時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

少し離れて見る世界(6):民主主義とはなんだろう

2014年03月31日 | 特別トピックス

 



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 これまで、折に触れ、少しずつ話題としてきた「民主主義」というテーマだが、最近では単に政治哲学の分野に限らず、経済、社会の広い分野で、問い直されている。とりわけ、問題として浮上しているのは、民主主義、あるいは民主制というイデオロギーが、現実の世界でどれだけ実現し、どのように評価されているのかという点にある。

  必ずしも日本に限ったことではないが、議会制民主主義も無党派層の増大、投票率の低下など、議会制度が前提としてきた国民の政治参加が十分機能しているとはみえない現象がいたるところに出てきた。


民主主義国 vs. 非民主主義国
 
今世紀に入って、世界の民主主義国といわれる国々の多くが、原因はさまざまではあるが挫折や後退を経験している。とりわけ、国家財政上の問題を抱える国々は、実質的に破綻している。他方、非民主主義国というグループに分類される中国などは、自分たちの制度・体制は、民主主義国よりもはるかに効率的に機能していると誇示してきた。民主主義あるいは民主制とは非効率を内在しているのだろうか。

  このように、民主主義という言葉は、いたるところで良く聞かれるが、実際にはいかなる内容が実現すればそういえるのか、少し考え直すと、実はあまりよく分からない。大新聞などの紙面には、毎日登場している言葉だが、あまり意味の無い修飾語のようにつかわれていることも多い。少なくも、民主主義が問われる時に、その問題に関係する人々の間にどれだけ共通の理解、基盤が形成されているか、疑問に感じることがある。

 この小さなブログで、こうした大問題の細部に立ち入るつもりはないのだが、たとえば日常使う辞書では、民主主義とは、「基本的人権・自由権・平等権あるいは多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、またその実現が要請される(『広辞苑』第6版)、「政治上だけではなく、広く人間の自由や平等を尊重する立場をいう」(明解国語辞典」などと説明されている。
しかし、その状況が実現しているか否かを具体的な場で判定するのはかなり難しい。さらに民主主義という言葉は、多様性を持ち、歴史的にも変化をとげてきた。そのため、人々の抱くイメージもかなり異なっている。

 一般に民主主義が制度、民主制として実現している国としてあげられるのは、西欧の場合が多い。非西欧の国の中では少ないが、いちおう日本も含まれているようだ。その日本で、国民がいかに認識しているのかもあまりはっきりしない。

遠く離れたトクヴィルの時代

 1830年代にアメリカへ旅したフランスの政治家トクヴィルは、その見聞を基に『アメリカの民主政治』を著した。その中で、ローカルな政府がデモクラシーを最も良く発揮できると述べている。そこでイメージされた状況は、アメリカ独立期のタウン・ミーティングのような場合と考えることができる。しかし、当時考えられたデモクラシーと、現代のそれとはかなり異なるとみるべきだろう。トクヴィルの描いたようなイメージは、いわば「古典的民主主義」ともいうべき類型と考えられる。

 それに対して、現代の民主主義は、経済学者シュンペーターが議論展開の源になった「エリート民主主義」ともいうべき概念に近いようだ。言い換えると、主権者の意思の一致、実現が、現実にはほとんど存在していないことを論証した上で、政治家を議会メンバーとして選出する政治家主導の状況といえる。。

 しかし、「エリート民主主義」あるいはそれに類似した民主主義も、さまざまな欠陥を露呈してきた。その間に、「参加型民主主義」や「直接民主主義」など、異なったタイプの民主主義が、地域や職場などの次元で有効であると主張されるようになった。しかし、多くの人が納得し、賛同する普遍性の高い民主主義の類型は、まだ見出されていないようだ。

 現代の状況は、さまざまなタイプがそれぞれに問題を抱え、普遍性を主張できず、混沌としたままに動いているといえるだろう。

いまだ答が出ない問
 このブログの管理人は政治哲学などとはまったく無縁の分野で過ごしてきたが、最近思いがけず手にすることになった、民主主義の現状についてのいくつかの論評を読みながら、現実の世界はトクヴィルがアメリカを旅した時代と比較して、どうもさほど進歩しているとは言いがたい状況にあると感じるようになっている。いったい、人間の世界は、これからどこへ向かうのだろうか。これは、若い頃に考えさせられた「進歩とはなにか」という問に、いまだ答を出せていないということでもある。

 

 

 
  

Reference
'What's gone wrong with democracy and how to revive it.' The Economist March 15th-17th 2014. 

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少し離れて見る世界(5):「後退する民主主義」雑感

2014年03月27日 | 特別トピックス

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 ブログなるものに手を染めてから、10年余の年月が経過したことに改めて驚く。しかし、訪れてくださる方で、管理人と関心領域を共有している人たちは、実はきわめて少ない。ブログ・トピックスのほんのわずかな部分が重なっている場合がほとんどである。人間の生い立ちや関心事が異なる以上、当然のことではある。しかし、幸い少しずつ問題を理解いただき、関心領域を共有する読者の方々が増えてきたのはうれしいことだ。セミナーなどで対面してお話すると、かなり当方の意図が伝わっていて、脳細胞を刺激する話ができる。本来、ブログというメディアでは、取り扱いがたい問題をメモのように記している、この小さな試みに辛抱強くおつきあいいただいている皆さまにはひたすら感謝するしかない。

閑話休題

 さて、今回も前回に続き、クリミア問題との関連から始めることにしたい。日本と地理的に離れていることもあるが、日本のメディアからは事態の切迫感が感じられない。しかし、世界の重大事は時に思いがけないことから拡大する。今後十分関心を持ち続けることが必要だ。

 ロシアのクリミア併合について、EUもアメリカも有効な対抗策がないようだ。「制裁」と称して、ロシアの指導者何人かの入国拒否などをしてみても、すでに出来上がってしまった既成事実を、ロシアが元に戻すとは考えがたい。むしろ、西欧側がこれ以上強くクリミア併合のご破算を要求したら、危うくなるのは西欧側となる可能性が高い。事実上、アメリカなどもロシアによる領土併合を認めたようだ。

 前の世紀であったならば、短時日の間に局地戦からヨーロッパ大陸を巻き込む大戦になったかもしれない。リスクの高い地域であり、大戦につながりかねない材料もあった。しかし、関係国の自制もあって、なんとか火薬庫大爆発につながるような危機を回避している。

 国境を越えての経済的相互乗り入れが進んで、エネルギーなどをロシアに大きく依存しているドイツなどは、ロシアに強い制裁を加えることで、逆に供給制限などの対抗手段をとられれば、代償の方が大きくなってしまう。グローバル経済が進むと、関係国相互の資本、労働などの乗り入れが進んで、依存関係が強まるため、大きな紛争は起こしにくいことは考えられる。ロシアの行動は、こうした状況を読んだ上でのことだ。万一、戦争状態に入ってしまえば、送油管は大きな武器に変化することはいうまでもない。

したたかな非民主主義国
 今回、特にロシア側は周到な計算の上に、クリミア併合に乗り出している。併合という動きに出た場合に、その後他国からいかなる制裁措置を受けるかは読んでのことだ。これによって、ロシアは、G8から外され、仲間はずれの措置を受けたが、プーチン大統領にとっては覚悟の上だろう。西欧側に対抗する手段は当然準備しているので、さほど打撃を受けたとは思えない。

 クリミア併合という大きな実利を手に、国民の愛国心を煽り、強い対応に出られる非民主体制の国の方が、行動も早い。クリミア住民の中で、ロシア系のプーチン大統領支持率はきわめて高い。危険なことだが、ロシアはプーチン大統領という戦略に長けた強力な専制的指導者を得て、かなり権謀術数を駆使した活発な動きに出ている。

 問題は、今後ロシア軍がウクライナへ侵攻するなど新たな動きに出た時に、どんなことになるか。ロシア側は今回のクリミア併合で、新たな冷戦状態が始まり、かなり長く続くことは、読み込み済みだ。オバマ大統領は冷戦にはならないとしているが、ロシアは懐が深くしたたかな国だけに、西欧諸国としては、かなり扱いがたい相手になっている。

民主主義を希求する世代の力
 今後の動きを見通す上で、ひとつの注目点は、ウクライナの政治を再建しようと、ヤンケロヴィッチ大統領の政権を倒した若い世代のエネルギーの行方だ。彼らはウクライナの将来に大きな期待をかけていた。プラカードの文字には、ロシアの介入を拒否し、EUとの結びつき強化への期待が記されていた。

 ウクライナに限らず、東アジアで、台湾の行政院を占拠した学生たちの懸念は、大陸中国との関係にある。彼らには、ある日台湾が中国に併合されてしまう怖れを、なんとか今のうちに回避、阻止したいという思いがある。こうした考えは、台湾と中国との経済関係が拡大するに従って急速に強まってきた。これについて、台湾問題はすでに答は出ている、台湾が中国となるのは、熟柿が落ちるのを待つようなものだとの話を大陸側の人から聞いたことがある。大陸側としては、経済関係の拡大などで、台湾の実効支配を強めていけば、武力制圧などせずに自然に手に入るという考えがあるのだろう。プロテストに参加している台湾の人たち、とりわけ若い世代の人たちは、当然その日が近づいているのを感じている。尖閣諸島をめぐる問題も、底流にはかなり同質の部分がある。次世代のために、日中両国指導者の強い自制心を求めたい。

 これまで世界各地で、同様な危機を感じている「人々の意思」は、彼らの力によって新しく生まれる「政府の権威」にもつながってきた。しかし、21世紀に入って、彼らが求める民主主義は、なぜか推進力を失っている。このたびのウクライナ問題について、オバマ大統領は「民主主義が試されている」と述べている。

非民主制側の問題
 2007ー2008年の金融危機後の世界では、中国の台頭、イラク戦争、エジプトの凋落、EU諸国におけるポピュリストの台頭など、民主主義への多くの対抗的動きを見ることができる。たとえば、中国では成長さえ実現すれば、国民は彼らの専制的なシステムにも耐えてゆくだろう。いくつかの世論調査でも、中国人の大半は現在の体制に満足しているようにみえる。少なくも、民主主義体制よりも効率的で機能していると考えているようだ。他方、歯止めがきかなくなりつつある大気汚染、幹部の腐敗などへの不満も高まってはいる。習近平国家主席には、毛沢東、小平を初めとする現代中国の節目を生み出した指導者のような強いカリスマ性はない。自らに権力を集中しないと国家運営が危ういと思っているところがある。

  西欧に目を移すと、フランス、オランダ、ギリシアなどでのポピュリストの台頭も目立つ。ギリシアの「黄金の夜明け」党のようなナチ型の政党に、民主主義はどれだけ抑止力を発揮しうるだろうか。このたび行われたフランスの右派政党国民戦線の浸透度も注目に値する。

 かつて、 J・マディソン、J・S・ミルのような近代民主主義の創始者は、その普及に多大な情熱を注いだ。注意すべきことは、彼らはそれでも民主主義を強力だが、不完全なメカニズムとみていた点にある。そのために、民主主義体制の動きに常に注意を払い、不完全な点を補填する努力を説き、そのために力を尽くした

  近年の民主主義の失敗の原因はいくつか考えられるが、選挙に過大なウエイトを置き、多数決の結果に流されやすいこと、民主制の持つ他の特徴を軽視していることなどが挙げられる。とりわけ、日本のような国では、民主主義は世俗化し、本来維持されるべきスピリットを失っている。

多数決に過度に依存する危険
  そして、これまで細々ながら見守ってきたように、拡大をみせるグローバリズムの潮流にもかかわらず、近年顕著なことはアメリカ、ヨーロッパなどの主要
受け入れ国にみられる国境の壁の強化、制限・分断化の進行である。そのきっかけとなっているのは、国境紛争の増加、武器・麻薬などの密貿易、国境犯罪組織の拡大、移民の受け入れ制限などの動きに象徴的に現れている。

 難しい課題のひとつは、西欧諸国では十分な見通しと計画のないままに、定着・居住するようになった不法移民が、きわめて対応の難しい存在として移民政策の最難題になっていることだ。定住期間が長引くほど解決が困難となる。今頃になって日本は、「外国人実習生の受け入れ拡大」、「移民一千万人受け入れ」構想などと言い出しているが、こうした場当たり的対応を、次の世代は本当にどう考えているのだろうか。

 予想される社会的な緊張と残される重圧を背負うのは、次の若い世代なのだ。最近提示されている議論には、移民という長い歴史と蓄積を持つ問題分野から学び、政策を立案したという思考の進歩の跡が感じられない。国民の反応をみるアドバルーンにしては、あまりに稚拙に思われる。国家の運命を定める問題だけに、短期的な労働力不足の側面だけに目を奪われて、後の世代に大きな禍根を残すことがないよう、将来を見通し、問題点を整理して提示し、十分国民的議論を尽くすべきだろう。

 再言するならば、民主主義に潜む危険のひとつは、多数決主義に傾くことだ。成功した民主制はその点にからむ問題を注意深く回避してきた。民主主義については、あまりに論点が多く、ブログなどでは扱いきれないが、国民の間で民主主義の理解と蓄積の浅い日本にあっては、国家の重要問題は国民に明確に開示し、議論を尽くすことが必要だ。






ここで取り上げている問題は、国際的にも大きなイッシューになっている。さらにご関心のある方のため、いくつかの手がかりを記しておく。

References

 
"What's gone wrong with democracy and how to receive it" The Economist March 1st-7th, 2014.

Joshua Kurlantzick
Democracy in Retreat. The Revolt of the Middle Class and the Worldwide Decline of Representative Government, New Heaven: Yale University Press, 2014

Dani Rodrik, The Globalization Paradox: democracy and the Future of the World Economy, 2011
(ダニ・ロドリック(柴山佳太・大川良文訳)『グローバリゼーション・パラドクス』白水社、2013年)

 

 

 

 

 

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少し離れて見る世界(4):民主主義は欠陥商品?

2014年03月20日 | 特別トピックス



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  クリミヤはついにロシアに編入されてしまった。ウクライナの行方も危うくなっている。プーチンは欧米諸国の手の内を読み切っていた。冷戦が再現することを覚悟の上で、既成事実を積み上げ、予想されたプロセスを省略して、
一気に自国へ編入してしまった。ソチ・オリンピック、パラリンピックを成功させた路線上に、周到に企図されていたのだ。電撃的行動だった。

 必ずしもロシアに限ったことではないが、このように住民の支持(それがいかに形式上のものであっても)を背景に他国へ編入された領土を、それに反対する自国民の一部あるいは外国勢力が武力行使なしに取り戻すことはきわめて困難だ。今回は、とりわけアメリカの国力低下、ヨーロッパの影響力弱化を見越した上での行動だから、ロシアがクリミヤをウクライナに戻すことはないだろう。ロシアとしては、欧米諸国を相手に長期の冷戦に入ろうとも、手放さない覚悟とみえる。クリミヤに続き、ウクライナのロシア化が懸念される。

 ここで恐ろしいのは、ウクライナで局地的、偶発的衝突から戦火が拡大することだ。すでにその兆候は起きている。

新たな冷戦時代の到来?
 武力衝突を回避し、最も憂慮される危機段階を切り抜けても、世界は厳しい状況になるだろう。ロシアは隣国中国と結び、アメリカ、ヨーロッパの2大勢力が対決する新たな冷戦の舞台になるのではないか。今回のウクライナ問題に中国がほとんど実質的な関与を見せていないのは、この問題でロシアに貸しを作っておけば、アメリカとの対抗上も有利に働き、さらに
ロシアが自ら引き起こした問題に追われている間に、中国は大気汚染、官僚腐敗、財政危機などの国内問題に対処するつもりなのだろう。


民主主義は脆弱な制度か
 いずれにしても短期の解決は考えられず、歴史は再び冷戦期のような状況になりかねない。問題はこのたびのウクライナ紛争以前から世界の各地で発生していた一連の政治的民主化運動の評価にある。ウクライナがこのような段階に立ち至るまでに、世界には多くの民主主義を求めて、旧政権を打倒し、より民主的とされる新政権を樹立しようとの動きがあった。

 ウクライナ問題もその流れのひとつのはずだった。ヤンケロビッチ大統領の専制政治を倒した親ヨーロッパ派が、ロシアの介入を拒否し、民主的な政治体制を樹立しうるかという点に世界の注目が集まっていた。彼らが目指した基本的立場は、政治にまつわる腐敗の撲滅、乱費の防止にあり、政治家たちの専制的、恣意的な政治に代わり、国民が選択した一定のルールに基づく民主主義の体制を築くことにあった。

 民主主義が平均して見れば、その他の意思決定に比較して、構成メンバーの満足度を高め、豊かで、平和をもたらすことが多いことは、これまでの歴史の経験から推定できる。世界は概して民主制を希求し、その実現を求めてきた。

 しかし、現実の推移はこうした期待を裏切っている。民主主義を求めての新体制が、円滑に生まれることは少なく、その後も混乱し、つまづく例が多い。最近の例では「アラブの春」と呼ばれた一連の民主制を希求する道が、多難な状況にあることを示している

西欧以外では育ちにくい?
 民主主義への信頼は元来それが生まれた西欧で最も強いが、西欧以外ではそれほどではなかった。しかし、「アラブの春」や今回のウクライナ紛争の発端にみられるように、西欧以外の国々へも少しづつ拡大してきた。しかし、いずれも多難な道を歩んでいる。さらに、中国のような国では民主制は、望ましい国家のモデルとして選択されない。

 今回のクリミヤのロシア編入は、プーチン大統領という強力な指導者の主導の下に、強引に進められてきた。中国でも、習近平体制への権力集中が急速に進んでいる。ロシア、中国共に、国民が民主主義を強く望んでいる空気は感じられない。国内外に難問を抱える国が、民主的手続きで問題に対応することは、なぜ難しいのか。最近の動きは、これまで西欧中心に追求されてきた世界のあり方に大きな問題を突きつけている。

 こうしている間にも、ウクライナをめぐる情勢は時々刻々変化している。国連もロシアの拒否権発動でほとんど機能しない以上、EU,アメリカなどの対抗措置で事態のこれ以上の悪化を防ぐしかない。ロシア語に堪能なアンゲラ・メルケル首相も、ロシアへのエネルギー依存などもあって、切り札を欠くようだ。ロシアの行動を抑止する国際的な手段は限られている。こうした状況が生まれることは、地球規模で多くのの難題を抱える次世代にとって良いことではない。もう少し、その行方を観察してみたい。

 

 

Reference
 "What's gone wrong with democracy" The Economist March 1, 2014.


  

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少し離れて見る世界:幕間 ジャック・カロがやってくる!

2014年03月18日 | 午後のティールーム

 


Jacques Callot. Les Gobbis
BnF, Paris



 ジャック・カロ Jacques Callot の名は、このブログ(カテゴリー参照)でも頻繁に登場しているので、ご存じの方は多いでしょう。17世紀を代表する銅版画家のひとり、ジャック・カロの作品が、まもなく国立西洋美術館でご覧になれます。『ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場』と題する展示で、来る4月8日ー6月15日が開催期間です。

 「危機の時代」といわれた17世紀のヨーロッパ社会を広く旅し、その鋭い観察力で王侯貴族から貧民の世界まで、世の中のスペクトラムを曇らない目でリアルに、縦横に描いた画家でした。たとえば、このブログでも「画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会:ジャック・カロの世界」と題した覚え書きを記しています。

 
そして、他方でカロの頭脳は、ファンタスティックという表現がふさわしい、もうひとつの奇抜で創造力に溢れていました。それらの作品を見ていると、現代のアニメやSFの創始者ではないかとさえ思ってしまいます。実に、不思議な人物や生物が多数登場してきます。それは当時の社会のカリカチュアでもありました。

 こうしてみると、ジャック・カロは「時代の鏡」 miroir de son temps (Georges Sadoul) という表現が文字通りあてはまります。

 銅版画という色彩表現の上では、地味な技法ですが、そこに描かれた世界の緻密さと広がりは、17世紀に写真家という職業があったとしたら、かくやと思うばかりです。そして、版画の持つ多数の作品を印刷で制作できるという力は、この画家の思想を広く社会に伝播・普及させることができました。しかし、その作品数のあまりの多さに、作品集でも持たないかぎり、この画家の全容を知る人はそう多くはないはずです。その意味で、こうした展示は得がたい機会です。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同じ年代、ナンシー生まれのこの画家が生きた時代は、時空を超えて、さまざまな危機に脅かされる現代の世界につながっています。ご関心をお持ちの皆様にお知らせしておきましょう。

 以上、美術館のPRではないので、あえてリンクはいたしません(笑)。

 

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少し離れて見る世界(3);拡大するリスクと政治家の責任

2014年03月14日 | 特別トピックス

 

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終わりの始まり?
 
この見出しは、英誌 The Economist(March 8th)が、ウクライナ問題の現状について、つけたものだ。多くの日本人には、ウクライナ問題はいまだ切迫感を持って受けとられていないようだ。しかし、筆者には、ウクライナ、クリミア半島は、ほとんど発火寸前の火薬庫のように感じられる。ロシアが武力介入し、内戦状態にでもなれば、世界はイスラエル・パレスティナ、シリアに次いで、きわめて深刻な問題を抱え込むことになる。
1968年の「プラハの春」を思い起こす。

 ロシアの後ろ盾による強引な住民投票で、クリミア半島のロシアへの編入が行われるならば、EU、アメリカなども否応なしに具体的な制裁に踏み切らざるをえない。この方向へ進むことは、ほとんど不可避になってきた。世界は新たな混迷と危険を抱え込む可能性が高い。これまでの歴史の経験からすると、きわめて危険に満ちた展開になっている。日本が仮にロシアをG8から外すというような国際的動きに加担すれば、北方領土問題はたちどころにロシアの戦略カードと化して翻弄されることになりかねない。

 The Economist誌*1などは、すでにクリミア、そしてウクライナのかなりの部分は、ロシアによって「誘拐」kidnapped されてしまったと論じている。ロシアは図らずもウクライナの国内問題に巻き込まれてしまったと弁じているが、筋書きは見え透いている。ロシアは明らかに先手の石を打っており、これを平和的に取り去ることはほとんど困難に思える。


 アメリカ、EUともに外交力が衰え、ロシアに圧力がかからなくなっている。ヨーロッパの中心的存在のドイツは、ロシアからの液化ガス・エネルギー供給に大きく依存していて、自ら強力な制裁措置はとりにくい。ロシアの隣国、中国は国内問題が急を告げていることもあって、ほとんど沈黙している。内政に難問を抱える今、世界の目を自国からそらせたい思いもあるかもしれない。こうした間隙を縫って、ロシアは大国への復権を企図しているのだろう。

 西側諸国は武力で事態を改善するという手段だけは避けたいと考えている。ウクライナでロシアと戦火を交えるのは最悪な事態だ。他方、大国の再現を目指すプーチンのロシアは、これらの点を見通し、すでに準備していた路線を押し通す強気な対応を続けている。今、EUでプーチンにある程度説得力が発揮でき、電話で話ができるのは、
アンゲラ・メルケル首相だけといわれている。しかし、彼女も東ドイツ時代にロシアの裏表に通じているとはいえ、決め手を欠いている*2

メルケルの青い電話:ヨーロッパの最も有効な武器?
 アンゲラ・メルケル首相
の机上の青色の電話は、世界の政治家ネットの中心として最も使われているようだ。とりわけ、クレムリンとの通話は多いらしい。しかし、彼女の説得にプーチン大統領は本気で応答しているかが問われている。ロシアが軍隊を撤退させない場合、ドイツは他のEU諸国と並んでロシアへ強硬な制裁をとりうるだろうか。現状は厳しいが、メルケル首相は欧米側の意図を体して、かなり強く当たっていると報じられてはいる。

 前回も記したドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの論理を参考に、少し考えてみたい。ベックは現代ヨーロッパを中心に、グローバル化問題について、最も影響力ある論者のひとりである。

 ベックは、1992年の著作で、今日の世界が直面する状況を「リスク・ソサエティ」 risk society という概念で説明してきた。ベックはかなり多作であり、ドイツ語で書かれた著作ばかりでなく、最初から英語で書かれたものもある。しかし、年を追って、最初の概念が拡充・補足されたりで、かなり分かりにくい。

 ここでとりあげる「リスク・ソサエティ」なる中心的概念自体も、1992年の最初の提示以降、時間の経過とともに、論旨が少しずつ修正、加筆されてきた。経済学の場合は、数式、図表などが使用されることもあって、論旨は簡約にすることも可能だが、社会学では新たな概念が次々と導入されたり、増幅されて分かりにくくなる。主要著作について邦訳もあるが、「リスク」、「危険」、「ソサエティ」、「社会」、「世界」などの言葉が、訳者によって微妙なニュアンスの差異を伴いながら使われており、かなり難渋する。

 細部の議論にご関心の向きは、該当文献を参照いただくことにして、ここでは管理人が理解したかぎりで、ベックの道具立てを借りて話しを進めてみよう。

現代自身が生み出したリスク
 日本では「リスク」も「危険」もほぼ同義語のように使われていることもあるが、ベックは「リスク」 risk を、『現代化 modernization それ自体によって誘発され、もたらされた危険および不安定で危うい状態に対処する組織的な方法』と定義している*3 'systematic way of dealing with hazards and insecurities induced and introduced by modernization itself' (Beck:1992, 21).

 この点を別の言葉にすれば、ベックのいう「リスク」は、現代という時代が自ら生み出した危険で不安定な状態を、人類としてなんとか体系的にコントロールする方向を模索することとでもいえるだろうか。

 特に注意すべきは、「リスク」は、それ自体、「現代(モダーン)」が生み出したものであり、「現代」の存在自体を脅かしかねないものという理解である。さらに、ベックは「危険」hazardsのグローバル・レベルへの普遍化を説く。彼が1992年に最初に「リスク・ソサエティ」の概念を導入した当時、すでに1986年4月に現在のウクライナの首府キエフの北方、チェルノブイリ原子力発電所で炉心爆発・溶融破壊、建屋崩壊事故が発生していた。多数の死傷者が出て、欧州諸国が放射能汚染にさらされ、当時のヨーロッパはパニック状態となった。たまたま筆者が訪れたオーストリアでは、子供たちに呑ませるミルクがないとうろたえる人々の姿に、その現実の一端を目にした。こうしたこともあって、ベックは原子力発電の危険性について、最初から例としてとりあげている。

普遍化するリスク
 
さらに、この事故のこともあって、ベックは現代の危険は、単に特定の地域、企業などの範囲に限定されることなく、国境を越えて普遍化することを強調した。さらに、工場などからの汚染物質の排出、大気汚染などへも注意を促した。これらは産業の論理、言い換えると近代化それ自体が生み出すものであり、従来の国民国家の特徴である国境や地域の範囲内に限定することができないとした。現に中国などで発生しているP.M.2・5などの大気汚染問題は、当該国だけにとどまらず、国境を越えて他地域にまで悪影響を及ぼす。

 加えて、ペックは「リスク」の原理と「民主主義」の原理とを対比させて、現代の社会が直面する多くの問題を説明しようとする。いつ果てるともないパレスティナ紛争、「アラブの春」といわれた一連の動き、そして目前のウクライナ問題などが材料となる。ベックの論理は、グローバル化の次元へと拡大され、「世界リスク社会」という課題で論じられるようになる。

 ベックの展開する推論は、現代という世界が内在する問題を、とりわけリスクという観点との強いつながりで説明しようとすることが基軸になっている。理論というよりは、説明という感が強いが、いくつかの概念化で複雑な現代社会を理解する上で、重要な手がかりを提供してくれる。

「破断」する現代
 このように、リスクは「
現代」が自らが作り出し、現代を象徴する現象であり、さらに現代自体を脅かす存在であるとベックは言う。今日の世界に起きているさまざまな異常事態は、「現代」がいわば「破断」break しつつあることかもしれない。しかし、その後に続く世界がいかなるものであるかは、誰も分からない。

 ウクライナが火急の政治危機に直面し、そればかりでなく、あのチェルノブイリ原子力発電所もそこにあり、廃炉の行方も未解決のままにあるという事実をとっても、日本と無縁ではない。緊迫した東アジアの政治情勢にあって、原発問題をかかえる日本は、さまざまなことを考えねばなるまい。そして、当面、なによりもプーチン大統領、そして世界の政治家が人類の将来に責任を感じて、真摯に対応することを願うしかない。


 

*1
"Kidnapped by the Kremlin"  The Economist, March 8th-14th 2014

*2
”Charlemagne: Disarmed diplomacy” The Economist March 8th 2014

*3
Beck, Ulrich.(1992) Risk Society: towards a New Modernity, trans. M. Ritter, London: Sage Publications[東廉・伊藤美登里訳(1998) 「危険社会:新しい近代への道」 法政大学出版局]



References
____(1999) World Risk Society, Cambridge, U.K.: Polity Press[山本啓訳『世界リスク社会』2014年、法政大学出版会].
____(2009) World at Risk, Cambridge, U.K.: Polity Press.

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少し離れて見る世界(2): 一極集中の恐ろしさ

2014年03月11日 | 特別トピックス

  

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文字の利点と欠点
 この頃ブログや紙面に文字を書くという作業が、次第に面倒になってきた。面談や講演などであれば、言い足りないと思った部分は、聞き手の対応を察知して、追加の発言や説明である程度自在に補填可能であり、自分の考えをかなり正確に相手に伝えられる。しかし、限られた紙面に、一定の時間内に伝えたい内容を表現するには、論旨を整理し、多くの手間をかけて、入力や筆記作業をしなければならない。入力ミスも増えてきた。要するに伝達手段に費やす時間が惜しくなってきたのである。

 もちろん、他方で文字による意思伝達の有用性を認めた上での話である。口述筆記や口述の文章転換がもう少し楽になればと思うが、テープ起こしをした経験からも、こちらはかなり手間がかかる。結果として、ブログや筆記の作業
から遠ざかることになる。しかし、表現しないでいることのフラストレーションもある。関心を共有する人たちのために、少しでも書いてみたいと思うことは山のようにあり、ジレンマ状態にある。

首都の代替・支援機能 
 あの日本の運命を定めた日から3年を迎えた。受け取り方は人さまざまかもしれないが、管理人にはあっという間の3年という印象しかない。復興というにはほど遠い被災地の現実を見るにつけ、いまだに頭の中が千々に乱れるような時がある。被災地から人口が多数流出してゆく事実に直面するたびに、なぜ政府は東北へ首都機能の一部を積極的に移さなかったのかという思いがする。

 戦争や天災で被害を受けた地域からは人口が減少し、多くの場合復興がきわめて困難なことは、世界の多数の事例が示している。少なくも人口を被災以前の数に増加させるような計画的な努力をしなけらば、かつての水準は到底取り戻せない。こうしたことは、既知の事実なのだ。そのためには、想像を超えるような人材とエネルギーを投入しなければ、震災前の水準への復帰はとてもできない。

 3年経過しても、確実に復興に向かっているという感じを被災者の多くの人々が共有できないのは、最初の段階から政府が、この国家的危機でもある大災害の復興に必要な条件を、正確に掌握していないことにあると管理人は見てきた。

次の天災への対応は 
 他方、東京湾岸地帯、大阪湾岸地帯、さらに太平洋岸の現実を見ると、大変気にかかる問題がある。噂される南海トラフ地震が少しでも東側にずれたりすれば、あるいは首都直下型地震などが勃発すれば、ほとんど外海や河口に接して林立している東京湾岸地帯などの燃料や化学物質の貯蔵タンクなど、どうなるだろうか。その前を通るたびに、防潮堤らしきものもなく、水辺からほとんど無防備状態で存在する建造物に背筋が凍る思いがする。中国の銭塘江やブラジルのアマゾン川などで発生する海嘯のごとく、津波が高潮となって墨田川などの河口から遡ってくることは十分ありうるのではないか。

 さらに、万一、東京五輪の時に、大震災が発生したらどんなことになるのか。もちろん、考えたくもないことだが、天災の発生だけは神ならぬ身、誰も正確に予想できない。

東京の都市機能分散化
 
東京などの大都市の機能を分散し、東北被災地の復興基盤の一部とすれば、人口流出も防げるし、復興への意思決定も早くなり、産業の移転も加速される。そして最も強調したいことは、この国の維持に不可欠な首都東京の支援地になりうるのだ。

 もしかすると、東京に大震災が起きた場合に、バックアップ基地の役割を果たしてくれるのは、東北になるのかもしれないとさえ考える。東北大震災復興の初期から、名称はともかく、「東北都の構想を管理人は描いてきた。次の天災が列島を脅かす時、自分は幸いこの世に存在していないだろう。しかし、次の世代にあのような苦難を与えたくない。

安全機能を分化させる→過密化した太平洋岸
 世界の多くの国が、首都に万一のことがあれば、かなりの機能を代替しうる都市を複数擁している。しかし、日本にはそれはないに等しい。東京に直下型地震が発生したら、このままではほとんどこの国は壊滅するだろう。東京一極化があまりに進み、他の都市には国の危機管理の代替機能などないにひとしい。

 東海道の東京から名古屋、京都、大阪まで旅すると明瞭だが、人口密集で切れ目がない。最近しばらくぶりに来日した友人のアメリカ人が、その光景に接して絶句していた。彼らが前回日本に滞在していた1960年代、東海道線の海側には美しい砂浜もあり、列車から海水浴を楽しむ人々の姿が見られた。管理人も熱海、興津などの砂浜で海水浴をした記憶がある。しかし、今は護岸工事、テトラポットが果てしなく続き、かつての美しい光景はまったく消滅している。富士川周辺も工場の煙突で、富士山も著しく美観を損ねている。この地に東北大震災のような災害発生すれば、今度は文字通り日本が壊滅する悲惨な光景が生まれるだろう。

 前回記したドイツでも、東西ドイツ統一後は、首都はベルリンに移転しているが、かなりの首都機能はボンに残されている。1990年の東西ドイツ統一後、1994年の「ベルリン・ボン」法によって、ボンは「連邦市 (Bundesstadt)」であると規定され、「連邦首都 (Bundeshauptstadt)」であるベルリンと並んで国家の中枢機能を保持することが定められた。教育学術省、郵政省、環境省、食糧農林省、経済協力省、国防省、研究技術省、保健省、会計検査院などの省庁が置かれることになった。
しかし、日本では国家の安全機能の分散保持という考えは薄く、そうした配慮が存在しない。

潜在危機に配慮が足りない日本
 前回、ウクライナ問題の勃発に関連して、いまやヨーロッパの運命を決める力量を保持するにいたったドイツ、とりわけメルケル首相の政治思想について、少し記した。ドイツも日本も第二次大戦の敗戦国として、その内容には差異はあっても、戦後70年余を経過しても消すことのできない「歴史問題」と称される深い傷を留めている。

 ウルリッヒ・ベックが使った「ドイツ帝国のような」a German Empire という用語自体、国内外に反発する議論は多い。ドイツはヨーロッパにおいてかなりの政治力を発揮しているが、メルケル首相を始め、マスメディアなどが神経質なほど注意している用語や概念もかなりある。ベックが挙げているように、たとえば、「権力」という言葉より「責任」、「国益」よりは「平和」「協力」「経済安定」、「舵取り」、「指導」よりは「リーダーシップ」などの言葉遣いだ。使い方を誤ると、歴史によって汚染された公式的反発へと逆戻りしかねない。「靖国」問題のように、ひとたび発火させてしまうと、相手はそれを政治的武器として使用してくる。

 今日のドイツは慎重に、現在のようなヨーロッパにおける重みと指導力を手にするまでに至った。しかし、その事実を考えるならば、ドイツがヨーロッパに関わる重要問題に自ら決定力を発揮しないでいるというゆとりや贅沢はしておられない。少なくも多くの国民がそうした無作為の時間を認めないだろう。

「メルキアヴェリ・モデル」 Merkiavelli model の内容
 メルケル首相が「ヨーロッパの無冠の女王」として、存在しうるのは、彼女が自らが置かれたこれらの関係、利害を巧みに活用し、エカテリナ女帝を理想像としながら、日々の政治活動を行っているからだろう。遠くから見ても、彼女はヨーロッパの諸力のバランスを把握することに長けている。他方、マカヴェリは「愛される君主」と「怖れられる君主」のいずかかを選ぶかと問うている。推測に過ぎないが、彼女は外国からは畏敬され、国内では愛されることを志しているともいわれる。メルケル首相の行動が、これまで時に優柔不断に見えたのも、冷静に計算された時間の浪費とも考えられる。

 彼女のこうした政治行動の性格は、評伝作家や政治学者の間でも必ずしも一致しているわけではない。たとえば、同じ社会学者でもベックとハーバーマスの間には微妙な理解の差異がある。メルケル首相の評伝をみると、いまだ物心つかぬ内に牧師であった父親に伴って、東ドイツへ移住している。そして、あの悪名高い国家秘密警察シュタージの網にもかかることなく、壁の崩壊を経験し、今日の地位を築きあげた。その生い立ちからも、かなり慎重な性格の持ち主であることは想像できるが、慎重だけでは、今日のメルケルはないだろう。彼女の政治家としての成長・充実の過程は、それ自体きわめて興味深いのだが、ここで書いている余裕はない。

現下の問題にどう対処するか
 急展開している「ウクライナ問題」に限る。大国アメリカは、明らかに外交力も低下し、イギリスも次第にヨーロッパから離れ、フランスは政治、経済双方において国力を顕著に低下させている。本来、もっと前面に出るべきブラッセルの上級代表は政治家としての資質が問われている。ヨーロッパの結束力はかなり危ういといわざるをえない。。

 こうした状況では、アンゲラ・メルケル首相のみが、なんとかプーチン大統領と対抗できる存在といえる。大国復権を狙うロシア側も、ヨーロッパの実態は十分承知の上で、強権発動、軍事介入も辞さない構えのようだ。今、メルキャヴェリストはなにを考えているのだろうか。今回は決断に与えられた時間は短い。ウクライナ情勢は急変する可能性は高い。国際的な監視機構の仕組みは活動開始までにいつも多大な時間を要する。せっかく壮大で平穏な光景を楽しもうと思った環境だが、ひとたび閉じたPCを開く回数も増えそうだ。


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少し離れて見る世界(1)

2014年03月07日 | 特別トピックス

 

Photo YK


 

 しばらく旅先きで、少し離れて世の中の動きを眺めている。雪深い山中、人影も少なく、およそインターネットのことなど考えもしないような場所だが、今では都会にいるのとまったく異なることなく、ネット社会に入り込むことができてしまう。PCを開かないならば、世の中の煩わしさなどに関わることなく、ひたすら静かに時間だけが過ぎて行くのだが、時々雑念が頭をよぎる。

 遠い山並みの彼方で起きていることから、まったく自分を切り離すまでにはいたらない。日に一回くらい山並みの向こう側の世界の動きを確認したくなる。周囲が静かであるだけに、多くのことがとりとめなく浮かんで来て、かえって整理に困ることがある。ウクライナ問題はどうしても帰趨が知りたい。ソチ・オリンピック前から一抹の不安があったが、やはり発火してしまった。オリンピックの閉幕を待っていたかのようだ。紛争勃発後のロシア側の対応などをみると、周到に準備されていたような感じもする。これはもうヨーロッパだけの問題ではまったくない。クリミヤ半島やセバストポリなど紛争地の地名を聞くごとに、暗いイメージが浮かび、さまざまな思いがよぎる。事態は一触即発の危機状態だ。

大戦化の危機を避けられるか
 多くの日本人には、遠い国の出来事のように思えているようだ。しかし、もうそうした時代ではない。「鮫に囲まれている国」といわれるまでになった日本の現実を考える。この国の先行きも決して安心してはいられない。ウクライナ紛争は「対岸の火」などと、他人事のような楽観はできない。

 ウクライナを支配下に置こうとするロシアの力の行使を、EU、アメリカはなんとか制御することはできるのだろうか。アメリカの地盤沈下が顕著な今、これも衰退の色濃い当事者ヨーロッパは、どう対応するのだろうか。かつてはヨーロッパとロシア世界の間には、温度差はあるが、緩衝地帯が介在していた。しかし、EUの拡大によって、二つの世界は直接国境を接し、対峙する関係になった。その接点における紛争と戦火の拡大は、世界をすべて巻き込んでしまう危険に満ちている。

 ヨーロッパにおけるフランス、イギリスというかつての主導的大国が大きく後退した今、EUの命運は「一人勝ち」のドイツの政治・経済力に大きく依存している。そのドイツを率いるアンゲラ・メルケル首相は、あのサッチャー首相のような鮮烈な「鉄の女」の印象は与えない。ポーランド系の血筋を受け、東独育ちのこの強靱な思考力を秘めた女性首相は、かつての東西ドイツの裏表を知り尽くしている。一時期、「コールのお嬢さん」、「鉄のお嬢さん」などと呼ばれたこともあるが、彼女は、サッチャー首相のように、決して鉄のような自ら曲げることのない路線を開示しない。最近、多数のメルケル評伝が刊行されてはいるが、なかなか彼女の思想形成や推論の仕方を理解することは難しい。いかにメディアが発達しても、極東の日本などからは、彼女の公私の日常を知るに遠いこともあって、実像が十分把握しにくいところがある。

 昨年2013年のドイツの選挙前に刊行された社会学者ウルリッヒ・ベック Ulrich Beck の『ドイツ化したヨーロッパ』などを読みながら、ようやくこのしたたかな女性首相と、彼女に主導されるドイツ、そしていまやその色彩に染め変えられつつあるヨーロッパの姿が少しずつ分かってきたような気がしている。ヨーロッパは、「ヨーロッパのドイツ」から「ドイツのヨーロッパ」へと変容しているのだとベックは見る。もちろん、EUという存在はあっても、現時点ではさまざまな色合いを持った国々の集合体であり、統合体として純然たる共通経済政策を持つ段階までいたっていない。いうまでもなく、この意味は、現在の段階ではドイツの影響力のEU加盟国への強い浸透を暗示しているという内容にとどまっている。

「メルキアヴェリ」:強靱な政治家
 ベックは、メルケル首相のことを15世紀から16世紀への転換期に生きたイタリアの政治思想家マキアヴェリ Niccolo Machiavelli, 1469-1527)になぞらえて、「メルキアヴェリ」 "Merkiavelli" という。元祖マキアヴェリは当時のフィレンツェにあって、混乱した時代における支配者の権力行使のあり方を論じた。彼が著した『君主論』 Il Principe は、フィレンツェの支配者メディチ家ロレンツォII世のために書かれた。この時代、政治的危機は支配者である君主にとって権力集中の源でもあったが、衰亡の要因でもあった。支配を目指す者にとって存亡の危機、カタストロフは、反面新たな機会でもあった。ベックは、メルケル首相の立場はまさにそれに近いという。さらに、ベックはこれまでの著作で展開してきたように、現代は「リスク・ソサエティ」"risk society"ともいうべき状況にあり、そこには「リスクの原理」と「民主主義の原理」という二つの原理が相反しつつ存在している。そして、「どの程度の民主主義ならば、切迫したカタストロフの下で存続を許されるのか」という問が提示される。

 いまやヨーロッパの最強の指導国となったドイツだが、日本にもつながる「歴史問題」の影を引きずっている。その意味で、ベックは、ドイツは自ら望み、意図して今の地位に就いたのではなく、「思いがけなくなってしまった帝国」 accidental empire と考える。この事実は、少なくもこれまでのドイツの政治行動を規定してきた。

 マキアヴェリが『君主論』で述べているように、「用心深い支配者は自分の利害に得ではないとみれば、手の内を明かさない」。それまで、示していた方向も利にあらずとなれば、まったく反対の策もとることを辞さない。福島原発問題の後のエネルギー政策の急転換などに、メルケル首相の思考様式は典型的にうかがえる。このしたたかな政治家に率いられるドイツ、そしてドイツの力なしには動けなくなっているヨーロッパが、このたびの危機にいかに対応しようとするのか。この機会に急速に大国としての復権を図ろうとするプーチンのロシアは、いかなる行動に出るか。プーチンにとっても、かねてから企図してきた時なのだ。虎視眈々と、機会を窺っている。遠く離れていても到底目は離せない。





Ulrich Beck, Das deutsche Europa: Neue Machtlandschaften im Zeichen der Krise, Suhrkamp Verlag, Berlin 2012
___. German Europe, Cambridge: Polity Press, 2013 (English version).

メルケル首相をめぐる最近の政治・文化的状況については、pfaelzerwein さんのブログ記事が大変参考になった。記して感謝したい。

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