時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追いかけて(8):衰退に向かう大企業

2018年09月24日 | 怪獣ヒモスを追って


 

L.S. Lowry 

Industrial Landscape, Wigan
1925
Oil paint on canvas
40.5 x 36.5cm 
L.S.l ラウリー「産業の光景:ウイガン」

 

21世紀に入ってから世界は、急速に不安定で先の見えがたい状況にシフトしたように思える。地球温暖化による気象条件の大きな変化、地震、津波、豪雨などの自然災害にとどまらず、政治、経済、文化などあらゆる次元で、大きな転換期を迎えているようだ。しかし、その行方は文字通り混沌、五里霧中といってもよいかもしれない。社会科学、自然科学などの科学者たちは、それぞれの分野で問題に取り組み、打開の道を切り開こうえとはしているが、それらの努力が世界の抱える問題に顕著に「進歩」と言える形で繋がっているか、全く定かではない。

図らずも体験することになった北海道の地震も、地震学で予想されていた地域以外で発生している。人々が不意をつかれたような場所で突然発生する。さらに地震が引き起こしたブラックアウトは、瞬時をおかず全北海道を覆い尽くし、大きな被害と混乱を呼んだ。このシリーズで取り上げている経済、産業の面でも想像を超える変化が起きている。こうした変化が発生した時の人間の対応は無力とはいわなえいが、きわめて非力なものだ。人間の創り出したシステムが破綻したり、衰亡に向かっている。

このシリーズで断片的に記している資本主義的大工場システムに目を移そう。かつては日本列島を覆い尽くしていた重厚長大型の製造業は、いつの間にか表舞台から消えている。これらの地域では、見る人を圧するような巨大煙突が林立し、黒煙・白煙を吹き上げ、空気を汚染し、スモッグを生んだ。その中を朝夕おびただしい数の労働者が出入りをしていた工場を目にする機会は、明らかに数少なくなった。今日、巨大工場として目につくのは、自動車企業くらいだろうか。一時は造船王国を誇った日本だが、今は昔の物語である。炭鉱業も視界からほぼ消滅した。

こうした光景は、日本のみならず、世界の先進国でもすでにかなり以前から見られるようになっている。煙突も見えず、工場内も窓が少なく、外からは内部が見えない倉庫のような工場も増えている。その中では、作業をする人たちの姿もまばらだ。代わって、室内灯の光度を最低限に落とした室内で、大小の機械設備が様々に動き、その間を時々技術者や管理者たちが歩いている。「ロボットがロボットを作る」といわれる工場もある。

「恐るべき」工場地帯

産業革命の先駆者であったイギリスでは、その盛期、マンチェスターなどの木綿工場へは連日多数の見学者が訪れていた。工場自体が奇異なものに見えた。イギリスの産業革命の最盛期には、煙突の黒煙に真っ黒に汚れた今考えると’恐るべき’光景を作り出していた。まさにこのブログでも触れたことのある l.S. ラウリーやディケンズの世界だ。1960年代のロンドンでも、家庭の石炭ストーブの影響もあって冬はスモッグに覆われた薄暗い日々が続いていた。'Horrible' 「身の毛もよだつような」光景といえるかもしれない。

イギリスに次いで世界の工業国となったアメリカでは、ローウエルに代表されるように、河川の滝などを動力としていたため、環境汚染度はイギリスほどではなかった。しかし、工場の発展とともに、地域は油や埃、そして多数の人々の移住によって、汚染度が際立っていた。

1930年代、ミシガン州のヘンリー・フォードのハイランド・パーク工場でも大工場が多くの関心を呼び、多数の観客を集める光景が見られた時期があった。1971年、バトン・ルージュ工場には243,000人の訪問者があった。日本でも1990年代くらいまでは、ブログ筆者も多くの工場見学をした記憶が残る。

ビヒモスの後には
製造業雇用は次第に減少し、2000年以降、さらに落ち込んだ。長年、世界の経済をリードしたアメリカでも、今日では製造業で働く人たちは全就業者の8%以下にまでになっている。海外移転とオートメーションのもたらした結果である。例えば、シカゴ周辺で多数見られた製鉄、家具、新聞、自動車部品、木工、食肉加工などの大工場は今やほとんど見られない。地ビール、チョコレート、ポップコーンなどの食品工場などが散見している。ちなみに日本では製造業雇用は全雇用者数 (5819万人、2017年計)の約17.3%とみられる。ここでも製造業は急速に変貌し、社会の表面から後退している。

トランプ大統領が躍起となって、自国へうの輸入品へ高率関税を課し、アメリカから海外へ流出した企業を引き戻したいと思っているのは、鉄鋼や自動車、あるいはアップルなど大規模製造企業がイメージされているようだ。しかし世界の産業の主流とはどこか外れている。トランプ大統領の頭の中には、製造業、とりわけ彼の支持基盤である白人低熟練層の雇用創出がイメージされているようだ。しかし、トランプ大統領が思い浮かべているのは、巨大な煙突が立ち並び、延々と工場が立ち並ぶ「旧き良き時代?」の工場でもあるようだ。何れにしても、製造業雇用は今や国際政治の舞台における「武器」のようなものとなり、各国間で大工場の誘致合戦、取り合いが起きている。


 
世界でも、中国のFoxconnなどのような工場全体が、労働者で埋めつくされたような巨大企業も生まれたが、早くも主流の座を離れようとしている。巨大な低賃金労働力の農村を都市の背後に控える中国といえども、労働力不足になっている。人海戦術型の巨大工場は再編され、ヴェトナム、ラオス、アフリカなどさらなる低賃金労働力の雇用が期待できる地域へと移転している。巨大工場ビヒモスの衰亡は明らかだ。短い期間に巨大企業にまで急成長したアリババの会長が、突如として辞任したのも、その成長力に限界を感じたためともいわれる。同会長の話では100万人の雇用などといってもとても考えられないという。製造業、サービス業を問わず、1社で大きな雇用を生み出すことは不可能に近い。大規模工場システム終演のあとにはいかなる産業イメージが描けるだろうか。

次世代の企業イメージとはいかなるものか。筆者にはいくつかのイメージが浮かぶが、しばらく宿題としよう。


本シリーズのひとつ材料となった Joshua B. Freeman, BEHEMOTH: A History and the Making of Modern World, Norton, 2018.は第一次産業革命の発生とその後の展開を興味ふかい筆致で描き出している佳作である。


続く

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怪獣ビヒモスを追いかけて(7):「手織り工業」の経済学

2018年09月14日 | 特別トピックス

「19世紀末、繊維工場で働く子供たち」

Mill _hildren, children employed at Coat's of Pausley, in the late 19th century, The Rise and Fall of King Cotton, by Anthony Brown, BBC:1984


Homespun の経済学
ホームスパンとは何かご存知だろうか。今の若い人たちはほとんど聞いたことがないかもしれない。家庭内で行われる織物、家内工業のことを意味することが多いが、日本でも戦後しばらくの間、多くの家庭で母親などが簡単な機械で、小さな毛織物のまフラーなどを作っていた。ここではイギリスの産業革命の黎明期を考えながら、産業革命はどんな条件があればどこに起きるのかという問題を少しばかり考えて見たい。実は「ホームスパン」は、産業革命の発生に重要な意味を持っていることを記しておきたい。これまで何度か取り上げてきた繊維産業を例に、再検討し、覚え書きとして整理することを試みてみたい

考えていることは、イギリスで起きた「産業革命」後、やや安易に「第一次」「第二次」「第三次」「第四次」・・・と使われるようになった「産業革命」なる事象の根源への探索であった。近年、インターネット・テクノロジー(IT) の世界的な展開について第4次産業革命、デジタル産業革命、IT産業革命というようなさまざまな表現、定義がなされているが、その本質、実質的影響・効果については論者によって異なり、不明で納得したがたい点も多い。何が真に「産業革命」という言葉に値するものか。歴史的的出来事の根源に再度遡る必要があるのではないか。すでに長い研究史の上で答えが出ているかに思われる産業革命の意味を、あらためて考え直してみたいと思っていた。

折しも、The Economist 誌(August 4th, 2018) が、’Homespun economics’ と題して、「産業革命は現代の生産性に新たな光を当てるか」とのクイズを提示しているのに出会った。それによると、18世紀のイギリスの女子労働者は1日にどのくらいの量の糸を紡いでいるのかという問いを冒頭で提示していた。こういう問いは、経済史家にとっては、’’(猫に) マタタビ’’のようなもので、学界内ではたちまち大きな議論が始まると茶化している。答は多分1日当たり4分の1ポンドから1ポンドの間だろうとしている。しかし、産業革命の発生要因についての現代的問題は、それよりはるかに意味が深いという。世界経済にとっての重要な含意を持つのは、技術進歩の特徴に関わるものだとされる。なぜ当時高度な技術も備えていた中国やインドではなく、英国に産業革命は生まれたのか。

世紀を越える研究成果があるにも関わらず、産業革命については良く考えて見ると不明なことが多い。いつどこでなぜ起きたか。改めて問われると、答えにつまることが多い。

“Homespun economics” The industrial revolution could shed light on money productivity, The Economist August 45h 2018

出所:蒸気エッセイに付せられたコミック的挿絵
The Economist August 4th, 2017
 

これは単に歴史家の関心事ではない。生産性が低いことは人間の発想力が弱化しているためか。技術を経済成長に転化することに失敗しているためではないか。18世紀イギリスで起きたことは正確にはいかなることで、この問題に光を照射することはできるのか。

「高賃金仮説」
ヨーロッパ諸国の中でなぜイギリスだけが、産業革命に成功したのか。とりわけ最後の点には多くの議論があるが、最近は Richard Allenが提示した”高賃金仮説” high-wage hypothesis が有力になっている。

ロバート・アレンRobert Allen『世界史のなかの産業革命』を読んでみた。産業革命はなぜ最初イギリスで起きたのか、という大問題に対し、「イギリスは高賃金かつ低エネルギー価格で、機械化(労働力→エネルギーの転換)が一見単純だが唯一経済的に割に合う地域だったから」という、穏当だが説得力ある議論が丁寧に展開される。長い論争の一つの到達点でもある。

The British Industrial Revolution in Global Perspective (New Approaches to Economic and Social History)
by Robert C. Allen

アレンの研究は、産業革命当時の高賃金に関する議論の整理をした。きわめて要約しえて言えば、20年以上、アレンはイギリスの産業革命解明の鍵はそれに先立つ時期において、消費と貿易の拡大をしていた点にあると主張してきた。産業革命の初期、イギリスは石炭が安く賃金は高かった。石炭を燃料とする機械を使い、労働者の賃金を抑え込むのは当然ともいえた。

産業革命の黎明期、イギリスでは労働力は高価で、石炭によるエネルギーはきわめて安かった。この労働力には女性と子供が主力として加わっていた。こうした条件はフランスなど大陸ヨーロッパではあまり当てはまらなかった。イギリスの賃金は大英帝国の貿易の成功によって高かった。1780年時点でフランスの起業家にジェニー紡績機を組み立てる説明があっても、彼らは食指を動かさなかっただろうといわれる。
今日見ると工場でそれぞれに与えられていた仕事を忠実に行っていたように見える女性や子供たちの姿だが、改めて産業革命の原動力を考えると、彼女たちが背負っていた別の重みを感じるようになる。現代の感覚で、なんとかわいそうな低賃金労働者と割り切ってしまうのは早計なのかもしれない。

革新の源は高賃金
産業革命の黎明期、英国の労働力は高価であり、石炭エネルギーはきわめて廉価だった。ヨーロッパ大陸では必ずしもそうではなかった。貿易相手国の中国やインドではイギリスと比較し、労働力はさらに安くエネルギーは高価だった。 ホームスパンなどに使われる労働力を蒸気の力で代替することを考えた技術者たちは、どこかでこのことを考えていたのだろうか。彼らが目指したことは、労働生産性を高め、さらに大きな革命・イノヴェーションへ繋がった。工場で糸くずにまみれて働く当時の子供達の画像もその役割や重みを考えると安易には見られない。

 

Robert C. Allen
The High Wage Economy
and the Industrial Revolution: A Restatement
The High Wage Economy and the Industrial Revolution: A Restatement.— M.: Publishing House Delo RANEPA, (Working Paper: Economics).

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ブラックアウトの先に光を見る

2018年09月07日 | 午後のティールーム

 

9月6日未明、北海道胆振地方を震源とする大地震によって、日本は南の九州から北海道までさながら災害列島のような状況を呈した。今日では寺田寅彦の言葉以上に、災害は以前の記憶を忘れる前にやってくる。

* 寺田寅彦「津波と人間

このたびの北海道地震発生直前の週、ブログ筆者は震源の胆振地方に比較的近い地域に滞在していた。北海道に生まれ育ち、生涯を閉じた友人の鎮魂の旅でもあった。猛暑がピークを迎えていた頃、この地の気温は日中摂氏16度、夕方など肌寒いくらいであった。広大な草原と畑が広がる中に、美しいフラワー・ガーデンが散在していた。

しばらく穏やかな光の下で美しい光景を楽しんだ後、戻った都会の地では依然酷暑の日が続いていた。そして旅の荷物を下す間もなく、北海道地震の発生のニュースに接する。9月6日未明から、広大で美しいかの地では、舞台は暗転していた。北海道のほぼ全域にわたる停電 blackout の発生だった。停電という事件がいかに多くの人々の冷静さを奪い、混乱の渦に巻き込むかを知った。外国人旅行者も増え、スマホの充電分が切れると、人間は不確かな情報。街中が暗いばかりか、交通機関は止まり、情報が極めて少なくなる。あと数日、停電が続いたら暗い街中、情報もなく、何かのきっかけで暴動でも起こりそうな混乱だった。電力というエネルギーの持つ恐るべき力にうちのめされた感があった。

1965年北アメリカ大停電のイメージ

大停電というと、ブログ筆者の頭にすぐに思い浮かぶのは、1965年の北アメリカ大停電のイメージだ。一般には北アメリカでの大停電 というと、1977年、2003年などの停電が考えられることが多いようだが、アメリカで大停電が重要な出来事として語られるようになったのは、1965年11月9日 ニューヨーク市を含むアメリカ北東部と五大湖周辺のカナダに及ぶ広範な地域で同時発生した大停電だった。

ブログ筆者はたまたまニューヨーク州の大学院で学生生活を送っていた。その時のイメージは、不思議なほど今も鮮明に残っている。夕食後のコーヒータイムで、宿舎のテラスで友人たちと一緒に雑談をしていた時、突然全キャンパスから光が消えた。広大なキャンパスがほとんど闇に消えた。誰も何が起きたかすぐには分からなかった。空には秋の終わりの夜空に、満天の星がきらめいていた。いつもはあまりゆっくり見ることのない全天を覆う星々を見ていると、時に星も流れた。



停電の原因はわからずままに、その日は図書館へ戻ることもなく寝床についた。この1965年はアメリカはジョンソン大統領が念頭教書で「偉大な社会」Great Society 建設を強調、南ヴェトナム駐留軍の総員を2万人から19万人に増加したことに加えて、アメリカの教育、住居、健康、就業訓練の機会、水質、老人医療保障の分野の改善させることを掲げていた。南ヴェトナムでのアメリカ駐留軍の死者も1900人を越え、反戦運動も高まりつつあり、キャンパスの空気も緊迫していた。いまでも時々、プロテストの反戦歌を耳奥に聞くような気がする。ヒッピー文化が台頭した時であった。カザン『アメリカの幻想』、メイラー『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか』、スタイロンのナット・ターナーの告白』が出版されたのも、この少し後1967年だった。

翌日になると、どこからか、巨大隕石の大陸送電線への落下、あるいはソ連の攻撃によるものだとの噂が根拠なく伝わってきた。回復にはかなりの日数を要したと記憶している。その後、調査が進み、実際にはカナダのオンタリオ州、ナイアガラ地域にある発電所事故から生まれた北米電力受給システムのインバランス(オーバーロード、過重負荷)によるものであるらしいことが分かってきた。ナイアガラの発電所から供給される電力が、なんらかの原因による事故で断絶したため、カナダ北東部からアメリカ・ニューイングランド地方に渡る電力供給が途絶し、1965年ニューヨーク大停電などともよばれるまでになった。停電により、2500万人と207, 000 km²の地域で12時間、電気が供給されない状態となった。

このたびの北海道地震で苫東厚真発電所に過大な負担がかかって支えきれなくなり、全道の電力需給システムが突然破綻してしまった背景と近似するものが あるようだ。全面復旧は11月以降と改めて発表されている。苫東厚真発電所は1号機から3号機まで全て故障しているようだ。節電への圧力も強まるだろう。


1965年北米のブラックアウトに話を戻すと、その後の調査によれば、当時カナダやアメリカ北部はすっかり冬の寒さに包まれていたため、暖房などの使用率が大幅に上がった。ナイアガラ地域の発電所のシステムの構築状態に不具合があった為、突如ナイアガラの発電所から供給される電力は停止し、カナダ、アメリカ北部のシステムが一気にオーバーロードになり停電となってしまったというのが、その後公表された公式の調査書の結論だったが、異論も残った。この地域ではその後も同様な事故が繰り返し発生した。

ブログ筆者にとって、大停電はヴェェトナム戦争を中心とする戦争の時代と何処かで結びついている。この後、アメリカはヴェトナムから撤退し、しばし平和の時が続く。1968年3月31日、ジョンソン大統領は北爆を停止、大統領選不出馬を声明した。


 

 

 

このたびの北海道大地震でお亡くなりになった方々に、心からお悔やみ申し上げます。

 

 

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