時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(62)

2006年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
Courtesy of  Web Callery of Art
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/champaig/richeli.html


リシリュー枢機卿とラ・トゥール(1) 

  ラ・トゥールはしばしば謎の画家といわれるが、近年新しい資料に基づく研究も進み、その生涯の輪郭は同時代の画家と比較しても遜色ないほどまでに浮かび上がってきた。とはいっても、闇の中に埋もれている部分は多いのだが。

  今回焦点を当てるフランス王室、とりわけ宰相リシリューと画家との関係は、ラ・トゥール研究史の上でもこれまで必ずしも十分明らかにされてこなかった領域である。しかし、別の角度から見ると、きわめて興味を惹かれる光景が浮上してくる。

『三銃士』の世界の裏側で
  実際、この時期はフランス史上でも類がないほど劇的な出来事が続き、興味が尽きない。ラ・トゥールが画家として活動していた17世紀前半のロレーヌ公国、そしてフランスは、歴史小説の舞台としてもこれ以上の時はないだろうと思うほど、さまざまな出来事が起きていた。あのアレクサンドル・デュマの名作『三銃士』に描かれた時代である。

  なかでも、枢機卿リシリューRichelieu, Armand Jean duc Plessis(1585-1642)は、カトリックの司教区外高位聖職者であり、フランスのみならず世界史上に残る大政治家であった。リシリューはデュマの『三銃士』のイメージでは、深紅の衣に身を包んだ謎の人物である。マリー・ド・メデシスと袂を分かち対決する策謀家として描かれている。小説は別として、現実の世界では色々と興味ある事実が明らかになってきた。

  このブログにも再三記した通り、ラ・トゥールはロレーヌ公国を活動の主たる舞台とした画家だが、フランス王室とも密接な関係を持っていた。この画家は、「ランタンを掲げる聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」をフランス王ルイXIII世に、「悔悛する聖ペテロ」を宰相リシリューに献呈したと推定されている*

  ラ・トゥールは1593年生まれなので、リシリューより8歳ほど年下だが同時代人である。この二人がいつどこで出会ったかという点については、推測の域を出ないが、これもすでに記した通りである。

リシリューは美術に関心があったのか
  リシリューの後継者である枢機卿マザランCardinal Mazarinは美術史の上でも鋭い鑑識眼があり、著名な美術収集家として知られてきた。これに対してリシリューの活躍の舞台はもっぱら政治であった。宮廷、国家、広いヨーロッパの政治世界に浸りきっており、美術への関心はマザランほどではないと思われていた。事実、1624年首相に任ぜられた後、20年間におけるリシリューのフランス政治における活動はヨーロッパ世界を圧倒していた。権謀術数を駆使するに知性と冷静さをもって、ルイXIIIの治世においてフランスで最も重要な人物であった。

  もちろん当時のフランス最大の権力者であったリシリューは、教養ある貴族として豪壮な自邸を美術品で満たしていた。しかし、個人的には美術にあまり強い関心はなかったのではないかともいわれてきた。実際、1624年にルイ13世の下で王国の首相の地位について以来、席を温める間もないほど、多くの出来事が展開していた。30年戦争(1618-1648)はたけなわであり、宮廷政治も策略が渦巻いていた。リシリューは政務に文字通り日夜を分かたぬような日々を送っていたはずである。

リシリューの文化活動
  政治や経済には多数の文献を残しているリシリューだが、美術について彼が直接発言したり、書き残したものは少ない。そうした「沈黙」は彼の文学についての博学なを示す多くの発言と対比的である。確かに、リシリューはコルネイユを助け、週刊紙Gazetteを発行し、アカデミック・フランセーズを設立、王室印刷所も創った。これらのことから、リシリューは文学と演劇という文化領域での政治的アジェンダだけを個人的に追い求めたのではないかとの推測が行われていた。

  しかし、その後の研究によって、そうした見方は修正が必要なことが次第に明らかになってきた。彼が30年戦争、国内の政治・経済的圧力、宮廷陰謀などで、個人としてのリシリューに戻ることができたのは、1626年、1627年、そしてレメルシェLemercier の壮大な宮殿の着工前1632年くらいではなかったかともいわれている。そして、彼はこの綿密かつ壮大な計画の完成を見る前に世を去った。しかし、この自らの宮殿の構想については、彼には多くの考えがあったはずであった。その準備過程で残された彼の企画についての記録がそれを示している。

  さらに、リシリューは美術品についても、かなり好き嫌いがはっきりしていたと思われる点がある。よく知られていることは、当時ヨーロッパに大流行していたイタリアのバロック美術を嫌っていた。

  いったい、リシリューにとって美術はいかなる位置を占めていたのだろうか。ラ・トゥールはリシリューにとっては、いかなる存在だったのだろうか。実はこのことを考えさせたのは、リシリューをテーマとしたある特別展だった(次回)。

*本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/388817acbfe8c2d2db3edaf9580dfda6
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クーデターに揺れるフィリピン

2006年02月24日 | グローバル化の断面


  フィリピンにまたクーデター騒ぎが起きている。アロヨ大統領は2月24日、国家非常事態宣言を発令した。政治的不安定はこの国の抱える最も深刻な病態である。

  犠牲者が1000名を越えるといわれるフィリピン中部レイテ島に起きた大規模な地滑りは、未だ救援活動も本格化していない。その中でのクーデター事件、他の国の出来事とはいえ、なんともいいようがない。

  フィリピンを対象とするひとつの調査にかかわっていることもあって、なんとか社会の安定を取り戻してほしいと願うばかりである。かつてはアジアの開発途上国の優等生とまでいわれた国であった。しかし、残念ながら今日その面影はどこにもない。 

海外送金は増えたが
  他方、フィリピン中央銀行の発表では、2005年にフィリピン人海外労働者が母国に送った外貨の増額は107億ドル(約1兆2600億円)と前年を25%上回ったと伝えている。雇用不足や低賃金を背景に海外への移住・就職を希望する人が増加、外貨送金がかろうじて国内経済を支えている。

  2005年に新規契約あるいは契約更新して出国したフィリピン人労働者は同国の労働者輸出機関ともいうべき海外雇用庁(POEA)によると、98万1677人で前年比5%増加とのことである。 他に資源がないから人を輸出するのだ、フィリピンの労働者は評判が良いから需要はいくらでもあると当然のごとくに主張する同国政府関係者には、他の道もあるのではないかといいたくなる。

移民立国の難しさ
  こうした風土が根付いてしまうと、労働者の方も自国で働くことは最初から念頭になく、海外出稼ぎを前提として、教育や職業機会を選択している。この国特有の明るさがわずかな救いだが、やはり政策の方向が間違っているのではないだろうか。 移民の送金に頼って立国、経済発展をした例はきわめて少ない。出稼ぎの期間が長引くほど、家族離散 diaspora の悲劇も増える。

  政治の不安定は、海外からの投資もためらわせる。一度は企業化しても社会の不安定に見切りをつけて、撤退してしまう企業が多い。国内に安定した雇用機会が生まれないので、労働者も海外に出てしまうという悪循環から抜け出ることができない。

  美しい島々、逆境でも明るさを失わない人々が、かろうじてこの国を支えている。政治の安定化と経済政策の見直しは、為政者が根本から考えねばならない課題である。

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EUの不法移民対策

2006年02月19日 | 移民政策を追って

難航するEU移民政策

  このところ、移民労働者問題についての国際会議や講演会に続けて参加する機会があった。80年代の議論の高まりの後、退潮していた国民の関心も少し復活してきたようだ。しかし、議論の内容にあまり進歩が感じられない。相変わらず浅薄な、言葉の上だけの「国際化」や「開放化」が繰り返されている。単に国境の開放度を上げるだけでは問題はまったく解決しない。この問題を考えるひとつの材料は、EU移民政策にある。
 

  EUの欧州委員会は最近ドイツ、フランスなどの加盟17カ国に対して、移民に長期滞在の権利を認めるEU指令を実行するよう警告した。1月23日に期限が来ているのだが、国内の法整備を終えたのはわずか5カ国である。   

EU本部指令と「国益」
  EU指令が浸透しないのは、いくつかの理由がある。そのひとつはEU本部の指令がさまざまな形で、加盟各国の「国益」と衝突し、各国の政府以上に強力になってきたことである。各国政府の頭越しに指令が出されているとの印象が強まっている。
そして、加盟国の多くが雇用不安を抱えることに加えて、昨年のフランスでの大規模な「郊外」暴動、ロンドンの同時テロなど、移民が関係した出来事が各国に指令に従うことをためらわせたり、反発する動きにつながっている。   

  予想を超えた大規模な「郊外」暴動を、なんとかご自慢の警察力で押さえ込んだフランス政府は、昨年末から新たな移民規制に乗り出した。一時はフランスの国威の失墜と批判された対応であったが、なんとか目前の火事は消火できた。しかし、問題が本質的に解決したわけではない。いつ噴き出てくるか分からない火山脈の上にいるようなものである*。   

  EU指令は合法的に入国し、5年以上住んでいる移民に対して長期滞在や域内での労働の自由を認める内容である。約1千万人の移民が対象となるとみられている。EUの共通移民政策を構成するひとつの柱である。加盟国は2003年にEU指令を承認し、国内法を整備することになっていた。   

  しかしながら、その後の思わざる事態の展開に、フランス、ドイツなどのEUの中心国は、大きなためらいを見せている。EU諸国の中でこれまでに国内法整備を終えたのはポーランドやスロバキアなど比較的新しく加盟した中・東欧の5カ国にととまっている。   

  欧州委員会は数ヶ月内に17カ国に正式な警告を発する予定だが、こうしたEU本部主導型の動きには反発も強まっている。域内も同一歩調ではなく、イギリスとアイルランド、デンマークは適用除外を行使したため、EU指令の拘束力は及ばない。  

フランスの対応
  他方、「郊外」暴動で衝撃を受けたフランスなどは新たな対応に乗り出した。ドビルバン仏首相は昨年11月29日、移民の入国管理を含む包括的な対策を発表した。それによると、1)移民が家族を呼び寄せるまでの国内滞在期間を1年から2年に延長、2)フランス人と結婚した外国人が国籍を申請するのに必要な同居期間を2年から4年に延長、3)外国での国際結婚が国内法に照らして適正かどうか、領事館による審査を強化する、などが主たる点である。   

  フランスは第一次石油後の74年に就労目的の移民の受け入れをやめており、今日ではフランス人との結婚と移民の家族呼び寄せの形態が、合法移民の上位1、2位を占めている。   

  首相の説明では「フランスへの同化の準備期間を延ばした」とされているが、偽装結婚や一夫多妻婚などを取り締まるべきだとの党内の要望に応えたとみられる。 優れた移民は受け入れる。さらに、優秀な移民を増やすという観点から、優秀な留学生への滞在・労働許可手続きを簡単にするなどの政策を導入した。能力による事前選抜を行うという考えである。フランスに限ったことではないが、本来受け入れ国が養成・教育すべき人材を、他国のコスト負担で受け入れ、活用しようとする今日の先進諸国にかなり共通した、身勝手な施策である。   

  「頭脳流入」の促進策として、現在中国、ベトナム、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、セネガルに設置している仏外務省管轄の「フランス留学センターCED]を韓国、トルコ、メキシコ、レバノン、カメルーン、マダガスカルにも拡大することにした。同センターの審査を通れば通常必要な警察署の手続きなしに滞在許可証を与える。また、修士号取得者など優秀な留学生はフランスへの定着を促進するため特に優遇する。半年間の仏国内での滞在で、労働許可証を交付する。

不法滞在者の送還  
  他方、強硬派のサルコジ内相は「15万人の不法滞在者が医療や教育補助などの公的給付を受ける実態を是正する」として2006年中に2万5千人の送還目標を打ち出した。

  フランスの出来事であわてた感のあるEUは、12月17日に採択した議長総括に、不法移民やテロへの対策強化を盛り込んだ。加盟国の事情はかなり異なり、EUの統合された移民政策とはいいがたい。   

  その中心的部分は次のようである。不法移民問題については、周辺国・地域との協力を強めるとともに、2006年をめどに大量の移民が押し寄せた際の対応にあたる緊急対策ティームを立ち上げる。不法移民の動きを追う監視体制も強める。   

  北アフリカから流入する不法移民が増加しつつあり、特にモロッコ、アルジェリア、リビアなど地中海に面した国々と移民対策に関する会議を設置、EUの「南の国境」にあたる地中海全域を監視するシステムの設立についても研究する。新設する緊急対策ティームは各国の専門家が参加、一時に多くの移民、難民が殺到した時の技術的対応策などを練る。    

  これらの内容から見る限り、EUの対応は相変わらず、受け入れ国の権益保全という視点が全面に出ている。そこには、不法移民を生み出す根源についての視点が決定的に欠如している。そして、これは日本にとっても、そのまま当てはまる。


*国末憲人『ポピュリズムに蝕まれるフランス』(草思社、2006年)は、移民問題を始めとして、フランスに広がるポピュリズムの実態を鋭く提示している好著である。

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20050508


Reference
「移民規制・強行世論に便乗」『朝日新聞』2005年12月7日
「移民の長期滞在認めよ。欧州委、加盟国に警告」『日本経済新聞』2006年1月22日
「EU不法移民対策を強化」『日本経済新聞』2005年12月18日

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年金は長生きのご褒美?

2006年02月17日 | 労働の新次元

日本人は絶滅?
  先進諸国に高齢化の大波が押し寄せている。なかでも少子化が格段に進んでいる日本は最も厳しい状況にある。このままでは900年後に日本人は絶滅するという推測もある。

  最近のNewsweekが「新高齢社会」という特集を組んでいる*。(その割には内容にとぼしいのだが。) 冒頭に
1997年に日本の佐賀県に設置されたJEEBAという「高齢者の、高齢者による、高齢者のため」の会社“Of the elderly, by the elderly and for the elderly”が紹介されている。この会社に働くのは 60歳から75歳の人々である。高齢者用品を専門に作っている。これから、こうした会社が増えて行くだろうという予想である。

限られた選択肢
  高齢化による労働力減少、医療コストの膨張、年金システムの崩壊は程度の差はあるが、多くの先進諸国を脅かしている。この状況への選択肢は、どの国でも以前よりずっと高齢まで働くしかないようだ。EUではフィンランドやデンマークのように戦後長く続いた退職年齢を早める動きを逆転させ、退職を遅らせる方向になっている。かつてのように、早く退職し、ゆとりあるゴールデンライフを楽しむという時代は終わりを告げつつある。

  ドイツやアイルランドも、長らく早期退職を勧め、労働力の若返りをはかってきた。多くのOECD加盟国では、平均すると退職年齢は1950年の69歳から61歳へと若くなってきた。フランスでは80歳近い平均寿命の
下で、労働者は平均59歳で退職し、20年以上国民年金で生きるというパターンが一般化していたが、もはや機能しなくなっている。

国民の抵抗も
  しかし、流れを逆転させる提案には反対も強い。昨年、ベルギー、イタリア、フランスは、年金給付年次の引き上げなどを含む改革案を提示したが、国民からの強い反対にあった。メルケル首相のドイツも、退職年齢を2008年から2032年の間に65歳から67歳へ引き上げるについて、速度を遅らすことを余儀なくされた。現時点では2008-2032年の間に1年について1ヶ月増やすことになっている。

待ったなしの日本
  日本は今後10年に15-64歳層が年74万人ずつ減少する。企業はきわめて深刻な労働力不足に見舞われる。すでにその前兆はいたるところにみられる。フリーター、ニートなどに気をとられている間に、働き手がいなくなってしまうのだ。企業としては、選択肢は限られている。
1) 定年延長
2) 定年制度廃止
3) 再雇用
のいずれかを選ぶしかない。本来、働き続けるか、引退して余暇を楽しむかの選択は、法律などで定められるのでなく、労働者が自分自身の意思で選択することが望ましいのだが、現実はそれを許さない。アメリカなどわずかな国が年齢による差別禁止の理由で定年制を廃止している。日本の企業は、ほとんどが再雇用という形を採用するのだろう。定年延長は制度が硬直的になりやすい。従業員の高齢化は生産性にも影響する。

「第3の時代」は蜃気楼か
  退職は労働生活へのご褒美ではなくなった。今までよりずっと長く働き、健康に恵まれ、平均寿命より長く生きれば年金で余暇を楽しめるということになるのだろうか。1889年、最初の「福祉国家」の基礎を創った宰相ビスマルクの時代へ逆戻りするような感じがする。

  ちなみに、ビスマルクの時代に初めて国家として高齢市民に対する扶助責任が明らかにされ、「高齢者」の範囲が確定された。この時に65歳が基準として採用されたが、取り立てて明確な理由は存在しなかった。1880年代の平均余命は40-45歳で、ビスマルクの保険数理士が進言したように、為政者の財源にとってきわめて「安全な」設定であった。なお1889年時点で、ビスマルクは74歳、きわめて壮健であった**
  
    その後、イギリス、アメリカなどの諸国は、ビスマルクの前例にならい、65歳という年齢が次第に給付適格年齢として採用され、また退職の年齢としても使われるようになった。
  
    社会保障制度もその後大きな変遷を遂げたが、厳しい労働生活に耐えて生き長らえた人々だけが年金生活を享受できる。年金保険料の「元を取る」のも厳しくなった。一時は人生に「労働」の時期の後に、自分のやりたいことが楽しめる「第3の時期」が生まれそうに見えたが、蜃気楼だったのだろうか。


Reference
* 
“The New Old Age”, Newsweek , January 30, 2006

**
U.S. Congress. Senate. Special Committee on aging. The Next Steps in Combating Age Discrimination in employment Policy. Washington, D.C., GPO, 1977.

 

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ラ・トゥールを追いかけて(61)

2006年02月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
St. Mattews
Cortesy of Olga's Gallery
http://www.abcgallery.com/L/latour/latour12.html


宗教改革の流れに棹さす画家(6)
 

  次々と広がる宗教改革の動きに危機感を強めながらも、ローマ・カトリック教会は、布教の前哨線となったロレーヌには大きな期待をかけていた。ジェスイットなどのカトリック諸派は、布教の精神的風土を確立するに有効と思われることを次々と実行に移した。教会・修道院の充実と併せて教育の拠点つくりにも乗り出した

  ロレーヌ公シャルル3世は、一時はフランス国王の座を目指したといわれるが、アンリ4世(1589-1610)の即位によってフランス王への望みが絶たれた後、 ロレーヌ公国とフランスの融和、安定化に努め、ナンシーにも新市街を造営して文化的な発展も図った。

布教の拠点としての大学
  神学を教え、プロテスタントの攻撃に対抗するための知的・精神的基地とするため、ローマ・カトリック教会はロレーヌ公シャルル3世と協力して1572年ナンシーに近いポンタ・ムッソンにジェスイットの大学を設置した。ツール、ヴェルダン、メッツの3司教区からほぼ等距離の地であり、布教上の拠点として選ばれた。ポンタ・ムッソンの大学は、この地域のカトリック教育と布教の基地として、さまざまな活動を行った。

  ロレーヌのカトリック改革者として知られ、ル・クレAlix Le Clercを助けて女性の教育にあたる修道女のためにノートルダム修道会 Congregation of Notre Dameを設立したピエール・フーリエ Pierre Fourier(1565-1640)もポンタ・ムッソンの大学で学んだ。フーリエはカトリック宗教改革の中で、芸術が果たす役割を認識していたといわれる。1616年、自分の教会のために絵画を注文したりしていた。彼はスペイン審美主義に傾倒していたといわれ、1623年にはリュネヴィルのサン・レミ修道院の改革を委託され、翌年にかけて同地で過ごした日々が多かったことが知られており、ラ・トゥールとの交流があったかもしれないと推察されている。

  フーリエはカトリック宗教改革の方向に深く心酔していたので、1634年にフランス軍がロレーヌに侵攻した時、ルイXIII世(1610-43)への忠誠誓約書に署名することを拒み、逃亡している(Conisbee 75)。

影響力のあったフランシスコ派
  カトリック宗派の中で、フランシスコ派はジェスイットのスコラ主義よりもポピュリストで情緒的な運動だった。ジェスイットは法王に近く、カトリックの教義の学問的・理論的防衛に専心していた。ラ・トゥールの時代に、フランシスコ派はロレーヌで最も活動し、聖人の役割、巡礼などプロテスタントが攻撃した点をむしろ守ろうとしていた。そして芸術家に最も影響力のある精神的な源となっていたようだ。

  伝統的に、ロレーヌの社会階層はカトリックの強い影響下にあり、プロテスタントに傾いてはいなかった。地方で保守的であったことも影響して、一般大衆は宗教改革の衝撃を他の地域ほど強く感じていなかった。しかし、すでに1530年代には宗教改革を求める運動は、燎原の火のようにフランス全土に及んでいた。各地で宗教紛争が続発していた。

  ロレーヌでは新しく貴族に列せられたいわゆる法曹貴族 nobless de robe(貴族は元来、武人とされた)も、侯爵によって任じられることもあって、ほとんど常にカトリック側についた侯爵に加担した。このカソリックへの傾斜は侯爵たちのスペインと神聖ローマ帝国への強い結びつきを意味していた。

強行姿勢のロレーヌ公
  ロレーヌ公国のシャルルIII世、アンリII世、そしてシャルルIV世は、いずれもプロテスタントに対して弾圧的な政策をとった。彼らはプロテスタントに他地域への逃亡を強い、宗教的寛容さに関するフランス王のアンリIV世のナントの勅令(1598年発布。フランスの新教徒ユグノーに信仰の自由を認めた)を決して受け入れなかった。それにもかかわらず、ロレーヌにいた少数のプロテスタントは、教会が注意する対象となっていた。ラ・トゥールが生まれ育ったヴィック=シュル=セイユがあるメッス司教区などには、人文主義に根ざした文化の開花に伴って、プロテスタントが浸透を見せていた。  

  ボルドーの東南約120キロの所にあるネラックという小さな町に、ナヴァール公国という小さな公国があった。1526年に公妃となったマルグリートは、宗教改革の唱道者たちの庇護者であった。    

  1589年、ナヴァール王アンリがフランスの国王アンリIV世となった時、ロレーヌの侯爵たちはシャルル3世がフランス王に対して忠誠を誓ったつながりがあるにもかかわらす、フランスに対抗する側に立った。彼らはスペインおよび神聖ローマ帝国側に加担したのである。とりわけスペイン側についた。それは聖俗一体の理想的なキリスト教国家を創ったスペインに期待したからであったと思われる。

  すでに記したように、ラ・トゥールはロレーヌ公国に拠点を置きながらも、フランス王室とも深くつながりを持っていた。この画家の生き様を知るためには、フランス王室との関係にも立ち入らねばならない。ラ・トゥールの精神世界と制作態度にはさらに究明したい多くの問題が残っているが、ひとまず世俗の世界へ立ち戻ることにしよう。

Reference
Choné, Paulette. 1996. Georges de La Tour: un peintre lorrain au XVIIe siecle. To urnai: Casterman.
Conisbee,Philip ed.1996. Georges de La Tour and His World. Washington D.C.:National Gallery of Art & New Heaven: Yale University Press. 
Heckel, Brigitte et al. 1997. Georges de La Tour: L' exposition du Grand Palais. Paris: L'Oeil.
Taveneaux, René. 1960. Le Jansénisme en Lorraine 1640-1789. Paris: Librairie Philosophique J. Vrin.

大野芳材「ロレーヌのラ・トゥール:画家を育んだ世界」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年
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ラ・トゥールを追いかけて(60)

2006年02月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
宗教改革の奔流に棹さす画家(5)

カトリックの強い影響下にあったロレーヌ
  ラ・トゥールが生涯を過ごした16世紀末から17世紀前半、フランスそして当時はフランスから独立していたロレーヌ公国の宗教といえば、圧倒的にカトリックであった。それにもかかわらず、プロテスタントの宗教改革の思想は、この時代にはさまざまな経路を通して一般民衆のレヴェルまで届いていたと思われる。とりわけ社会の上層部を占める知識人にとっては、厳しい選択を迫る課題であったことは間違いない。信仰は彼らの精神世界において、現代とはおよそ比較にならないほど大きな比重を占めていたからである。

  プロテスタント側でもルター派の場合は、カルヴァン派よりは当時の宗教風土に近かったといわれるが、聖人崇拝や煉獄への崇拝を拒否していた。プロテスタントの批判は信仰の原点に関わるだけに、精神面への衝撃が大きかったことと思われる。

失墜したカトリック聖職者の権威
  他方、日常目にする現実においても、宗教改革派の攻撃対象となった聖職者の「堕落」と「権威失墜」は教会制度を揺るがし、教会は宣教の使命を遂行することが困難になっていた。 宗教改革は起こるべくして起きたともいえる。カトリック教会を基盤としてきた社会はさまざまにほころびが目立ち、揺らいでいた。ロレーヌは別として、フランスでカトリックが最も激しい攻撃にさらされたのは、1530-40年代であったといわれる。   

  こうした中で、カルヴァン派を中心とするプロテスタントの影響力は、激しい迫害の繰り返しにもかかわらず、ロレーヌでも都市から農村部へと少しずつではあるが浸透していた。しかし、小都市や農村においては、庶民がプロテスタントとして生きることは日常生活から疎外されるような状況であったろう。ながらくとり行われてきた諸聖人の祝祭なども彼らの生活の一部であったはずである。実際、誕生の洗礼式から結婚、葬祭にいたるまで教会は広く深く彼らの生活に根を下ろしていた。また、貴族などの上層階級は国家の宗教という大きな圧力を感じていたし、国家はさまざまな強制で彼らを束縛していた。

ロレーヌの宗教風土
  こうした状況の下で、アルザス・ロレーヌではカルヴァン派、ルター派、そしてカトリックの諸派がいわばモザイク状にそれぞれの属領を形成していた。とりわけロレーヌはカトリック教会側にとっては、プロテスタントの浸透を阻止する上で、最も戦略的な意味を持ったいわば前哨の役割を負っていた。

  中世以来、ロレーヌは「修道院の地」と呼ばれたほどローマ法王が重視してきた地域であった。法王は多数の教会、修道院がロレーヌに存在することがプロテスタントの脅威に対抗する道と考えていた。そのこともあって、ロレーヌのカトリック教会や修道院の数などは他の地域に比較してきわめて多かったことが知られている。

  教会はプロテスタントと戦う前線として、ロレーヌに格別の配慮をしてきたといえる。あらゆる宗派の修道僧は16世紀終わりから17世紀にはロレーヌに派遣され、活動していた。トレント会議も既存の教会、修道院の改革と新たな布教機関の拡大を推奨してきた。ラ・トゥールについてのカタログや研究書がしばしば依拠するタヴェノーの研究によると、ロレーヌに教会・修道院を設立する動きのピークは1610年頃といわれる。こうした動きはロレーヌ全域に広がり、特にフランシスコ派の教会で拡大した。1630年頃、ロレーヌにはフランシスコ派だけでも80の教会、修道院があった。

  カトリック教会側は防衛と立て直しに懸命となっていた。この地の侯爵、ジェスイット派、フランシスコ派、ベネディクト派の聖職者たちは、プロテスタントに対抗する精神的熱情を持っていたようだ。彼らは反プロテスタント、反フランスの中核的役割を果たしていた。このような宗教的・精神的風土の中で、人々はそれぞれの選択をことあるごとに迫られていた。画家ラ・トゥールも当然例外ではない。彼の身辺で起きていたことについては、別途しるすことにしたい。

Reference
Choné, Paulette. 1996. Georges de La Tour: un peintre lorrain au XVIIe siecle. To urnai: Casterman. Conisbee,Philip ed.1996. 

Georges de La Tour and His World. Washington D.C.:National Gallery of Art & New Heaven: Yale University Press.

Heckel, Brigitte et al. 1997. Georges de La Tour: L' exposition du Grand Palais. Paris: L'Oeil.

Taveneaux, René. 1960. Le Jansénisme en Lorraine 1640-1789. Paris: Librairie Philosophique J. Vrin.

大野芳材「ロレーヌのラ・トゥール:画家を育んだ世界」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

グザヴィエ・ド・モンクロ(波木居純一訳)『フランス宗教史』白水社、1997年
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あなたの前に国境は開かれているか

2006年02月13日 | 移民政策を追って

あなたの前に国境は開かれているか

  グローバル化が進んだ世界でも国境は暖かく迎えてくれるとは限らない。ある国民には開かれていても、別の国民には国境は冷たく、閉ざされている。 国境は単に地図上に引かれた線ではない。目に見える国境も、見えない国境もある。

  国境の開放度を示すひとつの興味深い指標がある。ある国の国民が査証visaを要求されることなく、目指す国へ入国できるかどうかという数値である。あまりお目にかかることのない珍しい統計なので、ご紹介しよう。(査証の条件は記されていないが、短期滞在の場合と考えられる。多くの国では相互免除になっている。)

  一寸驚いたことは、日本人はアメリカと並びきわめて優遇されていることである。125近い国へヴィザなしで入国が認められている。EU15カ国平均よりも上である。

  これに対して、パキスタンの場合、17カ国しかヴィザなし入国が認められていない。インド、中国も同様である。不法滞在などの可能性が高いからだろうか。韓国が115カ国に認められているのに北朝鮮は18カ国である。国境はきわめて政治的存在である。その背景を考えると、なかなか興味深いものがある。

Reference
"Visa Restrictions". The Economist February 11th 2006

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ぜーベルト『目眩まし』を読む

2006年02月12日 | 書棚の片隅から

W・G・ゼーバルト(鈴木仁子訳)『目眩まし』白水社、2005年  

  息抜きのつもりで読み始めたのだったが、やはりしっかりと読まされてしまった。この作家の作品は『アウステルリッツ』『移民たち』*を読んで、かなりスタイルには慣れていたつもりであったが、前作以上に手強かった。

  なにしろ、スタンダールの旅、カフカの旅と、自分の旅を重ね合わせる構成となっている。『移民たち』ときわめて似た構成ではある。しかしながら、今回は文豪の旅と重なり、一段と重厚味を増している。スタンダール、カフカはあまり読んだことがない。文学専攻の友人の話に出てきた時などをきっかけに、いくつか読んだきりだ。

  作家が自ら楽しみ、読者を翻弄するかのように技巧のかぎりを尽くして編み込んだ虚構の世界と作家の実体験とが、文字通り虚実の隔てなく次々と展開する。時の流れを縦糸に、空間を横糸にした織物に作家が思うがままにストーリーを編み込んでいる。文学カテゴリーとしても、小説なのか、回想なのかも分からない。ぜーベルト独特の世界というほかはない。

  題名につられて読んだ『移民たち』もそうであったが、この作家のとりあげる舞台は、不思議となじみのある土地が多いのも、ひきつけられて読んでしまう源である。インスブルックからブレンナー峠を越えて北イタリアにいたる地方は、生涯の友人となったドクターK(インスブルック大教授)夫妻と旅したことがあり、位置関係が浮かんでくるので迫真力を持ち込んでくれる。ある年の夏、ガルミッシュ・パルテンキルヘンからインスブルックを通り、ブレンナー峠を越えてボルツアーノ、ベローナへ抜けた記憶がよみがえってきた。
  
  第二話「異国へ」に出てくるイタリア、リモーネのホテルで、パスポートをとりちがえられて紛失する事件など、警察署の証明の写真などが出てくる。これもゼーベルトの作品の特徴ではあるが、果たして本物なのだろうかと思わせるのは例のごとくである。すっかり、作家の術中にはまった感じがする。

  四つの物語というのが、『移民たち』に続き、不思議なプロットである。なぜ四つでなければならないのか。これ以上少なくとも、多くとも成立しないという微妙な数である。

  ゼーバルトは人生の後半をイギリス、イーストアングリア大学での教員をしながら、作家活動を続けていた。ここのクリエイティブ・ライティング・コースは、あのカズオ・イシグロ**やトレーシー・シュヴァリエ***が学んだところでもあった。どんな教育をしているのだろうかと興味が尽きない。

本ブログ内関連記事

*  
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/7cf3df99ccfd335c17c8134302da6a7c
**
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/481ff293f2a1eaf4f1957dfb7b353827
***
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/b67799fe64fc5e88cc35ff7ea57b5daf

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ラ・トゥールを追いかけて(59)

2006年02月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

宗教改革の奔流に棹さす画家(4) 

  宗教改革とそれを受けて立つ立場にあったカトリック宗教改革の狭間で、ヨーロッパの美術の世界も大きく揺れていた。盛期ルネッサンス(High Renaissance)の後に登場したマニエリスム*は、次第に当時の時代の要請、とりわけ宗教改革の衝撃を受けたカトリック教会の考える改革の方向にそぐわなくなっていた。

  後にマニエリスムといわれるようになった傾向は、盛期ルネッサンス後、ほぼ二つの段階を経たと考えられる。総じて、「反古典的」 anti-classical であったが、前半の段階1520-1550年頃までは「崇高」「純粋」「理想主義的」「抽象的」レヴェルを目指したものであった。後半の段階1550-1580年頃では(ラファエッロやミケランジェロに倣ったという意味で)定式化、固定化したマニエリスム di manieraへと移っていった。

  実際にいつ頃からどの画家をマニエリスムと呼ぶかについては、ルネサンスがいつ始まり、終わったかを確定できないように、難しい問題ではあるが、盛期ルネッサンス後、一般に芸術の質が低下したと考えられていた。その理由としては目新しさを求める結果のひとつとして、すべてではないが、かなりの画家の間で、形式化、反古典的、非現実的な描写などの風潮が目立つようになったことが挙げられていた。

トレント会議はなにを目指したか
  ローマ・カトリック教会の方向を定めるトレント会議は1561年に行われた第9回の公会議で、芸術に課せられた役割を定めている。その概要は次のような点にあった。カトリックでは宗教的絵画は信仰の高揚ために重要な意味を持つとされた。その具体化についての方向は、1)明瞭さ、簡潔性、知性、2)現実的な解釈(正確さ、上品さ、格調)、3)敬虔に導く動機づけなどであった。トレント会議後、1580年頃から進行したカトリック改革は、盛期ルネッサンスの精神を取り戻すという意味も含まれていた。

   こうした時代の流れを念頭に、ラ・トゥールの作品を見てみると、かなり興味ある点が浮かび上がる。一般にこの画家の作品構図は簡潔そのものだ。背景、静物、風景、複雑な描写、根拠があいまいな人物などはいっさい描かれていない。とりわけ宗教的テーマについては、ほとんどの作品は一人か二人の人物しか描いていない。背景もほとんど具体的なものは何も描かれていない。見る者は主題とそのメッセージを雑念なく、受けとることができる。 作品に接したとたんに、主題に引き込まれる。

確固たる制作意図
  このことは、ラ・トゥールがきわめて明確な意図、方向性をもって制作していたためと考えられる。今日残っている作品をみるかぎり、悔悟する聖ジェロームを描いた一枚だけにかすかにハロー(光輪)をつけている。他の多くの宗教画にみられる天使の翼も描かれていない。使徒・聖人も普通の人から遠く離れた存在ではない。しかし、「大工聖ヨセフ」の子供にしても、人間なのか天使なのか、きわめて不思議な存在として描かれていることに気づく。

  ラ・トゥールは主題の選択の時から、カトリック宗教改革が目指すべき精神をしっかりと感じていたに違いない。選ばれた主題の多くは、プロテスタントがとりわけ非難した対象であった。この硬骨な?画家は、プロテスタントの批判が向けられた対象を、ことさら選択して描いたようにさえ思われる。

  画家はトレント会議が光を当ててほしいと願った、それまであまり取り上げられなかった主題もいくつか描いた。 初期の教会の創設者、その殉教者に焦点を当てている。トレント会議は、ローマ・カトリック教会こそ、キリスト教信仰の創始者たちの唯一正当な継承者であることを主張していた。

*マニエラ(イタリア語maniera)が語源。マニエラは「手作り」「モード」「スタイル」「方法」などの含意を持つが、美術用語としては「様式」に近い。 マニエリスムとは「通常以上に強調点を作風や様式の上に置く傾向」(バーク、80)。

Reference
ピーター・バーク(亀長洋子訳)『ルネサンス』岩波書店、2005年

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医療立国への道

2006年02月08日 | 移民政策を追って

外国人看護師受け入れと医療立国の道

  最近アジアの医療・看護問題の調査に関わっている時に、ひとつの新聞投稿を読んだ*。シンガポールの国際問題研究所の研究者によるフィリピン、インドネシアなどのアジア開発途上国からの医師、看護師などの海外出稼ぎについての観察とアドヴァイスである。

    その論点自体はこのブログでも再三とりあげてきたものであり、とりたてて新味はないが、シンガポールの研究者による日本の新聞への寄稿という点で、われわれ日本人が十分考えねばならない問題を含んでいる。現在行われている衆院予算委員会などの審議の場に、外国人労働者の受け入れ問題も登場してはいるが、言葉のやりとりだけに終始し、深く考えられたものではない。与野党どちらにも議論前進の方向が見られない。

20年無為に経過してしまった移民労働者問題
  80年代後半に、日本にアジアや南米から外国人労働者が来るようになってから20年余りが経過した。彼らにとっても先が見えない日本だが、ここで将来の構図を検討しておかなければ、近い将来大変なことになるだろう。先が見えないままに外国人の定住化が進んだ。どうすれば、彼らと言葉に真の意味で「共生」していけるか。おそらく今が政策構想を描ける最後の時だろう。

  世界には自国に十分な雇用の機会がなく、多数の出稼ぎ労働者を海外に送り出している国がある。アジアではフィリピンやインドネシアが代表的な存在である。最近では医師や看護師などの高度な熟練・技能を持つ人材の流出が目立つようになった。出稼ぎ先として目指す国々は、中東諸国や日本、台湾、韓国などである。こうした国々は人口減少に伴って労働力人口が減少し、高齢化に悩んでいる。看護師・介護士などの分野での人手不足は厳しくなるばかりである。

労働者を「輸出品」と考える国
  送り出し国側は自国に十分な雇用機会がなく、政府としても海外出稼ぎを支援していることが多い。国内に多数の仕事のない労働者を抱えていることについての不安を少しでも解消したいという政治的配慮も働いているかもしれない。輸出するものがないから労働者を「輸出」すると公言する政府もある。

  代表的な移民送り出し国であるフィリピンは、人口の1割、800万人近くを船員、看護師、介護士、家政婦、教師などとして、世界中に送り出している。

    彼らが本国に送金する額はフィリピン中央銀行によると、出稼ぎ労働者からの本国送金は2005年には103億米ドルに達した。伸びも大きく、10年前の2倍以上に達している。これ以外に非公式の送金もあり、実際の送金額は公式統計を大きく上回っている。

有効に使われない送金  
  しかし、これらの送金が国の発展に効率的につながっているかというと以前から疑問視されてきた。実際にそれらの大半は本国家族の衣食住や医療などの日常支出に消えてしまい、貯蓄や生産的投資に使われるのは一部にすぎない。結果として国内に仕事の機会を創り出す効果が少ない。

  フィリピン政府は経済発展が軌道に乗るまでの期間、海外出稼ぎに依存すると主張してきたが、現実には長期にわたって出稼ぎが続き、むしろ出稼ぎに頼って外貨収支を補填するなど、出稼ぎ送金依存の体質が根づいてしまっている。海外出稼ぎ者(移民)の送金する外貨によって経済を発展させるという「移民立国」の考えは、実態として成立していない。

  自国の医療・看護水準は劣化するばかりだが、そこには望ましい方向へ軌道修正をさせる力はまったく働いていない。出稼ぎを前提にして職業選択をする人々、労働者を「輸出」することを当然と考える政府機関など、個々の主体には全体を見渡す視野が完全に欠落している。「移民亡国」になりかねない状況すら展開している。

  海外出稼ぎはあながち否定されるべきではないが、出稼ぎ移民、彼らが外国で獲得する熟練・技能、そして母国への送金、帰国後の本国経済への貢献などの間に、適切な循環が生まれるように、関係者の間での十分な検討が必要とされよう。

必要な発想転換
  
ここにとりあげた新聞への寄稿は、この点についての提案である。FTA(自由貿易協定)では、このような送金依存経済を促進するリスクがある出稼ぎに代えて、アジア地域が持つ優位点、研究開発や高等教育を基礎に前進する手だてを模索する必要があるという内容である。これは、きわめて適切な提案であろう。

  日本など受け入れにまわる先進国の責任は大きい。単に受け入れの形式だけ整えて事態を糊塗している。日本の看護師・介護士などの労働条件の改善が先決だとして、受け入れ数を制限しても医療現場の環境は良くはならない。高齢化の急速な展開の前に、医療介護の内容は劣化し、一部には荒涼たる状況も生まれている。

  まったく別の視点に立った構想が必要だろう。日本、シンガポールなどがアジアを視野に入れた国際医療センターをひとつの柱として、未来に向けて立国の道を構想すべきではないか。すでにシンガポールはその方向に舵を取っている。

  マクロ経済は回復しているかに見えて、国民の間には将来への不安が高まっている。その大きな部分を占めているのが、医療、年金などの社会保障の将来である。国民に希望を与え、アジア諸国に貢献する道を構想することで、新たな光も見えてこよう。その構図作りの中で、海外出稼ぎのためにとめどなく流出する医師・看護師などの実態も、改めて位置づけることができるだろう。
   

Reference
*キム・ベン・ファー「海外出稼ぎ、送金依存が発展の足かせに」『朝日新聞』2006年2月4日

本ブログ内の関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/664a1940d26919e39a4cd980c24a30f9
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/9c89ab8d98c01f7b2f6959da6991feea
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/7f5278267f8243515ba252bca2619336
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/ce3a53d4b89d8a6d758de886ad438afd

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ラ・トゥールを追いかけて(58)

2006年02月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

宗教改革の流れに棹さす画家(3)
 
画像イメージの強い影響力
  デンマークのユランズ・ポステン紙が昨年9月30日に掲載したイスラム教の予言者マハンマドを風刺した漫画が、ヨーロッパの各国で転載され、イスラム世界の激しい反発を招いている。あたかも
キリスト教とイスラム教との間で、宗教的対立の様相を呈している。この状況を見ていると、図らずもプロテスタントが生まれた時代における状況を思い出した。当時、狼(オオカミ)やロバの顔をした反キリストのローマ法王が描かれたり、聖霊の象徴と考えられた鳩を伴ったルターが描かれたりしていた。昔も今も、画像イメージのもたらす衝撃はきわめて大きい。

  宗教改革が生まれた16世紀前半の頃から17世紀に入っても、彫刻、絵画などのイメージは宗派の別を問わず、布教の上でもかなり重要な位置を占めていた。特に、カトリック教会側は長らく文字印刷文書を布教手段とすることに消極的であったようだ。当時の識字率の問題もあったのだが、聖書などは教会聖職者が読み説くものと考えられてきた。教会、修道院には筆写を専門とする僧がいて重きをなしていた。
 
  プロテスタントからの宗教絵画に対する批判について、カトリック教会側はトレント会議を中心に、対応策を協議してきた。ラ・トゥールがどの程度までこうした宗派間の争いについて知っていたのかは分からない。しかし、今日に残る作品から判断するかぎり、この画家は問題の本質をきわめて鋭く見抜き、自らの制作活動に生かしていたと思われる。いくつかの気づいた点について、記してみよう。

教会の意図を読んでいた画家
  ラ・トゥールのテーマにはしばしば、使徒の悔悟の場面が取り上げられている。悔悟の行為は宗教改革側から厳しく非難されていた。しかし、この画家はこのテーマをむしろ積極的に描いている。マグダラのマリアの主題もそうであり、ジェローム(ヒエロニムス)の2枚、そして聖ペテロの涙もそれであった。現存する作品全体40余りの中で8枚という比率はかなり大きい。 ジェロームの場合も悔悟者として描かれているが、半裸の老人の肉体はきわめて髭や皮膚の皺まで克明に描かれ、ラ・トゥールの徹底したリアリズムへの傾注がうかがわれる。しかし、石やロープでわが身を打つ使徒には、苦痛の色がない。それでいて、この絵を見る人は、描かれた人物が聖ジェロームであることを直ちに読み取れる。

  聖ジェロームを描いた別の作品は、悔悟ではなく初期の教会への貢献を扱っている。聖人はめがねをかけて手紙を読んでいる。聖書を翻訳し、教会を設置した彼の知的な性格を強調している。 これは、カトリック教会側がトレント会議を通して意図した、教会初期の事績の再発見の方向にも沿っている。

   また、聖家族についても、プロテスタントはマリアが代表的な位置を占めることを否定していた。彼らはマリアに過度な重点が置かれれば、キリストを代替することになってしまうと信じていた。 こうした批判をラ・トゥールがどれだけ意識していたか否かは不明である。しかし、現存するラ・トゥールの作品では、マリアは一人では描かれていないし、中心的な人物としても描かれていない。「羊飼いの礼拝」、「降誕」などでも、マリアは二次的な人物として描かれている。 宗教改革派の台頭後、1世紀近くを経過した17世紀前半には、カトリック・プロテスタント間の対立の論点は、貴族など社会の上層部、知識階級の間ではかなり知られていたのかもしれない。

  「聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」も、プロテスタントによって批判されたならわしを扱っている。ラ・トゥールは聖人の存在を正当化している。聖セバスティアヌスはロレーヌに悪疫が流行した当時、守護神としてあがめられていた。矢の傷跡が悪疫の苦しみにたとえられた。聖イレーヌの役割も、ラ・トゥールの作品では聖セバスティアヌスと同じくらい重要である。聖イレーヌはプロテスタントから批判された慈善の行為を象徴している。 しかし、これらの作品を見ても、それほど強い宗教画のイメージはない。しかし、穏やかなトーンで含意が伝わってくる。

生まれる個人的なつながり
  ラ・トゥールは、使徒・聖人は普通の人の中から生まれたように自然に描いている。それはトレント会議が目指した方向だった。普通の人のように描かれたある使徒・聖人と見る人の間に、個人的なつながりが生まれる。自分の守護神はこの使徒・聖人だという思いが強まるのだろう。

  同じ使徒を描いても、カラヴァッジョやヴァンダイクとは発想が反対である。 しかしながら、このような選択をしたラ・トゥールの絵画に教会がどのような受け取り方をしたかも明らかではない。

  ラ・トゥールは1610年のカラバッジョの死後しばらく活動した。カトリック教会がカラヴァッジョの対応に衝撃的を受けたことは事実だが、ラ・トゥールのアプローチについては、どうであったかは不明である。 「アルビの12使徒シリーズ」などを例外とすれば、この画家は教会や修道院などの以来を受けての仕事は、あまり引き受けなかったようだ。仕事の多くは個人的パトロンなどの依頼が主となっていたようである。
  
  ラ・トゥールはさらにカトリック教会初期当時からあまり描かれることのなかった聖アレクシスも描いている。カトリック宗教改革は中世にはよく知られていたこの主題への興味を新たにした。聖アレクシスの生涯はその貞節のゆえにカトリック宗教改革の時代においてジェスイットのドラマの主題となった。 ラ・トゥールはトレント会議の示した方向性を十分に理解し、作品に表現したのではないか。

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/aa27083f9ff60cd555c7f5cdaac1f3b8

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日本は不幸せな国なのか

2006年02月03日 | グローバル化の断面
  日本経済は10年前と比較して、良くなったのか悪くなったのか。立場によってかなり見方は異なる。ライブドア事件後の株価の動きなどに見られるように、一時期とはかなり様相が変わってはきた。長期にわたった深刻な停滞から漸く脱出する兆しが見えて、最近はかなり明るさも感じられるようになった。国会論争でも「光」と「影」という表現で、議論の応酬が見られる。この点を判断するに、このごろはあまり見かけなくなった「ミザリー(悲惨度)指数」*が計算されているのを見かけたのでご紹介しておこう。

  これは元来は失業率とインフレ率を加算したものである。別に公式に認められた統計指標ではなく、ひとつの簡単な目安としてアメリカの経済学者アーサー・オークンが1970年代の第一次石油危機後の状況を示すのに紹介したものであった。当時は失業とインフレが併存し急増していたので都合がよかった。そして、カーター大統領がしばしば引用してよく知られるようになった。

  今回紹介するのは、メリル・リンチのエコノミストが、この「ミザリー指数」に少し手を加えたものである。失業率とインフレ率に加えて、利子率と予算および経常収支差を加えた上で、そこからGDP成長率を差し引くという内容である。いいかえると、この指標は今日経済がどのくらい明るく感じられるかということに加えて、予算と経常収支差を加えることで、その国が今後どれだけ明るさを維持できるかという視点を加えている。たとえば、大きな予算収支のマイナスは将来における増税の可能性を暗示すると考えられる。

  アメリカについてこの指標をみると、G7諸国の中でも巨額な赤字の故に、高い数値になっている。過去10年間についてみると、アメリカは指数が悪化した唯一の国である。その他の国はEUを含めて、かなりの改善が見られる。 ここに挙げられた諸国の間で最も顕著な改善を見せているのはカナダである。アメリカと地続きの隣国だが、経常収支と予算ともに黒字である。

  日本は判断の難しい存在である。10年以上の停滞の後、1994年の水準に戻っているような印象だが、日本だけがデフレを悪い要素でなく、良い要素と考えている。 少なくもそう考える人々が多い。指標が示す数値自体は、悪くはないのだが、国民の間に存在する将来へのさまざまな不安感は、世論調査などを見ても他国よりもはるかに大きい。目先の事態を糊塗するだけで、将来の構想を示し得ない政治の責任というべきだろうか。


Reference
* 'Les misérables' The Economist January 14th 2006
コメント (2)
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複雑怪奇な国境の風景

2006年02月02日 | 移民の情景

国境の複雑怪奇:アメリカ・メキシコ国境のトンネル

  メキシコ北部の町ティファナから国境を越えて、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ近くに抜ける730メートルの地下トンネルが見つかった。その後、調査が進むにつれて、予想を超える大規模なものであることが分かってきた。
  
  メキシコ側のトンネル入り口はティフアナ空港近くの倉庫の中にあり、縦穴を滑車で約15メートル下に降りる。トンネルは照明や換気、排水装置を備え、床はセメントで固めた精巧な作りであった。内部からはマリファナ2トンも見つかった。出口はアメリカ側カリフォルニア州オタイ・メサ地区にある2階建て倉庫にあった。

  このトンネルの発見にはアメリカ陸軍の地下探索装置も使用されたらしい。 このトンネルがきわめて大規模な麻薬の密輸に使われたことはほぼ確かなようである。犯罪組織の規模も非常に大きいと見られている。CNN
がこのトンネル発見当時の状況を動画で紹介しているが、その大規模さが伝わってくる。

  9.11以降も20本以上のトンネルが見つかっているが、そのなかでも最長のものとされる。アメリカ国境警備局は麻薬カルテルが密輸に使っていたと見て、捜査を始めた。

  日本人の観点からすれば、あれだけの長い国境線が続くのだから、わざわざこれほど大がかりなトンネルを掘らなくてもと思うかもしれない。しかし、地上の国境警備体制は9.11以降、格段に厳しくなっており、あらゆる科学的探索手段が使われている。 他方、CBSが伝えるビデオ画像を見る限りでも、犯罪組織の巨大さがうかがわれる。

  島国日本にとっては幸い海の向こうの話にとどまっているが、以前にこのブログ*で書いたように、大陸と続いていたならどんな状況になっているか、空恐ろしい話である。

Source
CNN.com
http://www.cnn.com/2006/US/01/26/mexico.tunnel/

*本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/cd515fcd50fe7819a506ac94ce910b94

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