時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

イタリアの光・オランダの光(8)

2008年06月28日 | 絵のある部屋


Pieter Jansz Saenredam. Interior of the Choir of St Bavo at Haarlem, Panel, 82 x 110 cm. Philadelphia Museum of Art, Philadelphia, Penn., 1631. 

  初めてこの画家の作品に接した印象は、文字通り衝撃的だった。教会の内部であることは分かったが、まるで現代のコンクリート打ち放しの建物のように見えた。しかし、すぐに17世紀前半に描かれた宗教改革後のオランダ、プロテスタント教会の内部であることに気づく。  

  17世紀のヨーロッパ美術に多少のめりこんで見ていると、いつの頃からか画家や作品と宗教の関わりを思うことが多くなった。この時代、精神世界も文字通り大転換期だった。ながらくヨーロッパ世界を支配してきたカトリックの基盤は、プロテスタントの台頭により根底から揺らいでいた。なかでも、ヨーロッパの新教世界の中心的地位を占めるにいたったオランダ(ネーデルラント)の変化は劇的だった。  

  聖像、祭壇画などで埋め尽くされたカトリック教会を見慣れていると、この時期に描かれたネーデルラントの教会画は衝撃としてか言いようがない。教会は社会変化の基点だった。

  この当時描かれた教会の多くは16世紀半ばまでは、カトリック教会であったものであり、長年にわたり祭壇、聖像などの装飾で充たされていた。しかし、80年戦争ともいわれる新旧教対立の間にプロテスタントのものとなり、カトリック色は一掃された。

  1566年、カトリック教会の聖画像を破壊する「偶像破壊運動」iconoclasm によって、ほとんどの装飾は取り払われ、天蓋、壁面も白色に塗り改められた。描かれた教会の多くは、こうした改装なって日が浅いものと思われ、プロテスタント、とりわけカルヴァン派の教会のあるべき姿を具現している。聖像、装飾で埋め尽くされたカトリック教会を見慣れていた人々の目には、今日われわれが感じる以上の壮絶な衝撃であったことは想像に難くない。描かれた教会は、今日訪れてもいずれもかなり大規模なものであり、改修にも多大な年月、費用を要したものと思われる。 

  この時代の教会、市ホールなど建築絵画の専門家として、多数の作品を残しているピーテル・ヤンス・サーエンレダム Pieter Jansz Saenredam (1597, Assendelft-1665, Haarlem)は、精密なデッサンに基づき、きわめてモダーンな印象を与える教会画を描いた。時には実測までしたらしい。15歳の頃からハールレムに移り住み、死ぬまでそこに住んだ。父親は版画家で印刷屋だったらしい。イタリアなど外国へ行った様子はない。10年ほどグレバー Frans Pietersz.de Grebber の工房に弟子としていたようであり、1625年に画家ギルド、聖ルカ組合の組合員になっている。  

  活動した時代は、ほぼレンブラントと同じ時期である。この時代の宗教環境を推察するに貴重な記録である。サーエンレダムは自分の好んだ教会を対象に、鉛筆、ペン、チョークなどによる精密なデッサンに、絵の具で色彩を加え、陰影の微妙な変化を描いた上で、自分の工房で油彩に仕上げたらしい。  

  文字通り、建造物を描いた「教会画」ジャンルの先駆者であり、専門画家だった。画家の作品は50点近くが現存しているが、ほとんどすべてが教会を描いたものだ。アッセンデルフト、ハールレム、アムステルダム、ユトレヒト、アルクマール、ヘルトーヘンボッシュ、レーネンなど、対象が確認できる精確な作品群を残している。作品は実に詳細に細部まで書き込まれ、画家が制作過程に費やした時間と労力を髣髴とさせる写真のごとき見事さだ。ユトレヒトの教会を描いた作品(下掲)など、建築家が職業上、設計のために描いたのではないかと思うほどだ。


  
Drawing by Pieter Janszoon Saenredam  (1597-1665): Interior of the St. Martin's Dom in Utrecht

  とりわけ、画面全体に漂う空気の静謐な爽やかさであり、光と影の微妙な美しさが印象的である。サーエンレダムとその仲間の画家たちは、かつての教会画に特有な宗教性よりも、教会建築が見せるバランスとシンメトリーを重視した。サーエンレダムの作品には教会外部より内部を描いたものが多いが、オフ・ホワイトな天蓋や壁面が作り出す独特の美しさが印象的だ。視線を低いところから上方を見上げる構図で、教会の空間の広さ、壮大さを強調している。教会内にいるはずの人物なども、しばしば描かれず、建造物自体の美しさや雰囲気の再生に力点が置かれている。    

  改革者としてのカルヴァンが考えていたことが、どれだけこうした現実の教会に具現していたかは、必ずしも分からない。しかし、この教会画に見る光と陰影、それらが一体となった斬新なアイデンティティは、新教国として独立したオランダが目指したものであった。中世以来の重厚、華麗な教会を見慣れた人々の目に、この簡素な空間に光が差し込んだ教会は、新生オランダ共和国のあり方を象徴する場として清爽な印象を与えたに違いない。

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こちらも壊れる?: FIFAワールドカップへの道(2)

2008年06月26日 | 移民の情景

  北京五輪の聖火リレーは、いまやまったく形骸化し、祭典を祝う儀式の意味すらなくなってしまった。メディアの注目度も激減した。カシュガルやチベット自治区のように、市民の外出禁止、厳重な警戒の下、観ることすら許されない聖火リレーなど、正常な状況では到底国際世論が認めないものだ。四川大地震への同情が、厳しい批判を控えさせているにすぎない。北京五輪でのテロ防止は、今や中国政府にとって最大の問題になったといわれるが、抑圧政策は必ずどこかで破綻する。厳戒体制下でのスポーツ祭典では、不満も鬱積しよう。急速に進むインフレ、1億数千万人といわれる農民工の現状など、中国政府にとっては圧力鍋の蓋が飛びそうな心配の種に事欠かない。不安をぬぐいきれない五輪となりそうだ。

  続報となるが、FIFAワールドカップのホスト国となる南アフリカも、その運営能力が懸念されてきた。こちらの事態も深刻だ。元はといえば、経済の活況が移民労働者の増加を生んだことにある。それが物価上昇や外国人に仕事を奪われる不安に駆られた青年などによる移民労働者への激しい暴力的行動となって爆発した。一時は、収拾不能とみられたが、南アフリカ政府は軍隊などを動員し、抑え込み、暴力行動はやや収まったかに見える。しかし、一触即発の状態が続いている。

  国際的世論などを憂慮した南アフリカ政府は、移民労働者をヨハネスブルグなどの大都市郊外に急造したキャンプへと移動させている。しかし、メディアが伝えるようにその実態は大変厳しいようだ。南半球は冬であり、暖房、給湯などのサービスも受けられず、病人が増えている。収容された移民労働者とその家族は、生活の場を追われ、テント生活を余儀なくされている。正確な数は不明だが、南アフリカには300-500万人の移民労働者がいると推定されている。その多くは近隣諸国からの出稼ぎ労働者だが、今回の暴力行動で少なくも60人以上が殺害され、多数の負傷者がいるという。暴力行為は沈静化しつつあるといわれるが、1,000人以上が拘留されたという。

  ジンバブエ、モザンビークなどへ帰国する労働者も見られるが、帰る所のない者も多い。ジンバブエのムガベ大統領の虐政にみられるように、政権に反対する者に無差別に暴力をふるうなどの行為が広範囲にみられるアフリカの国々では、母国にも簡単には戻れない。残留している者に対しては南アフリカ政府は、国連、赤十字などの力を借りて、救済をしようとしているようだが、こうした危機への経験もなく、対応能力に欠け、膠着状態のようだ。今日まで沈黙を守っていたネルソン・マンデラ氏がジンバブエのムガベ大統領への批判的態度を表明したが、お膝元に火がついている状態では迫力もない。

  南アフリカ政府は、移民労働者がキャンプにいられるのは2ヶ月が限度であり、その後は自分で生活の手段を見いだすか、帰国せよとしている。しかし、元の住居へ戻った場合、隣人たちから受けた暴力行為の恐怖が消えない。この国で生活の再建を図ろうとする移民労働者にとっては、都市の住居へ戻るのは恐怖感が強い。そこは彼らを殺害したり、暴行を加えた住人たちがいる場所である。失業や高くなる食料品、石油価格などにフラストレーションを抱いた貧しい南アフリカ人は、外国人を自分たちの仕事や住居などの希少な資源を奪う者と考えている。こうして刷り込まれた観念を是正するのは、簡単ではない。

  中国とは違った原因だが、こちらもFIFA大会までの道程は急速に険しいものとなった。ひとたび「壊れた道」の修復には多大な努力が必要となる。


Reference

"After the storm". The Economist June 14th 2008
BBC News 2008年6月26日

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イタリアの光・オランダの光(7)

2008年06月22日 | 絵のある部屋

Prometheus Being Chained by Vulcan by Baburen, dirck (Jaspersz) van, 1623, Oil on canvas, 202 x 184 cm. Rijksmuseum, Amsterdam  

   17世紀への興味は尽きない。 テル・ブリュッヘンについては、最近、興味深い新たな知見も得て、一段と関心も深まった。好奇心を呼び起こしてくれる画家の一人だ。次の連想につながる材料も多い。しかし、17世紀ユトレヒトのカラヴァジェスティは、テル・ブレッヘンばかりではなかった。  

  17世紀初めのイタリアは、その盛期は過ぎたとはいえ、ヨーロッパ中から画家など多数の芸術家を誘引していた。テル・ブリュツヘンと並び、バビュー
レン、ホントホルストの3人がほぼ同じ時期にローマへ行き、ユトレヒトへ戻ってきた。とりわけ、バビューレン(バブレン) Dirck Jaspersz. van Baburen (c. 1595 – February 21, 1624) は、ユトレヒトへ戻り、おそらくテル・ブリュツヘンと一緒に工房活動をしていたと推定されている。今日、残るバビューレンの作品は少ないが、この画家の手による上掲のような作品を見ると、一瞬これはカラヴァッジョではないかと思うほどだ。カラヴァジェスティの面目躍如?ともいうべきか。

  バビューレンの作とされる、この「ヴァルカンによって鎖につながれるプロメテウス」。カラヴァッジョの「聖パウロの回心」(Santa Maria del Popolo, Rome:下掲)の逆さまになった聖パウロを、バビューレンの主題では天上から火を盗み人間に与えたために罰せられたプロメテウスに置き換えている。マーキューリーが眺める中で、火の神ヴァルカンはプロメテウスを岩に結びつけようとしている。鷹が肝臓をむさぼる責め苦に耐えるプロメテウス。この神話の題材で、バビューレンは光と影を巧みに駆使し、日焼けしたふつうの人間の群像として描いている。構図は疑いもなくカラヴァジェスティのものだが、カラヴァッジョよりも陰影のコントラストが穏やかであり、自然な感じを与える。その代わり、カラヴァッジョのような強烈なインパクトはない。生まれ育ったオランダと、憧れて滞在したとはいえ異国の地、太陽が燦然と輝くイタリアの光の違いが、画家の本性の部分を支えているのだろう。(汗をかく前に蒸発してしまうのではと思うほどの強い日差しの下、ジェラートとミネラルウオーターの瓶に支えられて、炎天下を歩き回ったローマの旅を思い起こす。ローマは訪れるたびに暑くなっている感じがする。)



Caravaggio (Michelangelo merishi), The Entombment 1602-03 Oil on canvas, 300 x 203 cm Pinacoteca, Vatican

  記録によると、バビューレンは1611年にユトレヒトの聖ルカ・ギルドにパウルス・モレールス Paulus Moreelseの弟子として、加入している。このモレールス自身、イタリアへ旅したようだ。後にユトレヒトの市長になっている。残念ながら、この親方の作品を見たことはないが、カラヴァジズムがしっかりと刻み込まれた弟子の作品とは、対照的で、バビューレンがかつて親方の下で徒弟修業をしたとは考えられないほどの違いらしい。

  バビューレンは、1612年から1615年の間のどこかでローマへ出立した。ローマでは、(ほとんどなにも記録が残っていない画家だが)同郷のダヴィッド・デ・ハエン David de Haen と共に仕事をした。そしてカラヴァッジョにきわめて近い信奉者だったバルトロメオ・マンフレディBartolomeo Manfredi (1582-1622)の画家グループに入り、同じ教区であったこともあって親しくなったようだ
。 マンフレディはカラヴァッジョの最初でしかも最も独創的な信奉者として知られる。従来の神話や宗教画ばかりでなく、音樂師、カードプレイヤーなどを題材にカラヴァッジョ・スタイルを積極的に持ち込んだ。後に17世紀ドイツ人画家で評論家のサンドラールトによって「マンフレッド技法」 Manfrediana methodus ともいわれる独特な領域を切り開いた。

  ローマに住んだバビューレンは、美術品収集家やパトロンとなったギウスティニアーニ、ボルゲーゼ枢機卿などが注目を寄せる画家となった。そして、多分彼らの推薦で、1617年頃にローマ、モントリオのサン・ピエトロ、ピエタ礼拝堂の祭壇画を描いたらしい。

  バビューレンは17世紀のローマで活動していたオランダ語を話す芸術家で「同じ色の鳥たち」"Bentvueghels" と言われている仲間の一人だった。さらに、ビールの蝿"Biervlieg" とあだ名がつけられたほど、酒飲みでもあったらしい。 1620年の後半にバビューレンはユトレヒトへ戻り、、1624年に死ぬまでの短い期間に、主として神話や歴史画、そして音楽師、カードプレイヤー、娼館の女(女衒)など世俗的な主題のジャンルで先駆的な作品を制作した。この画家についても残る記録は少ないが、あのコンスタンティン・ホイヘンスは、バビューレンを17世紀初期の重要なオランダ画家の一人にあげている。

  バビューレンのよく知られた作品の一枚「娼館の女将」The Procuress (Museum of Fine Arts, Boston:下掲)は、かつてフェルメールの義母が真作(あるいはコピー)を所有しており、フェルメール作品(「ヴァージナルの前に座る女」と「合奏」)の中に描き込まれている。フェルメール自身、同じ主題の作品を試みている。当時流行のテーマであり、無視できなかったのだろう。ところで、バビューレン作品で、右手に描かれた人物の性別は

  この主題の作品の出来映えは、フェルメールよりバビューレンの方が、一枚上という感じがする。両者の作品の美術史上の評価については専門家*に任せるとして、フェルメールのこの作品は2番煎じの感があり、平凡で迫力がない。他方、バビューレンの作品は簡明直裁、ダイナミックだ。カラヴァッジョ、マンフレッディの画風を受け継ぎ、ユトレヒトに斬新で、革新的な画風を持ち込んだ画家の活力が伝わってくるようだ。


Dirck van Baburen The Procuress 1622; Oil on canvas, 101.5 x 107.6 cm; Museum of Fine Arts, Boston


Vermeer van Delft, Jan
The Procuress, 1656
Oil on canvas, 143 x 130 cm
Gemäldegalerie, Dresden
 

? 美術史家によると、old-woman とのこと。

* たとえば、小林頼子『フェルメールの世界』日本放送出版協会、1999年、pp.49-50

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フェルメールとアメリカ

2008年06月17日 | 絵のある部屋
 

 梅雨入りを前に北方へ短い旅をした。退屈しのぎに機内で手にしたANA広報誌『翼の王国』(6月号)で、「アメリカの夢 フェルメールの旅」という一文を読む。といっても、実際にはこれから6-8月、3回に分けて連載される予定の第一回である。筆者紹介によると、福岡伸一さんという分子生物学者が書かれている。最近、『生物と無生物のあいだ』(講談社現代親書、2007年)という書籍で、第29回サントリー学芸賞を受賞された方のようだ(といっても、私はまだ読んでいないし、著者についても寡聞にして知らない)。

 このところのフェルメール・ブーム*で、またかという思いが一瞬頭をかすめたが、それだけになにか新しいことが書かれているのではと思い、読み進める。アメリカには、フェルメールのおよそ37点といわれる現存作品の実に15点がある。ワシントンD.C.に4点、ニューヨークに8点、その他に3点と分布している。どうも、著者のねらいは、このアメリカが所有するフェルメール作品を訪ねる旅にあるようだ。ただ、それだけでは、同様なテーマの書籍もあり、興味は湧かない。もう少し読むと、どうやらフェルメールの作品が大西洋を渡り、アメリカの画商や富豪の所有になった20世紀初頭にスポットライトが当てられるようだ。そして、同じ時期にはるばる太平洋を渡り、日本からアメリカにやってきた野口英世との関係に、テーマ設定がされるようだ。「されるようだ」というのは、まだ連載の1回目なのでやや見えないところがある。今回はワシントンD.C.の国立美術館 National Gallery of Art 所蔵のフェルメール作品が主たる話題とされている。

 どうやら、野口英世はフェルメールを見ただろうかという謎解きがなされるようだ。野口英世については、改めて記すまでもないだろう。日本銀行紙幣の肖像にも使われた日本の誇る偉人だ。年譜によると、明治9年(1876)に会津、現在の猪苗代町に生まれ、1900年に渡米し、特にニューヨークで20数年を過ごした。1915年に一時帰国した以外は日本に帰ることなく、1928年アフリカで研究対象の黄熱病に罹患し、51歳の人生を終えた。小学校の教科書にも頻繁に出てきた、世界を舞台に縦横な活動をしたスケールの大きな日本人だ。

 かつて、10代の頃、福島県土湯峠近くの温泉宿をベースに、近くの吾妻小富士、一切経山、吾妻山などに何度か登ったことがあった。その折、土湯峠から猪苗代湖側に降りて、野口英世の生家を訪ねたこともあった。土湯峠からは眼下に猪苗代湖などが光って見えたことが残像として残っている。吾妻スカイラインという回遊道路が存在しなかった時代である。そういえば、野地温泉から鬼面山、箕輪山、鉄山、安達太良山へと縦走したこともあった。安達太良山は今はロープウエイもあって観光地になっているようだが、当時は人影も少なかった。なんとなく、懐かしい気持ちも生まれてきた。

 閑話休題。福岡さんがフェルメールを野口英世は見ていたと推理するのは、可能性としては十分ありうることだ。このブログでも、メトロポリタン美術館がその初期からオランダ絵画の収集にきわめて力を入れていたこと、同館がいかにしてレンブラントやフェルメール作品を所有するにいたったかなどを記したことがあった。ニューアムステルダムの市民は、当然オランダの美術に大きな関心を抱いていた。しかし、野口英世がワシントンD.C.でフェルメールを見た可能性はきわめて薄い。

 野口英世の趣味のひとつが油彩画を描くことであったことは知られており、そのつながりから当時、ニューヨークの富豪の邸宅などに飾られていたフェルメール作品などを目にしたことは十分ありうることだ。野口英世はこの時代の多くの知識人がそうであったように、生活や研究のあれこれを子細に記録していたようだ。もしかすると、日記などに記されているのかもしれない。

 さらに、野口英世の趣味のひとつは油彩画であった。ニューヨークの邸宅で制作をしたらしい。野口英世の揮毫は見た記憶があるが、残念ながら油彩画は見ていない。しかし、この多忙な人物が油彩を趣味にし、ニューヨークに活動の本拠を置いたとなると、福岡さんの仮説はかなり確実に立証できそうな気がする。いずれ連載を読む機会があるだろう。楽しみにとっておきたい。

 19世紀末から20世紀大恐慌までのアメリカは、実にダイナミックで興味深い時代だ。次回には、フェルメール作品の取引に絡んだ今も残る画商ノードラーの話も取り上げられるようだ。読んでいる間に、脳細胞が刺激を受け、あの富豪たちと画商の駆け引きなどが目前に浮かんできた。画商デュビーンについても、いずれ掘り下げてみたい気がしている。


*  今夏から年末にかけて、東京都美術館で「フェルメール展」が開催される。
http://www.asahi.com/vermeer/

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イタリアの光・オランダの光(6)

2008年06月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
Hendrick ter Brugghen
Bagpipe player
1624
Oil on canvas, 101 x 83 cm
Wallraf-Richartz Museum, Cologne



    ヘンドリック・テル・ブリュッヘンの名前あるいは作品を知っている人は意外に少ないのかもしれない。単なる個人的印象にすぎないのだが、西洋美術史でも専攻していないと、日本ではこの17世紀のユニークな北方ネーデルラント画家の作品についても耳目にする機会は少ないのではと思う。

  この画家に限ったことではないが、日本における外国美術や文学の情報流入はかなり偏っていて、その結果が特定の作家や作品などへの嗜好 Taste の形成にも強く影響しているのではないかと思うことがある。たとえば、日本人のモネ好みはよく知られている。フェルメールも愛好者が多い。したがって日本の美術館は1枚でも借り出してくれば、大きな集客力が期待できる。しかし、フランスでは著名な大画家であるプッサンやラ・トゥールの知名度は低い。

  同じ17世紀に生きたテル・ブリュッヘンの名は、プッサンやラ・トゥール同様、日本ではほとんど知られていない。しかし、この17世紀初期のオランダ・ユトレヒトの画家は、色々な意味で大変特異な存在であり、もっと注目が集まってもよいと思う。高い資質に恵まれた画家であった。すべての作品が傑作というわけではないが、素晴らしい作品を残している。そのドラマティックで詩的な作品は、ルーベンスに多大な感銘を与え、ハルズやフェルメールなどのオランダ画家にも大きな影響を与えた。しかし、人気は移ろいやすく、18世紀、19世紀の収集家や美術史家からは忘れられた存在となり、20世紀に入りカラヴァジェスクの再評価の過程で「再発見」された画家の一人である。

幸い残る作品

  テル・ブリュッヘンは17世紀前半の画家としては、作品は比較的多数残っている方だというべきだろう。これはテル・ブリュッヘンが当時すでに大変著名な画家として人気があり、当時のオランダ共和国国内や外国の愛好家 cognescentiによる作品収集の対象になっていたこともある。レンブラント、ハルズ、フェルメールなどの画家と肩を並べる存在であった。幸いネーデルラントの黄金時代に当たり戦乱などで、作品が散逸するような状況から免れていたこともあるだろう。

  テル・ブリュッヘンも真贋論争からは免れないが、最新の研究では89点の油彩画(真作)、そして54点の画家本人が関与したか、画家の工房が制作した作品というデータもある。

  テル・ブリュッヘンはローマに長く滞在したが、その時期に制作したと思われる作品は、確認されていない。 この画家がローマに滞在した(1608年頃から1614年頃)前後の時期は、17世紀の北方フランドル地方と南のイタリアなどの間での文化交流を知る上で、きわめて凝縮して興味深い年月であった。ひとつには、この時代に大きな影響を与えたカラヴァッジョの作風がどのように伝播したのか、多くの研究者が関心を寄せてきた。テル・ブリュッヘンヘンは明らかにカラヴァジェスティ(カラヴァッジョの画風の信奉者)であった。

ルーベンスとの関わり
  この画家に関して、もうひとつ注目すべき点のひとつとして、ルーベンスとの接触がある。二人はきわめて短い時期だが、同じ時期にローマにいた記録がある。テル・ブリュッヘンは1607年4月以降にローマを離れ、ルーベンスは1608年10月にアントワープに戻った。ちなみにカラヴァッジョは殺人を犯し、お尋ね者の身となり、1606年にローマを逃げ出している。断片的な記録をつなぎ合わせると、彼らは短期間ながら同じ時期のローマに滞在していた可能性もある。後世になって振り返ると、きわめて濃密な文化交流があったクリティカルな時代であったといえる。

  当時のイタリア画壇の影響を測る物差しとされたもののひとつが、カラヴァッジョ風の影響の大きさである。カラヴァッジョだけがキアロスキューロの導入者でもなく、さまざまな画家が試みていた。しかし、今となっては、その実態はさまざまな情報を総合して推定する以外に方法はない。カラヴァッジョ自身、当時の主流としての工房を営み、徒弟を養成するということがなかったから、きわめてアドホックな伝播・波及の過程を辿ったといえる。 北方ヨーロッパの伝統の中で育ったテル・ブリュッヘンなどは、イタリアでの知見と技法の習得とを融合し、きわめて魅力あるユニークな作品を制作した。

  こうした技能伝播のプロセスは、経済学の技術波及 technology diffusion の理論が開発した内容が極めて参考になる。カラヴァッジョの影響は、濃淡があり、ある画家が簡単にカラヴァジェスティであるか否か、決め付けることはできない。技能や画風はいわば円の中心から波紋のように拡大してゆく。そして、外延部に近いほど、影響は間接的になる。さらに、中途に障害物があれば、その影響を受ける。画風の伝播でも、その過程に介在するさまざまな媒介者 agents の影響で、新たな解釈や添加がなされ変容する。






George de La Tour. Blower with a pipe. Oil on canvas.
Tokyo Fuji Art Museum, Tokyo, Japan.
 



* Leonard J. Slatkes and Wayne Franits. The Paintings of Hendrick Ter Brugghen 1588-1629: Catalogue Raisonne (Oculi: Studies in the Arts of the Low Countries), 2007. 471pp.

  カラヴァジェスティ、とりわけテル・ブリュッヘンの研究の第一人者として生涯を捧げたスレイトゥクス教授が亡くなられた後、弟子のフラニッツ教授がその蓄積を継承され、本書の刊行に至った。それまでは、ラ・トゥールなどについての研究もあるベネディクト・ニコルソンなどの論文(1958)があるくらいで、本格的な研究は見当たらなかった。その意味で本書は、この著名だったが忘れられていた画家の生涯と作品にかかわる画期的な研究である。スレイトゥクス教授については、西洋美術史担当の知人のパーティでお会いした記憶が微かにある。しかし、当時は筆者の専門も関心もまったく異なっており、テル・ブリュッヘンについての知識も浅く、今はそれを大変残念に思っている。
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こちらも壊れる?FiFAワールドカップへの道

2008年06月07日 | 移民の情景

   世界のサッカーファンが熱狂するFIFAワールドカップ。2010年に向けて、すでに予選は始まっており、ファンの熱気もグローバル・レベルで高まっている。今回の開催国は南アフリカであり、すでにFIFAから、ヨハネスブルグの2会場の他、ダーバン、ケープタウン、プレトリア、ダーバン、ポートエリザベスなど、9都市10会場(うち4施設が新設・2施設が改修)を使用する決定が正式に発表されている。

  これらの支えもあって、南アフリカはかつてない活況を呈している。ところが、最近ここにも予想外のことが起きてしまった。移民(外国人)労働者に対する襲撃事件が多発し、国内外の注目を集めている。すでに50
人以上が犠牲になり、死亡し、数万人が家を追われたたと伝えられている。海外メディアが伝える実態を見ると、きわめて深刻だ。惨状という点では、チベット暴動を思わせるような状況だ。北京への道ばかりでなく、ヨハネスブルグへの道も壊れ始めた。南アフリカはその国旗からも「虹の国」rainbow country とも言われるが、虹の架け橋というイメージはいまやまったくない。

  事件の背景は労働・人権問題にある。好景気にもかかわらず、黒人など国内労働者の失業率が高く、30%を越える。南アフリカはアパルトヘイト(もとは「隔離」の意味、有色人種差別政策)を1993年に全面廃止したにもかかわらず、貧富の格差が拡大している。多くの国民は、絶望的な貧困の中で暮らしている。特に、追い込まれた黒人貧困層の不満が爆発したのが今回の事態だ。急激に増加した外国人に仕事や家を奪われると、若者などが考えるようになった。発火点となったのはヨハネスブルグ郊外の旧黒人居住区だった。政府が移民労働者に先に住宅を供給したと思った住民が、外国人を襲撃し、殺戮が国中に広がった。

  南アフリカ政府は軍隊を投入し、鎮圧に努めているが、収まる気配がない。 FIFA開催が決まってから、深刻な人手不足となり、ジンバブエ、モザンビークなど周辺諸国から多数の外国人労働者が流れ込んできた。その数は500万人、南アフリカの人口の10%にまで達している。日本で働く外国人労働者の数倍の規模だ。ヨハネスブルグなどの都市で働く建設労働者などの賃金はきわめて低いのだが、周辺諸国からの外国人労働者にとっては、1週間で1ヶ月分以上の水準になるため流入は絶えない。そして、彼らがいないと、経済活動も維持できない。   
   
  南アフリカ政府は、国内の暴徒を厳正に取り締まると表明しているが、襲撃の対象となる外国人労働者の不安は解消しない。ケープタウン、プレトリア、ダーバンなどでは、外国人労働者は警察の近くなどに避難し、テント生活をしている。帰国した者は一部に留まり、大多数は不安を抱えたまま滞在している。

  多くの外国人労働者は母国に働く場所がなく出稼ぎに来たため、簡単に帰国する訳にも行かない。 これまで、南アフリカ政府は移民労働者を積極的に受け入れてきたが、受け入れ後の対応は外国人にまかせっきりできた。この事件で南アフリカ政府は動揺している様子だが、具体的対策はほとんど打ち出せずにいる。今回の襲撃事件を引き起こした根源、国内の貧困、格差解消にいかに対応するか。そう簡単に対応できる問題ではない。かつてはアフリカの星と言われた国だが、今やその輝きなく、
地に落ちてしまった。   

  FIFAは今回の出来事に強い懸念を示している。現状ではとても開催できる状況ではないと思われる。アフリカにとどまらず、EU諸国でもイタリアのロマ人排斥など、ゼノフォビア(外国人嫌い)も強まっており、南アフリカで再び反外国人の動きが高まることを懸念している。

  偶然とはいえ、世界的なスポーツ・イヴェントは、開催にこぎつけるまでに予想もしない出来事が待ち受けるようになった。いずれも少数民族や外国人労働者が発火点になっている。2016年オリンピック開催都市誘致で候補地のひとつに選ばれ、「登山口の入り口に立ったばかりだ」という石原東京都知事だが、「東京への道」は大丈夫?


BS1 2008年6月2日、「拡大する外国人排斥 南アフリカ」 

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こしの都:古代のロマンと地域活性化

2008年06月04日 | 雑記帳の欄外

    昨年縁あって訪れた「こしの都1500年フェスティバル」の記念誌を寄贈していただいた。「こしの都」というのは、福井県越前市(武生、今立など)を中心とした地域である。この催しは、『古事記』『日本書紀』に記されているあるロマンから、スタートしたユニークな地域活性化プロジェクトである。

  昨年2007年から数えて1500年前、古墳時代の中頃、近江の豪族、彦主人王(ひこおし)と越の国の豪族の娘振媛(ふりひめ)との間に生まれ、父亡き後、母の振媛のもとで、越の国の大王として成長した継体大王が、507年に大和より迎えられて樟葉宮(くずはのみや)で即位し、倭国(日本)の天皇として国を治めたという話が原点となっている。

  継体天皇についての史料は限られていて、多くの謎めいた部分があるが、近年の考古学と歴史研究のめざましい進展で、新しい継体天皇像とその背景がイメージされるようになった。507年に即位した樟葉宮は現在の枚方市にあたり、淀川を通じて開かれた新しい都づくりを企図したものだった。

  継体天皇の名前は知ってはいたが、その出自がどこであったかなどの背景については詳しくは知らなかった。しかし、たまたま、このプロジェクトでその内容を知り、フェスティバルが開催されていた時に現地を訪れ、いくつかの史跡なども見て大変興味が深まった。

    継体天皇についても、近江出自説と越前出自説のふたつがあることを知ったのだが、この点もかなり面白い部分だ。今後、未発掘の古墳などから新たな証拠が発見される可能性も多々残っている。福井県もご多分にもれず、車社会になり、車なしに山里深く埋もれている見所をまわることはかなり苦しい。しかし、それだけに都会化することなく、ひなびた良さが残っている。長い歴史を持つ茅葺きの料亭なども残っており、楽しむことができた。

  福井はこれまで調査その他で訪れ、大変なじみが深いが、いつも郷土愛を支える人々の心の温かさが印象に残る。福井県は日本でも住みやすい県の上位を占めるが、その基盤にあるのはこうした人情だろう。

  地域活性化の試みは、これまで各地でさまざまに行われてきたが、持続的な発展へと結びついているものは少ない。活性化につながるための要因の検討とその関係を十分、息の長いプロジェクトとして生かす必要がある。昨年のプロジェクトも、地域の文化的遺産を広く再認識してもらうことがひとつの目標だったようだ。さまざまな世代の人々に地域への関心を持ってもらうように、短い期間にやや盛りだくさんなくらいの多くの催しが行われた。「国際平和映画祭JAPAN in こしの都」で上映された映画の中には、「ダライ・ラマ・ルネッサンス」も含まれていた。上映が今年だったら、大変な話題となったろう。

  この地域には、越前和紙、金属加工、漆器、繊維など、多くの素晴らしい伝統産業の素地がある。全国にあまり知られていないことが残念に思うほどだ。その意味で、「こしの都プロジェクト」は、地域住民の郷土再認識にはかなりの効果があったと思われる。しかし、これだけでは地域の持続的発展にはつながらない。単発的なプロジェクトから脱して、真の活性化へ移行させることができるか。今後の展開を楽しみに見守りたい。

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イタリアの光・オランダの光(5)

2008年06月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Hendrick ter Brugghen
The Concert, ca.1626
Oil on canvas, 99.1 x 116.8cm
Bought with contributions from the National Heritage Memorial fund,
The Art Fund and the Pilgrim Trust, 1983, The National Gallery
  

 

    バタヴィアの空から17世紀初めのユトレヒトへ戻って、あのテル・ブリュッヘンの世界をもう少し見てみたい。この画家はユトレヒト・カラヴァジェスティの中では、もっとも特異で才能に恵まれていたと思われる。1604年(1607年という推定もある)頃にユトレヒトからイタリアへ旅立った。ロレーヌでもそうであったように、ユトレヒトからは、かなり多くの画家たちがローマを目指したらしい。ユトレヒトからではロレーヌ以上に長い行程になるのだが、この時代のイタリアへの憧憬の大きさを感じさせる。テル・ブリュッヘンは、ローマへ行くに先立って、この地で著名なマニエリストの歴史画家ブロエマールト Bloemaertの工房で徒弟修業をしたと推定されている。

    テル・ブリュッヘンは、ローマに10年近く滞在したようだ。そこでさまざまな経験を積み重ね、1614年の秋頃にユトレヒトへ戻った。とりわけ、当時のローマ画壇の話題をさらっていたカラヴァッジョの同時代人として、その後の作風を激変させるほどの大きな影響を受けた。1606年、カラヴァッジョが殺人を犯し、ローマから逃亡するまでの短い期間だが、、二人がローマで出会っていた可能性はかなり高い。
 
  故郷の地へ戻ったテル・ブリュッヘンは、伝統的なオランダの主題を採用しながら、当時のイタリアの最新の流行を持ち込んだ。カラヴァッジョ風の革新的なリアリズムとドラマティックなキアロスキューロである。いずれとりあげることになるユトレヒト・カラヴァジェスティの一人であるホントホルストが、ドラマティックな緊張感を画面に漂わせたのに対して、ほのかな哀愁を含んだ幻想的な作品を創り出した。ここに取り上げた作品は、柔らかな色彩感で心を和ませてくれる。「フルート・プレイヤー」と並び、いつも見ていたいほどの素晴らしい出来映えだ。

  3人の楽士を映し出すのは、前面に置かれた蝋燭と後ろの壁に掛けられた油燭の光である。普通は蝋燭、油燭などひとつだが、巧みにふたつの光源を使い、きわめて考え抜かれた構成になっている。この画家は、画面構成に自らの持つすべてを傾けて、多大な時間、エネルギーを注ぎ込んでいる。限られた画面を隅々まであますことなく使い、持てる技巧のすべてを使っている。

  このようにテル・ブリュッヘンの作品は、いずれもかなり凝った構成だ。この作品では燭台ひとつににも工夫がなされている。前面にいる二人の楽士の顔は蝋燭の光で明るく輝いている。後方の最も若意図思われる楽士は、楽譜を見て歌っているが、前方と後方の双方から光が微妙に当たっている。見るほどに引き込まれるきわめて美しい画面だ。叙情的な雰囲気が全面に漂っている。テル・ブルッヘンの作品の中でも、最も美しい仕上がりではないかと思われる

  当時の状況からすれば、現実の楽士たちはおそらく旅の途上なのだろう。しかし、彼らの表情や衣装には、そうした漂泊や貧しさの色は見えない。画家は意図して、リリックに美しく描いたのだろう。彼の作品を求めたのは、ユトレヒトを中心とした地域の中産階級だったろう。おそらくその嗜好にも合っていたと思われる。

  ネーデルラントで影響力を拡大していたカルヴィニズムの改革派教会は、当初教会内では、歌唱以外の音楽を禁止していた。しかし、17世紀初めにかけて、そうした厳しい規制には反対が強まった。そして、1640年には教会内でオルガンの奏楽が復活した。音楽の持つ多面的な効果が再認識されたのだ。

  もちろん、教会の外では規制はなく、
旅の楽士などが、さまざまな音を響かせていたはずだ。彼らは少人数で、町や村々をめぐり、広場やカーニヴァル、結婚式などの折々に、自らあるいは依頼を受けて演奏をしていた。楽器はリュート、フルート、ヴィエル、トライアングル、手回しオルガンなどであった。

  この時代の空間を満たしていた
音の世界を追いかけてみたい気もする。カラヴァジストであったテル・ブリュッヘンだが、この作品がどれだけ現実のモデルに基づいたものであるかは定かではない。ラトゥールやカロの作品などでは、モデルには長い漂泊に疲れた旅芸人などが選ばれていた。
  
  テル・ブルッヘンなどと比較すると、
ラトゥールという画家の作品から伝わってくるのは、イタリアン・バロックの華麗さとはほど遠い、深く沈潜したような暗い画面、質実さ、素朴とも簡素ともいえるゲルマン、北方文化の色だ。背景にある暗く深い森、灰色の空、堅実な人々の生活ぶりが思い浮かぶ。ラ・トゥールが生まれ育ち、生涯のほとんどを過ごしたと思われるヴィック、リュネヴィルなどの町々は、地理的にもイタリアよりは、ネーデルラントなど北方文化圏にはるかに近い。ユトレヒト出身の画家たちは、イタリアで華麗な画風の洗礼を受けても、根底には自分たちが生まれ育ったネーデルラントの風土をしっかりと押さえ、作品に継承していた。ラトゥールは、この頃活動の場をリュネヴィルに移していたと思われるが、当時のネーデルラントを訪れていれば、こうしたイタリア帰りのカラヴァジェスティたちの作品に接した可能性はきわめて高い。

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