時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

暑さしのぎになるだろうか:1600年のローマ

2016年07月29日 | 書棚の片隅から



Clare Robinson, Rome 1600, The City and the Visual Arts under Clement VIII,
New Heaven: Yale University Press, 2016  (cover)

拡大は画面クリック

 

“Summer afternoon—summer afternoon; to me those have always been the two most beautiful words in the English language.”
– Henry James

夏の午後 ― 夏の午後; それは私にとって英語の中で最も美しい言葉だ。
                  ― ヘンリー・ジェイムス

 

 この梅雨の間、折に触れて眺めていた美術書があった。Clare Robertson, Rome 1600: The City and the Visual Arts under Clement VIII, New Heaven: Yale University Press, 2016(クレア・ロビンソン『1600年のローマ:クレメンス VIII の時代のローマと美術』がそれである。著者は現在、University of Reading の美術史の教授でイタリア美術の専門家だが、かつて講演を聞いたことがあり、Il Gran Cardinale: Alessandro Farnese, Patron of the Arts, New Heaven: Yale University Press. 1992 を読んだことがあった。

 美術書は、しばしば版が大きく、上質な紙が使われ、大変重い。書棚なども一般書籍の棚には収まらないことがしばしばある。長らく専門としてきた経済学の書籍は、一般にはるかに小さく、片手で楽に持てる程度のB5、A4など軽い体裁だが、美術書の多くは一般に片手の上で読むこと自体不可能に近い。とりわけ海外の研究書や展覧会カタログは非常に重い。電車の中で手軽に読むなど、とても考えられない。変色を防ぐため日焼けも避けたく、取り扱いにもかなり気を遣うのだが、いつの間にか、自分の専門でもない美術書が書棚を占領してきた。

 本書は450ページくらいで、美術書としてはとりたてて大きいわけではない。しかし、うっかり足の上にでも落としたら骨折しかねないほどの重さがある。この書籍の場合、重さは約2kg、表紙は鋼板のように硬い。実は筆者も別の書籍だが、一度取り落として、骨折は免れたが、しばらく打撲傷で厳しい時を過ごしたことがある(これまで多数の書籍を断捨離してきた報いかも?)。それ以降、こうした大部の美術書は、床あるいは大きな机の上に置いて見るようにしている。夏の暑い午後など、行儀は悪いが、寝転んでルーペ片手に名画の細部などを眺めるのは暑さしのぎにもなる(余談になるが、何度か訪れたローマの夏は何時の頃からか、際だって暑くなったような気がする。本書を見ながらもう一度訪れたい気もするのだが、あの暑さを思うと、考えなおすことになる)。

 本書に関心を抱いた動機のひとつは、その表題であった。『
1600年のローマ』 という主題に惹かれた。もちろん「教皇クレメンスVIII世(1536-1605)の時代のローマと美術」という副題がついているから、この1600年は、教皇および美術家のパトロンとしての治世下におけるローマに展開した美術活動ということは直ちに分かる。この時代区分については、歴史家ジャック・ル=ゴフが問題にしている重要テーマなのだが、今回は深入りしない。

 興味ふかいことに、1600年は、jubilee (古フランス語:jubile、通例25年ごとの聖年、大赦の年)にあたっていた。イタリアン全土のみならず、アルプスの北からも多くの巡礼、そして画家、彫刻家、建築家なども集まってきた。一説によると、1600年におけるローマの常住人口は通常年の2倍以上に膨れ上がったという。ローマはヨーロッパ美術世界の中心として燦然と輝いていた。教皇は、この機会にローマの教会活動の発展を図りたいと考え、サン・ジオヴァンニ・ラテラノ大寺院の建設、多くの教区の教会の修復などを企画、実施した。ローマのカトリック教会は、この年を対抗宗教改革の反攻の年と考え、美術もその有力な手段として活用した。

本書がスコープを当てているのは、このカトリック、プロテスタントそれぞれの宗教改革、そして美術史上の革新期でもあるローマの発展の俯瞰である。その中心には二人の画家がいた。アンニバレ・カラッチ Annibale Carracci (1560-1609)とカラヴァッジョ Caravaggio (1571-1610)である。この二人は目指した方向は大きく異なっていたが、17世紀のヨーロッパ絵画の世界に多大な影響を与えた。

アンニバレは美術家学校を設立し、古典美術の伝統と併せてミケランジェロやラファエルのようなルネッサンス盛期の天才の画風を取り入れ、新たな方向を目指していた。他方、カラヴァッジョは生来、粗暴で、重大な犯罪に関わるなど、悪評の高い画家ではあったが、テネブリズムなどの技法を十二分に活用したリアリズムは、文字通り衝撃的であり、イタリアのみならず北ヨーロッパまで、多大な影響を及ぼした。

 この時代、ローマの絵画界はきわめて多士済々であり、この二人にとどまらず、多くの画家たちが切磋琢磨する場でもあった。ルーベンス(1577ー1640)もそのひとりだった。ローマの藝術空間は、瞠目すべき広がりを持っていた。

1593年にはローマで最初の美術アカデミー Accademia di San Luca が設立された。初期の段階はズッカロ Federico Zuccaro (1539/40-1640)
が指導したようだ。ズッカロは画家としてきわめて人気があり、ヨーロッパの広い領域で活躍し、エリザベス女王一世の肖像画も依頼されている。

この時期は宗教画にとどまらず、世俗画の領域でも多くのパトロンや愛好家が生まれ、今日の画廊の原型も生まれた。画家を志す若者の技能習得、修業の輪郭もかなり明らかになっている。これまでにもブログで簡単に取り上げたこともあるが、機会があれば深入りしたいテーマだ。さらに、このブログでも話題としてきた、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのイタリア行きの可能性についても、さらに議論したいこともあるが、少なくも1600年の時点では。ジョルジュはおよそ7歳と推定され、仮にローマを目指すにしても1607年くらいから後のことになると考えるのが妥当と思われる(筆者はブログでも記したが、ラ・トゥールはなんらかの理由で、ローマへ行く機会を逸したと考えている)。

  本書はいわば1600年頃のローマの美術界のスナップショットといってもよいかもしれない。探し求めていたいくつかの事実も確認できた。いずれ、紹介する機会があるかもしれない。

  世俗の世界は、日本でも各地に高温注意情報が出るほどの酷暑となった。一冊の美術書は使い方によっては、格好な清涼剤となってくれるかもしれない。荒涼たる光景が増えてきた昨今だが、少しでも楽しく、ゆとりをもって過ごしたい。
 


 

 今夏も何人かの素晴らしい先達、知人、友人とお別れした。来たるべき世界のことを考えると、良い時に去られたのかもしれない。謹んで哀悼の意を捧げたい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地域住民と外国人(移民)の増加:BREXIT のひとつの断面

2016年07月24日 | 移民政策を追って

英国における移民の地域別居住者の変化と国民投票の傾向
縦軸の変化率の表示が異なることに注意。横軸は住民の過半数が
「残留「あるいは「離脱」を志向した比率(%)
左側「残留」、右側「離脱」 、中心軸から離れるほど比率増大
Bostonは右側にプロットされている。

 グラフをクリックすると拡大


英国の移民と国民投票をめぐるパラドックス:
 今回の英国のEU離脱をもたらした
国民投票にいたる過程では、EU域内の外国人労働者が、相対的に賃金の高いイギリスに流れ込んで、イギリス人の仕事を奪っているとの議論が大きな論点のひとつになっていた。とりわけ、ポーランドやルーマニアなど、比較的近年にEUに加盟した国からの労働者がその対象になってきた。しかし、その点の評価については、あまり説得的な推論なり、実証が行われてきたとも思えない。実際、イギリス人がつきたがらなくなった仕事(土木建築、鉛管工、農業など)を、彼らがしていた場合が多いからだ。そうこうするうちに、選挙の日が来てしまい、蓋を開けると、「EU離脱」というこれまで経験したことのない状態について懸念、雑念、心配?などの災いが飛び出してきたというのが、実態に近いのではないか。箱を開けねばよかったと思った人々も多かったようだ。

 選挙の投票結果が出てみると、「残留」、「離脱」それぞれの側が大きな衝撃を受けた。こんなことになるのだったら、国民投票など実施しなかった方が良かったと思った人も多かっただろう。ダウニング街で首相退任の挨拶をしたブレア首相と夫人の悲痛な表情が、その衝撃を如実に物語っていた。キャメロン首相の後を継いだメイ内相は、正式離脱申し入れは来年になると述べた。図らずも女性首相同士の会談となったが、メイ首相、メルケル首相共に、その心情は複雑なものになったことは想像に難くない。正式離脱の申し入れが先になるほど、不安定な状況は長引くのだが、英国側の事情も分からないわけではない。

 選挙後直ちに始まった混迷の中で、小さな記事が目についた。その結果をみると、(外国生まれの)移民の居住者の数が以前から多い地域では、住民が「残留」に投票した傾向が顕著だった。メディアによると、移民(外国人)労働者が特定の地域へ多数集中し、当該地域のイギリス人の仕事を奪っているという非難が高まり、そうした懸念が高じて「離脱」への機運が高まったと報じられた。いったいどちらを信じたらいいのか。移民研究の歴史は長く、立派な実績も残っているのだが。

 大差で決着がついたのならともかく、僅差であったことが大きな問題を残すことになったことは以前に記した。少しつけくわえておくと、投票者のひとりひとりが自国の行く末を考え抜いて投じた一票の累積がこうした結果になったのならば、民主主義的決定のしかるべき結果として、多少動揺があっても、ほどなく終息するのかもしれない。しかし、投票行動の常、なんとなくどちらかを選んでしまったというのは、大いにあり得ることだ。実際、専門家ですら初めてのことで、もっともらしいことを述べていても、本当にそうなるのか完全に自信があるわけではない。さすがに全体の投票率は高かったが、すべての国民が棄権することなく投票したわけでもない。結果だけをみると、ダービーでいえば鼻の差くらいの僅差だった。なにしろ「残留」の方が多少有力ではないかというのが、下馬評だった。

 自然現象と異なり、社会現象は周囲の予想などによって、当事者自体が判断し行動するという連鎖現象が起きるため、事前に予想した内容とは異なる方向へ事態が動くことが多い。たとえば、与党が大勝しそうだと思えば、日頃の心情?に反して野党に投票して、多少バランスが戻ることを期待する人もいるかもしれない。日本の世論調査などでも「どちらともいえない」という回答が多いのは、浮動票がかなりあることを意味している。投票日まで態度を決めかねている人々がこうした行動をとることが多い。「残留」していれば、当面の運営はこれまでの路線上で進めることができる。しかし、結果がEU「離脱」という未経験の路線への変更になっただけに、かなり長く余震が続くことになる。

 BREXITの争点のひとつだった移民問題を取り上げた先ほどの小さな記事だが、これまでのいくつかの研究では、「残留」支持者の見方として、移民がある地域へ多数移住するようになると、それまでの住民が他へ移ってしまうことが議論されてきた。しかし、移民が多いロンドンのような地域(Chart 1 上段)では、むしろ「残留」に賛意を表明する者が多い傾向が指摘されてきた。こうした大都市居住者は、ポーランドやルーマニアからの移民の数が少ない地域の住民が、移民受け入れ阻止に懸命になっていることを冷ややかに見ていた。

 しかし、それも必ずしも客観的な判断ではないようだ。移民の頭数の比較だけでなく、移民の増減率についてみてみると、別の様相が見えてくる(Chart 2、下段)。2001年から2014年にかけて外国生まれの人が200%以上増加した地域では「離脱」への投票者が94%にも達していた。ボストン(イングランド東部の港町、Lincolnshire州)では、外国生まれの居住者の比率は15.4%だったが、短期間に479%も増加した。移民居住者の数が多いこと自体は、ボストンのような地域の住民にとって、さほど問題とはされなかったが、短期間に急速にその数が増加したため、住民は不安や危惧を抱いたようだ。

 このことを言い換えると、外国から移民を受け入れる場合には、時間をかけて地域になじむようなさまざまな受け入れ配慮が必要なことを暗示している。共生のための準備が間に合わず、短期間に移民が地域で増えると、地域のさまざまな対応能力が限界に達し、以前からの居住者との摩擦が増え、反移民感情も高まる可能性は高い。いわゆる集住地域における移民受け入れ政策の基本なのだが、このひとつの事実は、一定地域への移民の受容限界を超えた過度な集中が、地域の不安を惹起し、「離脱」への衝動が高まったことをことを示しているのではないか。この教訓は、周辺に大きな政治リスクを抱える国々に近接する日本にとって、良く考えておくべき点のひとつだろう。

国民投票という箱がパンドラの箱であったとしても、最後に「希望」が残っていたという話に期待したい。 



The Immigration paradox The Ecoomist July 16th, 2016 







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ・クーデター:どこかで見た風景?

2016年07月17日 | 午後のティールーム

 

 早朝、TVをつけると、トルコのクーデター失敗の映像が飛び込んできた。はるか昔に訪れたことのあるイスタンブールの橋の上に、戦車と投降する兵士の姿が映っていた。説明を聞かなくても、映像だけでクーデターと思ったかもしれない。死者194人(内市民47人)という衝撃的数字を知るまでは、どこかで見たような光景に思えた。déjà vu (既視感)なのだろう。

 映像を見ている間に、ある話を思い出した。ジプシー(今はロマ人と呼ばれることが多い)の間に伝わる「人生占い」である。"Bleigiessen", lead-pouring と呼ばれている。少量の鉛を鉄製のポットに入れ、加熱して溶融させ、それを冷たい水の上に落とす。すると、鉛は突然冷却されて、独特の形態をもって固形化する。その形状を見て、占い師は依頼者など、人の運命、行く末などを占い、告げるという。東洋でも茶葉占いといって、茶湯の中に残った葉の開き具合、形状などで、人生占いなどをする風習もあるようだ。

 性格テストでよく使われることで有名なロールシャッハ検査 Rorschach test のことを思い出される方もおられるだろう。被験者に下掲のようなインクの染みのようにもみえる左右対称な図を見せて、何を想像するか述べてもらい、その表現を分析することで、被験者の思考過程や障害を推定する。1921年にスイスの精神科医ヘルマン・ロールシャッハによって考案されて、今日でもほとんどそのまま使われている。紙の上にインクを落とし、二つ折りにし、左右対称な図として提示される。

 人間は、かつて見たものがイメージとして心の中に蓄積されていると思われている。それがある日、壁に残る汚れ、雲の形状、インクの染みなどを見ると、それが媒介して、かつて見たイメージがよみがえるらしい。美術史家のエルンスト・ゴンブリッジ Ernst Gombrich (1909-2001)が、名著 Art and Illusion (『美術と幻影』、岩崎美術社、1979年)で同様なことを記している。これは個人差があり、そうしたイメージをどれだけ脳内に蓄積しているかで定まるらしい。

  ゴンブリッジのことを考えていると、ふと若いころに読んだゲシュタルト(ゲシタルト)心理学 Gestalt Psychology のことを思い出した。この学派には ユダヤ系の学者が多く、20世紀初頭にドイツで発祥した当時は、ナチスが台頭した時代で、同学派の中心的な学者はほとんどアメリカに亡命した。今日でも英語ではなく、ゲシタルトというドイツ語が使われていることに、その歴史的文脈が感じられる。日本では、ゲシュタルト心理学と通常呼ばれることが多いが、どういうわけか、発祥の地ドイツ(ベルリン、フランクフルトなど)と日本で、大きな発展をとげた。アメリカではあまり大きな流れにはならなかったようだ。しかし、友人の話などを思い起こしてみると、この学派が心理学や関連学問の発展に与えた影響は、一般に考えられている以上に大きいようだ。

 ゲシュタルト学派は、基本的に知覚は単に対象となる物事に由来する個別的な感覚刺激によって形成されるのではなく、個別的刺激には還元できない全体的枠組み、構成によって規定されると考える。たとえば、果物を鉛筆などで描いた絵を見て、点や線の集合ではなく 「リンゴ」と認知するのは、ゲシュタルト(形態)と呼ばれる全体的枠組みとして、描かれた対象を人間が判断するためである。このブログにも登場するカナダ人の親しい友人(ユダヤ系ロシア移民の子孫)が
、これもロシア・リガ生まれのユダヤ人で哲学者、思想家であったアイザイア・バーリン Isaiah Berlin (1909-1997)の研究者であったことも、なにか不思議な因縁を思わせる。この分野は、ユダヤ系の研究者の存在感が大きい。

 それにしても、戦車と兵士が銃を捨て、両手を後ろ手に組んで歩いている映像を見ただけで、ほとんど瞬時にクーデターと直感したのは、脳内でどういう現象が起きた結果なのか、わがことながら正確には分からない。これまでの人生で数は少ないが、トルコ人の友人もできた。皆、穏やかで親切な人たちだった。今回のクーデターで亡くなった多くの人々に哀悼の意を表したい。

 

 



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狭き門より入れ、そして・・・。:アメリカの難民受け入れ

2016年07月13日 | 移民政策を追って

 
アメリカ、EUの難民受け入れ推移

上段グラフ:難民として認められた庇護申請者(千人)
下段グラフ:再定住できる難民(千人)
画面クリックで拡大

  われわれが住む世界は、さまざまな意味で急速に劣化しているようだ。自分たちに不利な司法決定は国際的な次元での裁定でも「紙くず」という国、すべて武力を誇示して強大国をも押し通すという国、ISのような従来の国家の概念では理解できない勢力の出現などもあって、一部には大戦前夜のごとき緊迫感すら漂うようになった。地球上のどこかで、いつもすさまじい争い、衝突が絶えない。事件はしばしば突発的に起きる。発火点は西欧、東欧から中東、南アジアへと拡大し、次は東アジアかもしれない。

 戦火や迫害を逃れてさまよう人々の列は絶えず、国境の壁は
急速に高まっている。国境のない国は国ではないと、今は亡きレーガン大統領はかつて言ったそうだが、出入国管理を司る「城門」も次第に閉じられている。筆者は一貫して、国境の開放は一方的には進行しないと述べてきたが、ようやくそのことが理解されてきた。

   ヨーロッパがEXITで大激震を経験したこともあって、移民大国であったアメリカが抱える問題は、しばらくメディアの関心から遠のいていた。しかし、振り返ると、9.11以後、社会の分断化が進み、公民権法成立時、筆者が体験した時代よりも一段と荒廃が進んだ感じがする。自由の国アメリカの現実は、想像以上に劣化していることは間違いない。しかも、ヨーロッパ同様、状況は改善するどころか、一段と悪化する気配を見せている。前回記したように、オバマ大統領の目指した包括的移民法改革は、任期中に実現する可能性はなくなってしまった。一時は、この改革が実現すれば、時間はかかっても、アメリカの移民問題にはある程度、人権の維持・確保と論理の糸で結ばれるはずであった。しかし、主として共和党が議会でごねている間に、移民政策の検討は再び混迷の中へ戻ってしまった。その間に、アメリカ各地での銃乱射事件などもあって、アメリカのイメージも急速に低下した。人種、性別差別、貧富の格差が拡大している

 「不法移民」undocumented immigrants 送還問題 、多数の銃乱射事件、白人警官と黒人の対立など、アメリカはかつてない分裂の危機を迎えている。あの「公民権法」制定当時の熱狂はどこにいってしまったのだろう。アメリカ合衆国という国名に付された United' の誇らしげな文字が剥落しそうだ。すでに、Great Britain の ’Great’ も大きく揺らいでいる。それでも、戦争や政治的迫害などを逃れて、少しでも安住の地を求める難民・移民にとって、アメリカはまだ希望を託せる大きな拠り所だ。

 アメリカはこれまで、世界各地からの難民、庇護申請者をかなり寛容的に受け入れてきた。第2次大戦後の時期をみると、ヨーロッパからの難民、庇護申請者にかぎっても65万人以上を受け入れてきた。1975年のサイゴン(現在のホーチミン)陥落の後には多数のインドシナ難民を引き受けてきた。

  1980年のアメリカ難民法施行によって、アメリカはさらに300万人近い難民を受け入れた。世界のどの国をも上回る受け入れであった。世界食糧プログラムおよびUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への貢献も大きかった。しかし、最近の難民支援については、アメリカはそのウエイトを大きく低下させた。年平均7万人を割り込んでいる。2015年、ドイツ連邦共和国が受け入れた150万人の水準と比較すると、あまりに大きな違いだ。

 ホワイトハウスは、次の会計年度から難民の受け入れ予定数を85,000人(内1万人はシリア難民)へ増加させると発表した。しかし、これについても、受け入れが少なすぎるとの批判が出ている。政権末期のオバマ大統領は頑張っているが、任期も残り少なく、レイムダック化はいかんともしがたい。さらに、クリントン、トランプ両氏のいずれが大統領になっても、これまで紛糾してきた移民・難民改革が早急に改善の方向に進むとは到底考えられない。移民問題は、対応を先延ばしするほど、解決は難しくなる。とりわけ、後者トランプ氏が大統領として政権についた場合の状況は、今は想像したくない。

アメリカの移民改革が長年の課題であったにもかかわらず、ここまで来てしまったことについては、いくつかの理由が考えられる。オバマ大統領は、大統領選挙のキャンペーン過程から、移民法改革を掲げてきたが、就任以降は内外の課題に追われてか、移民改革への取り組みの姿勢が弱かった。さらに、任期後半には、移民、とりわけ不法移民に対する政策が上下院で党派間の抗争の材料とされてきたこと、9.11以来、難民とテロを企てる者を、ともすれば重ねて見てしまう風潮が一部に強まったたことにある。結果として、移民受け入れへの積極性は薄れ、むしろ警戒感が強まった。

移民、難民の認定審査も格段に厳しくなり、決定が下るまでに数年を要することも珍しくなくなった。それでも、庇護申請者の半数近くは申請が却下されるという。移民問題の専門家、弁護士などをよそおい、書類作成やロビイストとの交渉を請け負うとして、高額の報酬を要求する悪徳ビジネスも生まれている。こうしたブローカーなどの悪辣な行為は、アメリカのみならず、昨年来のEUにおける難民移動の際にも、大きな問題となった。

  幸い、難民に認定されたとしても、その後の道は険しい。最低賃金で、劣悪な労働条件に耐えて、アメリカ人がやりたくない仕事に就き、新たな苦難の道を歩み続けねばならない。アメリカはこうした人々に支えられて今日に到った。しかし、今世紀に入って、未来を照らす自由の女神が掲げる灯火は格段に小さくなった。次の大統領にトランプ、クリントンのいずれが就任しても、近い将来に、アメリカの国境の門が近い将来再び開放へ向かうことはないだろう。歴史の歯車が逆転しているような時代となった。今はその行方を慎重に見定める必要がある。

 

自由の女神像台座に刻まれたエンマ・ラザラス Emma Lazarus, 1883の詩文

 

References

’Yearning to breathe free’ The Economist October 17th 2015
'The immigrant's fate is everyone's', by Viet Thanh Nguyen, TIME, July11, July 18, 2016 

★PC不具合に加えて筆者の視力劣化のため、初掲の原稿に齟齬があり、一部加筆修正しました(2016年7月15日)。終わりの始まりのようです。

 



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会学者破産の時代?

2016年07月05日 | 特別トピックス

 

テロリズムの15年間

西ヨーロッパ、2001年9月11日ー2016年3月22日
2人以上のを死者を出した場合:
ひとつの□が、死者一名に相当。

 

 Source: 'The end of insouciance', The Economist March 26th 2016


  地球上の各地で相次ぐ残酷、悲惨なテロ事件、地震、豪雨、気温上昇などの自然災害・・・・・。人災、天災を問わず、いずれもこれまで経験した規模を上回る。なにか根源的な大きな変化が起きているのではないか。実はこう思うことはそれほどおかしいことではない。このブログでも時々紹介したが、自然科学、社会科学などの研究者などの間で、こうした考えを抱く人々が増えてきた。さらに社会学者自らがこれまでの社会学理論では到底説明できない、社会学者はお手上げ、破産(店じまい)!というコメントにまで出会った(幸い?、筆者の専門は「社会学」ではない)。

 他方、社会学に限ったことではないが、現代社会に起きている諸変化を体系的に解明、説明できる理論には、まだ出会ったことがない。いずれも、現代の世界に起きている事象を十分説明できないか、まったく無力に近い。多くは起きたことを別の言葉で述べているだけのことだ。

心配のない時代の終わり

 上に掲げた統計が掲載されている歴史ある著名雑誌記事の表題は「心配のない時代の終わり」✳︎となっていた。記事の内容は昨年のフランス、ベルギーなどヨーロッパ諸国でのテロリズムの続発の回顧になっているが、数字でしめされたテロ事件の推移を見ると、今世紀初頭からテロによる犠牲者の数は確かに急激に増加している。この統計の後の時期には、さらに発生件数が増加した。日本人8人(内7人死亡)が痛ましい犠牲者となったバングラデッシュ、ダッカ・テロ事件、続いてイラク、バクダッド空港での死者約250人、負傷者200人余を出したテロ事件など、テロリズムの発生事象も自爆テロなどが増加し、20世紀とはきわめて異なった状況になっている。


'The end of insouciance', The Economist March 26th 2016
insouciance の語源は、18世紀フランス語のinsouciant (in 'not' + souciant 'worrying' (saucierの現在分詞)。心配のないこと、無関心、のんき

  
Ulrich Beck, the Metamorphosis of the World, Cambridge, UK, Polity, 2016(cover)


 昨年初めに亡くなったドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック Ulrich Beck (1944-2015)の遺稿ともいうべき著書(上掲表紙;英語版)が送られてきたので、手にとってみると、 「世界の変容」The Metamorphosis of the World, 2016 という表題がつけられている。 metamorphosis という概念は、どちらかというと生物学などで使われることが多い言葉で、蛹(さなぎ)から蝶に脱皮するような名実ともに、大きな変化を意味している。このブログでも、何度かベックの考えについては記してきた。

 今回、ベックは遺稿となった本書の冒頭でかなり衝撃的な表現で語っている:

世界はタガが外れている。多くの人が感じているように、このことは言葉の二つの意味で正しい:世界は接ぎ手がなくなりばらばらになって、狂ってしまった。われわれはああでもない、こうでもないと、議論しながら、さまよい、混乱している。しかし、世界中の敵対意識などを超えて、あらゆる地域で多くの人々が同意できることは、「世界はどうなっているかもはや分からない」というこどだ。

 世界でも傑出した社会学者のベックがいわんとすることを、ブログなどの小さなスペースで説明することは不可能に近い。ここではわずかに一部分を紹介するにすぎない。元来、ここに紹介する本書は、ベックの名著「世界リスク社会」 Weltrisikogesellschaft (2008)に続く思想のスタートラインを構成するはずだったが、著者が2015年1月1日に急逝し、課題は未完成のままに残されている。本書はその意味で、ベックが今後に構想していた仕事の新たな出発点での見通しともいえる。ベックは本書で、「社会における変化」change in society と「世界における変容」metamorphosis in the world を区別すべきだという。社会学者の概念としては、この表現で内容が推測できるのかもしれないが、筆者にはあまりしっくりこない。これからの時代は、むしろベックの旧著のように、混沌とし、多くのリスクがいたるところに横たわるかつてなく困難な時代であるように思われる。

 「変容」という概念が適当かどうかはひとまずおいて、ベックが例示するように、世界的な気象異変が起き、海水温度が上昇し、北極、南極の氷が解けて、海面が上昇、かつての海岸線が変化している。気象変動をもたらしている原因は、かなりの程度まで確定されてはいる。他方、原因に対する政策、たとえば自然エネルギーの活用などでに、世界にはこれまでにはない変化も生まれている。そうした動きの上に、世界の「変容」が進行していることが語られている。

 「変容」という概念には、ひとたびあるステージ、たとえばさなぎが蝶になると、しばらく相対的に安定した時期が保証されるというイメージが筆者にはある。しかし、来たるべき世界は、はるかに混沌とし、不安定で、ひとつの定まった路線をイメージし難い時代に見える。破断の危機はいたるところに潜み、突如として人間をしばしの平穏から恐怖や混迷の世界に押し戻す。しかし、わずかな救いは、そうした災厄、破断につながりかねない危機のいくつかは、過去の経験の累積で見えている。あるいは、なんとか対応することが可能である。

 このブログを開設した当時、題材とした17世紀ヨーロッパは、世界史上例を見ない「危機の時代」であった。その後の世界は、度々の大きな危機をくぐり抜けてきた。危機の性格、内容はそれぞれ姿を変え、次第に対応が厳しくなっている。前方に広がる見えにくい世界をあえて見通す力を貯え、危機を乗り越える新たな努力が必要な時だ。そのためには、これまで以上に、広い次元を展望しなければならない。結論は飛ぶが、教育段階におけるリベラルアーツの必要性を今ほど感じることはない。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする