい。エル・グレコの73年にわたる生涯も、この画家らしい、波乱に富んだものであった。とりわけ、38年間にわたったトレードの画業生活は、きわめて興味深い。名声に支えられ、華やかな生活を過ごしたが、晩年は多額の負債も抱えて内情は楽ではなかったようだ。作品の評価・報酬をめぐる係争も多かった。今この時代に、その実態を見直してみることはきわめて興味深い。

 トレードのビリューナ公爵の邸宅内に設けられた一大工房の実態も、大規模な美術作品制作のあり方として、深く探索してみたいテーマだ。労働の研究者のひとりとして、次々と興味をかき立てられた。美術史家が、もう少しがんばって探求してくれないだろうかと無理な注文も思い浮かぶ。

 今回の展示には、以前にとりあげたことのある作品、『蝋燭の火を吹く少年』(ナポリ、カポティモンテ美術館蔵)と同一主題で制作された、もう一点が出品されていた。ほぼ同じ時期の作品である。ナポリの方がわずかに古いらしい。比較してみると、カポティモンテ所蔵の作品より、陰影も深く厳しい。タッチも粗い。画家はさまざまな効果を試したのだろう。個人的にはカポティモンティ版の方が好みではある。



『燃え木で蝋燭を灯す少年』

Boy Blowing a Firebrand, ca.1571-72, oil on canvas, 60x49cm, Colomer Collection

 この作品、1928年以来、ニューヨークのペイソン家のコレクションにあり、2007年のオークションを経て、現所有者の所蔵となった。以前に記したように、これもヨーロッパ大陸から新大陸アメリカへ渡った作品であった。

 エル・グレコのほとんどの作品は、宗教画や肖像画が多く、少し見慣れてくると、すぐに分かるほどの特異な画風である。宗教画でも陰鬱なところがなく、ギリシャ、イタリア、スペインという地中海の風が感じられる。鑑賞には古い教会、修道院などの雰囲気が欲しいところだが、さわやかな印象で美術館を出た。

 

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27%が背中を押すアメリカ移民法改革

2013年02月04日 | 移民政策を追って

 




  かなり以前からアメリカの移民法改革の鍵を握るのは、ヒスパニック系の動向次第と観測してきた。これまで、多くの会合や出版物でその実態と論理を説明してきたが、半信半疑の人もいたようだ。

 しかし、このたびの大統領選挙の結果は、ヒスパニック系がキャスティングボートを握ることの意味を歴然と示した。2008年の大統領選挙の時は選挙有権者の9%がヒスパニック系だった。ところが、今回は選挙有権者の10%になっていた。わすか1%の増加とあなどると、大きな失敗を生む。限界的部分での1%はきわめて大きな意味があった。

27%の衝撃
 選挙キャンペーン中におけるロムニー候補の不法滞在者についての不用意な発言なども影響して、ロムニー候補はヒスパニック系有権者の27%しか得票できなかった。他方、オバマ大統領は71%の得票を得た。
この数値はかなり頑迷な保守党のヒスパニック観を改めさせるほどの衝撃だった。保守党のヒスパニック嫌いはかなり根強く、そう簡単には解消しないのだが。”27%”のトラウマはそれでもかなりの衝撃的効果を生んでいる。共和党員ながら、民主党に近い移民法改革案を共有していたマッケイン上院議員は、最近の共和党の変化について、一言、”選挙”electionが原因であることを認めている。共和党のヒスパニック観が大きく変化しないかぎり、共和党大統領の時代は来ないのだ。

 任期前半の4年間にオバマ大統領は、移民法改革には、ほとんどさしたる政策を打ち出し得なかった。しかし、リンカーン大統領を尊敬するオバマ大統領としては、なんとか意義ある実績を残して任期を全うしたいようだ。最初の選挙キャンペーンの時から実施を公言してきた移民法改革にも積極的な動きが見えてきた。

 この大統領の動きに先手をとられまいと保守党議員が動きだし、1月28日には、超党派の上院議員からなる検討委員会が、相次いで包括的移民改革についての試案を提示した。特に、アメリカ国内に居住する不法移民への対応が重点になっている。プレス発表には、ニュージャージー州選出の民主党のロバート・メレンディス議員、フロリダ州選出のティーパーティの立役者マルコ・ルビオ共和党議員が現れ、スペイン語で趣旨説明を行った。

 ルビオ議員は国内に入国に必要な書類を保持することなくこの国に居住している1100万人ともいわれる不法移民について、「自分たちの親や祖父母たちのように」、より良い生活を求めてきた人たちが大部分であり、彼らには”責任を自覚してもらう”とともに”人間的な”対応が必要だと強調した。これまでの共和党の強硬な考えと比較すると、大きく変化している。オバマ大統領の明らかにしている包括的移民法改革の内容と、かなり重なるようになった。
 

 こうした変化の中で、移民制度改革の輪郭が再びクローズアップされてきた。ボールはすでにオバマ大統領側から投げられている。ブッシュ政権末期からたびたび議会を揺り動かしてきた議論と、骨格部分はあまり変わらない。今月、オバマ大統領が明らかにした改革は、包括的な移民制度改革といわれるいくつかの政策の集合から成るものだが、これまで折に触れ議論されてきた路線とほとんど変わりがない。主として共和党右派の体質がその実現を拒んできた。オバマ大統領が考える改革の輪郭はほぼ次のようだ。

改革案の骨格
 
第一に、国境管理を厳格にする。特に南部のアメリカ・メキシコ国境については、出入国管理体制をさらに整備する。それによって、従来最大の変動を生み出してきた地域の秩序を回復し、不法移民のこれ以上の増加を阻止することが目的である。不法移民の雇用を減少させるために、使用者に連邦のデータベースとの照合を求める。

 第二に、アメリカ市民を家族に持つ不法移民を対象とするルール改正を図る。アメリカ国内には、約1100万人の不法滞在者がいるが、これまでの犯罪歴、学歴、英語力、罰金、租税公課などの支払い結果などに配慮した上で、アメリカ市民権申請の列に並ぶようにする。

 昨年、オバマ大統領は子供の時に親に連れられた不法入国した若者については、教育歴などを考慮した上で、「特別コース」fast trackでの合法化措置を適用するにした。この政策は移民政策としては部分的ではあったが、ヒスパニック系選挙民には好評だった。

 大方の点ではきわめて歩み寄った大統領案と上院議員案だが、微妙に異なる点も残っている。そのひとつは、農業労働者やその他の低熟練労働者について、上院議員案はゲスト・ワーカー・システムを提案しているが、オバマ大統領は、低熟練労働者については明確な路線を示していない。もうひとつは、高度な技能・熟練を持った技術者の受け容れ方である。

安定期に入った移民の流出入
 最近のアメリカ・メキシコ国境の出入りをみる限りでは、アメリカ側からの出国者が入国者を上回り、純減状況を示しているが、これにはアメリカ国内の雇用低迷などが反映していると思われる。アメリカ国内に良好な雇用の機会が少なくなっている。国境の出入数については、今のところ確たる方向性は現れていない。移民法改革には格好の時といえる。個別の州や地域では、連邦レベルで話題になっている移民法改革、とりわけ不法移民の段階的合法化は受け容れられないとする考えも強い。しかし、連邦レヴェルの改革が再び座礁する可能性は少なくなっている。

 これからの時代、期待される国境とは、入国者、出国者の(市場の調整機能を反映した)自然な流れを基本としながら、その過程における不法入国、国境犯罪などのマイナスの要素をできるかぎり排除してゆくことにあると思われる。その存在が通常は意識されないような国境の姿、それが来たるべき時代の国境のイメージではないか。しかし、実現への道は依然として遠く厳しく、紆余曲折は避けがたい。苦難の試行錯誤はまだまだ続く。

 

Reference
”Washington learns a new language” The Economist, February 2nd 2013
 

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