時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

アートと経済

2024年05月31日 | 書棚の片隅から


ジュリアン・ブライアン・ウイルソン『アートワーカーズ:制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』表紙


「アート(芸術)」と「経済」という領域は、双方がかなりかけ離れた位置を占めるように思われるかもしれない。しかし、筆者の思考の中では長らく互いに近接し包摂し合う領域として存在してきた。17世紀の画家たちに惹かれ、探索を始めた動機のひとつは、画家という職業を社会的に支えた徒弟制度という熟練形成(人的資本投資)の仕組みであり、作品の販路としての市場形成を含め、彼らの生きた時代環境を「額縁」という狭い視野から開放して、広く美術作品の社会経済的・文化的位置を考えてみたいという点にあった。世の中の一般のブログとはかなり異なる断片的な覚書きを、四半世紀近く継続している理由でもある。


混迷の中の現代アート
西洋美術史上のバロックの時代を過ぎ、印象派、そして今日の現代美術に到ると、そこは17世紀をはるかに上回る激動と混乱の時代であった。現代美術は統一された主導的モティベーションを喪失し、行方の定まらない分裂、離散の状態に置かれている。

美術に限らず、広く芸術の置かれた地位は、大きく揺らぎ、分裂していた。資本主義経済のダイナミックな荒波に巻き込まれ、画家、音楽家、批評家を始めとする広い意味でのアーティストたち、そしてそこに生み出された作品は、目に見えない巨大な力がもたらした分裂・激動の渦中に放り出されていた。

二つの世界大戦を経験し、20世紀も半ばを過ぎた1960年代のアメリカには、ケネディ大統領の就任、そして悲劇的暗殺、ヴェトナム戦争への反戦運動、ブラックパワー、フェミニズム、大規模な労働争議、さまざまな暴動など、社会を激しく揺り動かす激震が展開しつつあった。この社会変動に、アートの世界も無縁ではなかった。激動に抗して、「アートワーカーズ」という集団的アイデンティティが生まれつつあった。自らを「芸術労働者」(アートワーカーズ)と定義することによって、さまざまな社会的アクションを起こしたアーティスト・批評家たちの動きが台頭していた。

書店の店頭でふと目にした書籍の表題に惹かれ、読むことになったのが、今回取り上げる下掲の一冊である。

ジュリアン・ブライアン・ウイルソン『アートワーカーズ:制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』(高橋沙也葉+長谷川新+松本理沙+武澤里映訳) フィルムアート社、2024年
Julia Bryan Wilson, ART WORKERS: Radical Practice in the Vetnam War Era, University of California Press, 2009

著者ジュリア・ブライアン゠ウィルソン:  現在、コロンビア大学美術史・考古学部教授、ジェンダー・セクシュアリティ研究科教員。芸術的労働の問題、フェミニズム・クィア理論、工芸史などを研究している。



本書を実際に手にとって読んでいる内に、ブログ筆者が表題から想像した内容とは、かなり異なったものであることに気づき、正直なところ、最初は少なからず落胆した。

実は、ブログ筆者は1960年代というまさにこの時期に、アメリカ、とりわけニューヨークにおいて「労働」問題の研究に没頭しており、なかでもヴェトナム戦争がアメリカ社会に引き起こしたさまざまな社会変動について多大な関心を寄せていた。そうした事情もあって、本書にはアメリカ全体をカヴァーする「アートワーカーズ」の資本主義への対抗、脱却の動きなどを期待したのだった。


本書プロローグは次の如き、刺激的な文面で始まる(以下、引用部分は緑色表示):

1996年、匿名で書かれた一通の手紙がニューヨークの美術界に出回った。そこに記されていたのは次のような宣言だ。「我々は自分たちが身を置いているシステムを打ち倒し、変革への道を切り開くことによって、革命を支援しなければならない。このアクションは、資本主義から芸術制作を全面的に切り離すことを意味する」。手紙にはただ「とあるアートワーカーより」とだけ署名されていた(邦訳 p.19)。


この時代、現代美術の世界はすでに完全に資本主義経済の濃密な網目に組み込まれていた。美術はその発想、制作から商品化され、作品は商品として美術市場において取引される対象であった。

アートワーカーが自らを組織化し、資本主義的な美術市場の廃絶、さらには革命にまで到ることが出来るのだろうか。

ブログ筆者が懸念した通りだが、本書の焦点は、1960年代、ニューヨークの美術界という特定の時代と歴史的文脈に焦点を定め、その中心となった人物の生き方、活動を追求したものであり、包括的なアートの資本主義化とその呪縛からの脱却を描いたものではなかった。


著者ジュリアン・ブライアン・ウイルソンは、「日本語版の序文」で次のように述べる:
本書は、資本主義的市場からのアーティストの独立、組織化という包括的な主張を展開したのではない。

アメリカのベトナム侵略戦争に対する抵抗を中心とした左派が団結した1960年代後半という爆発的瞬間、そこでの労働と芸術については語れるべき物語があると確信(p.11)したという。


「4人の芸術家(カール・アンドレ、ロバート・モリス、ルーシー・リパード、ハンス・ハーケ)がいかにして左派的な芸術(家?)の組織化に加わったか。」という視点でのケース・スタディにかなり近い。

さらに、「今なら、『アートワーカーズ』という表題はつかないだろう。なぜなら、「彼らはワーカーではなかった」とする方が適切だからだ。」(著者自らが、本書主題設定に際しての事実誤認を認めたというべきだろうか)。

アメリカ国内の芸術は1960年代後半から70年代初めて本格的に「始動」したが、それはアーティストと批評家が共に自分たちをアートワーカーとして自認し始めた時期でもあった(p19)。


彼らが運動の足場として構想した「アートワーカーズ連合」(Art Workers’ Coalition、AWC)は、1960年代末にニューヨークでアーティストや批評家たちによる連合として結成された。AWCへの参加者は、美術館や企業のベトナム戦争への加担、美術館制度の特権性、労働者としてのアーティストの権利などに焦点を当て、さまざまな行動を起こしていたが、AWC自体は数年で活動を終了した。

「日本語版への序文」から、著者の設定した仮説通りには現実は展開しなかったことが判明するが、そのこと自体は本書の価値を低めることにはならない。というのも、この激動の時代には、数多くの衝動的、突発的、革命的な運動や試みが至る所で行われていた。

ベトナム反戦運動、フェミニズム、反人種差別運動、美術制度批判……
1960年代アメリカで、自らを芸術労働者(アートワーカーズ)と定義することによって、アクションを起こしたアーティスト・批評家たちの格闘の記録を鮮やかに描き出されている。

このような混乱の時代、「芸術はいかに社会に応答しうるか?」というのが、著者の提示した主題だった。

ベトナム反戦運動を筆頭に、フェミニズム運動、ブラックパワー運動、ゲイ解放運動、大規模なストライキなど、政治的・社会的な運動が巻き起こった騒乱の1960–70年代アメリカ。美術界では、こうした「アートワーカー」という集団的アイデンティティが生まれつつあった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B. ブログ筆者の記憶から思いつくままに、順不同だが、いくつか記してみよう:
1960年代アメリカの主要社会的事件、変動

1961 年 ケネディ大統領就任演説に始まった1960年代のアメリカは、戦争、政治不信、社会的混迷など、激しい変動の時期を迎えていた(ケネディ大統領は、1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺され、不慮の死を遂げた)。

アメリカのヴェトナム戦争への加担を口火として、アメリカ社会が大きく揺らぎ、分裂、分断の動きが顕著に発現していた。とりわけカリフォルニアなどの街角には、黄色の衣装をまとったヒッピーの姿が各所に見られた。ドラッグ文化、エコロジー、フェミニズム運動など、さまざまな「対抗文化」counter culture が展開した。

大学キャンパスでは、召集令状を皆の前で焼き、召集を拒否する学生、カナダなどへの越境、逃亡を企てる学生などの動きが話題となっていた。他方、いくつかのキャンパスでは、ROTC(予備役将校訓練課程)などの訓練が行われていた。

長距離バスでの人種分離に反対し、人種差別のないバスで南部を目指すフリーダム・ライダースが南部へ向かってワシントンD.C.を出発したが、アラバマでは地元民の暴動が発生、戒厳令が施行された。    

1962年、連邦最高裁が認めた黒人学生のミシシッピ大学入学を州知事と大学が認めず。反対暴動を連邦軍が鎮圧するという事態が発生した。

1964年 公民権法成立

1967年 ニューアーク、デトロイト、ミルウオーキーなどで黒人暴動

1969年、ハーヴァード大学、コーネル大学、シカゴ大学など、全国の諸大学で、紛争が勃発、ROTCの中止要求などが出された。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


芸術に関わるすべての行為を〈労働〉と捉えたアートワーカーたちは、芸術作品/仕事(アートワーク)の意味を拡張し、ベトナム戦争時代の社会不安に立ち向かう。1969年に設立された「アートワーカーズ連合」や、翌年に同連合から派生した「レイシズム、戦争、抑圧に抵抗するニューヨーク・アート・ストライキ」のアクティビズム的な熱を帯びた活動は、ミニマルアートやコンセプチュアルアートなど、制度としての芸術に異議を唱える動向と密接に関係しつつ、展開していく。しかし、内部に多くの矛盾や葛藤を抱えたその活動は短命に終わってもいる。

本書では、ミニマルな作品によって「水平化」を目論んだカール・アンドレ、ブルーカラー労働者との同一化を夢想したロバート・モリス、批評や小説の執筆、キュレーションという「労働」を通してフェミニズムに接近したルーシー・リパード、そして情報を提示する作品によって制度批判を行ったハンス・ハーケという4人の作品や活動を徹底的に掘り下げるケーススタディから、アートワーカーたちによる社会への関与の実相を追求する試みがなされている。

作品という枠組みを超えて、アーティストはいかに自らの態度を社会的に表明できるのか。今日の社会において真の連帯は可能なのか。アートワーカーたちのラディカルな実践は、短い期間に終息したが、その試みと影響は今日でもさまざま形で継承されていると考えられる。

本書を構成する4本柱ともいうべきケース・スタディは、この時代のアーティストたちが試みた先駆的試みとその結末を生き生きと映し出している。しかし、AWCに代表されるそれらの試みが比較的短時日の間に消滅した事実は、この主題を一般化することの困難さを象徴しているといえる。

ブログ筆者としては、1930年代、大恐慌の嵐と労働者のストライキの中、ニューディール政策の一環として、「フェデラル・シアター・プロジェクト」の名の下に展開された動きの中で、さまざまな劇場人たちが活動した事実なども、検討する意味が大きいと考えている。

この時代、音楽家、劇場関係者、警官、教師、消防士、技術者など、従来は労働組合などの組織化とは無縁の職業においても、労働組合、アソシエーションなどの組織化が行われた。しかし、多くの試みが長続きせず、消滅した。こうした経験も本書の如き考察と併せ、検討する価値があるだろう。

参考
目次
日本語版への序文
プロローグ
ラディカルプラクティスに向けて│ベトナム戦争時代

1 アーティストからアートワーカーへ
連合のポリティクス│アート対ワーク│一九六〇年代後半から七〇年代初期におけるアメリカの労働│ポスト工業化社会における職業化
【解題】 「境界」をめぐるアーティストたちの闘争──AWC解説  笹島秀晃

2 カール・アンドレの労働倫理
レンガ積み│ミニマリズムの倫理的土壌│アンドレとアートワーカーズ連合│物質を問題にする/問題を物質にする│戦中のミニマリズム
【解題】 カール・アンドレの階級闘争  沢山遼

3 ロバート・モリスのアート・ストライキ
仕事/作品ワークとしての展覧会│スケールの価値│アーティストと労働者、労働者としてのアーティスト│プロセス│デトロイトと建設労働者/ヘルメット集団ハードハット│ストライキ│勤務時間中のモリス、勤務時間外のモリス
【解題】 ワーカーとしてのロバート・モリス──「脱物質化」のジレンマのなかで  鵜尾佳奈

4 ルーシー・リパードのフェミニスト労働
女性たちの仕事│アルゼンチン訪問│三つの反戦展│アートについて/として執筆する女性たち│抗議を工芸クラフトする
【解題】 個人的なこと、集団的なこと、政治的なこと──執筆家ライター/活動家アクティビストとしてのルーシー・リパード  井上絵美子
「挑発」としての批評とアクティビズム  浜崎史菜

5 ハンス・ハーケの事務仕事ペーパーワーク
《ニュース》│AWCとコンセプチュアルアート──美術館を脱中心化する│情報インフォメーション│ジャーナリズム│プロパガンダ
【解題】 制度批評のありか──ハンス・ハーケと情報マネジメントの芸術労働  勝俣涼

エピローグ
謝辞
訳者あとがき


索引
著者略歴/訳者略歴/解題執筆者略歴/註訳者略歴

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混乱必至のイギリス移民・難民政策

2024年05月25日 | 移民政策を追って

Source:CBS


早朝、TVのニュースを見ると、雨でびしょ濡れのイギリスのスナク首相の顔が映った(5月22日午後)。7月4日に総選挙を行うという。意表を突いた発表だった。メディアも大分慌てたようだ。

首相率いる保守党の支持率は長らく低迷しており、秋にでも総選挙に踏み切るかもしれないと思われてきた。上着のひだに水が溜まるほどの雨の中、傘もさすことなくこの発表をしたスナク首相の脳裏には、これ以上先に伸ばしても事態が良くなることは見込めないなら、早く決着をつけようとの思いがあったのかもしれない。前回の総選挙は2019年12月で、イギリス政府は2025年1月までに総選挙を実施する必要があった。

支持率は長らく低迷を続けており、ギリギリまで延ばしたところで、このままでは保守党敗北、政権交代は必至だろう。首相はこの総選挙発表で、なにか有利なことが起こってほしいと、いわば賭けをするつもりで、この挙に出たのだろうか。

スナク政権下、イギリスが直面する重要問題は、経済と移民といわれている。移民政策については、前回記したルワンダ移送案は評判が良くない。ボートでイギリス海峡を渡って来た庇護申請者たちは、イギリスになんとか難民として認めてほしいと思っていたのに、アフリカに移送されるのでは、別の問題が起きてしまう。難民であっても、移住先くらいは自分の意思で選びたいだろう。

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N.B.
イギリスでは、2023年(暦年)には、67,337件(84,425人)の難民申請があった。上位5カ国は、アフガニスタン、イラン、インド、パキスタン、トルコだった。前年比では17%減であった。

小さなボートでイギリス海峡を渡る人たちの10人中6人は、アフガニスタン(19%)、イラン(12%)、トルコ(10%)、エリトリアん(9%)、イラク(9%)と、少数の国に集中している。
2021年から海峡を渡ってイギリスにたどり着いた人のおよそ90%が、庇護申請をしている。しかし、わずかに25%の人々が決定結果を受け取っている。そのうち、8,969人(69%)が保護の対象となった(Source: UK Home Office)。
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時間がかかる審査
アメリカの場合もそうであったが、庇護申請者の審査にはどこの国でも多くの時間を要する。英国の場合、2023年末で、128,786 人が最初の庇護申請の結果待ちだった。2019年当時の51,228人と比較して、ほぼ倍増している。

2021年年初から、内務省Home Office は未処理の案件を一掃するよう指示した結果、かなりの案件が消化されたが、いまだに多くの人々が何らかの決定を受け取ることなく、英国内に留まっている。

2023年末で、庇護を求める人たち111,132人は、イギリス政府の支援が受けられている。そのうち、ほぼ半分の47,778人は臨時の宿泊施設などに滞在することが認められている。庇護申請をしている人々は働くことは禁止されており、政府から最低限の必需品をカヴァーするためとの名目で、1日当たり7ポンド(約1395円)の日当を給付されている。しかし、この額で暮らせる人はどれだけいるのだろうか。

困難さを増す子供の庇護審査





Souce:BBC

イギリス国内に家族の誰かがいる場合、子供の難民申請者はイギリスに来て家族と共に住むことが許されている。しかし、この場合でも事実確認のため、多大な書類と時間を要する。今日の法律ではヨーロッパのいづれかの国に移住したいと願う庇護申請者は、最初に本人が到着した安全な国で申請をしなければならない。しかし、家族が別の地に居住している場合、子供の庇護申請手続きはその国へ移送される。

さらに、イギリス国内に家族がいない子供も多い。その場合、ヨーロッパの移民・難民関係者としては、いかに処理すべきかという難問につきあたる。中にはすでにイギリスへ到着している子供もいる。

随伴者がなく、難民の集団に入って危険な旅をし、ボートに乗せてもらいイギリスまでやって来たという子供も増えているという。その場合、ロンドンの特別なオフィスで申請、記録される必要がある。この場合、当局はなぜ子供がここまで来たか、そして誰と生活するかを掌握しなければならない。そして必要な手続きが終われば、子供は彼らの家族と一緒になることが認められる。

上掲の人形は、これらの複雑な背景を持った子供の難民、庇護申請者について、地域住民の理解を深めるための啓蒙活動の一端と言って良いだろう。移民に対する壁を少しでも低め、国民として受け入れるための活動の一環と考えられる。

ここに挙げたのは、わずかな例示に過ぎず、実際の庇護申請は、出身本国の確認から始まり、極めて多くの煩瑣で複雑な背景と多大な処理手続き、ペーパーワークからなっている。移民・難民問題はとりわけ受け入れ国にとっては、国境線での許認可にとどまらない入国後のあり方にまで関わる難しい問題である。

日本の海岸線の長さは、世界で第6位、約35,000km, イギリスの2,400kmを遥かに上回るといわれる。もし、日本が現在のイギリスの場所に位置していたら、どんなことになるだろうか。インバウンドの増加、人口減少などに目を奪われ、なし崩し的に受け入れるリスクの大きさにも十分配慮すべきだろう。移民・難民政策の難しさは、こうした地政学的位置に左右されるところがきわめて大きいところにもある。

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再び高まる移民・難民問題の壁

2024年05月13日 | 移民政策を追って

イギリス海峡をボートで渡る難民申請者
BBC



この数年、街中を散歩をしていると、出会う人々に高齢者がきわめて多く、学齢期の子どもたちは逆に朝夕の登下校時くらいに見かける程度に少なくなっているのに気づくようになった。幼児については、ほとんど出会うことがない。子どもたちが遊び騒ぐ声は、休日や夕方の公園などに行かない限り聞こえてこなくなった。学習塾は増えているので、放課後などに通っているのかもしれない。筆者は大学、小中学校などに比較的近い住宅街に住んでいるのだが、いつの間にか自分を含め、住民の半数以上は高齢者になっている。

それとともに、外国人の数が急速に増えていることにも驚かされている。近くの保育園に来ている子どもたちの半数くらいは外国人のように見える。園の名前も英語だ。保育士たちが英語で子供に話しかけている。親たちが働いている間、子どもたちを預かっているのだろう。保育士の中にも、外国人らしい人も見かける。

他方、近くのコンビニ、スーパー、書店などに目を転じると、外国人の店員が働いていたり、「セルフ・レジ」がいつの間にか導入されている。

実際、最近目にした「世論調査」では「人手不足」を「感じる」との回答が69%に達し、外国人労働者の受け入れを拡大する政府方針に、「賛成」が62%、「反対」28%と、賛否が2分していた5年余り前の調査とは様変わりした。外国人がいないと、業務が遂行できなくなっている職場が増えたのだ。

結果として、移民政策についての明確な方向性も示されることなく、なし崩し的に開放策への移行が始まりつつある。

「人手不足社会」をテーマとする「全国世論調査」(郵送)朝日新聞社、2024年5月4日

半世紀以上、労働の国際比較を研究領域とし、移民、外国人労働者をテーマの一つとしてきた筆者にとっては、こうした時代が来ることはかなりの程度、想定できることではあった。


閉鎖的になる先進国:イギリスの変化
他方、世界に目を転じると、これまで概観してきた移民の急増と対する受け入れ国側の閉鎖的政策への転換が目につく。アメリカについては、大統領選の争点ともなっている近年の変化(1-4)を記してきた。バイデン大統領は、移民政策では手際が悪く、共和党と変わりなくなってしまった。

今回は、ヨーロッパ、とりわけEU脱退後のイギリスの閉鎖政策への移行を取り上げてみたい。このイギリスの移民対応政策は、従来の送り出し国への送還策に対して、かなり異例な内容であり、注目を集めている。

イギリスとルワンダの距離
Source:BBC

イギリス海峡をボートなどで渡ろうとして、沈没などで事故死する人たちについては、しばしばメディアの記事となってきた。難民としての渡航者の数も増加してきた。2024年5月現在、累計2024人が難民としてイギリス海峡をボートで英国へと渡っている。政府としては、イギリスはもはやコントロール不能に近いほどの移民・難民を受け入れているとして、不法入国者をこれ以上、英国内に受け入れることは不可能に近いと述べている。

ボートでイギリス海峡を渡った人々
イギリス内務省統計

Souce:BBC

イギリス海峡をボートなどで渡ろうとして、沈没などで事故死する人たちについては、しばしばメディアの記事となってきた。難民としての渡航者の数も増加してきた。2024年5月現在、累計2024人が難民としてイギリス海峡をボートで英国へと渡っている。政府としては、イギリスはもはやコントロール不能に近いほどの移民・難民を受け入れているとして、不法入国者をこれ以上、英国内に受け入れることは不可能に近いと述べている。

議論を呼んでいる新たな難民政策は、ヨーロッパ、アフリカなどからイギリス海峡をボートなどで渡ってきた庇護申請者、難民をイギリスからおよそ6500km離れたアフリカ東部の内陸国ルワンダへ難民申請者として移送するという内容である。2022年4月、ボリス・ジョンソン政権の時に提示された。2022年1月以降、イギリスに不法入国を図った庇護申請者をルワンダへ移送するという計画である。4月には両国間で協定に署名がなされ「移送と経済的パートナーシップ」あるいは「ルワンダ・プラン」( ‘Migration and Economic Partnership’, or ‘Rwanda Plan’)と称される協定が締結された。移送された庇護申請者はイギリスではなく、ルワンダで申請を行うことになる。難民として認可されると、アフリカ東中央に位置する内陸部のルワンダに滞在することが認められる。

この新しい政策は提示された当時は実現することなく、現在のリシ・スナーク政権に受け継がれている。いまやスナク首相の主要政策の一つで、首相はこれが不法移民の抑止につながるとしてきた。

イギリス政府は、ルワンダを移送先に選んだ理由として、難民条約に加わっていて難民が迫害を受ける恐れがないと主張している。

さらに、イギリス政府は、これまで多数の犠牲者を出してきた英仏海峡を渡る危険な渡航をやめさせ、人身売買業者の活動を阻止するために必要な計画だとしている。しかしこれに対して、160以上の慈善団体や活動団体、宗教指導者、野党などから批判の声が出ている。

こうした中、英控訴院は2022年1月13日、ルワンダへ移送する計画の第1便の出発を許可したが、翌14日には、欧州人権裁判所(ECtHR)の[移送を差し止めるべきだ」とする判断を受け、出発は中止となった。それ以降、ルワンダ移送は実現はしていない。

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N.B.
ルワンダ共和国、通称ルワンダは、東アフリカにある内陸国。イギリス連邦。東アフリカ共同体、アフリカ連合加盟国である。ルワンダ虐殺(1994年)を経て、当時の反政府軍司令官であったポール・カガメが大統領。欧米の支援の下でルワンダへ奇跡的な復興と発展させたことが評価される一方、反体制派への弾圧や任期延長などが批判されている。 2020年代においては、アフリカ諸国の中でも治安は良い部類に入る。2009年にイギリス連邦に加盟。
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ルワンダはUNHCR=国連難民高等弁務官事務所と協力し、スーダンやソマリアなどの難民申請を希望する人たちを受け入れるなど実績があるなどとしている。

さらに、イギリス政府はルワンダ政府に対して、受け入れを支援するなどの名目で2億4000万ポンド、日本円でおよそ460億円を援助したとしている。
他方、イギリス人の多くは、難民にも申請先を選ぶ権利が基本的自由としてあるべきだとしている。イギリスを目指して、危険な旅を続けてきた人々は、ルワンダという思いがけない国へ強制送還され、先の見えない人生を送ることになる。

国連難民高等弁務官は「この法案は難民条約に違反し、助けを求める人々を保護してきたイギリスの長い伝統から逸脱するものだ」と批判し、計画の見直しを迫っている。
2024年1月18日、英下院は、不法入国者のルワンダ移送法案を可決した。最高裁判断を回避する内容になっている。しかし、このこのプランが実行に移され、機能するか、今の段階で帰趨は明らかではない。

移民・難民に対する基本的視点は、彼らが生まれる国土が安定的に保たれ、雇用などの機会が生み出されることが第一であり、そのためには政治的・経済的安定を長期に渡って維持できる基盤を形成することが最も望ましい方向ではないか。しかし、それにも関わらず生まれる海外への流出者に対しては、国際機関などの適切な介入を経て、特定の国へ集中しないよう極力努力する以外に道はない。

現状は残念ながら、ウクライナ、ガザ戦争に象徴されるように自国が破滅的な状態に陥ったり、専制的政治などで国内に政治・経済的あるいは社会的不安が蔓延し、貧困、窮乏、迫害などが常態化している国々も少なくない。

2023年時点で、生まれた国の外に移住している人の比率は、世界人口の3.6%に相当し、1960年の3.1%と比較して、それほど増加しているほどではない。しかし、移民・難民は特定の国々を目指すため、移住の目的地とされた国々では、先住者との間に摩擦、衝突が起きると、しばしば大きな政治問題ともなる。国境の開放は、摩擦の減少に寄与し、資源配分の上でも望ましいとしても、多数の先住者にとっては同意し難いものとなる。

移民がネイティブな先住者よりも新たなビジネス機会の開拓など、創造性、起業化などで優れているとの結果も提示されているが、有権者には十分伝わっていない。皮肉なことに、現在のイギリスの首相は植民地時代の英連邦国家の子孫でもある。

移民、難民には、さまざまな誤解、偏見がつきまとい、今日の政治のように混迷を深めるのだが、その実態を客観的に観察、理解することが中・長期的に最も望ましい解決であることを強調しておきたい。



桑原靖夫・花見忠『明日の隣人 外国人労働者』東洋経済新報社、1989年
同上『あなたの隣人 外国人労働者』東洋経済新報社、1993年
”How to detoxify migration politics” The Economist, December 23rd-january 5th 2024

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